椎名作品二次創作小説投稿広場


下弦の月

豹変


投稿者名:ライス
投稿日時:05/ 5/14

 空は、蒼かった。明るくもなく、暗くもなく、くすんだ蒼さだった。青くない蒼さ。だがその色合いは果てしなく深かった。彼女は空を見上げていた。だいぶ涼しくなってきている。秋はその趣の中に、冬の足音を感じさせてきていた。
 シロは紬を着ている。白無地に紺の帯。美衣が風邪を引かないようにと、どこかから見つけてきたものだった。あの日以来、体調を崩している彼女はずっと悩んでいた。自分は一体、何なのか。ずっと子供でいたかった。というよりは、今まで意識した事が無かった。
 ずっと父上に憧れていた。自分も武士になるものだと、そう思っていた。だが、それは間違っていたのだ。自分は女だった。母上と一緒だったのだ。幸い、自分は母上のように病弱ではなく、びくともしない位の健康体である。しかし、性別までは変えようも出来ない。たとえ自分が武士だとしても女だという事。それは変わりようもなかった。何かしらのギャップが自分の中に存在していた。得体の知れないものであり、とても近いものでもあった。武士になりたかった。しかし、自分は男ではなかった。それ以前に女であるという自覚を持てていなかった、ということなのか。分からない……。
 結局、答えが出ないまま、堂々巡りを繰り返していた。胸がむかむかする。とてももどかしくなっている。同じことの繰り返しばかりしていると、気分も悪くなる。だから今は縁側でぼけっと空を見上げていたのだ。空も毎回見ていると、その様子が随分と違っているのだなと彼女は気付いた。色が濃い時もあれば、逆に薄い色の時もあった。これまで何度も縁側に出ては、空をずっと見つめていた。一週間くらいだろうか。悩んでは空を見上げ、また悩む。悪循環を繰り返すばかりで、答えは一向に見つからなかった。
 溜息をつく。ついた所で何の解決になるわけでもない。頭がパンクしそうにもなっていた。こんなに悩んだのも初めてだし、考えた事も初めてだった。彼女は決して頭が悪いわけではない。しかし、このような状況でどう対応すれば良いのだろうか。何も支えのない、今の彼女にはただ辛かった。打ち明ける相手もいない。腹に溜まり込んだものを吐き出せることが出来なかった。それが何なのかさえも、よくは分かっていなかったのだが。 
 風がそよぐ。少し肌寒い風はシロの頬を撫でた。すると彼女の髪がふわりとほんの少し、宙に浮かんだ。髪は赤い、真っ赤だ。自分の髪を掬い上げると、その赤さにぞっとした。これは自分の髪なのだろうか。あの白い髪はどこに行ってしまったのだろうか。元々、赤い毛も白い毛も両方持っていたのだが、その比率は逆転していた。今は髪の大部分が赤かった。それも血のようにとても赤い。髪は手からするりと抜け出していく。不思議とさらさらとしている髪は振り子のような穏やかな動きで一本一本、元の場所へ垂れ下がっていった。自分は変わった。一体、何がと言われると言葉に困るのだが、それは外見だけでは無さそうだ。
 そういえばこの頃、必死に抑えつけていた衝動が全く起きていない事に気付く。あの溢れんばかりに湧き上がっていた殺意は、その面影すら見せなくなっていた。あれは一体何なのだったのだろうか?
