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下弦の月

子供


投稿者名:ライス
投稿日時:05/ 5/ 5


 気付けば、外は既に朝だった。彼女はようやくその重いまぶたを開き、天井を見ている。どうやらまたあの親子に助けられたようである。
 シロの頭の中はまだ混乱していた。自分の身体に起こった異変。その得対の知れない突然の変化に、気が動転してしまっていた。なぜ血が流れたのか。一体どうして。何の異常もなかったのに。身体は元気そのものだ。もちろん怪我もしていない。いや、溺れるケイを助けた時に肘小僧を擦りむいたが、それくらいだった。自分はどこもおかしくはなかった。
 なのに、血は流れた。血はいやと言うほど見ているはずなのに。自分の体から流れ落ちた血が、これほどに怖く感じたのは初めてだった。不安を駆り立て、恐怖感が煽られ、受け入れがたいくらいにどうかしてしまった自分の身体を呪った。気を失った時、そんな事を刹那に思った。
 そして今。自分の身体に起こった異変を未だに受け入れられないまま、こうして布団にまた寝かされているわけである。四日、いやすでに五日前の事。シロは今と同じように布団に寝ていた。ここに住みついていた化け猫親子に助けられて、なし崩しに居候してしまっている。
 自分はいつまでここに居るつもりだろうか。いつまでもあの親子二人の好意に甘えているわけにも行かない。しかし自分には行くあてもない。戻りたい。戻りたいと思うほどに帰れない。帰ったらきっと自分ではなくなってしまう。血に飢える自分を止められなくなってしまうのだ。
「……」
 シロは寝返ると布団の中に頭をうずくまらせた。嫌だった。なにが嫌なのか良く分からないが、とにかくどうしようもなく嫌だった。体を丸めて布団に隠れる。絶望しているわけではないが、それに似たようなものが彼女の感情に漂っていた。
 その時、奥のふすまが開くと美衣が部屋に入ってきた。ふすまがすぅっと開く音を聞いて、シロは身を起こした。美衣はシロを見て言う。
「あ、起きてたんですね」
 シロは彼女を見たまま喋ろうとはしない。美衣は言葉を続けた。
「で、どうですか? 具合の方は」
「大丈夫でござる」
 今度はちゃんと答えた。しかし元気は無さそうである。
「良かった、怪我はないですか?」
「大丈夫でござるよ」
 頑な態度で強がってはいるものの、シロの手は僅かに震えていた。美衣は穏やかな仕草で彼女の手にそっと触れた。彼女はぴくっと手を驚かせたが、すぐに美衣の重ねた手の平の暖かさを感じ、落ち着きを取り戻していった。
「美衣どの」
「……ケイから事情を聞きました」
 一瞬、胸がどきっとした。そして急に恥ずかしくなってくる。シロはまた訳の分からない怖さを感じながら、顔を紅潮させ始めていた。
「どうしました?」
「え、い、いや、なんでもないでござる…」
 美衣の方をじっと見ていたのに、不意を突かれてあたふたしてしまう。そんなシロの仕草を一児の母親は、物腰柔らかに落ち着いた表情で見つめている。彼女は優しく微笑みかけると、シロの膝元の掛け布団のしわを直し、そっと話し始めた。
「恥ずかしがらなくていいんですよ?」
「え、せ、拙者はなにも」
「話は聞いていると言ったでしょう? 大丈夫です。ここには私とあなたしかいません」
 再び手を添える彼女。シロは頼りなさげな顔つきで、彼女の方をじっと見返している。すると彼女は再び微笑み返して言った。
「おめでとう、ですね」
「は?」
 シロは耳を疑った。だが確かに聞いた。彼女の口から「おめでとう」という言葉が出たのを。
「お祝いに今晩はお赤飯にしましょうか」
「ちょ、ちょっと待って欲しいでござるっ」
 一体何がなにやら。シロの頭は今にもこんがらかりそうだった。
「おめでとうって、一体何の事でござるか?」
「あら、決まってるじゃないですか。もちろんシロさんの……」
「だから! なんで祝わなければならないのでござるか!?」
 混乱が苛立ちに変わり、それが彼女の口から張り裂けるように出て行く。美衣はシロの怒声にたじろぐ事もなく、ただ彼女を見つめている。
「シロさん、お聞きしますけどあなたのご両親は?」
「母上は拙者がまだ小さい頃に、父上は暴走する仲間を止めようとして力及ばずに……」
 そう言い掛けて、シロは言葉を止めた。思い出しくなかったのか、顔を伏せるとうだなだれる仕草を見せて、何も言わなくなってしまった。気まずい事を聞いてしまったと、美衣はすぐに思った。
「そうでしたか、辛かったでしょうに」
「いや、そうでもなかったでござるよ」
 彼女はすぐに顔を上げ、苦笑いを見せる。とても複雑な笑みだった。
「拙者には仲間がいたから、決して寂しくはなかったでござる」
 気丈に振舞ってはいたが、どこか寂しそうな表情だった。美衣には少なくともその様に見えた。彼女がやって来て、まもなく一週間が経とうとしている。事情は全く分からないが、彼女はなにか思いつめるものを抱え込んでいた。我が家に舞い込んできた少女は。いや少女といっていいものだろうか? あの元気のよい振る舞い、あどけなさ。まるで少年のようにも見える。ケイが二人いるような錯覚にも陥る。だが彼女は彼女であり、一人の女性なのだ。その証拠として昨日、つきのものがやって来たのだった。その事実を彼女は知らない。自分を受け入れられてない。背格好は年相応なのに心はあまりにも純真であり、まるで子供だ。なので女のようで女ではなく男のようであり男ではなく、どことなく中性的なものを彼女に感じていた。まだ性の区別のはっきりしない子供のような感じ。そういうものを漂わせているように思う。
 美衣は彼女が可哀想に思えてきた。家族はいなく、天涯孤独の身。彼女は仲間がいるといったが、それならばここに居る必要はないはずだ。やはり余程の事情があるのだろう。
