椎名作品二次創作小説投稿広場


そして続く物語

竜の残した爪跡


投稿者名:ゼロ
投稿日時:05/ 6/19

 街路を縫うように風が吹き抜ける。
 涼しさと寒さの境にある風は熱を奪いとっていく。
 既に太陽は地平線に沈み街には夕闇の気配が濃厚に漂い始めていた。
 徐々に暗くなるにつれて街灯やネオンの灯りが次々に点灯していく。
 季節はもう秋の半ばを過ぎ、灯りに照らされた通りには落葉が目立ち始めていた。
 そんな景色の一角を占めている美神事務所からは一条の光が漏れていた。



「はあぁぁ」

 大きく溜息をつく音が整理整頓と清掃の行き渡った部屋に響いた。
 これで何度目だろうか?
 所長用の机に向かって座っている亜麻色の髪の女性に注意を払いながら、タマモはそんな疑問を思い浮かべた。
 数時間前に事務所に帰ってきた時から美神の様子は明らかに変だった。
 今も、俯き気味のその顔は翳りを帯びて口元で組んだ手は僅かに震えている。
 彼女の表情や態度から不敵さや闊達さが消え、無意識のうちに陰のこもった氣が彼女の体から流れていた。
 そのおかげで先刻から事務所は暗澹たる雰囲気に支配され、おキヌとシロとタマモを辟易させていた。


 彼女達の目に映る今の美神令子からは、常に纏っている覇気がまるで感じられない。
 にも関わらず、何があったか尋ねても、美神は貝のように口を閉ざした。
 沈黙に耐え切れなくなったおキヌは、少し前にシロと共に買い物に出かけ、事務所にはタマモと美神が取り残されていた。

 挙動不審な美神の見張りなどせずにおキヌ達について行けば良かった。
 タマモがそう思い始めた時、美神の口から再び溜息が漏れた。
 美神がこのような状態に陥ったのは、唐巣の連絡を受けて日本GS協会に赴いた事が発端である。

 
 前日の夜に唐巣からかかってきた電話。
 それに従って翌日彼女は美智恵と共に協会に向かった。

 2人が案内されたのは、何度か入ったことのある唐巣の執務室でも藤田のいる会長用の部屋でもない妙な小部屋だった。
 彼女達が中に入ると、そこには日本GS協会の会長、藤田昇と2人の師である唐巣が座っていた。
 2人の表情は硬く、部屋の雰囲気も重苦しい。
 そのおかげで、即座に美神と美智恵は今回の呼び出しが好ましからざるものだと感じた。
 そして、その嫌な予感はこの上もない形で的中したのだ。

「座ってくれ」

 藤田の声に応じて用意してあった丸椅子に座る。
 向き合う形になった4人の間に流れる空気は相変わらずだった。

「まず今回の会合は極秘に行われている。
 オカルトGメンにも協会にも政府にも今回の会合の内容を知っている者は殆どいない。
 それとこの部屋は防音仕様になっていてね。どんなに叫んでも外に声が漏れる心配はほとんどないよ」

 歯に何かが挟まっているような言い方をする藤田の言葉に、たまりかねた美神が口火を切った。

「それで、今回の呼び出しは一体どのような用件なのでしょうか?」

「先ほど世界GS本部が国連からの要請を受けて、こちらにある提案を打診してきた。
 その内容は『横島忠夫の同期合体のメカニズムの解明と保護のために、
 しばらくの間彼の身柄を世界GS本部と国連本部のあるNYに移すように』との事だ」

 目を見開いて絶句する美智恵と驚愕の表情を浮かべる美神。
 やがて藤田の言葉を過不足なく理解した瞬間、美智恵の顔が朱に染まった。

「どういうことでしょうか!?」

 藤田の襟髪を掴まんばかりの勢いで詰め寄る美智恵を藤田の横にいた唐巣が手で制した。
 その時、その場の雰囲気が一変した。
 立ち上がった美神から尋常ではない威圧感が放たれ、部屋の空気が凍りついた。

「先生、その提案は誰がどんな理由で提出してきたんですか」

 無表情のまま、彼女の口から欠片も情を感じさせない声が紡がれる。
 美神の周囲を渦巻く氣は殺気を通り越して鬼気に変質していくような禍々しさを秘めていた。

「落ち着きなさい。順を追って話すからとりあえず座るんだ」

 さほどの大きさでもないのに藤田の重々しいバリトンの声は、はっきりと全員の耳に届き、脳に響いた。
 美智恵と美神が渋々ながら着席するのを確かめると藤田はビデオデッキの電源を入れて再生ボタンを押した。

「まずはこの映像を見てくれ」

 ビデオの再生が始まる。
 画面に映った映像、そこには黒くて大きなトカゲのような生き物が翼を広げて飛翔していく。
 それは紛れもなくドイツで美神達が戦ったあの竜であった。
 轟音と共に竜に向けて発射されるミサイル。直後に響く着弾の爆音。
 やがて、膨大な霊力を纏った者が黒竜に向けて弾丸の如き突撃を敢行する。
 両者の接触により生じた衝突音。魔力と霊波の揺らぎ。竜の体に穿たれた巨大な孔。
 竜の目から光が消えた所で藤田は映像を止めた。

「これは、あの時の戦いの?」

「そう。あの戦いを録画したマスコミが流した映像の一部だ。
 この映像を解析した結果、君たちが竜を滅ぼした際の同期合体の出力は50万マイトを超えている事が判明した。
 50万マイト。それは横島くんと君の2人分の霊力200マイトを数千倍に高めた数値だが、
 霊波共鳴現象において実行者の霊力を数十〜数千倍まで高めるという理論を裏付ける結果になっている」