「……ろねぇちゃんってば!」
 突然、名前を呼ばれた気がしてシロははっとした。脇にはケイがいる。
「あっ、ケイ。どうしたでござるか?」
「さっきから呼んでたのに気付かなかったの?」
 彼は口をとんがらせながら言った。すこしすねている様だ。
「それはすまなかったでござる」
 シロは申し訳無さそうに苦笑いをした。
「まだ体の調子、良くないの?」
「そうでござるな、まだケイと一緒に外で遊べそうにはないでござる」
「そっかぁ」
 ケイはちぇっと石ころを蹴飛ばした。石は草むらの中へ転がっていく。
「すまぬ、ケイ」
「別に気にしてないよ。あっ、そうだ!」
 何か思いついたケイは縁側から家に入ると、引き出しを開いてあるものを取り出した。
「シロ姉ちゃん、家の中で遊ぶんだったら大丈夫だよね?」
「ん、あぁ、それだったら別に。あんまり動き回るのはちと辛いでござるが」
「じゃあ、これ折って遊ぼうよ」
 そう言って、差し出されたのは五十枚入りの折り紙袋。
「ね?」
 ケイはにっこりと微笑んでいた。
 縁側で折り紙遊び。折り紙なんていつ以来だろうか。シロは赤い紙を一枚持って、まじまじと見ていた。子供の頃はこれでよく遊んでいた。母上と一緒に。特に雨の日などは遊びに出られないので、つきっきりで下手な折り鶴を折っていた記憶がある。また母上は手先が器用で、とても綺麗な鶴を折っていたのも覚えている。本当に綺麗だった。
 シロはおもむろに折り出し始めていた。もちろん折っているのは鶴。折り方を覚えているかどうか不安な面もあったが、スムーズに折れた。三角に二つ折りして、それをまた半分に折って口を開いて小さな四角を二つ作る。さらにその四角の口を開いて、今度はひし形に。そして切れ目のある側を内側に折り返し、上に折り曲げて切れ目のない方を上手に開くと、そこには一羽の折り鶴があった。わりと綺麗に折れている。
「けっこう、何とかなるものでござるな」
「すごいすごい!」
 ケイは出来上がった鶴を見て、喜んでいた。シロは彼に鶴を手渡す。
「いいの?」
 すると、彼は目を輝かせて言った。
「もちろん」
「ありがと、シロ姉ちゃん!」
 にっこり微笑んでとても嬉しそうなケイ。昔の自分がそうだったように、ケイもまたたった一羽の折り鶴で喜んでいる。
「これ、どうやって折るの? 他にも何か折れるの?」
 ケイはお祭が始まったかのようにはしゃぎ、腕を引っ張る。
「いや、あいにくでござるが拙者は鶴しか折れないんでござるよ」
「じゃあ、これの折り方教えてよ!」
「いいでござるよ」
 素っ気無く微笑んで答えた。それから二人は縁側で静かに折り紙を折った。シロがケイに手取り足取り、鶴の折り方を教えながら一緒に折っていく。シロは慣れた手つきでゆっくりと。ケイはその仕草を覗きながら、不器用な手つきで。数分後、二人の手の平には鶴が出来上がっていた。
「……で、これで完成でござる」
「出来たーっ!」
 ケイの手の平には不恰好な鶴があった。そして、彼女の手には整った形の鶴があった。
「でも、シロ姉ちゃんの方がやっぱり綺麗だね!」
「ケイもその内、こんな風に折れるでござるよ」
「ほんと?」
「実は拙者も最初に母上から教わった時、ケイみたくぶぎっちょな鶴だったんでござる」
「そうなの?」
「だからきっとケイも綺麗に折ることが出来る、拙者が保証するでござる」
「うんっ!」
 シロはそっとケイの頭を撫でた。彼はまたにっこりと笑う。自分も昔はこうだった。こんな風に笑っていた。母上の前で。彼女は母を思い出しながら考えた。今、ケイは彼女の前で笑っている。それを穏やかに見ている自分。母上もこんな感じだったのだろうか。
 風がなびき、手の平から鶴がこぼれ落ちた。シロは落ちた鶴を拾おうとして、ふと自分の手に気付いた。
 その手は指が長くほっそりとしている。自分の手なんてじっくり見ることもなかったので気付きはしなかったが、それはあまりにも似ていた。母上の手だった。そう、母上の手なのだ。綺麗な手だった。細い指がしなやかに動き、鶴を折っていたのをシロは記憶の中に鮮明に焼き付けていた。
「……」
「シロ姉ちゃん?」
 父上の手はもっとごつごつしていて、指も太かった。少なくとも、こんなにすらりとした指や手ではなかった。とてもよく覚えている。けど、自分の手は母上の手だった。嬉しかった。本当なら母上に面影を見出せたのを喜ぶ所かもしれない。しかし、自分が何者なのか訳が分からなくなっている今、それはシロにとって自分が女性である事の裏返しに過ぎなかったのだった。
(拙者は女だ……)
 父上の手が懐かしかった。いつも手を繋いでくれた。その腕の先には侍然とした父上の表情があったのだ。シロはそんな父の表情をずっと見ていた。父上には憧れてもいた。大好きだった。そして何よりも、格好よかった。だから武士になりたかったのだ、父上のような侍に。しかしそれも潰えた。何をして良いのかさえも分からない。
(どうすればいいのでござるか。父上、先生、……先生?)
