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下弦の月

日常 <完>


投稿者名:ライス
投稿日時:05/ 6/ 4

 雲は過ぎ去り、夜空に星が輝いた。月が森を照らす。その穏やかな光は森を通り、地面へと打ちつけられる。いつの間にか空は雲ひとつなく、よく晴れていた。
 放たれた矢の反動でシロの身体は反りかえり、天を仰いだ。彼女が上弦の月を受けいれると、光が身体中を通過する。細胞の一つ一つに至るまで光の粒は彼女を貫いたのだった。
 まるでスローモーションを見るかのような光景。シロはその目で月を見ると、まぶたを閉じてそのまま背中から地面へ叩き付けれた。そして、彼女は動かなくなった。矢は胸に突き刺さったままである。
 矢を放った横島はその一部始終を見て、唖然としていた。いや、むしろ何が起こったのか把握できていないようであった。彼女を射抜く覚悟は決まっていたとはいえ、ほとんど咄嗟に近い反射速度で、気付いた時にはもう遅かった。
 彼女は刀を持っていなかった。なぜかは知らないが、刀を捨てていた。そして、にっこりと微笑んでいた。それが何を意味しているのか、何を意味していたのか、彼には全く分からない。あの時、彼女は正気に戻っていたのであろうか。ならば、自分は愚かな選択をしてしまったかもしれない。
 横島は弓を捨て置くと、急いで彼女に近づいた。矢が胸に突き立っている以外は何の別状もない。彼女は眠っているようだった。それは健やかに、身体を揺さぶれば今にも起きてきそうな、生き生きとした寝顔に見える。だが、彼女が起きてくる事はもう二度とないだろう。それは胸の矢が何より物語っていた。
「ばっ、きゃろぉ……!」
 口から漏れた言葉はシロに対してでもあり、自分に対してでもあった。助けに来たはずなのにこのざまだ。結局、また救えなかった。彼女は死ぬ運命だった、なんて納得できるはずもなく、ただ彼女を救いたいがために奔走し、行き着いた先がこの結果である。自分に憤りたくもなるのは自明の理であった。
 横島はシロの頭と上半身をそっと持ち上げてみた。まだ血の気が通っている。綺麗な寝顔だった。眠る彼女の姿が彼をうなだらせ、苦しませる。これで良かったとはいえ、こんなにも無念が残る結末は横島の心により一層辛いものを背負う事になることだろう。
 悲しみに暮れる横島。だが、その妙な現象に彼が気付くのにさして時間はかかることはなかった。明るいのだ。横島と彼女がいる所を中心に、円形状に光が差していた。不思議に思って、彼は空を見上げた。上空には半月が浮かんでいる。光の発生源はどうやら月のようだ。月から降り注ぐ光の筋は次第に細ばみ、シロの胸の矢に焦点が合わさると、矢は光に吸い込まれるように朽ち果ててしまった。そして、矢の突き刺さっていた傷口からは光が漏れていた。
 傷口は徐々に裂けてゆき、しまいには身体を縦断する亀裂が何本にもなっていた。そしてまたその亀裂からも、光が漏れ出ていた。
「なんだ?」
 裂け目は少しずつ開いていく。と、同時に漏れてくる光の量も増えていた。亀裂はある程度まで広がり、中が見えてくる。とはいえ光に包まれていて、何があるのかさっぱり見当も付かない。
 横島は何とかして覗き込もうとすると突如、腕辺りの裂け目から腕が飛び出て来た。これには彼も驚きの表情を隠せずにいた。また一体何が起こっているやらも理解不能だった。腕の次は脚が、そのあと胴体と頭が、パキパキと音を立てながら卵の殻を破るように、彼女は起き上がった。裂け目の光から現れたのもまた、シロであった。
 そして目の前に再び現れた、元の、いつも通りのシロ。赤い前髪、すらりと長く白い後ろ髪。見間違う事なく、シロだった。信じられない。目を丸くして、横島は事の次第をまじまじと見ていた。それでもなお信じられない心地であった。
 光が消えると、力が抜けたようにシロは崩れ落ちる。横島はすぐに彼女の身体を抱きかかえるように支えた。
「おいっ! シロ!」
 無駄なことだとは知りつつも、横島は彼女に呼びかける。が、やはり何も返ってはこない。途端に彼の表情は沈む。淡い期待を持ったのがいけなかった。彼はシロの身体を引き寄せ、腕の中で強く抱きしめた。それはまるで彼女を弔うが如く。
 すると振動が横島の身体に伝わってきた。一定に、止まることなく彼女の身体から伝わってくる。聞こえてくるのだ。胸からドクンドクンと脈打つ音がシロから横島へと伝う。確かな生命のリズムを体全身で受け止める。それは穏やかで大いなる響き。心臓の鼓動を感じ取とれる事がこんなに嬉しく思えたのは、彼にとって初めてだった。
「生きてる……!」
 確かな鼓動が聞こえる。彼女が生きているという確かな証拠を横島は噛み締めていた。
「生きてるんだな……、本当に生きてるんだなっ! シロ……っ!」
 横島は涙を浮かべた。彼女が生きている事に自分が救われたようだった。再度、彼はシロを抱きしめる。彼女は死んでいない、それがなによりも嬉しい。
 月は明るい。空に浮かぶ半月、散りばめられた幾多の星が静かに呼吸している。風がなびき、木々が葉を揺らし合唱していた。この世にあるもの、全てが息吹いている。そして彼女、シロは再びこの世界へと帰ってきたのだ。


