椎名作品二次創作小説投稿広場


下弦の月

慟哭


投稿者名:ライス
投稿日時:05/ 5/21

 ラジオがノイズ混じりに喋り出す。
『ザッ、……こくの天気予報をお伝えします』
 発信源は携帯用の小型ラジオ。かろうじて耳に入るくらいのほんの小さな音量で、部屋の中に伝った。
『今日は全国的に曇りで所により雨になるでしょう。特に山間部は大雨になる確率がありますので、十分注意ください。全国の降水確率を……』
 必要な情報は聞けたので、彼女はそこでぷつんとラジオの電源を切った。これで準備は整った。あとは待つばかりである。
 彼女は周りを見渡した。部屋の中は鈍く光が差している。ふとふすまを開いてみると、外は既に朝だった。空が灰色に塗れている。どんよりと厚く雲が重なり、鳥のさえずりはただやかましく、辺りの森に響いていた。
 スイッチの切られたラジオのアンテナをたたみ、それを持ってきた鞄の中にまた放り込んだ。今日の朝はとても冷え込んでいる。まるで真冬のようだ。
 顔を洗いに、井戸へ向かうことにする。外へ出るとまず、縄で繋がった桶を井戸の中へ落とし、水を汲み上げる。引き上げた桶は重く、地面へ引きずり落とすのに苦労した。彼女は桶の中の井戸水を手で掬い上げて、顔に思いきり叩きつける。汲み上げた水は少し温かくて、かじかむ手を助けてくれた。洗い終えると濡れた顔をタオルで拭き、冷たい外気に晒す。すると顔が急激に寒くなり、吐く息もほんの少し白む。なるほど気温は大分低いらしい。道理で寒いはずだ。上空は雲に包まれている。天気予報どおりならば、やがて雨になるだろう。
「雨……、か」
 井戸から戻った美神は空を見上げている。鬱陶しい雲が天に陣取っている。臆病で泣き虫の雲どもが烏合の衆。今にも割れんばかりの泣き声が聞こえてきそうだ。それを太陽がいまかいまかと、手ぐすね引いて待ちぶせている。雨は泣く事しか出来ない、ただそれだけの存在だ。涙がこぼれ落ちれば、役目は終わる。楽な役回りだがしかし、その涙粒を人は天からの恵みと呼ぶ。地を潤し、木を育み、川を作り、そして海へ。また涙は罰でもあった。大粒の涙は時に脅威となり、人々を脅かし恐れおののかせた。それは天罰である。だが、人は天に感謝する。生きる事の苦楽を実感したからこそ、感謝したのだ。でも、彼女は違う。
「雨は嫌いなのよね」
 彼女はぽつりと独り言を出す。近くには誰もいない。誰も、そう、彼もだった。先日の一件以来、口も聞いていない。そして昨日も夕飯を食べた後、なにも言わずに部屋を出て行ってしまい、その後からまったく姿を見ていない。二人の目的は食い違ってしまったのだ。こうなってしまってはもはや、顔を合わせたくないのも無理もないだろう。もう後戻りは出来ない。今日、事の全てが終わるからだ。
「……なんてそういうわけにも行かないか」
 終わる。それは死を意味した。誰の? もちろんシロの。美神は苦笑いをして、すぐ表情を元に戻す。自身の腹の内はもう決まっている。しかして、それは最良の選択なのだろうか。
「あいつ」
 横島の発言がやたらと頭の中にちらつく。彼女の決意はゆるぎないはずだが、どうしても胸の引っかかりがとれない。何故だろう。彼女は歯を食いしばる。すると顔が苦々しく歪んだ。分かっている。分かっているが、でも。
(私にどうしろって言うのよ?)
 拳を握り締めた。何の為に自分はここにいるのか。そんな分かりきった事すら、分からないほど馬鹿じゃない。そして、一度決断した事を揺るがすわけにも行かない。これは最善の処置なのだ。残された手段はこれしかないはずなのである。そう、これしかないのだ。
「冷たっ」
 額にポツリと当たったものがあった。触ってみるとそれは水だった。おそらく雨粒だ。
 雨は嫌いだ。濡れるし、良いことも一つもない。都会人の彼女にとって雨ほど鬱陶しいものはなかった。濡れたくなければ、傘を差せばいい。しかし、今回はそういうわけにも行かない。たとえ雨に打たれながらでも、自らの手で下さなければならないものがある。時は訪れてしまったのだ。
「嫌な天気にならなけりゃいいんだけど」
 美神はそう言い残して、部屋のふすまを閉じた。