 どうしてなのか今、先生のことを思い出した。父上の事考えていたのに、ふと先生の顔が浮かんできてしまった。なぜだろう? 先生の顔が父上の次に浮かび上がってくる。湧きがって来る感情。そして彼女は心の中でふつふつと何か鼓動するのを聞いた。とても熱い。この感情は何なのだろうか。切なくもあり、もどかしくもある。なにかくすぐったい気持ち、だが今にも破裂しそうな勢いでもあった。
「って!?」
 こつッと音がして、何かがシロの頭に当たった。
「あ、ごめん。大丈夫?」
「ててて……、竹とんぼ?」
 シロは床に転がったそれを手にとって拾った。
「これはケイの?」
「そうだよ」
「よく出来てるでござる」
 今度はまじまじと見ている。その竹とんぼはナイフを使ったらしく、精巧に出来ていた。
「これで遊んでたんだ。シロ姉ちゃんがすぐにぼっとしちゃうから僕、つまんなくなって」
「ははは、悪い悪い」
 照れ隠しに苦笑いをした。そういえば、姉ちゃんなんて呼ばれるのもここに来てからだなとシロは思い返していた。いつも名前を呼び捨てにされていたから、逆に新鮮だったのも確かだった。紬を着るのもまた新鮮だった。自分の体つきはやはり女だ。胸の膨らみ、すらりと長い指、唇、瞳、まつ毛。この白い肌。絹ごしのように滑らかで柔らかそうな体つき。父上の筋肉質な体に比べれば、自分の体はまるでしなやかな糸だった。父上が剛とするならば、間違いなく自分は柔である。それが悲しい。自分の体が憎い。だが武士なのだ。けども女でもある。では、一体どうすれば良いのだろうか。
「ほら、またっ!」
「えっ、あぁ、ごめん」
 再度、シロは謝る。
「竹とんぼ、返してよ」 
 ケイは手を差し伸べた。彼女は手に持っていたプロペラを手渡す。
「ん」
「ありがと」
「ケイが作ったんでござるか?」
「ううん」
「分かった、母上でござろう?」
「ううん、違うよ」
 ケイは首を横に振る。
「じゃあ、一体誰が?」
「にーちゃん」
「え?」
「これを作ってくれたのは、横島っていう人間のにーちゃんだよ」
 シロがそれを聞いて愕然とした。そして戦慄していた。なんという事だろうか。まさかケイの口から思わず出た一言が。たった一言がシロを揺さぶり、もみくちゃにしていた。
「よこ…、し、ま…? せんせ、い……?」
 ピシっと音が聞こえ、亀裂が入る。
 薄いガラスのように、何かがひび割れた。彼女は寝言のように思いがけない名前を繰り返す。いやだ。やめて。そのひび割れた隙間からどろぉりと、とてつもなくどす黒いものは雪崩れこんでくる。お願い。助けて! 誰か、誰か! 知りたくない。気付きたくもない。今のままで十分だ。何かが変わるのはいやだ。けど、抵抗するにもなす術はなかった。押しとどめようとする術を彼女は持っていない。限界だったのだ。もう開放するしかなかった。インクのように粘り気のあるどす黒さは徐々に満たされていく。それは溢れんばかりに。蝕れていく体は意外に心地が良かった。拡散していく。もう止まらない。抵抗したくない。身を委ねよう。この闇に。委ねよう。身体全身が黒く染まっていく感じ。心が、感情が、墨汁で黒く深く。そして新たに湧き上がる感情。胸が高鳴る。それはとても楽しく、とても嬉しい。解き放たれたものは自分が望むものであり、それ以外のなんでもなかった。ただ今まで自分の奥底に潜ませていただけ。その必要もなくなったのだ。知りたい、気付きたかった。変わらなきゃどうにもならないのだ。いや、すでに変わっている。あの下弦の月を見た時から。自分は変わったのだ。
「シロ姉ちゃん。にーちゃんの事、知ってるの?」
「なんだ、こんな簡単な事だったのか」
「……シロ姉ちゃん?」
「ん? あぁ、横島先生の事でござるか? 知ってるでござるよ。とても、とても、ね」