       ◆


「信じられん」
 その光景を目にして、人狼族の長老は驚きを隠せないでいた。無論、脇で治療を受けていた美神もそれは同じでようだ。横島は村へ戻ってきたのだ。正確に言えば、二人は彼が戻ってきた事に驚いているのではない。問題は彼の背中にあった。弓矢とともに横島が担いで来たものは紛れもなくシロだった。
「長老、美神さん」
 ふらふらと母屋の縁側へ歩み寄っていく。たどり着くと、横島は背中に担いでいたシロをゆっくりと床に下ろす。その身体は傷一つなく、綺麗なものだった。彼女は深い眠りに落ちていた。静かな寝息が聞こえるだけで目覚める気配は一向にない。
「これは一体……」
 長老達は眠るシロを見て、安堵を覚えると共にどうして彼女が生きているのか疑問に思っているようだ。本来ならば、彼女は跡形もなく月へ飲み込まれているはずなのに。そう言いたそうな顔つきで二人は見ていた。少なくとも言い伝えにおいては呪いを受けた者はそうなるはずである。だがどうだろうか。シロは今も存在し、呼吸を続けている。
「おれにもよく分からないんですけど」
 横島はそう言って、一部始終を語った。起こった事実のみをかいつまんで説明する彼を二人は固唾を呑んで見ている。話が終わると、長老は長い顎ひげをさすりながら思案し始めているようだった。
「分からん。どうしてシロは助かったのだ?」
 少し間を置いて、長老はすぐに音を上げた。
「村の記録には今回のような記述は全く見られぬし、第一、呪いを受けた者は全て死んでしまうはずなのだがのぅ……」
 不思議そうにシロの顔を見つめる。それは健やかな寝顔だった。
「まぁ、無事なのはなによりじゃな」
 長老は穏やかな表情をし、まずは一安心といった所で大きく溜息を吐いた。シロが生きているという、予想外の出来事をようやく受け止められたという気持ちが表情から滲み出ているようである。そして、なによりもシロが無事に帰ってきたことを喜んでいるようだった。
 一方。
「横……島クン」
 美神はこちらを向きながらも呻き声を漏らしていた。シロから受けた怪我のせいで熱を出し、意識が少し朦朧としている様子だった。
「なんですか?」
「もん、文……珠を」
 手を伸ばし、文珠を渡すように催促する。手はわずかながらに震えていた。
「は、や…く……っ!」
「はいっ!」
 横島は慌てて自分の手の平から文珠を繰り出し、その一つを彼女に手渡した。
 美神は文珠が手に乗ったのを確めると握り締め、力を込めながら怪我をした部分へと拳を当てた。何かを念じながら、瞳を閉じる。すると拳の中が輝き始め、光が漏れ出す。文珠がその威力を発動したらしい。拳を解くと、手をそっと患部に添え、光が収まるのを待った。光が消えてなくなると、そこには元の彼女がいた。
「あ〜〜、しんどかったわぁ!」
 首をこきこき鳴らし、さっきまで大怪我だった肩をぐるぐる廻しながら開口一番、そうのたまう。それを見ていた二人が呆気に取られるのも無理はなかった。
「な、なによ? 二人とも」
「いや……」
「なんでもないですよ。要するに文珠を『治』で発動させて、怪我を治したんですよね……」
「そうだけど? なんか不満でもあるわけ?」
「ないですよ、ただいきなり緊迫感を思いっっきり削ぐような発言せんで下さい」
「この馬鹿っ!」
 と、美神は横島を小突いた。
「シロを見なさい。あれのどこが緊張した空気かしら?」
 確かに眠るシロの顔からは緊張感は漂っていなかった。
「あんた達、なんか勘違いしてない? シロは生きているじゃない、死なずに済んだのよ。それでどうして緊迫する必要があるのよ?」
「いや、なんでって」
「癪に障るわねぇ。横島クン、あんたのおかげでシロが助かったっていうのに、なんで素直に喜ばないのよ!」
 声を荒げて、美神は言う。彼女の言うことも分からなくも無かった。今、こうしてシロが生きている事を自分は望んでいた。本当はそれを喜びたい。素直に喜びたいのだが。横島は喜べなかった。
「喜べませんよ、シロが起きるまで」
 シロは眠っている。殻を破ってからずっと寝たっぱなしである。先ほどから何度促しても、目覚める事はなかった。いつ起きるとも限らない、そんな彼女を目の前にして横島はあまり喜べないでいたのだ。
「もちろん嬉しいですよ、シロが生きている事には。でも」
「でも、なによ?」
「……やっぱりシロは動いてないと。元気よく動いている姿を見ないと、なんか安心できませんよ」 
 いつものようにアパートの扉を無節操に開き、かけ布団を勢いよく引っぺがして、元気のいい笑顔で朝の散歩に誘うシロが目に浮かぶ。日常茶飯事だったものがないと落ち着かないのと一緒で、それがないとなにか寂しいものを感じる。いつの間にか、シロが日常の一部となっているのを今さらながらに気付き、横島は彼女の寝顔を見、苦笑った。
「そうね」
 美神も賛同する。しかし、シロの起きる気配は全くなかった。
「でも、ほんとに何も分からないわけ?」
 彼女は長老の方を見やり、答を伺っている。
「うむぅ、こればっかりは一体どういうことなのやらさっぱりじゃ。見当も付かん」
「そ。じゃあ、なんか分かったら連絡ちょうだい」
 美神は立ち上がると長老に背を向け、隅に置いてある荷物を担ぎ出して縁側から外へ下りた。彼女は何故か、横島の分の荷物も担いでいる。
「行くわよ、横島クン」
「え、一体どこへ?」
「帰るのよ、もう用は済んだでしょ? あんたの荷物は持ったからシロ、お願いね」
「また色々と急じゃのう」
「こっちも暇じゃないのよね。急いで帰って、仕事の用意しないと。シロのおかげでとんだ時間喰っちゃったわ。というわけで、連絡お願いね」
「あぁ、分かった」
 やれやれ、という溜息をついて長老は頷いた。
「それじゃ、また」
「シロが目覚めたら連絡を下され」
「あぁっ、待って下さいよっ、美神さん!」
「早くしなさい、横島クン!」
 見送る長老を背に、車を止めたところまで戻っていく二人。そうして、その日の内に美神達は帰路へ着き、街へと戻った。事態は一件落着に見えた。しかし、シロは相変わらず眠り続けたままである。