       ◆


 楽しくて、楽しくて、楽しくて仕方がない。
 ずかずかと、森の中を突き抜けていく者が一人。かなりの速さで、木の葉を蹴散らし駆けていく。体が軽い。羽根のように重さを感じられないくらいに、それは軽やかな気分だった。心、胸躍る。まさに字の如く、彼女の足並みは弾んでいた。駆ける足はさらに速度を増す。鋭い嗅覚が目的地を導き出している。向かう先はただ一つ。考えるだけで気分がうきうきしてくる。
 もうすぐだ。もうすぐ獲物の元へたどり着く。彼女は笑みをこぼしながら、また速度を上げた。この分だと日暮れにはたどり着くだろう。すると空からは雨が小粒ながら、ぱらぱらとちらつき始める。太陽は雲に隠れて見えない。そして月もまた同じく。もう誰にも止められはしない。まもなく、狩りは始まろうとしていた。


       ◆


 堰を切ったように、雨は降り始めた。今はまだ小振りだが、予断は許せない。それを考えると不安である。状況は不利だと言えよう。
 美神達は屋敷からまだ一歩も出ていなかった。すでに昼を過ぎ、日暮れも近付こうとしている。相手が来る気配は一向になかった。が、緊張は途絶えるはずもなく、緊迫した空気は今もなお張り詰めていた。しばらくすると屋敷の中は蝋燭が灯り、ある程度の明るさが保たれていた。外では雨がさらさらと徐々に強さを増す。
「来ない、わね」
「ですな」
 美神はまた空を見上げている。長老は脇で腕を組みながら静観していた。
「本当に横島クンがどこ行ったかは知らないのね?」
「さぁ、お主らはいつも一緒だと思っておったから、気付かなかったわい」
 横島の姿はなかった。しかし、今の状況から逃げ帰るほど腰抜けでもないだろう。きっとどこかにいるはずである。
「あの強情っぱり」
 彼女は舌打ちして、いらだつ。肝心な時にいない。今に始まった事ではないが、今日は別段、いらだっていた。横島の事もあってか、なおさら腹に据えかねるものがあった。もうなにもかもこの雨のせいにしたいくらいに。
「探してくるわ」
 美神は居ても立ってもいられなくなり、縁側を下りて傘を差した。
「美神どの」
「なに?」
「これを忘れずに」
 長老は弓矢を差し出す。シロの息の根を止める唯一の武器。
「奴は、シロはいつどこからやってくるかも分からない」
「分かってるわよ」
「だからじゃ。わしらは村の警護があるから、これ以上の力添えは出来ないがなんとしてでもシロを……」
「えぇ。分かったわ」
「頼みましたぞ、美神どのっ」
 長老は深々と首を下げ、美神を見送る。そして彼女は森の中へと沈んでいった。
 森はただ暗い。物音はなく、聞こえるのは雨音。雨は大降りではないが、振り続けていた。彼女は雨傘を差し、姿の見えない横島の名を叫ぶ。ざわざわと葉を揺らす雨の音がしつこい。耳障りだった。また彼を大声で呼ぶ。が、一向に返事は無かった。彼はどこに行ったのだろうか。
「横島クン」
 今までに何度呼んだことだろうか。彼がバイトにやって来た時から考えると、随分と慣れた関係になっていると思っていた。たとえ雇い主とバイトであっても、そこには信頼というものがあったはず。今まで携わってきた事件や騒動はたまた日常生活、ちょっとした出来事までひっくるめて色々な事を共に経験してきた。だから、それなりに彼の考えることは分かっていたはず、だった。だが、あの晩の一件でそれは覆されてしまった。彼があのような事を言うとは思いも寄らなかったのだ。よくよく考えてみれば、分からなくもないが自分とは正反対の主張。怒らずにはいられなかった。仲間だと思っていたからこそ、彼の考えは受け入れたくなかったのだ。
 他人と自分は違う、ということは良く知れたことで分かりきっていることだ。考えが違うのは当然な事なのである。しかし、だからといって仲間を見捨てていいはずはない。少なくとも横島は仲間だ。
(じゃあ、シロは?)
 その疑問はふとよぎった。シロも仲間じゃないのかという疑問。いいや、仲間だ。仲間だからこそ、害をなす危険性が出たシロをこの手で倒す。苦渋の決断ではあるが、今後の事を考えるとやむを得ない。やらなければいけないのだ。
「横島クーーンっ!」