「………それに何か問題でも」

 美智恵は返事をしながらも、背中に冷や汗が生じているのを感じていた。
 娘の命を助けるために彼女が提唱した文珠による霊波共鳴現象。
 その理論が実行された場合に起こる反響については誰よりも早く予期していた。
 だからこそ彼女はアシュタロスの事件の解決直後から過去に戻るまでの間に、
 『模』や同期についての全てのデータを消去、或いは改変しておいたのだ。
 横島の関係者以外に証人がいなかった事やルシオラとパピリオの寝返りが北極での魔神の撃退だと思われたため、
 彼女の目論みは狙い通りに進み、同期合体に着目する者はいなかった。
 しかし、この映像をオカルトに造詣の深い者が見てしまえば美智恵の努力は無に帰す。
 そしてその後に続けられた藤田の言葉は、

「この映像は世界中の様々な機関によって解析済みだ。
 それを基に世界GS本部とオカルトGメンの分析班がシュミレートを行った結果、
 同期合体が悪用された場合、人類には対抗する術が無いという結論に達したそうだ」

 美智恵が密かに危惧していた事態の到来を告げた。

 藤田はそこで言葉を切ると額の汗を拭った。
 美智恵は沈痛な表情のまま何も言わずに目線を下に落としていた。
 美神は困惑しながらも、青い顔の母に気遣わしげな視線を向けている。
 部屋に重苦しい沈黙が立ち込める。
 息苦しさを覚えた唐巣は立ち上がると窓を開けた。
 冷たく清涼な空気が部屋に流れ込んでいく。
 やがて美智恵が顔を上げたのを見計らって藤田は本題に切り込んだ。

「世界GS本部と先進国のシンクタンクが出した結論では、
『同期合体が悪用された場合、世界規模で何らかの深刻な問題が発生する可能性が高いと言わざるをえない』
 だそうだ。その結論によれば、同期合体を使えば世界中のどの施設に襲撃をかけても、襲撃される側はそれを防ぐ事はできない。
 それが核ミサイルのある軍の基地であろうと、ホワイトハウスであろうと、世界GS本部ビルであろうと、ね。
 それを聞いた本部の幹部と各国のお偉方は顔色を変えたそうだよ。
 こんなにも唐突に、彼を世界GS本部からの派遣という形で国連本部に異動させるように言ってきたのがその表れだ」

「そんな!?」

「ある機関の分析では、
 複数の文珠、美神令子の様に文珠を扱える霊能力者、そして伊達雪之丞のように霊的な戦闘に長けた人間さえいれば、
 無名のテログループですら、アシュタロスの時のように核ジャックも可能であると言われたよ。
 ………さすがにそれは極論だがね」

「あまりにも極端な分析ではないでしょうか?
 この映像だけで同期合体について分かる情報など多寡が知れています」

「だからこそ先進国のお偉方は同期合体の情報を少しでも欲しがっているのだ。
 理論的には波長のシンクロによる霊力の共鳴の効果は、霊力を数十〜数千倍に上昇させる。
 それに比べて実測のデータはこの映像のみ。
 今までなら彼が同期合体中に手を抜いて出力の上昇を30倍程度に抑えたとしてもそれで誤魔化せた。
 彼がこれが限界だと言い張れば、実測データがない以上、その真偽を確かめる手段はなかったからだ。
 しかし、もはやそれも通用しないだろう」

 部屋に立ち込める空気は半ば固形化したかのようにますます重苦しくなった。

「30倍程度の上昇ならば何も問題はなかったんだよ。
 6千マイトならば破魔札の結界等、現存するオカルト対策用の技術だけで対処できるからね。
 しかし50万マイト強のデータが出てしまった以上、それを無視する事は出来ないんだよ」

 藤田が言葉を切ると苦渋に満ちた表情を浮かべた唐巣が説明を継ぐ。

「通常ならば、アシュタロス事件の功労者に対する干渉を拒む事は決して難しいことではないよ。
 けれどね………核が絡むことに限っては別なんだ」

 唇を噛む美智恵を見やると藤田はやや皮肉っぽい口調で再び話し始めた。

「専門家の分析によると、アシュタロスの事件の影響として最も重大なのは核に対する恐怖感の増大だそうだ。
 結局あの事件で直接的に人類を破滅の危機に陥れたのは、彼が核搭載の原潜を乗っ取って核ミサイルを発射させたからだ。
 それ以降、人類は核兵器が大量にある現状の軍事バランスに危機感を抱いて是正に努めた。
 それまで全く進まなかったSTARTV(第3次戦略核兵器削減条約)が事件直後に発効した事がそれを裏付けている。
 だからこの分析結果を国連が公表した場合、
 同期合体に対する有効な防衛手段が見つからない限り世論の反感はないだろうと言われたよ」

「それはあくまでも可能性ではありませんか。
 そんな事を言い出せば危険に対する予防などきりがないでしょう!」

「理屈では君の言っている事は正しい。
 だがこの映像が世界中に流れた以上、数多くの人間が彼の同期合体を我が物にせんとするだろう。
 それが各国政府直属の情報機関ならば、まだ手の打ちようはある。
 基本的に彼らは正体が露見しないように行動する。
 犠牲者が出て派手な騒動に発展しないように気を配るし、横島くんが重傷を負うような真似はやらない。
 現に『intel』が彼に接近した時の手際は、揉み消せる程度に収まっていた。
 だが、もし彼の同期合体に目をつけた世界中のテロリストが襲い掛かってきたらどうする?
 中には自分の死すら躊躇わないような形振りの構わない狂信者もいるだろう」

「それは暴論です。
 どんな組織が文珠使いである彼を拉致できるというのですか?
 しかも拉致した後も逃げられないように彼を拘束し続け、
 更に同期合体の相手として彼と同等の霊力の持ち主を用意しなければいけません。
 それらの全てを秘密裏に行える組織などありえません!」

