椎名作品二次創作小説投稿広場


下弦の月

相違


投稿者名:ライス
投稿日時:05/ 5/ 8


「二人とも弓を持ったな? では好きなように引いてみるのじゃ」
 最初は弓すらろくに引けなかった。
「くぅぅぅ……っ!?」
 力一杯引こうとしても弦はびくともしない。弦はぴんと張られている。ほんの少し引っ張ることは出来ても、ちっとやそっとの力では思い切り引くことは出来なかった。
「弓はそうやって引くんではない。よいか? こうじゃ」
 長老は弓を手に取り、二人に構えてみせる。
「まず足の位置は、自分の肩幅に両かかとをそろえるくらいが適切じゃ。これを足踏みという」
 二人は長老のやる事を真似ながら、話を聞いている。
「次に胴造り。へその穴が両足の中心に落ち着くように、尻を少し反り返らせるのじゃ。そうすればまっすぐ芯の通ったような体勢になる。ここまでが基本の立ち方じゃな」
 早速やってみるが、見た目よりも結構辛い体勢だ。
「ほれ、体勢が崩れておるぞ?」
 そう言って長老が二人の尻を弓の取っ手で叩く。
「きゃっ!? なにも叩かなくったっていいじゃない!」
「体に覚えこませないでどうするのじゃ? 相手はそこまで優しくはないぞ?」
「分かってるわよっ」
 美神が吐き捨てるように言うと、再び彼の講義は続く。
「さて、いよいよ弓構えじゃ。まず弓は必ず左手に持つのが基本。左手は弓の力が外に働くように握っておく。次に右手じゃが今は矢を番えていないので、実際あると思ってやることにいたそう。最初に軽く弦をはさみ持つ。ここまでを取かけという。この時、射る目標をしっかりと見据えておく。これを物見という」
 言われたとおりに構える二人。見据える先には岩壁があった。しかし彼らの眼に浮かぶものは、標的となるものは、笑顔が似合う彼女。そして仲間でもある。
「これで、ようやく弓を引く段階に入るのじゃ。この事を打ち起こしとも言う。弓構えの体勢から、両手を静かに頭の位置へと持ってくる。両手の位置は水平になっていなくてはいかん。でないと、次の作業に移ることが出来ないのでな。その次が引き分け。腹にぐっと力を入れて、ゆっくりと胸元まで弓を引きながら下ろす。右手は弦を引き、左手は弓の柄を押すようにするのが肝心じゃ。均等に力を入れんと失敗するから気をつけるように」
 長老は弓を引いた体勢で言葉を続ける。
「そして会、離れと移るわけだがこの二つはほぼ連続して行う。弓を引ききった状態が会。離れは字の如く右手から弦を放すことを言う。放せば誰にでも分る通り、番えた矢は目標めがけて飛んでいく。」
 その説明の後、長老が指から弦を放した。弦は勢いよく元の位置に押し戻されると、びぃんと細かく振れながら治まっていった。
「とまぁ、これが基本的な弓矢の打ち方であるが、問題は標的が動くという事。そして、わしらの良く知った者であるという事じゃ。美神どの、その覚悟はおありか?」
「ここに居る理由なんて一つしかないわ」
 彼女は力強く言い放つ。横島もそれには同意した。しかし彼ははただ頷いただけで、口を開こうとはしていない。長老はしたり顔で微笑むと、二人を見た。
「愚問じゃったな」
「当然よ、文句ある?」
「いや、こちらとしても願ったり叶ったりじゃ。早速、稽古に入るとするが、よろしいか?」
「望む所ね」
「では、まず手始めとして弓に慣れてもらおう。今日一日は基本動作の繰り返し。その後、素引きをそうじゃな、軽く一万回ぐらいやってもらおう」
「いっ、一万っ!?」
「左様。あくまでこれは手始めじゃ。休憩を入れたら、今日は日暮れまで素引きをする。それで明日からは実際に弓を番えての練習じゃ」
「ちょっと」
 美神は不満ありげな口調で長老を睨んでいた。
「なんじゃ」
「いえ、別に」
「仕方なかろう? おぬしらは素人なのだからこれくらいの事をせん限り、上達は見込めんぞ? 相手は待っててくれん。だから出来るだけの事はしたい。これだって相当に短いくらいじゃ。本来だったら、何年も鍛錬を積み重ねて習得するものだからの。それをあえて十日でこなそうというのじゃ。文句は言わせんぞ?」
「……分かったわよ。やらないとこっちがやられるんでしょ?」
「その通りじゃ」
 老人はほくそ笑む。すると彼女は弓を握り締めた。
「不満はないわ。納得はしないけど。そんな事よりも今の私たちには優先すべき事がある、そうね?」
「まったくじゃ。この位で音を上げてはどうにもならんぞ? あやつは全力でおぬし達、はたまたわしらにも襲い掛かってくるじゃろう。わしらはあやつを始末せねばならんのだ。命に賭けてもな」
「でも、シロが上弦の月になるまでにこっちに来たらどうするわけ?」
「なに心配には及ばん。やつは何も知らぬ。それにじゃ。ここにただ一つ確かことがある」
「え?」
「獲物は動かないという事じゃよ。頃合になったら向こうからやってくるわ。つらい事じゃがな」
 厳しい口調だった。そして特訓は始まる。