 何度声を張り上げても、いくら森を探しても彼女が横島を見つけることはなかった。雨は変わらず降っている。森の様子もさっきと全く変わっていない。どのくらい時間が過ぎたのか。美神が横島を探している間も、こうして時間だけは静かに流れている。止まる事はないのだ。時も人間も自然も、息吹いている。それは変わることもなく今も。
「何?」
 美神はなにかに勘付く。雨は降り止まず、森も静かだ。違う。明らかになにかが違うのだ。視線を感じる。どこからかは分からない。しかし見られている。まとわりつくように彼女を見つめている。すると彼女は傘を閉じ、草むらに息を潜めた。
(誰か、いる)
 一体、誰なのか。彼だろうか。いや、違う。日はすっかり沈んだようで、森はますます暗くなり、目の前の視界を遮る。彼女は弓をしっかと握り締め、矢筒から一本取り出すと身構えた。そして、目を皿にして辺りを慎重に見回した。雨の勢いは先ほどと変わりはない。衣服が濡れるが致し方ない。もしかしたら、相手がすぐそこまで来ているのかもしれないのだから。
 空気はしわを伸ばすように徐々に緊張感を伴いながら、張り詰めていく。美神の頬にはたくさんの雨粒が流れていく。雨は若干弱まってきているようだ。しとしと降っていた雨が細切れて、断続的になる。その一瞬の間隙に「それ」は来た。
「殺気っ!」
 今、はっきりと感じ取った。自分に向かって放たれたおぞましいほどの殺気。どこだ。どこからやって来る? ぴりぴりと肌で感じ取る悪寒で鳥肌が立ってきていた。その間もどんどん近付いてくる。どこだ。どこなの? 森はざわついているが何も答えない。むしろそのざわめきは、さっきまでの静けさから考えると不気味なほどだ。
「ここでござるよ……」
 声が聞こえてすぐ、美神の頭上から目の前に見慣れた顔が現れた。
「なっ!?」
 彼女はたしろぐ暇なく弓矢を放り、太ももに隠していた神通根をつかむと横一文字に振り払った。だが相手は上半身を楽に仰け反らせて、それを避けた。美神は闇雲に振りかざし続ける。瞬間、目の前でぶわっと風が揺れ動いた。腕をなぎ払った音。同時に彼女の身が宙に舞い上がった。
「うぅ」
 地面に叩きつけられて、美神は呻いた。背中を打ち、一瞬呼吸が出来なくなる。すぐにまた元に戻るが目の前に相手の姿は見えなかった。
(くそっ。やってくれるじゃない)
 姿が見えないだけで存在はしている。ずっと自分を見ている。森の中に潜み、じっとその機会を狙っている。そして、じわりじわりといたぶっていくのだろう。
(まったく、ぞっとしないわね)
 すぐに立ち上がると、周囲に注意を張り巡らす。また森はざわつく。まだ気配はある。そしてまだ見られている。弓を拾い上げて、彼女はまた身構えた。
(どこ? どこからやって来る?)
 雨は若干、弱まりつつあった。美神は視野を出来るだけ広げ、その眼球で森の闇を探った。同時に荒れる彼女の息遣い。視られているというプレッシャーが余裕を失わせる。ただ切迫感のみが高まり、彼女を押し潰していく。そして、暑いわけでもないのに手に汗が滲む。
「美神どの」
 後で声が聞こえるとすぐさま弓を構え、その方向に翻った。先にはある人影。片手には日本刀らしきものを持っていた。自分に向けられている殺気から考えるに、彼女に間違いないだろう。警戒してるのか、遠巻きに手を振っている。人影はその手を握り拳に変え、親指を突き出して胸に軽く二度三度、押し当てた。
「なに? 挑発のつもり? 生意気ねっ!」
 すると今度は射ってこいといわんばかりに手招いた。
「……上等よ。あんたは私が極楽に行かせてあげるわっ!」
 キリキリと弦は音を立てて引かれ、そして矢を放つ準備が整う。
『時と場合で人が殺せるんですかっ!!』
 横島の言葉がちらつく。だが。
(そうよ、時と場合で殺すの。じゃなきゃ、殺すわけないわよ)
 矢は放たれた。彼女の心臓をめがけ、瞬く間に駆け抜けると彼女の身体を貫く……はずであった。しかし人影は胸を貫く直前、矢を手で掴み、それを素早く投げ返した。矢は再び流星の如く森を駆け抜けて、美神の左肩を貫いたのだった。
「あああああああああああっ!?」
 その激痛に伴う悲鳴が闇夜の森に鳴り響く間も無く、人影が動いた。彼女は第二撃を構えようとしたが、負傷した方のせいで思うようにならない。時すでに遅し。目の前が黒い衣に覆われたかのように思うと、美神は弓を引く間も与えられず、首根っこを捕まれて幹に押さえつけられてしまった。