       ◆


 漂っていた。深く、深く眠りながら。上や下の区別もなく、左右の感覚もない、ただ真っ白な空間の宙を漂っていた。眠りながらといったが正確ではない。意識ははっきりとしていたし、目覚めてもいた。しかし眠っていたのだ。近い言葉を捜せば、眠りながらに覚醒していたとでも言うべきだろうか。そんな夢心地に身を委ねながら、彼女は答を導き出そうとしていた。
 色々な事があった。母上が亡くなり、立て続けに父上もほどなくして失い、敵討ちのために村を飛び出したのはついこの間のように思い出される。別れがあれば、出会いもある。その言葉の通りに、先生や美神どのとの出会ったのも同じ頃だった。先生たちの協力もあって、敵を討ちを果たし、村へ戻った時。すでに心はここにあらずと言った心地だったのを今でも覚えている。その後もしばらく村にはいたが居ても立ってもいられず、山のふもとの町へと下りたりなどして人間達との交流を深めていった。時折やってくる、密猟目当てのハンターやらなんやらを仕留めて、町の駐在さんの手伝いをしていた。気付けば、人間社会に自然と交わっていた自分がいたのだ。結局、人間が好きということなのだろう。
 しかし、そういう日々を送るにしてもなにか一種の物足りなさを感じていたのも確かで、ことある毎に先生のこと、美神どのやおキヌちゃんのことを思い返していた。そんな折、思いもかけないきっかけで、また会えることになった。一件の食い逃げ事件。現場には一枚の葉っぱ。手掛かりは一杯のきつねうどんと、そして持っていた一枚の人物写真。写真の人物は先生だった。
 思いがけない再会もあれば、新たな出会いも生まれる。食い逃げの犯人は妖孤の仕業だった。名はタマモ。先生たちとはどうやら顔見知りのようだった。なのに、無愛想な態度でそのいけすかない姿勢が気に食わなかった。彼女が先生たちの下で暮らすというのを聞き、こうしてはいられないと半ば強引に自分も一緒に暮すことを必死で頼み込んで、事務所の生活が始まったのはそれからすぐの事だ。
 そこから先は枚挙に暇が無い。毎日が楽しく、充実した日々を過ごした。最初はいがみ合っていたタマモも、今ではれっきとした自分の仲間であり友だ。散歩も先生が毎回付き合ってくれた。これからずっとこの日常を過ごしていくのだなと、身に染みて感じていたし、とても嬉しかった。
 でも、その日常を自分から崩してしまった。下弦の月を見ると同時に湧き上がる衝動。タマモに怪我を負わせ、さらには先生を手に掛けようとした。すんでの所で思いとどまり、逃げ去るように街を離れた。誰も傷つけたくはなかった。大切な仲間を、大好きな友を失いたくなかった。だが、欲望は抑えきれない。仲間を喰らえ。喰らって、自分の腹の中で共に生き続けるのだと叫ぶ本能が自分を苛ます。救いを求め、村に戻るが長老は救いの手を差し伸べてはくれなかった。その時、自分の無知を初めて悔いた。拠り所を全て失い、森を彷徨う。その先に出会ったのがあの化け猫の親子だった。
 美衣とケイという名の親子は、自分を家族として受け入れてくれた。そこでの生活はまるで、母上と父上が生きていた頃を思い出すようだった。美衣どのの優しさに触れ、どこか懐かしい気分を味わった。
