我が神、我が神、何故わたしをお見捨てになるのですか……?
地の果てまで、すべての人が主を認め、御許に立ち帰り、
国々の民が御前にひれ伏しますように。
王権は主にあり、主は国々を治められます。
命にあふれてこの地に住む者は悉く主にひれ伏し、
塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。
わたしの魂は必ず命を得、
子孫は神に仕え、
主のことを来るべき代に語り伝え、
成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう……
(旧約聖書 詩篇 第二十二章 2節、及び28−32節(一部変更))
開いたその唇が紡いだ言葉は、この場の全てを凍結させるには十分な何かを内包していたと言えるのだろう。これもまた、その一瞬を通り過ぎてしまった今だからこそ感じられる事なのかも知れないが―― ただただ、その一瞬は始まった。そして、唐突に、終わった。
当然ながら、その一瞬の中で自分が為す事ができた事はなきに等しい。
当然だろう。自分はその瞬間、ただただ他人の背に負われるだけの物体としての意味しか持っていなかった。その中で果たした役割といっても、それは自発したものでは決してない。むしろ、自らの無為が招いた結果――その全ての帳尻を、この一瞬に合わせられてしまったようなものだ。
自分は――ピエトロ・ド・ブラドーは、何もできなかった。
だが、その一瞬に置ける自分の立場は、あまりにも大きかった。大きすぎて、それは……そう、自分の中からはみ出してしまったのだろう。結果的に、その事は一瞬の中で、最も重要な要因となってしまった。
美神ひのめ。
西条誠。
自分と関わる、二人の人物。その二人は、その一瞬で輝いた。いや、輝こうとした。時が、動く――――
★ ☆ ★ ☆ ★
「先生……解りましたよ」
開いた唇が紡いだ言葉は、美神ひのめの予測には反して穏やかな物だった。――あるいはその言葉――そして口調は、三人がいるその場所には似合いのものであるのかも知れない。
昼過ぎの、公民館前。その中の公衆トイレの入り口付近。今現在ひのめが立っている位置からでも、ベンチでおしゃべりに興じる老人達の姿が確かに見える。暖かな陽光に照らされた、紛れもない日常の風景――
――その、裏側にある現実。眼前の銃口。過去の自分の罪過、その、発露。
老人達はトイレに立つ気配はない。――ふと、ひのめはこの空間そのものに違和感を感じた。まさに、紙一重。日常と、非日常の境目。そこに、自分達は今まさに立っている。だが――日常。この国において、自分にそんなものは存在するのだろうか? もしかしたら自分自身が、この非日常的な空間を作り出した、事実上の張本人なのではないだろうか……
そして――言葉の内容そのものにも、違和感は付随して来た。――『先生』。この言葉が意味する、この場での人物は――
西条誠――彼の視線を眼で追う。その視線はずっと、自分に向けられているとばかり思っていた。
……だが。
今は、違う。その視線の先にいるのは、ひのめではなかった。ひのめには、銃口。ある種、それ以上のものを持つ視線は――――
(――ピート……? まさか――)
酷使した身体が、チリチリと痛むのを感じる。背中に背負ったピートの身体が、急に物凄く重いものに感じられた。ピートが、『先生』。ならば、ピートは彼に"何を"教えていたと言うのか……?
その答えは、彼自身が教えてくれた。
「釈然としなかった…… どうしてそもそもあなたが現れたのか。俺は当初、GSを志してはいなかった。ただただ、父の死の真相を知りたかった」
淡々と告げる西条の声に、ひのめは眉を顰める。聞きたくはなかった。……だが、聞かねばならない。それを、直感する。少なくとも、眼前には銃口。この男が向けている敵意の塊は、未だに自らの内にある。
「俺にGSとしての全てを叩き込んだのは……先生、あなただ。父の死の自失していた俺は、その理由を知る為にGSを志した。――先生、あなたは――」
ここで一度、西条は言葉を切った。――瞬間、ピートから眼をそらした西条と、視線が交差する。
その黒い瞳には、深い深い、自嘲が刻まれていた――――
息を吸う。西条は"その"言葉を発した。
「自らが"罪"であると思った事。――過去の事件での無力を……俺に"裁いて"欲しかったんじゃあ、ないんですか……?」
背後のピートが、息を呑む気配が感じられた。
――この男は何を言っているのだろう? 正直なところ、自分には全く解らない。ひのめ自身が殺してしまった、西条輝彦の息子であり、その復讐の為にひのめを追っていた…………それが、最も妥当な線である事は間違いない。――――だが、違う。
西条誠は……ピートをむしろ気にかけている……?