       ◆


 特訓初日。基本姿勢と素引き。どちらもマスターするまで一日中。
「足踏み! 胴っ! 弓、構えっ! 会、離れ!」
 長老の掛け声とともに、二人は出来るだけスムーズな素引きをしようとする。しかし、最初から上手くいくはずもなく、弓を引くことにすら手間取っていた。
「構えっ!」
「あっ」
 横島は弓が上手く引けない。すると。
「ほれっ、引く手がつっかえておるぞ!」
 老人の罵声が響く。同時に二人への叱咤の仕方も次第に厳しくなってゆく。
「ってぇっ!?」
「叩かれるのが嫌なら意地でも引けぃっ! 躊躇してる間に殺されるぞ!?」
「くっ」
 何も言わず、再び彼は弓を手に取った。
「そう、その調子じゃ。自分に負ければそこまでじゃぞ、分かっておるな?」
「…っかってるよ」
「では、続けるぞ! もう一度、足踏みからじゃ!」
 そして、長老の叱咤激励は日暮れまで続いた。
 二日目。
「昨日は大変だったろうが、今日より実際に弓を番えての訓練じゃ!」
「随分と早いのね」
「当たり前じゃ、しかし基本ほど重要なものはないからの。これからも反復してゆくぞ? さて。これからこれを使って練習始める」
「これって…」
 二人の前にあるのは組み木に支えられた藁の束。孤を描いて、二人の目の前に立ちつくしている。
「藁じゃないの、これでどうするつもりよ」
「これは巻藁じゃ。まずは実際に矢を打つことに慣れてもらう。正確な狙いを射る事などは、また後にする。さぁ、二人ともここに立て」
「ここにって、たいぶ近いんだけど?」
 美神の言うとおりだった。巻藁から2mも離れていない。
「これでいいのじゃ。的ではないのだからな。矢を打つ特訓であって、狙いを定める特訓ではないからの」
「ったく、どうしてこんなまわりくどいのかしら?」
「馬鹿者っ!」
 地を割らんとばかりに長老の怒鳴り声が突然、唸った。
「弓矢というものは技能の習得が非常に難しいから、こうして段階を踏んでいくのが当たり前なのだ! この状況だからこそ大急ぎで教えなければならんが、本来ならばもっと時間をかけて教え込みたいのが実情。それをまわりくどいなぞと言い訳されては困るのじゃよ。それにだ。昨日、文句は言わせんといったはずだが?」
「わ、悪かったわよ? やればいいんでしょ?」
「一ついい話をしてやろう。武士が一番重宝する武器とは何じゃと思う?」
「……刀だろ?」
 横島は間髪入れずに長老の質問に答えた。
「違う。答えは弓矢と槍じゃ。なぜ刀だと思う?」
「なぜって、武士の魂だからじゃないのか?」
「それは江戸時代に入ってからの話じゃ。おぬし達、那須与一は知っておるか?」
「どっかで聞いた事あるような?」
「ちょっとあんた、それぐらい覚えてなさいよ? 古典の授業の基本じゃないのよ。源平の合戦の時に扇の的を射落とした弓の名手よ」
 美神はさらりと答える。長老はその通りと頷いている。
「左様。与一は弓の名手であって、名うての剣士ではない。何故か? 答えは簡単じゃ。刀は合戦の時に全く役に立たんのじゃ」
「え、だって刀は武器じゃないのか?」
「無論、刀だって武器じゃよ。しかし合戦の時は弓矢と槍じゃ。想像してみれば分かるはずだ。馬にまたがっていたとして刀で何が出来る? 戦場に群がる歩兵どもをなぎ払えるか? 到底無理じゃ。かと言って、またがったまま刀で敵と戦うのは自殺行為に等しい。わざわざ自分の身を敵に近づけなければならんし、それは敵側も同じ事じゃ。弓矢ならば遠方より敵を射抜けるし、槍なら馬上からでも攻撃できる。なおかつ自分の身も安全だ。刀なぞ合戦の時には首を切る位にしか、役に立たん代物じゃよ」
「じゃあ、なんで武士の魂だなんて」
「それは江戸時代になってから合戦がなくなったからじゃ。弓と槍は大きく目立つ。おまけに世の中は平和じゃ。次第に形の大きい弓や槍などは持つだけで罪となってしまった。そこで武士達は刀を持つわけじゃ。今、おぬしらが火筒を取り締まっているのと同じ事じゃな」
「ひづつ?」
「銃の事よ。日本も昔はアメリカみたいに護身用として刀を持つ時代だったのよ。もちろん武士だけに許された特権だけどね」
「馬鹿にしないで下さい、俺だってそのくらいは判りますよ」
「まぁ、分かんなきゃよほどの馬鹿でしょうけどね」
「だから、本来は弓は刀よりも重要であるはずなのじゃ。蔵から出したあの弓矢も、そういう時代に作られたものらしい」
 二人は思い出した。この人狼の長老がやってきたときに携えてきた、あの弓矢を。シロを仕留めることの出来る弓を。
「そうだったのか」
 横島はそう言うと、拳を握りしめていた。きつく、とてもきつく。
「わしらは仲間を殺さばならん。あやつは限りなく強い。だが、暴走するのを抑えなければどうにもならん。では、どうすればよいか。そのための弓矢じゃ。卑怯にも見えるかもしれんが、より犠牲を少なくするためにはこれが一番なのじゃ。だからこそ、二人には一刻も早い上達を促すわけなのじゃよ」
「私たちは囮で、生贄で、餌で、死刑の執行人ってわけね?」
「そうじゃ」
「……損な役回り引き受けちゃったわね、やっぱり」
「すまぬ」
「謝る事ないわよ、私たちは私たちの意志でやってきてるわけだし。ここに来ている以上、やり果たすべき事はやるわ。いえ、やらなければならないわっ!」
 美神も厳しい目つきに変わる。過去、遭遇した一大事の時を髣髴とさせる研ぎ澄まされた目つき。それは彼女を超一流のGSたらんとさせる、そのものであるように横島には思えた。
「話はこれまでにいたそう。では、ぼちぼち始めるとしようかの。まずは昨日の復習からじゃ」
 二人が長老の言葉とともに特訓を始めた。突き抜けたような青が空を駆け抜ける。雲が風を切って素早く流れていた。ひどく乾いた空気の中を枯葉が通り過ぎ、日は暮れてゆく。