 彼女達との生活を続けていく中で、改めて自分の体のことを、一人の女性であるということを思い知らされた出来事に遭遇した。父上に憧れ、武士を目指そうとした自分。死ぬ間際に母上の遺した言葉。ようやく意味を知り、噛み締めた。そして、自分の居場所がどこなのかを大いに悩んだ。
 よくよく考えれば、自分は迷惑ばかりをかけてきた。それを今まで気付かなかったし、気付こうとはしなかった。いや、気付けなかったのだ。先生や美神どの、長老、父上母上、その他、色んな人に少なからず迷惑をかけてきた。済まないと思う。けれど、関係と言うのに終わりはしないし、なんとか上手くやっていくのが大切なのだ。時に笑いあい、時にいがみあい、時に悲しみ、時に怒り、そうしていく事で関係が保たれる。その上で、自分の居場所がどこなのかを確認する。
 それを見つけた時、自分は常軌を逸脱していたのかもしれない。タガが外れ、欲望の赴くままだったかもしれない。だが、思いは変わらない。
 自分の居場所は先生やみんなのいる、事務所なのだ。それ以外のどこの場所でもないのだ。
 そして。
「せんせぇ……」
 気付いたのだ、自分の気持ちに。
「だいすきでござる」
 胸に溢れきって止め処なく流れ落ちる気持ちに気付くと、刀を放していた。そして、弓から放たれた矢を受け入れた。愛する人に殺されるなら本望だった。
 こうして今、この真っ白い空間に漂っている。ここはどこなのだろうか。それにさっきから昔の事ばかり思い返すのはなぜだろうか。自分は矢で射抜かれた。だから、ここは死後の世界なのだろうか。過去を思い出すのは聞きしに及ぶ、走馬灯だったであろうか。
 なんでもいい。こうして寝ているのも、まだるっこしくなってきた。目覚めよう。あの日常に帰るのだ。そう意識した途端、空間が遠のき、周りがブラックアウトしたかと思うと目の前が眩しくなっていく。そして、どこからともなく女性の声が聞こえた。
「ありがとう」
 目が覚める。その重いまぶたを開くと見慣れた天井が視界に入ってきた。目をこすりこすり、起き上がると窓から光が差してきている。外は朝のようだ。
 はっと胸に手を置く。心臓が鼓動している。生きている。死んでなんかいない。ちゃんと自分は生きている。帰ってきたのだ、事務所に。
 朝日が上る窓を見つめながら、なにか生まれ変わったような気分だった。もう湧き上がるような衝動も感じない。髪も元に戻っている。元通りの自分の身体なのにとても新鮮だった。いつもの変わりない日常なはずなのに。
 そういえば、先生はどうしているだろうか。いつもならとっくに朝の散歩の時間だ。気になる。行ってみよう。そうと決まると窓を開いて、そこから一気に外へ飛び出す。軽やかに地面へと着地を決めると、一目散に先生のアパートに向かった。
 速く、もっと速く。駆ける脚を急がせ、目的地へ。息つくまもなく、思いはただ一つ。大好きな先生の下へ、今すぐたどり着きたい。伝えたい。この思いを、今すぐに!
 そして見えてくるアパート。階段を駆け上がり、扉の前へ。胸が高鳴る中、シロは大きな深呼吸をすると、思い切りドアを叩いた。