 こみあげてくる絶望感を必死で否定しながら美智恵は必死に食い下がった。
 それが無駄な足掻きだと理解していたとしても、かつて同期合体を提唱した者として彼女は言わずにはいられなかった。
 自らが提唱した技術が、死力を尽くして戦い、娘と大勢の命を救った1人のGSを窮地に落とし込む事になる事を認めたくなかった。
 だが激昂する美智恵に対して、藤田は冷酷とすら言えるほどに淡々と答えた。

「その通りだ。そこまで実行できるテロリスト集団などいるわけがない。
 それでも、0.1%未満でも可能性があれば大義名分としては十分なのだ。
 それに、核に関しては強引な手段で彼の帰属を変更した時に世論の批判をかわすための方便に過ぎん」

「………横島くんを国連所属にして日本から引き離したい本当の理由は別なのですね」

 それまで黙っていた美神が抑制した口調で問いかけた。
 沈黙する藤田に、詳しい説明を促す美神の鋭い視線が針の如く突き刺さった。
 彼は黙ったまましばらく思案すると、さりげない口調で逆に美神に尋ねた。

「何度か同期合体したことのある君ならば正確な答えを出せると思うのだが、
 合体可能な時間も含めて考えた場合、ホワイトハウス等の重要機関の占領は可能かね?」

 その質問に沈黙を返す美神。
 彼女はこの質問の持つ意味を嫌というほど感じていた。
 魔神に一撃を与え、究極の魔体を破壊し、数十発の空対地ミサイルすら防ぎきったあの竜の鱗を貫いた同期合体の出力。
 それを破壊行動に利用した場合に生じる被害については考えたくもない。
 藤田の鋭い視線を受けても黙りこくったままの美神に、唐巣が助け舟を出した。

「美神くん。何も答えがない場合は、先ほどの結論が正しいとなるかもしれないんだよ」

「………短時間しか維持できない同期合体では、よほど大掛かりなバックアップがない限り占領は難しいです。
 合体が解ければ占領状態の維持ができませんから、実質的には不可能ですね。ですが、破壊するだけならば別です。
 霊波砲を撃ち込んで原子力発電所を破壊して放射能を撒き散らす事も大都市のビル街を廃墟に変える事も可能でしょう」

 師の言葉に嫌々ながら彼女は口を開いて、慎重に言葉を選びながら己の見解を告げた。
 予想通りの答えに唐巣は溜息をつき、藤田も僅かに眉を顰めた。

「では軍隊と戦った場合はどうなる?」

「相手が核兵器を使わないという前提ですが、
 かつてアシュタロスとの決戦の為に私達を北極に送り届けた艦隊ならば20分程で殲滅できます」

「問題はそこなんだ」

 藤田の声に異様な迫力が宿った。
 同時に彼の顔は熱に浮かされたようにどんどん紅潮していく。

「かつて世界GS本部の要請をうけた艦隊とGS達が交戦した時、あの艦隊は甚大な被害を受けた。
 それは艦隊に始めから攻撃する意思がなかった事と、オカルト対策を施していなかったからだ。
 もしあの時、長距離射程の兵器を使っていれば彼らが何かをする前に倒す事ができただろう。
 しかし、同期合体した君達を相手にした場合は別だ。
 たとえ万全のオカルト対策を施し、全ての通常兵器を出し惜しみせずに投入してさえも全滅は必至だ」

 軽い咳払いの音がする。
 全員がそれに注目すると唐巣が口元を抑えている。
 彼は上司が冷静さを失いつつある事を見て取り、さりげなく注意を喚起したのだ。
 藤田は一瞬ばつが悪そうな顔をすると声を潜めた。

「あの時の艦隊は、空母、駆逐艦、イージス艦など数十隻の軍艦で構成され、その戦闘力はアメリカ海軍の総力の50%に匹敵したそうだ。
 それを短時間で殲滅してのける力を生み出す横島くん。しかも文珠の生成にかかる費用は無料。
 つまり彼は恐ろしく安上がりで強力な通常戦力となりうるといっても過言ではない。
 そして彼の同期合体が軍事利用された場合、確かに世界の軍事バランスは一変するかもしれない」

「成る程。現在彼は日本にいるが、これで日本は在日米軍を凌駕する軍事力を手に入れたに等しい。
 他国をそれを何とかして切り離したい。だからといって横島くんの同期合体を別の国にやるわけにはいかない。
 それで国連なのですか?」

「その通り。結局の所、核の脅威という大義名分は彼を国連に預ける事で戦争に利用される事を防ぐ口実なのだよ。
 ………所詮大多数の人間にとって一番可愛いのは我が身だ。
 人間を滅ぼせる力を持った魔神の存在を知ったところで、人間の敵が人間である事に変わりはない」

 再び立ち込める沈黙。
 やがて美神はさりげなく口を開くと唐巣と目を合わせた。

「でも先生。同期合体が危惧されているのなら、私のように神族に頼んで能力を封印すれば済む事でしょう?」

「それは世界GS本部も考えたそうだ。だが、
 『あの竜のような脅威がいつかまた現れるかもしれない』
 『その時に人類にとって切り札になりうる同期合体というオプションを捨てるのはあまりに惜しい』
 『文珠の反則的な応用性にもかかわらず、横島忠夫がそれを悪用した事例は報告されておらず、彼が危険な人物であるとは思えない』
 そんな意見が続出して、彼の能力の封印は却下されたそうだよ」

「つまり本音では、横島くんを安全な場所に閉じ込めておいて、同期合体の力が必要な時だけは利用するという事ですか」

「………おそらくその通りだろう」

「ふざけんじゃな───」

 血相を変えて叫びだそうとする娘の口を咄嗟に塞ぐと、美智恵は藤田に問いかけた。

「すぐに彼の身柄を移せといわれても…………『組み込み計画』はどうされるのですか?
 彼は日本政府とオカルトGメンと協会が合同で行っている事業の責任者の1人なんですよ」