       ◆


 村に来て四日目。二人の特訓は的打ちに入っていた。何度も基本を反復し、巻藁に何百、何千と矢を打ち込んだ結果、彼らは淀みなく弓を引けるようになっていた。だが、それとは裏腹に手はぼろぼろに皮がむけ、血が滲んでいる所も少なくはない。想像を絶するような下積みがあったからこその技能であり、こんな短期間では常人では到底なしえる事が出来ないだろう。しかし、これで終わったわけでない。特訓はまだ続いているのだ。
「さて。いよいよ的打ちに入るわけなのじゃが……、これが一番の難問になるじゃろう。おぬしら二人には何千、何万と今まで以上の打ち込みをしてもらう。的の中心を射抜けるまでじゃ」
 と言って、長老は人差し指を突き出して、的を示した。木の枝にぶら下げられた木板の的が二つ。風に揺られていた。距離はかなり遠い。
「ねぇ、遠くない?」
「およそ五十間じゃ」
「ごっ、ごじゅうぅ!?」
 美神は目を丸くして驚いた。
「どうしたんですか?」
「あんた、少しは歴史勉強しなさいよね? いい? 「間」っていうのは長さの単位よ。尺の六倍。つまりほぼ二メートル。つまり五十間っていうことは、ほぼ百メートルって事よ。日本弓の射程距離ギリギリの長さね」
「それを今から……?」
「私たちのほかに誰がやるって言うの? やるしかないのよ」
「その通りじゃ。つべこべ言ってる暇があるのなら、その分を稽古に打ち込んだ方が良い」
「さぁ、もたもたしてないでやるわよ?」
 美神は掛け声とともに横島の肩をどんっと押す。また一日が始まった。しかし、彼の顔は浮かない表情である。彼らしくもない憂い。ここに来てから、そんな顔をすることが多くなっていた。彼の垣間見せる、その表情に誰もまだ気付いてはいなかった。彼の内に秘める決意は美神や長老達とは真逆のもの。何とかならないものだろうかと彼は何度も思った。だが答えは見つからない。シロは死ななくていけないのだろうか? 殺さなくてならない存在なのか? 生きていてはいけないのか? もしそうだと仮定して自分に何が出来る? でも、やらなくてはいけない。
(おれはシロを助けたいんだ……!)
 たとえ美神と考えが違っていたとしても、彼に自分の考えは変える気はない。じゃなかったら、ここに来ていない。横島は思いを新たに的打ちに入っていった。そして何事もないまま、的打ち初日が終わろうとしていた。