       ◆


 ドアの方から大きな音がする。早朝、まだ日が昇り始めて間もない時間。重たいまぶたをなんとか開き、大きなあくびを一つ。腹を掻きながら、むにゃむにゃと口の中をおもむろに動かして横島はようやく起き上がった。音はどうやらノックのようだ。それはまだ続いている。
「ったく、誰だよ? こんな朝っぱらに」
 彼はドアへ向かい、鍵を開け、ドアノブを捻った。ゆっくりと開かれる扉の先から日光が差し込んでくる。そして目の前に現れたのは。
「先生」
「シロっ!?」
 目を丸くして、とても驚く。眠気は一気にかっとび、目をこすり何度も確認した。
「本当にか? ほんとにシロなのか?」
「そ、そうでござるよ」
「シロっ」
 横島は寝巻き姿なのも忘れ、彼女に抱きついた。突然抱きつかれたのに驚いたのか、シロは慌てふためている。
「い、いきなりなんでござるか、先生! 恥ずかしいでござる……」
「ばっかやろぉ、心配したんだからな!」
「く、苦しい……」
「あ、わりぃわりぃ。つい」
 ようやく気付いたのか、シロを抱いていた腕を放す。それほどに嬉しかったのだ。横島はシロを見て、彼女が起きてきた喜びに浸りながらやっとあの晩以来、安堵できたのだった。
「ここじゃなんだし、ま、入れよ」
 彼はシロを家に招きいれ、ドアを閉めた。相変わらず汚い部屋であるが、なんとか座るスペースを開けて、そこにシロを座らせた。そして、彼女に今までの状況を全て話したのだった。
「一週間も寝てたんでござるか!」
「あぁ」
 シロを背に、横島はコンロを引き出しで水を沸かし出した。
「みんなお前の事、心配してたんだからな? いつ起きるか気がきじゃなかったし」
「そうだったのでござるか」
 シロはとてもすまなそうな表情を見せた。なにか申し訳なさそうに言葉を途切らせて、黙り込んでしまった。沸きだつ湯気がコンロから上がる。コンロの火を止めると、横島はシロの肩にドンと手を叩いた。
「なにしょぼくれてるんだ、気にすんなって! 仲間だろ?」
「先生、でも拙者」
「だから気にすんなって! 元に戻れたんだからいいじゃねぇか、それ以上におれ達が何を求めるってんだ? お前が生きて帰って来れた事で十分だよ」
「でも、タマモを」
「タマモを怪我させたのがなんだって言うんだ? あいつももうすぐ完治するし、第一な、なんでそんなにお前、おどおどしてるんだ? 誰も怒ってなんかねぇし、元気が無いなんてお前らしくもないぞ? 元気出せよ」
「……はいっ!」
 明るさがシロに戻ってきた。彼女がいつも通りの笑顔を見せ、横島は元の日常が返ってきたのだと、感慨深げに朝日の眩しさと共に感じる。こんなに気持ちのいい朝があっただろうか。
「さてと、コーヒーでも飲むか。シロも飲むか?」
「いや、拙者、苦いのはちょっと」
「湯が残っちまうんだよ、たまにゃいいじゃねぇか」
「う〜ん。でも、先生の入れてくださるものならば……お願いするでござる」
「じゃ、決まりだな」
 そう言って、インスタントコーヒーの瓶をどこから取り出し、ふたを開けて小さじでコップ二つにコーヒーの粉を入れた。湯を注ぎ、何度かかき回して、横島はシロに差し出した。
「ほら」
「かたじけない、では早速」
 コップを少し傾けて、入れたての熱いコーヒーを少し飲み込んだ。苦い味を想像したのか、シロはまぶたを閉じていたがすぐに目を開き、神妙な顔つきでコップの中身を見ていた。
「どうだ?」
「思っていたよりも、苦くないでござる」
「そんなもんだよ」
 そう言って、横島もコーヒーを飲む。彼女と真正面に向き合ってしばらくの間、歓談をした。すると彼はとあることに気付いた。
 内股に座るシロ。コップを両手で持ち、熱いコーヒーに息を吹きかける彼女。そして髪をかき上げて、コーヒーを飲もうとする仕草。その仕草の一つ一つになにか女らしさを感じる。なんだろうか。彼女も意識はしてないのだろうが、シロ特有の侍然とした気品とあいまって艶っぽくさえ感じる。気のせいだろうか。
「そう言えば」
「なんでござるか?」
 シロが覗き込むように、自分の方を見つめる。そんな視線で見つめられるとこっちの顔が赤くなりそうだ。
「なんで起きていきなり、わざわざおれの所までやって来たんだ?」
「そ、それは」
 途端に彼女は口ごもってしまった。なにやら口をもごつかせて、ぶつぶつと声にならない声を漏らしている。
「どうしたんだ? 顔、赤いぞ」
「そ、そんな事は決してっ!」
「いや、現に真っ赤だぞ?」
 そんな事を口走ると彼女は貝が閉じるように全く喋れなくなってしまった。なんなのだろうかまったく。横島は深く溜息をつく。
「お前なぁ、そんな黙りこくってちゃ話に」
「散歩でござる!!」
 突然、シロは大声を上げた。
「先生、いつものようにまた拙者と散歩して欲しいでござる!」
「いや、でもな」
「お願いにござる!!」
 目が血走っていた。それも顔を真っ赤にして、鬼気迫るような迫力で。彼を気圧すかのごとく、シロは土下座して頼み込む。
「お、おう」
 結局、横島はシロの気合に負け、散歩を承諾してしまった。上手い具合にはぐらかされた気もしないではないが、一所懸命とはこういう事を言うのだろうかと、彼は妙に納得してしまうのだった。
「それでは早速、出発するでござる!」
「いや、ちょっと待て。着替えやなんやらせんと」
「何を言ってるのでござるか、善は急げでござるよ♪」
「だからちょっと待ってって、うあぁ!?」
 何とかシャツとジーパンとジーンズジャケットを引っ張り出したはいいが、遅かった。気付いた時には自転車に乗せられて、ロケットスタートを決められてしまった。瞬時に最高速へと駆け上がり、街を抜けていく。そしてこの後、横島は三時間ほどの散歩につき合わされたのは言うまでもなかった。