「今はその線で時間を稼いでいるが状況は芳しくない。
 日本がこの提案を拒めば、各国から核ジャックの可能性を言い立てられ、
 最悪の場合は、世界GS本部の同期合体についての分析結果を公開した上で、
 安保理が彼の処遇を正式な案件として協議する事になる」

「協会とオカGからとりなす事は出来ないのですか?」

「ヨーロッパ各国に駐留するオカルトGメンや世界GS本部は、この提案に賛意を示している。
 今回大勢の犠牲者を出したICPO超常犯罪課は、今後の為にも同期合体についてのデータを欲しがっている。
 本部も彼を本部のVIPとして国連に送り込む事に前向きな姿勢を示しているよ。
 おそらく先進国に借りを作ることで国連における影響力を拡大するのが狙いだろう」

 状況は完全に四面楚歌だった。
 この件に関して先進国が団結しているのなら、日本政府に太刀打ちなど出来るはずもない。
 要請を断れば安保理の決議が発動する。
 いずれ本部やICPOからも彼の派遣要請が届くだろう。
 おそらく彼は重要人物として迎えられ、かなりの好待遇が与えられる。無論、監視と護衛はついてくるだろうが。

 ここに来て美智恵は己の失敗と敗北を認めざるをえなかった。
 霊波共鳴現象を阻害する仕組み、それさえあれば今回の要請を蹴ることも出来ただろう。
 だが今からそれを研究するにしても、とても短時間で終わるものではない。
 娘の手を強く握りながら胸に悔恨を刻むと、彼女は押し殺した声を出した。

「………向こうはいつまでに横島くんを世界GS本部ビルに来させるように要求してきましたか」

「二週間後だ。それまでに『組み込み計画』の引継ぎや日本のGSとの同期合体のデータ収集が終えるようにと要請された。
 二週間後には本部から出迎え役の人間が来るので引き伸ばしは不可能だ。
 ところで美智恵くん、もし横島くんが抜けたら『組み込み計画』はどうなる?」

「…………『intel』が接触した時、計画はまだ第2段階の半ばでした。
 あの時は参加者のトラブルをこちらで処理しなければいけなかったため、経験豊富な横島くんは絶対に必要でした。
 今は、計画は既に第3段階が軌道に乗ったところです。
 参加者のトラブルは参加者が解決する仕組みも整いつつあるので、直ちに計画が崩壊するという恐れはありません」

「ではとりあえず、彼がオカGで受け持っていた仕事はピートくんと八代くんに引き継いでもらおう。
 彼の後任として協会から派遣する者については、近々こちらで選出する」

「よろしくお願いします」

 美神は唖然としたまま交わされる会話を聞いていた。
 横島がアメリカに行くという事が規定事実のように淡々と語られている。
 耳に届く言葉は現実感から遠く、まるで悪い夢を見ているかのようだった。
 しかし彼女の手から伝わる母の温もりは無情にも目の前の光景が現実だと理解させる。
 結局、美神は会合が終わって部屋を出るまで無言を貫いた。








「お帰りなさい、オーナー」

 人工幽霊一号の声が美神の耳に届く。
 ふと我に帰るといつの間にか彼女は事務所に立っていた。
 どうやら極秘の会合が終わった後、自分は茫然自失のまま帰途についたらしい。

 ドアを開けて靴を脱ぐと、ひんやりとした空気の中に混じる事務所の備品特有の匂いと狼と狐の体毛の匂いが彼女を出迎える。
 鍵を机の上に置いてソファーに座ると、美神はのろのろとした動作で電話を引き寄せた。
 そのまま30分程悩んだ後、ようやく横島の携帯のナンバーを押し始めた。

「あっ、横島くん。今日の仕事は何時までかかりそうなの?
 ………そう、分かったわ。意外に早いわね。
 そっちの仕事が終わったらすぐに事務所に顔出しなさい、ちょっと大事な話があるから」

 受話器を切ると彼女は疲れたようにソファーに寝転んだ。
 天井を睨んだまま、会合で伝えられた情報を反芻する。
 今まではこうしているだけでいくらでも悪知恵が働いたのだが、
 今回に限ってはどうすればいいのかさっぱり分からない。
 
 売られた喧嘩は買う。現世利益を妨げる者は排除する。それが美神のポリシーである。
 そのポリシーに従って、彼女は数多くの強敵と渡り合い、その全てに勝利してきた。
 けれど今度の相手はどう戦うべきかイメージできない。それどころか、誰と戦えばいいのかすらもはっきりしない。
 アシュタロスでさえ、抱えている弱点を突けば活路が開けた。
 だが今度の相手はいわば無数にある世界中の人間の恐怖だ。
 たとえ先進国の首脳が全員失脚したとしても、同期合体に恐怖する者やその力を利用したいと思う者は後を絶たないだろう。
 ならば、今のうちに無理矢理にでも彼を妙神山に連れて行き、小竜姫達に頼んで文珠の能力を封印してしまおうか。
 しかしそれではあまりにも………。
 ぐるぐると思考が迷路にはまり込んだ様にループする、
 明敏な彼女の頭脳をもってしても、どうすればいいのかが定まらない。
 おかげでおキヌ達が帰ってきてからも、美神は何も言わずに悶々と己の思考に没頭していたのだ。


 やがて事務所のドアが開く音がして、美神の思考は中断を余儀なくされた。
 目を向けると買い物に行ったおキヌとシロ、そして横島の姿があった。
 おそらく事務所に来る途中に2人に出会ったのだろう。彼の手にはスーパーの袋が握られていた。
 時計を見ると時間はいつのまにか夕刻を過ぎていた。
 美神は憂鬱さを隠そうともせずに彼らの帰りを出迎ると、また1つため息をついた。