       ◆


 夜。鈴虫の音がしとやかに森に鳴り響いている。昨今、ほとんどと言っていいほどに鈴虫の音色なんていうものは聞けなくなったものだと言われているが、この森は例外のようだ。ここではオーケストラが奏でられているような錯覚にも陥る。そんな秋の面影もまもなく消えていく事だろう。そうなると、この山は雪の中に埋もれてしまう。寒くなる事だろう。村人達は白い息を吐き出し、雪をかく事だろう。子供たちは雪遊びするのだろう。真っ白な雪に包まれた村を想像している。真っ白い地面を元気良く歩く子供が一人。飛び跳ねながら遊んでいる。雪だるまを作りその後、雪玉を手で固めてこちらへ投げつけてくる。それは彼の顔面に当たった。彼はそこまで想像して、我に返る。
「わっ」
 辺りをあちらこちら振り向く。今はまだ秋だ。木々の葉もまだこんなに青々しく茂っている。白化粧を飾るのは、まだ先のことになりそうだった。横島は月を見上げていた。空に浮かんでいるはずの月が今夜は無かった。今日は新月らしい。夜空に月が無いのは、不思議な感じであった。普段、あまり夜空を眺める事はなかったので、余計に新鮮な気分がした。ここは人狼の村。そしてシロの生まれた場所でもある。彼女にとって思い出深いこの地が、これから彼女の死に場所にもなるのかと考えると、胸が締め付けられる思いだ。それだけは避けたい。横島は深呼吸をした。
「はぁっ」
 大きく息を吸い込むと、今度は大きく空気を吐き出した。冷ややかな空気が自分の体に吸い込まれて、中で温められ篭っていた二酸化炭素と交換される。数回繰り返すと、口内は唾液が乾いて、からからとなっていた。
 秋の夜長は深い。夜はすっかり涼しさを通り越して、寒さを感じるようになっていたが、まだ耐えられるくらいのものだった。横島は自分がここにいる意味を再確認しながらも、疑問を感じていた。果たして自分の思い通りにシロを生きて帰れるのか。とても不安である。シロを助けたとして、彼女は元に戻れるのだろうか? 元に戻れないのだとしたら、悲劇は何度でも止むまで続く事だろう。それは自分にも降りかかる火の粉となるはずだ。その時、自分はシロを殺せるのか? 彼は自問自答する。しかし自問は積み重なるだけでいつまで経っても自答出来ない。よく言えば、彼は悩んでいた。とても悩んでいる。
「……星が綺麗ね」
 気付くと、美神がゆっくり歩み寄ってきていた。横島はすぐ顔を振り向くとすぐさま、体を翻らせた。
「なんですか?」
「今日の休憩に言った事よ」
「あぁ、あのことですか」
 横島は思い出す。井戸端での会話。
「それが何か?」
 彼は首を傾げて聞き返した。夜になってから、美神が昼間の事を持ち出した事に疑問を持ったからだ。
「ちょっと聞きたい事があるの。横島クン、自分の意思でってどういうことかしら?」
 その瞬間、横島は口を硬く閉ざした。
「私達は同じ目的でここにやって来ている、そのはずよね?」
 黙ったまま。彼はその耳で彼女の言葉を聞いている。
「けれどあんたは自分と言ったわ。つまり私達が大前提とする目的から離れて、あんたはあんたの目的があってここに来ている。違うかしら?」
 違わないと、横島は首を横に振る。しかし、まだ喋らない。
「答えて」
 喋らない。
「なにが目的なの? なにをしたいの?」
 喋らない。喋ったら、何かが崩れるのは目に見えている。
「答えなさいよっ!」
 業を煮やした美神は黙り込む横島にとってかかり、襟首を掴み上げた。
「返答次第じゃ、この拳が黙っちゃいないわよ?」
 彼女は力一杯、握り締めた拳を見せて凄む。すると彼は重い口を静かに開いた。
「シロを助けるんだっ!」
「なんですって?」
「おれはシロを助けたいんですっ!!」
 横島は美神の腕を振り払って、もう一度言う。彼女は耳を疑わずにいられなかった。
「なにを馬鹿な事……。あんた、話聞いてなかったわけじゃないでしょ!? シロは殺すしかないのよ? 分かってるでしょう、その位」
「分かってますよ。だけど、おれは嫌だっ!」
「子供みたいな事、言わないでよ!! 辛いけど、こうするしか方法はないのよ? 私達が行う仕事にはこういう事だってないわけじゃないでしょうっ!? 嫌がってなんかいられないわよ」