       ◆


「なんだ?」
 背後で小さな悲鳴が聞こえた。すぐさま振り向いたが何も見えるはずはない。
「気のせいか」
 横島は森の奥をまた見つめた。もう一度聞こえるかもしれないと、耳を澄ませてみたが二度目は無いようだった。彼は新月の晩から、美神とは別に行動をとっていた。シロを助ける。それが彼にとってここに来た理由であり、ここにいる理由でもある。だがそれは美神と意見が真っ向から食い違っていた。だからあの晩での出来事が起こるのは時間の問題だった。必然的に起こったこと、そう言えなくもない。が、譲れなかったのだ。
 なぜシロが殺されなければならないのか。別れ際のあの笑顔はなんだったのか。どうしようもならないのか。彼女が殺されるのは今後予想される被害を、未然に防ぐためだ。いわば法的処置だ。そこに人権などと言うものはない。ただ、処理されるべきものとして葬られるだけ。そうじゃない。シロは仲間だ。そこらにいる悪霊や妖怪ではない。一人の、かけがえのない大切な仲間なのだ。それをどうして殺せるだろうか。いや、殺せまい。
 あの雨の日の強がった笑顔。あれを見てしまったら、殺すことは出来ない。シロは助けを求めてる。間違いない。だから助ける。横島は思いを新たにして早朝、美神が起きるずっと前からシロがやって来ることを待ちながら、森の中へと探しに出たのだった。
 そして今、誰かの悲鳴が聞こえたような気がした。雨は徐々にではあるが弱まっている。
「まさか、な」
 嫌な想像が頭の中を駆け巡った。否定はした。だが、あながちそうではないとも言い切れなかった。想像が現実味を帯びていく中で、不安が募っていく。それは横島を向かわせるには十分すぎるほどの動機だった。
(シロっ! 美神さん……!)
 彼は走った。ただ悲鳴の聞こえた方向へと。