「…………というわけよ」

 美神が協会で行われた会合の内容を話し終えた時、事務所には沈黙が立ちこめた。
 おキヌは青褪めた顔のままソファーに座り込んでいる。
 シロは話の最中に何度も暴走しそうになったため、横島とタマモの取り押さえられて縛られた上に猿轡をかまされている。
 タマモは探るような視線を美神と横島に向けている。
 横島はぼんやりとした顔で頬杖をつきながら、どこか遠くを見るような目をしていた。
 その顔が美神に向くと一瞬で寂しげな表情に変わった。

「2週間後にアメリカに行け、ですか」

「このままならばね。
 計画は第3段階がうまくいってるから、今のメンバーに引継げば済む。
 同期合体については、テストの手順そのものはアシュタロス戦の時にママが考えてあったわ。
 あんたと合体できる霊力の持ち主はあんまりいないし、時間はそんなにかからないでしょうね」

「断れる状況じゃないみたいっすね」

「いくら時間を稼いでも、最終的には安保理の決議と世界GS本部の強権で身柄が拘束される事になるわ。
 そうなればあんたも私達も面倒な事になるかもしれない。それが嫌なら今のうちに頷いておけって所でしょうね」

「そう……ですか」

 横島の声は堅く、その答えを聞いた彼女の達の心が最奥から警鐘を訴える。
 それ以上は言わせてはいけない、彼の口を封じろ、と。
 けれど、横島の表情を見た美神やおキヌの体は石のように硬直し、彼が続ける言葉を止められずにただ聞き入るしかなかった。

「まあ、仕方ないっすね。別にとって食われるわけじゃないですし、みんなに迷惑かけるわけにもいきませんし」

 嘆息するように呟くと横島は目を瞑った。
 再び沈黙の霧が立ち込める。
 その霧と共に徐々に心を侵食していく諦念。
 それを振り払おうと口を開いても、伝えるべき言葉が見つからない。
 刹那、もどかしげに瞬きを繰り返す美神の脳裏を1つの提案がよぎる。
 やはりこれしかないのか。
 大きく息を吸って横島を睨むと、彼女は胸を掠める痛みに耐えながら吐き出すように彼に告げた。

「横島くん。妙神山に行けば文珠を封印する事ができるかもしれないわ。
 文珠を作れなくなれば、あんたは多分国連に行かなくとも済む筈よ」

 その口調は丁寧だったが、美神の眼光は鋭く、有無を言わさずに横島を従わせるだけの迫力に満ちていた。
 その眼差しを受けた横島が僅かに後退りする。しかし、困ったような顔をしながらも彼は首を横に振る。

「すいません、それは遠慮させてください」

「横島さん!?」
「先生!?」

 固唾を呑んで見守っていたおキヌとシロの口から悲鳴が飛び出す。
 タマモも唖然とした表情のまま固まっている。

「…今、何て言ったの?」

 美神は動揺を隠し切れないまま、目の前に立っている横島に聞き返した。

「横島くん。向こうに行けば帰れるかどうかは分からないわ。
 あんたは世界GS本部が派遣する大規模霊障発生時の切り札なんだから相応の待遇は約束されるでしょうけど、
 行動の自由は制限されるかもしれないのよ。それでも良いの!?」

「良くはないです。でも文珠は捨てられないです」

 堂々とした態度で真剣な顔できっぱりと言い切った横島に、美神は言葉を失った。
 言い返そうとして口を開こうとした時、再び彼女の胸に鈍い痛みが奔った。
 痛みと共に追想するのは血塗れで文珠を握り締めたまま気絶した彼の姿。

 彼女にしても二度と言いたくなどなかった。
 美神にとって横島が命がけで習得した文珠生成は、彼と自分とを繋ぐ絆でもあったから。
 彼女の足手纏いにならぬように、彼女の命を狙う魔族とも渡り合えるように、歯を食いしばりながら戦った情けない筈の少年。
 彼が生きてあの修行を潜り抜けのを確かめた時、彼女は感激していた。決してそれを表には出さなかったけれど。
 本音ではその思い出を、その絆を切り捨てて欲しいわけがない。
 だからもう、彼に翻意を迫る言葉は彼女の中には存在しなかった。


 
 横島も分かっていた。美神が文珠を封印するように薦めたのは、彼女が彼を案じていたからだと。
 けれど彼は文珠を捨てられなかった。彼にとって文珠は便利な霊能というだけではなかったから。

 文珠のおかげで誰かを助ける事が出来た。
 文珠があったからデミアン、ベゼルバブ、メドーサ達から美神を守る事が出来た。
 文珠を使えたからこそ死にゆくグーラーを救う事が出来た。
 北極でアシュタロスを出し抜いて美神とルシオラを助け出せたのも文珠のおかげだった。
 そして文珠のおかげで彼は初めて美神の隣で戦えるという自信が持てたのだ。
 もはや文珠は彼のGSとしての拠り所の1つであった。
 
 そして一週間前に竜を殺した時、竜の記憶に触れた横島は知ってしまった。
 最後の瞬間、己の凶行を止めた横島達に対して、竜が微笑んだ事を。

 魔族の持つ殺戮と闘争への衝動。それは竜を殺戮に酔わせた。
 けれど敬虔なクリスチャンの血を引く彼は、一方で己の所業をひどく嫌悪していた。
 故郷の地に血と恐怖が撒き散らされるたびに、故郷の大地が荒廃していくたびに、竜の心は陶酔感と同時に悲鳴を上げていたのだ。

 記憶の断片が集いはじめる。
 やがて縫合された記憶が再生される。

 母の血と財宝の呪いを浴びて竜になったカレは、泣き顔のまま心の底で1つの言葉を呟いていた。

『タ・ス・ケ・テ』

 目をきつく閉じて、頭を何度も振る。
 あの痛みを感じなければ、あの哀しみを理解しなければ、あの竜と出会わなければ、あるいは文珠を封印する道を選べたかもしれない。
 彼に竜を救うことは出来なかった。代わりに与えた一時の安らぎ。それは文珠のおかげだった。
 あの場で秋美や唐巣やおキヌや自分の命を救ったのも文珠のおかげだった。