同時に――ひのめの胸中でピースが繋がった。……何故、ピートが西条誠の名を知っていたのか。……何故、西条が眼の奥に怯えを宿していたのか…… はじめは、自分を恐れているのだと思っていた。だが、違うのだ。彼が、恐れているのは……
"先生"。
この、尋常と言えばあまりにも尋常な、ひとつの単語。この場で、西条が発したこの言葉を受け止めるべき人物は、西条自身と、ひのめを除けば一人しかいない。――揺れる、蒼い瞳。その奥の動揺が、背を向けていてもなお、はっきりと理解できたような気がした。
「しかし俺は――美神ひのめ。――そう、あなたですよ、ひのめさん―― 美神ひのめを突き止めた。そこで、止まってしまった。あなたはそこで二重の罪苦にもがく事になってしまった。新たな罪は、美神ひのめを危険に晒した罪――」
言葉の途中、ふと向けてきた西条の眼にぞっとする。……そこには、自らを嘲する道化の哂(わら)いがあった。唇の端を吊り上げ、外から漏れ出でる中天の日差しに似合わぬ暗い笑顔……
戦慄が……走る。
この男は、自分を……いや、
ピートをどうするつもりなのだ?
「意味がない……俺が悩んでいた事なんて、所詮は、もう何も意味のない事だったんですよね……先生。――俺は、少なくともあなたに力を持たされた。あなたを……殺す為の力を……!」
殺す。
眼前の男が放った科白。それは、窓から木漏れ日が差すその場には、どうにも相応しいものとはいえなかったかも知れない。ひのめはその言葉に声を失い、背中のピートは身を硬くした。隠されてすらいない。それは――
涙。
西条の双眸からは、滂沱と涙が溢れ出して来ていた。それでいてなお、銃口はひのめの心臓から動いておらず、眼光はピートから動いてはいない。先刻からと全く変わらない体勢のまま。そして、西条は、涙。
何かしなければ。
心中で、焦る。
きっと、自分は何かしなければならない。……そうしないと自分は、一生後悔することになる。その一生が後どれ程残っているかは知らないが、とにかく――後悔する……!
ピートは動けない。アタシがやらなければ。アタシが――
「……ひのめさん」
掛けられた声に、身がすくむのを実感する。ガチガチと震える歯を押さえつけ、ひのめは、今は彼女に向けられている双眸を睨み返した。……正直、体力はもう全く残ってはいない。今この男に撃たれたら、避けられる可能性は皆無だった。……絶体、絶命……?
「……何ですか?」
声に出し、そして、自分の声が余裕を保っていることに、内心驚く。奥歯の震えは、声を出すという動作に付随して、自然に消えていた。ひそかに――その事に感謝する。まだ……終われない――!
そういえば、この男に銃を向けられてから、まだ十分も経っていないんだ――
既に数時間、数日、数ヶ月の間をこの状態で過ごしたような、奇妙な違和感。時間の進みが、遅い。
だからこそ。――これがこの男と交わす初めてのマトモな会話であるという事に、ひのめは非常な違和感を感じた――
★ ☆ ★ ☆ ★
西条誠がその女性の存在を知ったのは、それ程遠い昔の事ではない。……それは遡れば、たったの半年前の事に過ぎないのだ。
当時の誠は、方向性を見失っていた。父の死の謎を解く。――それだけを目標にしてGS免許取得を目指し、父の死から三年半にして、漸く念願のGS免許を取得する事が出来た。そこで――糸が途切れた。
そもそも、父の死は不可解だった。それが故に、Gメン上層部の巧妙な隠蔽工作ですらも、その全容を覆い隠すことが出来なかったと。誠が知るのは、ただそれだけであった。その事が、誠をより一層苛立たせた。
既に、免許を取得した時点で師――ピートからは離れていた。……というよりむしろ、一方的に離されたと言えただろう。今思えばこれが、師に対する不審の端緒だったのかも知れない。誠は積極的だった。だが、行き詰った。
思いつく限りのところから情報を集めた。母であるめぐみにも聞いたし、一足先にピートから離れ、アメリカに渡り美神忠夫の指導を受けていた、弟の尊厳にも聞いた。――――何も、解らなかった。あまつさえ、弟にはもうやめろとまで言われた。
――――だから、誠がその名を知ったのは、本当に偶然に近かった。
久々に帰国した弟と会ったときの会話。その中に、あった。美神ひのめの名前が……
恐らく、弟にはそのようなつもりはなかっただろう。ただただ、自らが学ぶ師の家庭環境――典型的なカカア天下らしいが――その中で、ちらっと出てきた名前に過ぎない。
しかし、その人物はあまりに、誠の探し人に合致し過ぎていた。
念発火能力者。そして、四年前に死亡。……ご丁寧に尊厳は、その人物の“死”について語る時に、彼の師が意味ありげに笑っていたという事まで話してくれた。
……後は、問い詰めるだけだった。尊厳と別れた後、すぐに師――ピートに電話した。
師は狼狽した。――それで、全てが解った。
――――そして今、誠の掌中には凶器がある。
美神ひのめ。自らずっと仇と信じ、追い求めてきた存在…… その人物は、眼前にある。それと、師、ピート。
胸中は意外に晴れやかだった。そうだ。はじめから俺は、自ら答えを求めてはいなかった。造られた刺客が一人歩きして、そして他人を狙い始めた。……それだけの、事。もう、いい。
父、西条輝彦。何故彼の人が死んだのか。その問いには、既に厳然とした答えが存在する。――俺は、それを認めたくなかった。美神ひのめに、否定して貰いたかっただけなんじゃないのか……?