「仕事ですか」
「仕事よ」
「……シロじゃなくて、おれがそうなっても美神さんはそうしますか?」
「は?」
「おれじゃなくてもいい。タマモでもおキヌちゃんでも西条でも隊長でも神父でも…、おれ達の中で誰か一人でも、シロと同じ事になったら殺す事が出来るんですか?」
「そ、それは」
 彼女は一瞬、躊躇した。こんな事、一朝一夕で答えが出せるわけがない。けども、答えなければならない。今すぐ、苦し紛れにでも、目の前に立っている奴を説得しなければならないのだから。
「時と場合によるわよっ!」
「時と場合で人が殺せるんですかっ!!」
 横島は声を張り上げ、彼女に吹っかけた。逆に圧倒され、たじろぐ。身を強ばらせ、美神は水を正面からぶっかけられた気分だった。彼はまた元の調子に戻って、話を続ける。
「美神さん、おれはなにも難しい事を言ってるわけじゃないんです。シロを助けたいだけなんですよ」
「だから、それが無理だって言うのが分からないのっ!?」
「どうして無理なんですか!!」
「手遅れなのよ、もう……っ!」
 美神の搾り出すような言葉。二人の会話はそこで途切れた。ざぁっと風は吹く。月がないせいなのか、辺りはいつになく暗闇だった。すれ違う考え。暗中模索。しかし、そこには答えなどない。
「いいかしら、横島クン。長老が言ったようにもう打つ手は一つしかないのよ?」
「だからってシロを殺すんですか? あいつは少なくとも、いや、仲間なんですよ?」
「タマモに怪我させている以上、危険な事には変わりないわ」
「でもっ!」
 横島は知っている。タマモを傷つけたことがシロにとって本意でないことを。だからこそ助けたいのである。だが。
「いい加減にしてっ!」
 頬に彼女の手の平が激しく叩きつけられた。
「よぉく分かったわ。あんたが嘘ついてたってことも、あんたが馬鹿げたことを考えてるってことも」
「美神さん」
「でも、何もかもが手遅れなのよ。シロはシロじゃなくなってるかも知れない。それでもあんたは助けるつもりでいるの?」
「……シロはシロです。それ以外の何でもありませんよ、美神さん。おれはシロを助けるんです。なんとしてでも」
「じゃあ、勝手にすれば? 私は知らないからねっ!」
「言われなくてもそうするつもりです、それじゃ俺は寝ますから」
「あっ、まち……」
「おやすみなさい」
 呼び止めようも、それを無視した横島はやって来た道を振り向くと、闇へと沈んでいった。美神は一人、森の闇で佇んでいた。何も言えず、ただ立ち尽くしていた。
 翌朝。二人は何事もないように弓の稽古に取り組んでいた。交わす言葉はなかった。食い違う二人。意見は平行線。正反対の立場。今まで割れないでいた薄氷は、横島の発言で脆くも崩れてしまったのだった。
 だが、その後も稽古は続いた。たとえ二人の立場が違えてもここに来ている以上、自分にも危険が降りかかってくるかもしれないのだ。
(でも、もしそうなったとしておれはシロを射抜けるだろうか?)
 矛盾している。自分の意思と今やっている事とが矛盾している。横島は矢を弓に番えながら思った。しかしシロに会えるのは彼女がやってきた時だろう。助けられるのもこの村に自分達を襲いにやってくる時だろう。矛盾はしている。だが、その時が来るまで自分には何も出来ない事を、横島は実感していた。
 彼女を助けるにはまず対峙しなければならないのだ。だから弓矢の特訓を怠る事は出来ないのだ。シロに会う為には。
「手が止まっておるぞ、横島どのっ!」
 長老が高らかに声を上げた。はっと気付くと横島は慣れた手つきで弓を引き、離すと矢が的を目掛けて飛んでいく。その音が何度も何度も森に響きかけられていく。矢は飛んでいく。時間を抜けて。空を駆け抜けていく。古人は言った。光陰矢のごとし。時間はまるで矢のようであると。全くその通りであった。横島たちが揺らめく的の中心を射抜けるようになった時、上弦の月はすでに明日へと迫っていた。


 続く


 


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