 シロは肩で笑い始めていた。
「馬鹿みたいでござるな、今まで悩んでいた事が。やりたい事をすればよかったなんて、全く馬鹿げてるでござる!」
「ねぇ、一体何の話?」
「ケイには関係ないでござるよ、うん。関係ない。くくくくく…っ!」
 含み笑いが不気味に聞こえる。彼女の無邪気さが空恐ろしく、それはケイも感じてるようだ。シロはおかしくてたまらなかった。そう。何も悩む必要はなかった。自分は武士で女なのだ。欲しいものは全て力で。そして奪ったものは誰にも渡しはしない。決して。邪魔があるものならば、排除するのみだ。こんな簡単な事になんで今まで気付かなかったのだろう。それがおかしくたまらない。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!?」
 シロは笑い転げた。自分が滑稽で笑い飛ばしたくなったのだ。腹を抱えて笑った。笑い声はとても大きく、森の中をこだまする。笑い声だけが響いていた。その無邪気な笑い。彼女の顔は捻じれそうに笑顔で、瞳は光を落としていた。ただ狂い笑っていた。
「い、いきなり笑い出しなんかして、どうしたっていうの? 今のシロ姉ちゃん、なんだかおかしいよ!」
「おかしい? 一体どこがおかしいというのでござるか? 拙者はこんなにまともだというに」
 にやりと笑い、ケイの猫目を見ていった。ケイは身の毛のよだつ思いがした。さっきまでのシロとはまるで別人のようだった。だが、目の前に居るのは紛れもなく彼女だった。
 風が舞った。冷たい風はシロの赤い髪は勢いよくなびかせた。庭先でつむじ風が吹き、日が暮れ始めている。ケイとシロは向き合っていた。しばらく何も言わずにずっと。黙り込むのも飽きたのか、ようやくシロは立ち上がり、ケイを一瞥して微笑むと家の奥へと静かに戻っていく。すると木の上では鴉は鳴き、夕焼けが来たのを不気味に告げていた。
 そして夜が更ける。彼女は目が覚めていた。布団から起き上がると、二人の眠る隣の部屋のふすまをそっと開く。僅かに出来た隙間から覗き込むと、寝息を立てて眠る二人の姿があった。それをシロは確認して、ふすまを閉じた。
 シロは元の姿に着替えていた。ここに着たときの服。ぼろ切れたTシャツに片方の袖がすっかりなくなっているジーンズ。それが彼女の普段着。いつのころからだったか、気付けばこの服装だった。もうすっかり染みになってしまっているがシャツには血痕が残っている。それは無論、タマモの血であった。しかし、彼女は大して気にも掛けないでいた。一体、それがどうしたというのだろうか。タマモがどうしたというのだ。あれは獲物に過ぎない。けど『大物』ではない。たった一匹の獲物を気に掛けている暇など、脳味噌の中にこれっぽちの欠片もない。彼女は自分が狙う獲物は唯一つ。
 横島。
 思うだけでも身震いがする。ぞわぞわと鳥肌が快感を得、心地よい寒気すら感じられた。顔を思い浮かべるたびに自分の顔がほころんでしまう。その折に唇から鋭い牙がこぼれていく。何度も何度も、また。
 めちゃめちゃに引き裂きたい。まず首を、そして四肢を。はらわたを首飾りに、その流れ落つ血を一斉に浴びたい。そして彼の唇に口付けを施すのだ。彼を全身で受ける快感。想像するだけでもうっとりする。
 今まで思いとどまっていたのが馬鹿のようだった。なんでもっと早く決断しなかったのか自分でも不思議だった。とにかく一刻も早く彼の元へ行かなければ。
 シロは気付かれぬよう、家をひっそりと抜け出した。外は真夜中。月は雲でかげり、その姿は隠れてしまっている。おかげで辺りは真っ暗闇だった。何もない、ただの闇。自分がいる所が森だと分かっていても、闇が広がればそこはもう異世界だ。妙な奥行きがある。何も見えなくなっているから、そのように感じるのかもしれない。彼女は縁側に立つと、広がる闇をじっと見つめている。そして感じていた。気配を。その気配は近かった。闇の向こう側。何も見えないが、彼女は本能で掴み取っていた。まるで闇が導いているかのように。あとはその方向に向かって突き進めばよいだけの話。シロは誘われるがままにゆっくりと歩き出した。