美神ひのめ。その人物は、眼前にある。その瞳に緊張と警戒、決意を秘め、誠を睨み据えている。
師。負傷している。ひのめに背負われ、その表情には生気が感じられない。ある意味、誠をこの状況に追い込んだ……元凶。
凶銃。その存在を、漠然と意識する。意識は拡散し、散逸し、その場にはただ意志を持った眼光のみが残る。――漠然とした、空想。……千切れ飛べ。意識など。それで――答えが解るなら……!
視界が、いつの間にか歪んでいる。――泣いている。俺が……?
言葉は、それを意識した瞬間に、自然に唇から滑り出ていた。
「……ひのめさん」
それは紛れもない、眼前の人物。誠自身がこの数ヶ月追い続けてきたその相手である、美神ひのめに向けた物だった。その事に、誠自身わずかに驚く。
「……何ですか?」
搾り出すような、声。誠自身を射抜く眼光。ひのめはその視線を、銃口から誠の眼へと移したようだった。眼が、合う。……その、瞳。幾多の人間の死をその眼に焼き付けたのだろう。黒く、乾いた漆黒の燈の眼――――
眼を、閉じる。すぐ開く。
ひのめの警戒の表情に、僅かに怪訝な色が走る。――その色が消えるのを待たずに、誠は口を開いた。
「俺はずっと、あなたを追っていました。先生からあなたの父親――美神公彦氏の在所を聞き、そこで彼にあなたの居場所を教えて貰いました…… 彼は――――」
突然に父親の名前を出されて混乱しているひのめに、一方的に告げる。口調は、重い。だが、止める訳にはいかない。ここで止めてしまったら、自分はもうしゃべれなくなる。……その、根拠のない確信だけが胸中にあった。
思えば、公彦に出会ったのはつい一昨日の事に過ぎないのだ。あまりに長い――停滞した、時間。今日という、一日……
「彼は俺にこう言いました。『君は……ひのめに会ってどうするつもりなんだい……?』……と。それに対して俺は、解らない。会って見ないと、解らないと返答しました」
そう――――そしてその答えに対し、公彦はただ『……そうか』と答え、席を立ったのだ……
「今、俺の前にはあなたがいる。俺は、美神公彦氏に対する答えを出さねばならない――」
ひのめが息を呑むのが、はっきりと感じられた。銃を持つ右腕が重い。にび色に光る殺人器具は、まるでそれそのものが意思を持つかのように、誠の人差し指を自然にトリガーに……
見る。ひのめに背負われている、ピートの姿を。
師の視線はまっすぐこちらを向いている。動かない身体を忌むかのように……その分だけ凄まじい圧力を感じる視線を。――その視線が雄弁に語る。『ひのめを殺すな。悪いのは僕だ。殺すなら僕を殺せ――』……
……どちらにせよ、変わらないのだ。
自分は、ひのめに会えば何かが解ると思っていた。だが実際は、答えを探しているのはひのめも一緒だった。
師は自らの死を願い、誠が真実に気づく事を望んだ。だが実際は、誠は美神ひのめを追った。師、自身がその生を望み、日本から逃がした美神ひのめを――
師は、卑怯者だ。……だが、それは少なくとも――悪ではない。碧い瞳が映すのは、ただ純粋な自身への敵意。そして――愛する者を守ろうという……人として当然の――そう、あまりにも当然の――意志。
――ああ、美神公彦老。俺は何をしてきたんだ……?