       ◆


 さて、ここは美神令子除霊事務所。所長の美神令子は二階ロビーのテーブルに拳を叩きつけた。
「遅い! どっこほっつき歩いてるのよ、あいつら〜!」
「まぁまぁ、美神さん。落ち着いて」
「そうよ、令子。落ち着きが足りないわ」
「左様、果報は寝て待てじゃ」
 もうそろそろ昼近い。テーブルの周りに座る四人は刻々と流れる時間の中、とある待ち人をしている。言うまでもなく、シロと横島だ。朝、シロの様子を見に行ったキヌがもぬけのベッドを確認した。シロが起きたのだ。キヌはそれを令子に伝え、令子が母でありオカルトGメンの非常勤顧問である美智恵に伝えた。そして、美智恵がヘリを手配して長老を村から呼び寄せて、一堂に会したのだった。
 しかし無情にも時は流れ、すでに三時間が過ぎ去ろうとしている。令子が怒り出すのも無理はなかった。
「それにしても遅いですね」
 時計の方を見やり、キヌは替えの茶を全員に差し出した。彼女は随分と心配しているようである。
「また、殺しに出かけたなんて事はないわよね?」
「冗談はよしてよ、ママ」
「言い切れないわよ? 現に横島クンも来てないわけだし」
「まさか、そんなこと。ないですよね」
 戸惑いを隠せないキヌ。全体に重たい空気がのしかかる。横島が死んでいるかもしれない、という絶望的な観測が漂いながらも待つ四人。
 そんな時である。自転車の止まる音がしたかと思うと、ドアの開く音が聞こえた。騒がしい話し声と共に階段をどたどたと急ぎ足に上った音を耳にすると、ロビーの四人は入り口のドアに注目する。
「ったく、いい加減しろよな! 今度やったら、二度と散歩しないからな?」
「せんせぇ〜、そんな事言わずに」
 入ってきた二人は驚くほどにいつも通りの二人だった。
「あ、長老。なんでここに?」
「おぉ、シロ! よくぞ……」
 椅子から降りると長老はシロを見て、言い尽くせない感動を感じた。下弦の月の呪いを受けて、行き続けたものは過去にいなかった。彼の兄もまた、その例に埋もれず非業の死を遂げた。だがどうだろうか。ここに呪いを受けて生き延びた者がいる。
「……奇跡と言うものなのじゃろうな、これは」
「なにを藪から棒に。拙者はちゃんと生きているでござろう?」
「そうじゃな、そうじゃったな」
 長老は頷く。まるでわが子を喜ぶ、親の穏やかな表情であった。
「シロちゃん」
「ようやく帰ってきたわね」
「おキヌちゃん、美神どの」
 残りの三人も席を立ち上がり、彼女等の帰りを迎えた。
「ただいまでござる」
「お帰りなさい!」
 キヌはシロの姿を見て、すぐに涙した。今回参加できず、こちらでやきもきさせられた分、心配の量も並々ならなかったものだろう。堰を切ったように大粒の涙がこぼれた。
「良かった、本当に良かった」
「そんなに泣かれると困るでござるよ」
「まぁ、何はともあれ帰ってきたんだからびしばし働いてもらうわよ!」
「美神さん、怪我は?」
「あぁ、横島クンの文珠ですぐに治したわ」
「そうでござったか、申し訳ござらん」
 すまなそうにシロが謝る中、令子がとりあえず当分は減棒ね、と呟いたのは言うまでもなく。この人らしいというか、単に意地汚いだけなのか。
「ん、なにか言ったでござるか?」
「別に? それはそうと、横島ぁ!」
 怒号を聞くと、彼の身体は跳ね上がった。そしておそるおそる顔を彼女へ向けた。呼び捨てにされたと言う事は相当に怒っているはずである。
「はい……、なんでせう?」
 早速、胸倉をつかまれて、横島は蛇に睨まれた蛙と化した。
「なんで連絡入れなかったの? シロが起きたっていうのに。あんた、それがどんなに重大な事か分かってるわよね? まさか電話代をケチったからとでも言い訳したいの?」
「そんな美神さんじゃあるまいし」
「なんですって?」
 胸倉を掴む手に力が入る。彼女の表情も険しくなってきた。これではまずいと横島は必死の弁論へと出た。
「いや、気が動転してて! 気付いたらシロにいきなり散歩に連れ去られて、する暇がなかったんですよぉ〜!?」
「そのわりにはコーヒーご馳走してもらったりしたのでござるが……?」
「あぁ、バカっ!」
「どうやら覚悟は出来ているようね?」
 美神の拳がパキポキ唸っている。
「制裁ぃぃっ!!」
「んぎゃあっっ!?」
 バーサーカーと変身を遂げた美神が、横島に容赦ない公開処刑を繰り広げる。溜息をつく母、おろおろと止めに入ろうとするおキヌ。と、ここまではいつもの風景だった。コレがここの日常であり、それは何時も変わらないものだろう。
 だが、時として変化も発生する。それは一過性のものなのか、習慣として保たれるのかは分からない。だがこの時、確実に変化は起きた。
 その光景を目の当たりにしていたシロは、殴り蹴られる横島を見ていて、違和感を禁じえなかった。シロは拳をぎゅっと握り締める。横島を見つめ、その視点を令子に向ける。守らなくては。次の瞬間、彼女はいてもたってもいられなくなって、令子から既に気絶している横島を取り上げた。これにはその場にいた全員が驚いた。特に長老は目を見開いて驚いた。