 自分の状況がどういうものなのかも分からず、それを教わる事もないままに今こうして床に臥す彼女はあまりにも不憫だ。気付くと、美衣はシロを抱きしめていた。
「い、いきなりなんでござるか?」
「大丈夫、大丈夫よ。怖くないから…!」
 突然、抱きつかれたシロは戸惑いながらも、彼女の暖かい体に触れて懐かしさを感じていた。この感覚は以前も経験した事がある。それはいつのことなのか自分の記憶を手繰ってみた。そうか、母上だ。シロははっと気付く。美衣どのぬくもりは母上のぬくもりに似ているのだ。心臓の音が穏やかに聞こえる。とくんとくん鼓動するのが、耳に伝わってくる。
(暖かい……)
 シロの気持ちは次第に安らいでいく。母に似た鼓動を聞きながら、再び落ち着きを取り戻していく。
「美衣どの、離れてくだされ」
「大丈夫ですか?」
「このとおり、大丈夫でござる」
 シロは軽く頷くと元気そうに振舞って見せた。
「良かった」
「びっくりしたでござるよ、いきなり抱きついてくるんでござるから」
「すみません」
「別に、謝らなくてもいいでござるよ」
 二人は顔を見合わせた。妙な沈黙があった。そして数秒も持たなく、二人とも吹き出していた。大笑いはしなくとも、部屋中に笑い声がこだまする。おかしかった。心から笑うのなんて、もう何ヶ月もしていないくらいにシロは笑った。
「あ〜、おかしかったでござる!」
「そうですね」
「拙者、気持ちが沈みすぎていたのでござるなぁ、なんだか申し訳ないでござる」
「あら、そんなことないですよ。ただ知らなかったから、余計に不安になったのでしょうね」
「知らなかった?」
「そうです。シロさんに起こったことは成長する上で、とっても大切な事だったんですよ?」
「? 一体どういうことでござるか?」
「それはですね」
 美衣は囁くようにそっと耳打ちする。話し終えると、シロはかぁっと顔がゆでだこのように真っ赤になっていた。
「……赤ちゃん、でござるか?」
「ちょっと話が飛躍しちゃってますけど。まぁ、結果としてはそういう事になりますね」
「し、知らなかったでござる」
「無理もないですよね、今までが今まででしたし」
「不思議でござる。一体、どうやってここから……?」
「それも知りたいですか? つまりおしべとめし…」
「いっ、いまは良いでござる!! ……痛っ!?」
 身を乗り出して必死に断ろうとしたら、急に下腹部が激しく痛み出す。堪えがたいくらいの痛みがシロの体にやって来る。
「だ、大丈夫ですか?」
「〜〜〜〜〜〜っ!」
 あまりに痛くて声が出ない。顔が歪みそうだ。
「こ、今度は何でござるか?」
「個人差はあるんですが、二、三日痛みを伴う事があるんです。私はそうでもありませんでしたけど、シロさんは相当痛そうですね」
「は、腹が裂けそうなくらい痛いでござる〜〜っ!?」
「仕方ないですね、今日はゆっくり休んでください。ケイもこっちには来させないようにします。もう一日くらい痛みが続くかもしれないですけど、我慢してください」
「し、しかしそれでは!」
 彼女の頭の中でケイの事がよぎる。だが母親はシロに面と向かい、言い放った。
「大人の言う事は良く聞くものですよ、シロさん。ケイの相手をしてくれることはありがたいのですけれも、あなたもまだ子供なんですから。それにあなたは一人の女性でもあるのですよ?」
「で、でも拙者は武士でござる!」
「武士であろうともなかろうとも、あなたは女なのよ!!」
 美衣はシロを一喝した。皮膚の表面がびりびり鳥肌が立つくらいにシロを圧倒する。
「お願いです。シロさん。あなたもいつか大人になります。いつまでも子供のままではいけないんですよ? ですから、もう少し自覚を持つようにしてください。武士であろうとするならそれもいいでしょう。けれどあなたは男性ではない、女性なのです」
 シロは何も言えなかった。考えてもしなかったし、それ以前に意識もしていなかったのだろう。美衣が口にしたことでようやく気付いたのだった。
 女。この世に性別は二つしかない。彼女は物心ついたときから当然のように父親を慕っていたし、自分もそうありたいと思っていた。父上のような武士になる。それが彼女の理想であり、目標でもあった。しかし、性別までは変えられようがない。自分は女だ。母上と一緒なのだ。どんなに父上の真似をしようとしても、自分は女なのだ。
「拙者は女子……」
 彼女の受けたショックは大きい。まるで自分の存在を否定されたような感覚にも陥っていた。
 自覚はないに等しかったとも言える。いや、どこか奥底にしまいこんでいたのかもしれない。そんな事は真剣に考えもしなかったのだ。もう帰ることがないだろう、あの場所はただいるだけで楽しかった。何も考えず気楽に過ごせた。散歩に行ったり、喧嘩をして怒られたり、何の責任も負わず明るく生きてきた。
 子供だったのかもしれない。いや、子供だったからこそ、過去を振り返ることも久しくなかったとも言えるだろう。体は大きくなっても、それに伴う精神の成長がなかったのは彼女の欠点なのだ。
『でもね、シロ。私はあなたにもう少し女らしく……』
 母上の遺言がまた浮かんできた。そしてようやく遺言の意味が分かったことに自分を恥じる。今更気付いた自分の鈍さに情けないとも感じた。やはり自分は子供なのか。もしちがうなら、自分は何者なのか?
 頭の中では考えがぐるぐるややこしくよじれる。眼前で悩む彼女を前で美衣はすまなそうな顔をしていた。彼女を悩ませてしまったことに責任を感じてるのだろうか。喋りだす口調も訥々であった。
「すみません。で、でも、今日のところはゆっくりと休んだほうがいいですよ?」
 美衣の言葉は、シロの頭の中に入ったのか入っていないのか分からなかった。しかし自分を気遣ってくれている事はありがたかった。シロは頭の中が目まぐるしく動くを一旦止め、彼女の進言に頷くのだった。