掌中にある、にび色の拳銃。その重さを、痛烈に意識する。……戻れない。最早、俺は足を進めてしまった。それに向けて、一歩を踏み出してしまった。――そう、成さねばならない。俺は――
唇を、噛む。涙に揺れる視界の中に、はっきりと師――ピエトロ・ド・ブラドーの姿を映して。
銃を握った右腕に力を込めた。――その刹那。
狼狽の色に塗りつぶされていたひのめの視線が、その瞬間、はっきりと敵意に変わった。
――そして、その瞬間に、
誠は、ひとつの決意をした。
★ ☆ ★ ☆ ★
細かい思いは、必要なかった。誠に対する心情も、既に必要なかった。ただ、その瞬間に必要とされたのは感情――それだけだった。
「うをぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉぉおおおおおおお!!」
激発する感情に身を任せ、眼前に立つ相手に向け――相手が放つ悪意の具現たる銃弾に向け、ひのめはソレを解き放った。既に体力は限界に達しつつあったが、ソレ自体には、体力は微塵も必要ない。必要とされるのは思い。それだけ――
そう、絶対に、それだけは許容できないという、思い。
「――おおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉおお……!!」
相手の――西条誠の、ピートに対する悪意の線が見える…… 数瞬後に銃弾が通過するその線が、視界の中で炎に満たされるのが"見える"。その後、爆圧に吹き飛ばされて、十数メートル先で消し炭となって燻ぶる誠の姿すらも……"見える"。突如として燃え上がった公衆便所に驚き、ベンチで中天の日差しを楽しんでいた老人や、世間話に興じていた主婦たちが、驚いて近づいてくるのが……"見える"。
「おおおおおおおおぉぉぉぉぉおおおおおぉぉおぉおおおお……!!」
――そう。それは、既に確定した未来。自分にとっても……そして、相手にとっても。
そうだ。アタシは決めたんだ。ついさっきだけど……でもあの時からはじめて……自分で、決めたんだ。
"生きる"。
生きたいと思った。生きて、ピートと一緒に歩いていきたいと思った。
アタシは人殺しだ。今までに、たくさんの人を殺してきた。――もしかしたら、これからもたくさん人を殺しちゃうんじゃないか……? そう思ってた。アタシに対して――自信がなかった。
――でも……! 今は、ピートがいる。
ピートがいるから……アタシは、さっきだって自分の暴走を留める事が出来た。
ピートがいるから……アタシは、"生きたい"と、思うことが出来た……!
ピートは――死なせない……! アタシも……死なない! 生きてやる。意地でも、生き抜いてやる。
アタシの全部を使って……全力で、生き切ってやる。
アタシを恨む人は、大勢いる。あんたもそうだ。……だから、きっとそういった連鎖は、アタシが生きている限りずっと続く……
――それでもいい。
殺さないですむなら、もう殺したくない。――でも、きっとアタシは、これからも殺し続ける。――殺して……その後で泣いて、嘔吐する日々が、これから先もずっと続く……
棄てない。
これがアタシの業ならば……生きて生きて生き抜いて、その間ずっと背負っていてやるさ……! 墓場まで背負っていって……その後は、地獄にでも何でも落としてくれればいい。
だから……ごめんなさい。
アタシはあんたのお父さんを殺した。うん……覚えてる。今なら、はっきりと解る。アタシが――吹っ飛ばしたんだよね。あんたのお父さんを……
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
でも――アタシは生きる。決めたんだから、全力で……生き切る。その代わり、あんたのお父さんを殺した事を――背負って生きる。絶対に……片時たりとも……忘れない……!
あんたには見ていて欲しい。アタシが――この通りに生きる事が出来るのかを。アンタだけじゃない…… アタシが殺した人に繋がる人、全てに見ていて欲しい。
アタシは、生きる。ピートと一緒に。
だから、アンタは――――
時が動く。
確定した未来に、"罅"が、入った――
〜続〜
憎悪の鎖で繋がれて、死んだ後に地獄へ引きずり落とされようとも、今を生き抜く。
生きることと、生きることを決意するのは全く違うものなのかもしれません。
後半部分のひのめの覚悟に、壮絶なものを感じ、これまでのお話の中での彼女を重ね、彼女らを待ち受ける未来に戦々恐々としてしまいました。
どのような結末を迎えるのかと、様々な思いを抱きつつ次話を拝読させていただきます。 (矢塚)