 文珠がなかったら、自分はいつかまた大切な人を守れなくなるかもしれない。
 もし文珠がなければ、目の前で大切な人が死んでいくのをどうすることもできずに、自分は悔恨にうちのめされるかもしれない。
 文珠の効果と死の恐怖を強烈に意識されられた竜との戦い以降、そんな恐れが常に彼の心の奥底に蟠っていた。
 だからこそ、帰国できる可能性が0でない限り、横島は文珠を捨てられなかった。



 肩を落とした美神を気遣いながら、それでも横島は宣言するようにはっきりと告げた。 

「俺、しばらくアメリカに行ってきます。すぐに帰ってきますから」

「せんせぇ、せんせぇ、せんせぇぇぇ。拙者をお供として連れて行ってくだされ」

 我慢できなくなったシロは霊波刀で縄を断ち切ると、そのまま彼の腰にしがみついて滂沱の涙を流した。
 そんな彼女に苦笑しながら横島はあやす様に優しく彼女の頭を撫でた。

「シロ。あんまり無茶言うもんじゃないぞ。
 向こうは日本とは違うんだから、人狼ってだけでいきなりお前に襲い掛かってくるような危ない連中だっているかもしれないんだぞ」

「そんなの拙者は一向にかまわんでござる」

「お前が良くても俺が困るっての。大事な弟子をそんな目に遭わせられるかよ」

「せんせぇぇぇぇ」

「ほれ、いい加減に泣き止めって。どうせすぐに帰れる事になるだろうしな」

「まことでござるか!?」

「多分、同期合体の訓練が終わったら用済みになるさ。
 もしかしたらセクハラのせいですぐに強制送還されるかもしれないぞ。
 だからお前には、俺が帰ってくるまで俺の代わりにみんなを助けてやってほしいんだけどな」

 押し倒さんばかりに縋り付くシロの目元をハンカチで拭ってやりながら、横島はむずがるシロを諭した。
 おどけたような口調で話す横島に、シロは彼のシャツの裾を掴んだまま何度も何度も頷き返す。
 けれどシロ以外のメンバーは分かっていた。彼が直ぐに帰国できる可能性は極小だと。
 同期合体に対する広汎的な抑止力が見つからない限り、彼が国連から解放されることは有り得ないのだ。


「横島さん」

 横島の言葉を聞いていたおキヌは、ふらりと立ち上がるとシロに抱きつかれている彼の許にゆっくりと歩き始めた。
 夢遊病者のように頼りない足取り。歩を進めるおキヌの心を覆う嘆きの雲。
 どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
 横島がオカGや協会に派遣されてからも彼の隣に立てるだけで幸せだった。
 だから彼の力になれるように必死に努力してきた。
 彼の身の回りの世話を焼いた時には、胸が温かくなるような甘酸っぱい想いに満たされた。
 それなのに、どうして彼に会った事もないような人が、横島をここから奪い去っていくのだろうか。

 こみ上げる嗚咽を堪えながら歩むおキヌの視界に映る彼の姿がかすかにぼやける。
 氷室おキヌの手の中にあるささやかな幸福すら容赦なく奪おうとする世界の理不尽さなど知りたくなかった。
 こんなに圧倒的なまでに押し寄せる悲しみなど彼女は知りたくなかった。

 俯いたまま横島の前に立ったおキヌが顔を上げる。
 喘ぐように開閉する口元が何かを伝えようとする。潤んだ瞳が、ただ彼だけを見詰めている。

「あっ! おキヌちゃん。その、俺もここから離れたいわけじゃないんだ。でもさ………」

 放たれる妙な迫力と透き通るような彼女の視線に押されるように、横島は思わず腰を引きながら慌てて弁解した。
 さらりと横島の腕に触れるとおキヌはシロを押し退けるように彼の胸に飛び込んだ。

「アメリカになんか行かないでください。文珠が使えなくたって良いじゃないですか。私、なんでもしますから」

 泣き出しそうな声。横島の背に回された腕にこもる力。
 何処にも行かせたくないと万感の思いを込めた抱擁。
 だが横島は、軽く彼女を抱き返しながらもその耳元でそっと呟いた。

「………ごめん」

 かすれた声で告げられた言葉はたった一言。
 けれども彼の口から紡がれた言葉は、これ以上ないくらいに明確な否定の意思と共に決定的な破綻を告げていた。
 自分では彼を引き止めることが出来ない。
 そう悟ったおキヌの目から涙が零れ落ちる。

「ごめん、おキヌちゃん」

 すぐ上から降ってくる彼の言葉。それを拒絶するように彼女は激しく首を振った。
 同時に彼を抱く腕に更に力がこもる。彼女は少しでも長くその温もりを感じられるように彼の胸に顔を押し付けた。
 もう何も聞きたくなかった。ただずっとこの温もりに包まれていたかった。

───好きです。貴方の事が大好きです。これからもずっと傍にいてください。

 心中で繰り返される言葉は決して紡がれる事無く、ぽっかりと開いた心の穴の中に木霊する。
 おキヌの肩が小刻みに震える。やがて部屋を流れる大気にのってすすり泣く声がかすかに響いた。


 面白くなさそうな表情で横島達を見ていたタマモは、おキヌの嗚咽を耳にするとぽつりと呟いた。

「こういう構図は結構見慣れてるはずなんだけどね」

「タマモ?」

「権力者が実力者をどうこうしようとする光景なんて前世の時には、権力者の傍らで何度も見てきたわよ。
 でも久しぶりに思い出したわ。奪われる側の立場ってやつはこんなに苦い味がするのね」