「なにするのよ!?」
「先生を、横島先生を、いじめないでくだされ」
「へ?」
 横島を抱きかかえ、令子を睨みつけている。むっとした顔つきをして、奪われてなるものかというふうな姿勢で気絶している彼をかばっていた。
 あんまりの出来事に、それを見ていた四人は状況がつかむ事が出来ないでいた。特に令子に至っては、振りかざそうとしていた拳を下ろすに下ろせず、持て余していた。そして動揺する心をなんとか撫で下ろし、深呼吸をして間を置いた。
「……い、今、なにか物凄い事をさらっと言ったみたいだけど、もう一度聞かせてくれる?」
 顔が引きつる令子。とっさに言ってしまったことなのでシロには一瞬、意味が理解できなかった。振り返って考えてみた。そしてようやく今、自分のしでかしたことの重要性に気付くと、いきなり耳まで顔を真っ赤にして、しどろもどろになって弁明した。
「え、あ、と……。だ、だって仲間でござろう? だから、拙者はただ、先生をあんまりいじめないで欲しいと、ただそれだけでっ」
「は、はぁ?」
「いや、だからあの」
「そうじゃ、それでこそ人狼の子、侍の魂じゃ!」
 長老は高笑いながらのたまった。美智恵もなるほどとこっそり微笑んでいる。
「さ、今日はタマモが退院する日だから迎えにいなくちゃね」
 絶妙のタイミングで美智恵は話題を上手くすり替えた。
「あ、そうだったわね」
「なら、拙者がゆくでござる! 先生、先生も一緒に!」
「んあ?」
 横島はシロに揺さぶられ、目を覚ました。どうやら何も気付いてはいないようだ。
「さぁ、タマモを迎えに行くでござる!」
「またかよ、おれ」
 また慌しく、部屋を出て行った横島とシロ。彼女たちが出て行った部屋はまるで嵐が過ぎ去ったように静まり返った。すると長老がなにか気付いたのか、はっとしていきなり独りでに語り始めた。
「そうか、そういうことだったのか」
「なにが?」
「アルテミスは月の女神。そして我らが人狼族の守り神。どうして思い出さなかったのだろうか。嫉妬深く、男性不信。挙句の果てには最愛の男性に裏切られたと思い殺してしまい、自分を深く責め、月へと一部の感情を封印した。それが憎悪であり、今でも残る下弦の呪いだったのじゃ」
「それは前に聞いたけど」
「しっ、静かに」
「だが、封印されたのは憎悪だけではなかったのじゃろう。考えてみれば、呪いを受けた者はわしの兄を含め、残る文献の記述は全て男であった。シロは女だ。我が守り神、アルテミスもまた女神。つまりこういうことなのじゃろう。人を愛する感情も、人を憎む感情も、要は一緒の存在なのだ。銭の表裏のように相反する感情だったのじゃ。狩りや争い事を行う男の人狼は呪いを受けると憎悪ばかりが肥大して、呪いに負けてしまった。じゃが、シロは人を慈しむ心の方が強かった。そう、シロは武士であり女だったというわけじゃ。武士である父に憧れたはいいが、やはり本質は変わりはしなかった。女であるからこそ、シロはアルテミスの封印した呪いを全て受け取り、克服する事が出来たのじゃ」
「つ、つまりどういうことですか?」
「ふむ、簡単に考えれば、呪いは消えた事になる。そしてシロにはアルテミスの残した感情が目覚めたはずじゃ。まぁ、シロの方は元々持っていたものに気付いたわけなのじゃがな」
「なるほどね」
 美智恵はにやにやしながらなるほどと頷いている。
「しかし、皮肉なものじゃ。武士として仲間を重んじるべき男どもが憎悪ばかりに乗っ取られおって。情けないにも程があるのぅ……」
 長老の言った言葉に他意はない。しかし先人達、自分の兄を顧みるに、やはり人を慈しむ心がなかったといえるのだろうか。その時、兄の最後の言葉がふと思い出された。
「ハヤテ……!」
 兄は父を、また母を愛していた。そしてこの自分を。辛かった事だろう。憎悪に苛まれ、湧き上がる欲望を抑えきれずに尊敬すべき両親を自らの手で握りつぶしてしまった無念を。血だらけになって、自分の弟の首をゆっくり絞める気持ちはどんなだったのだろうか。考えるにも絶する。だから、今まで生きて来れた事を感謝しなくてはならない。父に、母に、そして兄に。
「まだ生きながらえてますぞ、兄上」
 そう呟くと、一筋の涙がしわくちゃの頬に流れていた。
 三人はそれをただ無言で見続けていた。と、そんな中、美智恵が令子の耳を引っ張り、そっと耳打ちする。
「令子」
「なによ、ママ」
「つば付けておかないと、シロに奪られちゃうわよ?」
「なっ!?」
「さぁて、私たちもあの子達の後を追いかけましょうか?」
 二児の母はしれっとまた、矛先を変える。
「そうですね、行きましょう」
 おキヌがそれに賛同する。また活気が戻ってきた。
「さぁ、長老も」
 彼は涙を拭うと、にこやかに頷き二人についていく。そして、令子はというと。
「やってらんないわね、実際」
 と、肩を竦めた。四人は車庫に向かい、自動車に乗り込むと、タマモの待つ都庁へと向かったのだった。