       ◆


 暑い。空気を吸うと息が途切れる。汗もびしょびしょ。早く水が飲みたい。
 もう秋も半ばというのに、二人は熱気に包まれている。弓矢を引く厳しい練習が容赦なく続いていた。長老の叱咤も日に日に過激になっていた。だが、二人に文句はなかった。それを言う余地すら、彼らの考えにはなかっただろう。全ては彼女を救うためだ。
「あんたも、粘るわね」
「はい?」
 美神は井戸水を頭から被る横島に向かって呟いた。
「なんか言いましたか?」
「根性無しのあんたがよく音を上げてないわねって褒めてあげたのよ」
 彼女は井戸からそう遠くは慣れていない岩壁に寄りかかり、脚を伸ばして座り込んでいる。
「心外だなぁ、根性無しなんて。おれだってやるときはやりますよ」
 彼はまた井戸水を頭から被り、ぷるぷると首を回して、余分な水分を弾いてから持参したタオルで髪の毛を拭いた。
「そうかしら?」
「そうですよ、疑うんですか?」
「別に」
 彼女は自分から話しかけ、自分で会話を遮った。空は青い。弱い日差しが突き刺すように彼らを照らしている。外気の気温と自分の体温との大きな差を感じながら、森から流れてくる肌寒い風を受けた。
「……戻ってもいいのよ?」
 風で肌に流れる汗が冷えるのを感じつつ、美神は再び口を開いた。
「何ですか、いきなり」
 頭を拭き終わろうとする横島は少し鼻で笑いながら聞き返す。
「いいの? 私たちがやろうとしている事はとても辛い事よ?」
「そんなの、美神さんだって承知の上じゃないですか」
「でも」
 横島は間髪入れずに言葉を続けた。
「俺は俺の意思で来てます。だからどうこう言われても、帰る気は全くないですからね?」
 会話はそこで止まった。すると、遠くから長老の声が聞こえる。
「お〜い、二人とも。休憩は終いにして稽古を再開するぞ〜っ!」
「おれたちを呼んでますよ」
「先行ってて。後から行くわ」
「お〜い」
「じゃあまた後で。今行きま〜すっ!」
 横島は長老の元へ向かった。美神は立ち上がると井戸水を汲み上げると、それを手にすくって顔を洗い始めた。冷たい。が、ほんの少し暖かくもあった。何度か繰り返し、顔には水が伝う。洗い終わると彼女は呟いた。
「ガキなんだから……」
 口から漏れた言葉。その口調は彼を揶揄するわけでもなく、嘲りもなかった。彼女はただ印象を述べただけだ。青い。そう言えば陳腐だが当を得ていると思う。彼の態度を実に言い表せている。横島もまた覚悟の上なのだろう。ならば、自分も頑張らなければ。美神は決意を新たにしていた。
 しかし、まだ美神は気付いていなかった。横島はシロを助けに来ていることを。そう、この時点では、まだ。
「それじゃあ、行きますか!」
 美神も再び稽古へ戻っていった。そして思惑はすれ違ったまま、秋の昼間は冷えていく。

 
 続く


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