       ◆


「シ、ロ……ッ!」
 呻き声が漏れる。小雨の中、拷問が続いていた。抵抗すら出来ない。いや、しても無駄であった。殴られる鈍い音が、彼女と背中合わせにある木の幹に低く響いた。腹部に重くのしかかる衝撃で、何度も吐きそうになる。じわりじわりとその一発ずつが苦しい。
「シロ、あんた」
 美神は左肩の痛みと喉元にまで迫っている吐き気を耐えながら、顔を見上げ、目の前のいる彼女を呼んだ。向けられた視線に対し、シロは目を合わせたかと思うとすぐまた瞳を逸らした。そして、また彼女をいたぶり始めた。今度は肩の傷口を突き刺さったでほじくり返される。あまりの激痛が全身を麻痺させて、彼女を絶叫へと走らせた。捕らえられた獲物を好きなようになぶる。それ以外の何物でもない。美神はなす術もないまま、苦行のような状況を受け入れるほかはなかった。左肩さえ怪我していなければ、いくらでも抵抗できたはずである。だが、首根っこをつかまれてしまっていてはどうにもならない。
「かはっ!?」 
 すると首を掴む力が強くなっていく。次第に呼吸が困難になり、美神はむせた。その拍子に吐き気が喉元を駆け上がり、さらにむせる。さすがに吐きはしなかったが、もう一度、首を絞められたら我慢は出来ない。
 シロはずっと美神を見つめていた。彼女の表情は憎悪そのものだった。常軌を逸脱している。正気を失った眼でじっと見つめていた。なにかヒステリックな感情を抱いているようにも見えた。すると美神がそう思った拍子にシロは笑った。だが眼に光はない。そして思いっきり彼女の髪を引っ張り上げて、顎をゆっくりなでる。またにっこりと笑う。屈託のない笑顔もこの状況では不気味に思えた。
 美神は遠のく意識の中、物言わぬ彼女の眼を見ている。なにか勝ち誇った眼だった。自分に対して視線が送られる。威嚇するような眼光で、縄張りを主張するかのごとく。美神は確信した。勝ち目はない。殺されるのだと。
 シロは髪を引っ張る手を首に持ち替え、彼女を天にかざす。黒い雲が森を覆っていた。気付けば雨は止み始めている。彼女は指を揃えて、その手を美神の胸へと合わせた。心臓を貫こうというのだろうか。でも、なにを考えてももう遅い。殺されるのは目に見えていた。逃げたいが無駄だろう。さすがの美神もついに観念したのか、身体全身に虚脱感が溢れていた。薄らぼんやりと木の上を見ていた瞳を閉じ、死ぬ準備を整えたのだった。
(これまでね……)
 諦念と言う考えが頭によぎり、覚悟は完了したのだろう。シロは狙いを十分定めて、次の瞬間に心の蔵を貫こうと、腕の溜めを作った。一撃に瞬発力をつけるためだろう。次に腕が突き出た時が自分の最後だ。その瞬間を潔く受け止めよう。
「シロ!!」
 何か叫び声が聞こえる。目をぼんやりと見開いてみると、そこには明らかに動揺の色を見せるシロがいた。同じ声を聞いたはずである。だが、彼女は周りをそわそわと見回して警戒する。その姿はまるで怯えていた。
 すると左方に何かを見たらしく、シロは動揺の色は更に深まったように見えた。首を掴んでいた手から力が抜け、美神の身体はずるずると幹に沿って崩れ落ちていった。図らずも美神を解放させると、シロは右の繁みへと逃げ去ってしまった。一体、何なのだろうか。
「あっ、待て!」
 がさがさと走ってくる音が近付いてくる。次第に大きくなり、それはちょうど目の前で止まった。見えたのは見慣れたGパンとスニーカー。横島だった。あぁ、そうなのか。美神は何かに気付いた。
「美神さん」
 彼は心配そうに自分の顔を見つめてくる。視線の合った美神は辛そうに口を開いた。
「シロよ」