 奪われる。その言葉を聞いた途端にぶるっと美神の身体が震えた。
 ぐっと唇をかんだ瞬間に彼女の口から自然に言葉が漏れる。

「ええ、そうよ。奪われるのは、本当に…………辛くて苦しいわ」

 不意に美神の胸にメフィストが高島の命を奪われた時の絶望が蘇る。
 魂の奥底から涌き出て来る悲しみの波動が心をかき乱していく。
 それはメフィストの嘆き。己の存在理由も愛した男も無理矢理に奪われた彼女の悲嘆。
 その感情が一気に心に流れ込んでくる。
 さり気なく横島達に背を向けた美神の頬を一筋の涙が伝った。




 それからの2週間は飛ぶようにして過ぎていった。
 『組み込み計画』の引き継ぎの為に秋美とピートに会った時、彼らは既に美智恵から横島が日本を離れる事を聞かされていた。
 引継ぎが終わった後に秋美から、「戻ってくるのをずっと待っています」と伝えられた時、
 胸に去来した遣る瀬無さに彼は泣きそうになった。
 引継ぎが終わると彼は、自身が口説いて計画に参加してもらった者達にしばしの別れを告げるために日本中を回った。
 そしてその合間に、唐巣と美智恵の立会いの下、美神、西条、エミなど日本在住で横島並の霊力を持つGS達との同期合体の訓練を行った。


 全ての後始末が終わり、天井知らずに盛り上がった彼の送別会が開かれた翌日。
 まだ倒れているシロとタマモや待客を放置すると、美神とおキヌは出発の準備を整えている横島をさりげなく手伝った。
 やがて人工幽霊一号の声が響いた。 

「オーナー。お出迎えの車が到着いたしました」

 美神は時計に目を走らせると僅かに唇を歪めた。

「まだ時間はあるでしょう。もうちょっと待つように言ってくれない?」

 恐れを知らぬ美神の言葉に2人が呆気に取られていると、人工幽霊一号の声が届いた。

「しばらく外で待ってくれるそうですが、30分以内に済ませてほしいそうです」

 ひらひらと手を振って了解だと示すと、彼女は向かい合うようにおキヌと横島と共にテーブルを囲んだ。

 別離の瞬間はすぐそこまで来ていた。
 誰も何も言わない。ただそっと視線を絡ませるように視線を交差するのみである。
 決して不快ではない静寂が流れ、懐古的な雰囲気が漂う中、横島はふと顔を上げた。

「新しい環境に慣れるまで結構かかりそうっすよ」

 美神は彼の目に僅かな迷いの色を感じ取った。

「だいじょうぶよ。あなたのノリと悪運と実力なら、
 うまくいかなくてホームシックにかかる可能性のほうが圧倒的に少ないわよ」
 
「ああ、いえ。それはあんまり心配してないんですけど」 

「どうしたのよ?」

 彼は困っているような照れているような曖昧な表情を浮かべて苦笑した。
 やがて横島が口を開く。

「ここは、美神事務所は俺が初めて働くようになった場所なんですよね。
 オカGに出向したり、協会の職員になったりして肩書きは増えましたけど、それでももうずっとこの事務所の一員として働いてきました。
 それで明日からは誰も知り合いのいないアメリカで過ごすようになるのに、昨日唐突に気がついちまったんです。
 俺、美神さんやおキヌちゃんやみんなのいない外国の生活がまるで想像できなかったんですよ」

「―――っ!?」

 その言葉は 何気なく零れてきた想いのあらわれ。
 この場所と自分達の存在を唯一無二の物だと言った彼の意思。
 そしてそれは、美神令子も自覚していなかった現実。
 彼女にも不鮮明にしかイメージができなかった、横島忠夫が手の届かない場所に行ってしまうという確定的な未来。
 急速に像を成す言葉と波立つ心。

 (アンタガイナクナルナンテ………ヤダ)

 けれど、思わず声に出しかけた言葉を飲み込むと美神はうつむいた。
 強いと思っていた己の心。どんな逆境も笑い飛ばせると信じていた己の精神。
 しかし、横島の言葉を聞いた瞬間、それは一気に崩れ去りそうになってしまった。

 彼女の心には強靭な芯が入っている。
 それは父の不在と母の死亡という理不尽な現実を捻じ伏せるための強靭な意志。
 即座に己の道を切り開くために、彼女は意地と何があっても生き残ってみせるという虚勢混じりの自負を心に宿した。
 それはやがて、研ぎ澄まされた剣のような鋭さを備え、GSとしての成功に大いに貢献する。

 歯痒い思いをさせられた事もあったが、最後まで面倒を見てくれた師からの独立。
 それは大樹の保護下から離れた若鳥が広い世界で己の立場を確立していく為の飛翔。
 その途上にある困難を乗越えるために心の剣は鋭さを増していった。
 その反面、誰にも弱みを見せず、泣き言も言わずに突っ走るうちに、心の剣は僅かずつ磨り減っていった。
 けれども彼女が今迄折れる事無くその鋭さを保ち続ける事が出来た。
 その理由は、疲れた時に身を休める宿木なってくれた氷室キヌ、剣を研ぎ直す砥石になってくれた横島忠夫の二人の存在だった。

 疲れた時に天然ボケな会話とほんわかとした雰囲気で心を和ませてくれたおキヌ。
 心がささくれ立った時に絶妙のタイミングでボケとセクハラをしてくる横島。
 彼を殴り飛ばす事で、何度ストレスが消えていつも通りの強靭な自分に戻る事が出来ただろう。
 横島の喪失とは、彼女の強さの源泉の半分が消失する事に他ならない。

 本音を言えば嫌だった。我慢できなくなりそうなほどに嫌だった。
 横島が傍からいなくなるのも、憂さ晴らしに彼を引き摺り回せなくなるのも、三人で馬鹿をやれなくなるのも。
 もしもここで彼女がその気持ちを横島にぶちまけていたら、或いは数十年後の歴史が変わったかもしれない。
 けれども横島の前では、美神は彼の欲望と尊敬の対象である強い女で在りたかった。
 だから彼女は本心を隠して笑顔を作った。