       ◆


 二人は仲良く自転車にまたがり、タマモの待つ都庁へと向かっていた。事務所を出た後、シロが「先生も色々と疲れているようでござろうから、今度は二人乗りで」ということで、こんな事になっていた。のではあるが。
「結局、扱ぐのはおれじゃねぇか」
 と、横島は愚痴りながら自転車のペダルを踏んでいる。シロは横島の肩に両手を乗せて、車輪の止め具の上に足を掛けて、立ち乗りをしていた。
 自転車は風を切って、街中を通り過ぎていく。風は冷たい。まるで雪女の吐息が突き刺さるような寒さだった。それもこれも冬が近づいているのだ。しかし空は晴れ、気候は穏やかそのもの。枯葉が通りのあちこちに落ちている以外は、春のような日差しだった。
 シロは過ぎ去る景色を眺めている。変わりのない街角を新鮮な目つきで見ていた。さも嬉しそうに微笑んで、風に乗る髪をかき上げる。弱々しい太陽の光がまぶしい。だが、それでも二人の眼には世界がより輝いて見えていた。そうこうするうちに下り坂が見えて来る。
 坂道を自転車は勢いよく流れていく。横島はペダルをこぐ足を止めて、スピードに身を任せた。今は下り坂で大分楽であるがこの後、目の前には強烈な上り坂がそびえている。シロを後ろに乗せたまま、あれを駆け上るのかと思うとぞっとする。
「ねぇ、先生?」
「なんだよ?」
 横島は呼ばれて振り返ると、一瞬目が合った。するとシロは恥ずかしそうに目を逸らせて、身体をしゃがみこませると、上半身を彼の背中に添い寄せてきた。頭を寄りかかせて、じっとうずくまっている。彼女の温い体温を感じる。動く手の感触が背中を伝い、熱が移動していく感覚にも陥った。そして、何よりも感じる彼女の呼吸。シロが生きているという、確かな証。なんか変な気分だった。もわもわするようなもどかしい気持ち。なんだか初めて感じる気持ちのような気がした。
 シロはなにか言いかけようとしたまま、背中で黙り込んでいる。横島は次の言葉が出てくるのを待ちながら、ハンドルを操作していた。
「……やっぱりなんでもないでござる」
「変な奴」
 結局、シロはなにも言わなかった。彼は不思議そうに肩を竦める。そういえばあの雨の日の言葉がなんだったのか、聞かずじまいだ。聞こうと思えば今聞けるが。はたしてどうしたものだろうか、とシロの顔を見て悩む。しかし、今の幸せそうな顔を見るとどうでも良くなってきた。あれこれ色々考えるのも性に合わんし。
「ま、いっか」
 聞こうと思えばいつでも聞けるし、向こうが自分から言ってくるのを待つのも手だ。言われなければ、自分から聞けばいい。なによりも彼女は生きているのだから。それだけで十分だ。
「なにが、でござるか?」
「なんでもねぇよ」
「ハハハ、先生も変でござるっ」
「るせぇよ」
 彼は進行方向に首を戻すと、上り坂はもうまもなくといった所だった。青く澄み切った空に木枯らしが吹き荒れ、落ち葉を舞い上がらせている。風が吹くと今の季節が春ではないことを実感させてくれる。けど、季節は巡る。冬を通り越せばまた春だ。
 そして人は歳を重ね、成熟していく。変わらぬ季節の循環の中で、人々は変わっていく。常に変化を、また新しい自分を発見していく。生きる。なんて躍動感に満ちた言葉だろうか。そう思うと、胸がわくわくしてくる。
「なぁ、シロ」
「ん?」
「生きてるって、いいな」
「そうでござるな」
 にっこりとシロは笑う。いつもの元気な笑顔。でも、どこか違うような気もする。だがすぐに慣れるだろう。人ってそういうものだ。
「じゃ、タマモに会いにもうひとふんばりするか!」
 横島はペダルを目一杯、踏みしめた。自転車は坂の頂上を目指して駆け上がっていく。力の限り、シロを乗せたまま、彼は自転車で疾走してゆく。まだ先は長い。またとない、未来への坂道を人々は駆けていくのだ。それが人生だ。
 雲ひとつない青空にうっすらと月が浮かぶ。孤を描き、銀色の顔をこの地球にむけている。今夜は綺麗な満月の見える、澄んだ星空となりそうだ。
 


 完


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