「待ちなさい」
 声が聞こえ、狙い済ますように振り返る。縁側に立つ、人の影。母上、いや美衣だった。シロの眼は鋭く彼女を睨む。
「行ってしまうのですか」
 するとシロは、そうだと言わんばかりに頷く。美衣はその眼光に耐えながらも続けた。
「そうですか」
 ぽつりと言った。だがシロは踵を返し、無視して歩いていく。
「残念です。ケイも寂しがりますよ?」
 またぽつり。シロの足が止まった。ケイ。彼の姿が頭の中に浮かぶ。しかし、意味のないことだ。彼女にはここに居続ける意味が全くなかった。だから去るのだ。むしろ急ぎたいのだ。狩場へ、自分の本能をさらけ出すべき所へと。
 ここは懐かしい。ずっと居たいのはやまやまだが、ここにいてはならない。間違いない。どんなに両親の面影を探してもここにはない。また振り返り、彼女達の住処を見た。そして確信した。最初から、あれは自分の家ではなかった。自分の遠い過去の記憶と重ね合わせていただけなのだ。彼女達に悪いが、自分にとってはただ紛い物だった。それが今、はっきりした。
「なにか事情があるのは分かってました。そしてあなたがここをその内、去る事も。でも、私たちは嬉しかったし楽しかった。短い間でしたけど、家族が一人増えた気がしてケイも私も……。私にはあなたを止める資格はないかもしれません。けど、出来る事ならばここにずっと居て欲しい。私達の心からの願いです。ケイも喜びますし、きっとシロさん、あなただって安心して暮らせ……」
 シロは首を振っていた。無論、横に。美衣は優しく、時には厳しく、まるで母上のようだった。ケイはあどけなくて自分の弟のような存在だった。でも、居られないのだ。居てはならないのだ。
「シロさん」
 今、自分の湧き上がる感情が爆発している。違う自分がいるようで、でも実は自分は自分一人しかいないという現実。血に飢えた自分と、それを冷静に受け止めている自分が確かにいる。その感情がいつ彼ら親子に振れるか分からない。行かなくてはならないのだ。ここにいても仕方ない。今すぐ。一刻一秒が惜しい。行かなければ。
「分かりました、もう止めはしません」
 シロは彼女に背を向けて、再び歩き出そうとする。
「待って!」
 彼女が叫んだ。シロは三たび振り返り、美衣をまた見た。
「あなたに渡すものがありました」
 美衣は家の奥からある物を取り出すと、シロに向かって放り投げた。彼女は空に舞ったそれを強く掴んだ。それは刀だった。
「忘れ物ですよ」
 そう。それは長老からもらった日本刀。銘は確か、十六夜と言った。
「……自分を見失わないでください。あなたの無事を少なからず、心配してくれている人が居る事も」
 美衣は言い終えると家の中へ戻っていった。シロは刀を見る目を家の方へ移すと、会釈して二度と振り返ることはなかった。振り向きざま、彼女は微笑む。歪んだ笑いだった。こうしてシロは闇の中に溶けていった。獲物を求めて。自分の欲求を満たすべき相手が居る場所へと夜通し、駆け抜けていく。
 そしてまた、月が半分に欠ける夜がまたやってくるのだ。決戦の夜はまもなく火蓋が切られようとしていた。それぞれの思いを馳せながら、静かに激しく、忍び寄るように素早く。


 続く 


今までの評価: コメント:

この作品へのコメントに対するレスがあればどうぞ:

トップに戻る | サブタイトル一覧へ
Copyright(c) by 溶解ほたりぃHG
saturnus@kcn.ne.jp