「あんたなら大丈夫よ」

 美神は笑顔を崩さないまま、立ち上がると机からあるものを取り出した。

「アメリカ行きの餞別に上げるわ」

「これ、美神さん用の特注神通棍じゃないっすか!」

 手渡された物に驚愕して、横島は目を白黒させた。
 美神令子の霊力を余すことなく発揮できるように、彼女が使う特注の神通棍は数々のカスタマイズが施されている。
 そのため1本毎のコストは、市販では最高級の神通棍に比べて五倍以上になっているのだ。

「いいんですか?これ、高いでしょう。それに俺のハンズ・オブ・グロリーなら神通棍がなくとも───」

「シャラップ!!生意気言わずに受け取りなさい。
 それがあれば霊波刀と併用して二刀流にする事も出来るし、あんたの霊波刀だと鞭のような動きは無理でしょう。
 持ってても損にはならないわよ。それに柄の部分を良く見てみなさい」

 横島が目を移すとそこには、「美神」と達筆に刻まれている。
 握られている神通棍が彼女専用の武器だと示す刻印。
 顕示欲の強い美神らしいと思って苦笑する横島に様子に美神は照れ隠し交じりに怒鳴った。

「何があろうとあんたは美神事務所の人間なのよ。これはその証。
 だからアメリカでも無様な事を仕出かして師である私の顔に泥塗るような真似なんかするんじゃないわよ!」

 姿勢を正して美神を見上げると、テンションが上がってきたせいか、
 彼女はソファーから腰を浮かしてテーブルの上に手を突いた姿勢で、こちらを睨むように覗き込んでいる。
 怒りの為なのか、その頬がうっすらと赤く染まっている。
 その様子が何処か可愛らしくて、それと同時に彼女の激励が泣きたくなるほど嬉しくて、
 横島は感情を押し殺しながらゆっくりと頷いた。

 そして彼が顔を上げた瞬間、それまで神妙だった表情が突然締まりの無いものへと一変する。
 あまりのギャップに虚を突かれた美神に向けて、横島は惚れ惚れするほどの鮮やかにルパンダイブを敢行した。

「餞別のお礼に、この身体でお返しをいたします!」

 寸前に入れた狡猾なフェイント、目にも止まらぬ素早い跳躍、完璧な飛行姿勢。
 それは見事に三拍子揃ったルパンダイブだった。
 通常ならばそれを防ぐ術など無い。
 あそこまで見事なタイミングでは、小竜姫でもワルキューレでさえも為す術も無く押し倒されてしまっただろう。
 しかし横島がセクハラの達人ならば、美神はその尽くを斬って落としたツッコミの鬼である。
 表情は唖然としたまま、それでも美神の身体は反射的にツッコミ返そうと神速の動きをみせていた。

「少しは雰囲気というものを読まんか、この唐変木がッ!!」

 迫り来る流星の如き横島のダイブを、美神はいつのまにか手にした特注神通棍の最高出力で迎撃する。

「うぎゃあぁぁ!!」

 神通棍に打ち返された横島の体が壁に激突した後にゆっくりと床に落ちる。
 

「お、おキヌちゃん、助けて」

 生暖かい赤い液体を流しながら、横島はぼやけそうになる視界に映ったおキヌへと手を伸ばす。 
 美神同様、突然の豹変に度肝を抜かれたおキヌは唖然としたまま横島を見た。
 先ほどの横島のセリフに感極まった彼女は泣くまいとして必死に努力していたのだ。
 それなのに横島の突然のルパンダイブと美神の迎撃は、おキヌのしんみりした気持ちを跡形もなく吹っ飛ばした。
 混乱した心を落ち着かせようと深呼吸を繰り返すうちに、横島への口惜しさがどんどん湧き上がってくる。
 一度くらい自分にも飛びついてきて欲しかったのに。

「………もうっ、知らない!」

 結局おキヌはプイっとそっぽを向いた。
 その無慈悲な言葉に、伸ばされていた横島の手がパタンと落ちる。
 その時、

「どうしたんですか!?」

 外に待機していた出迎えの男が、横島が壁に叩きつけられた音を聞きつけて入ってくる。
 彼は血塗れで地に伏す横島の姿を見るとぎょっとしたように立ち竦んだ。

「…………暴行殺人未遂?」

「違う!」

「しかし、これはどう見ても………」

「うるさい!もうこっちの用事は済んだから、とっととこいつを連れていきなさい」

 でっかい汗を貼り付けた男はコクコクと首を縦に振ると、慌てて意識の途切れた横島をその体を担ぎ上げた。

「それでは、我々は出発しますので」

 彼がドアから出る直前に、気絶していたはずの横島の右手が動いた。
 右手が拳を握ると、親指が彼女達に向かってグッと立てられる。
 男の姿が消えると、美神とおキヌは思わず吹き出した。

「行っちゃいましたね」

「ええ。でもきっとまた会えるわ。私の霊感がそう言ってるもの」

「はい、私も感じました」

 去り行く車をじっと見つめるおキヌの呟きに美神はまだ笑ったまま応じる。
 それまでの重苦しい空気は、あの最後のルパンダイブによっていつの間にか消えていた。
 思わず浸ってしまいそうなしんみりとした雰囲気もなくなってしまったが。
 2人の顔にあった険と影は消え、その表情は平常時のように明るい魅力に溢れている。
 そんな中で彼女達の霊感は確かに彼との再会を感じ取っていた。 
 こうしてドイツから帰国した3週間後、横島はアメリカに向けて旅立っていた。







 後に横島忠夫と再会した時、彼と彼の腕の中の女性を見た彼女達は、彼に縋りつく様にして泣き出す事となる。
 けれど神ならぬ彼女達はそれを知る由もなかった。


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