「えっ」
 横島の表情が一瞬はっとする。
「そんな馬鹿なっ!」
「でも本当よ。今の私がこんな有様なのもシロのおかげ。ざまぁないわね」
 と、自嘲する彼女。対して横島は信じられないといった顔つきしている。
「辛気臭そうな面してるわね? 目に見えてたでしょ、しくじればどちらかがこうなった事を。私は貧乏くじ引かされたのよ」
 彼は黙り込んでしまった。美神は途切れ途切れに朦朧とする意識の中で言い続ける。
「シロは強いわ、覚悟した方がいいわね」
 すると彼女は指を差した。その先には草むらに転がる弓矢が。
「持っていきなさい」
「あれを? なんでです」
「いざと言う時のためよ」
 横島の顔が一瞬にして曇った。獲物を、いやシロをしとめるための道具だからだ。彼はどうしてもしたくはなかった。
「どうしてもですか」
「えぇ」
「どうしてもシロを?」
「えぇ、その通りよ」
 何度問いかけられても同じ答を出すしかない。横島は複雑な表情で思い悩んでいるようだった。
「おれはシロを助けたいんですよ?」
「そんなこと、分かってるわよ」
「なのにやれと? このおれにですか?」
「ねぇ、横島クン。時と場合で人が殺せるかって聞いたわよね?」
「えぇ」
「殺せるわ。けど、本当にそうしなればいけない時に、そうしなければならない場合のみにしか適用できないけど。人にはやらなければならない事があって、役目を果たさなくてはいけない。それが義務よ。辛くても悲しくても、やらなければならないことがいつだってついてまわる物だわ。仕事であれ、命令であれ、自分がやりたいことであれ。でも、それらを乗り越えて、初めて楽しい事があるのよ。それが人生。だから私はここに来たの」
「けど」
「四の五のは言ってられないの。私はもう動けない。やるのは横島クン、あなたよ」
「けど、おれにシロは殺せません! いや、殺したくない!!」
 そう言い放つと、弓矢が転がっている場所へ歩き、横島はそれを拾い上げた。
「それにもう嫌なんです、仲間がいなくなるのは」
 ふと美神は思い返した。あの戦いを、彼女の影を、そして横島が流した涙を。気付くと、彼女はもう何も言えなかった。
「そうだったわね」
「弓矢は持っていきますよ、美神さんがそう言うのなら。でも、使う気はありませんからね?」
 横島は弓矢を担ぎ、立ち上がった。彼は美神を背にしてシロの逃げていった方向を目指した。その光景を尻目に美神は言葉を続ける。
「好きにしなさい。ただ」
 横島は振り返る。
「あんたが担いでるそれを使うのも選択肢の一つよ。肝に銘じておくことね。一応、忠告としとくわ」
 横島は聞き終えるとそのまま何も言わず、美神の元を去っていた。
「まったくガキなんだから」
 彼女は考えた。これで良かったのか。彼は殺されてしまうかもしれない。それも彼の進む道の一つだろう。死んではほしくないが。なんにせよ、シロの運命は彼に委ねられ、彼の人生もまた選択を迫られる事だろう。
「神のみぞ知る、か。ま、そんなたいそうなものじゃないと思うけど」
 願わくば、無事でいて欲しい。シロも横島も。彼女は考えた。それにしても、傷や怪我がひどい。助けを呼ばなくては。
「まさか、私が吹くとは思わなかったわね」
 ポケットから笛を取り出す。犬笛。もしもの時にと、前もって長老が二人に渡していたものだった。美神は笛を咥えて、最後の力を振り絞って、笛を吹いた。
 彼女の耳には聞こえない音が夜に響く。雨はまもなく止もうとしている。


 続く 


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