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下弦の月

記憶


投稿者名:ライス
投稿日時:05/ 4/30



 さて夜は明けて、また陽が昇る。
「では、始めるとしますかの」
 長老は目の前の二人に告げる。ここは野原の一角。周りは森。美神と横島は人狼の村にやって来ていた。
 美智恵と西条の姿はない。向こうは向こうで本部から離れられないのだ。こちらが崩れた場合の最後の砦としての機能も果たしている。それに意識が戻ったとは言ってもまだ万全でないタマモの事もあった。だから今回はおキヌも連れてきてはいない。彼女にはタマモの看病を任せた。元々戦闘向きでない彼女である。シロが自分ら二人の手で殺される所を見せたくはなかった。すべては昨日話し合った結果であった。
「話したとおり、時間はあまりない。ですから、特訓は随分駆け足になると思うので覚悟してくだされ。わしもあなた方を客として扱わず村の者のように扱う。なので指導は厳しくなるかと思うが、よろしいかな?」
「オッケーよ。いいわね、横島クン?」
「はい」
 横島は低い声で頷いた。どこか冷めたような口調だったが、彼には確固たるものが見え隠れしていた。美神に申し出た時、当然のように拒絶された。彼も食い下がる。なにを馬鹿な事言って、といい顔しなかった美神達も、ついには彼の熱意に根負けしてしまった。しかし、条件が付かなかったわけではない。
 第一に、あくまで役目は美神であるということ。横島はそのサポートとして付いて行くことを認められた。当然の流れであった。シロに助けるためには現場にたどり着く事が先決である。これは大きな一歩だった。彼も納得してこの提案を了承した。そして、長老を連れた二人は昨夜一晩かけて人狼の村に到着したのだった。
「でも、なんで俺まで特訓に?」
「なに言ってるのよ。私に万が一の事があったら、あんたがやるんだからね?」
「あ、そういう事ですか」
「ったく。もうちょっと緊張感持って欲しいわね? 嫌だったら帰ってもいいのよ」
「帰りませんよ。絶対に」
「それでは準備はよいか? 二人とも」
 長老は咳払いをする。そして表情が変わった。特訓が始まるのだ。二人は気を引き締めると長老に注目した。後戻りはできない。シロのために。みんなのために。二人の思惑はまた微妙に違っていたが、その根底に違いはない。日差しは暖かった。秋も深まり、紅葉が木々を彩って、森は鮮やかだというのにこの小春日和。不気味なくらいの秋の陽気だった。空では太陽に雲が差し掛かり、地上に影を落とそうとしている。そんな雲の多い日だった。


       ◆


 ここに来て四日、正確には五日が過ぎた。ここ最近、ニ、三日の気候の寒暖の差が激しすぎたせいだろうか。シロは具合が悪かった。
「う〜ん」
 寝込むほどではないので、なんとなしに起きているがやっぱり良くない。身体が妙にだるい。わずかに感じるだるさではあったが違和感を持っていた。
 特にすることもない。だが、彼女の内で煮え上がるものがふつふつと湧いてきている。いよいよ防波堤も限界に達そうとしていた。頭の中でせめぎ合う狂気と正気。いやだ。けれども一歩踏み間違えば、正気の向こう側を心地よいとする自分がいる。我慢できるのか? 我慢しなければならないのだ。だが胸の内では耐え難いくらいの葛藤が繰り広げられている。武士としての良心の呵責が、そしてどす黒い悪意が渦巻く殺意が彼女を攻め立てる。人知れずあがく自分。あがかなければ、その瞬間に大切なものが失われてしまうのだ。
「シロ姉ちゃ〜んっ!」
「あっ、ケイ」
 自分を呼ぶ声が聞こえた。ゆっくりと立ち上がり、シロは縁側から表へ出ると向こうから元気よくケイが走って来た。彼女はふらふらと彼のやってくる方向に歩み寄った。その様子を見ていたケイもまたシロの方へ近付いてきて、
「大丈夫?」
と、気に掛けてくれる。
「このくらい、大丈夫でござるよ」
 強がってみるがやはり気分は良くない。太陽は照っている。だが、その暖かさはこの深い森にまで届きはしない。ただでさえ日差しは弱くなっている。周りの外気も寒いくらいにひんやりとしていた。
「あっちに川があるんだ。魚も泳いでる。これから一緒に行こうよ」
「だめよ、ケイ。お姉ちゃんは具合が悪いんだから」
 脇で洗濯物を干していた母親の美衣が注意した。しかし、ケイはシロの腕を引っ張って駄々をこねる。
「え〜! ねぇ、いいでしょ? 行こうよ〜、シロ姉ちゃん〜」
「わがまま言わないの。あとで母ちゃんが一緒に行ってあげるから」
 息子を言い聞かせる母親。シロはなぜか新鮮な気分に陥っていた。そして同時に不可解な胸の苦しさも覚えていた。体調不調からではないが、なにか心情的にずきんと来るものがあったのだ。
「大丈夫でござるよ。美衣どのは拙者に構わず仕事を続けてくだされ。ケイの面倒なら安心して欲しいござる」
「そ、そうですか? でもあんまり無理なさらないで下さいね。ケイもあんまりわがまま言って、お姉ちゃんを振り回さないのよ」
「分かってるよ!」
 ケイは母にそう言うと、シロの腕を引っ張る。シロはそれによろけながら彼の後についていった。彼女達は森の奥へ入っていく。母は溜息混じりにその姿が見えなくなるまで見つめていた。シロの不調は分かっている。しかし、本人が大丈夫というのであればそうなのであろう。美衣は予期している事が杞憂になってくれればいいと願いながら、再び洗濯物を干し始めたのだった。


       ◆


 川原には光が差し込んでいた。いつの間に深い森を抜けたのだろうか。それともここは森の狭間なのだろうか。とにかく川のせせらぎと共に神々しいまでの光が輝いている。シロにはあたかもそんな風に見えた。
「わあ……!」
 なんとも奇妙な風景だった。川原にだけ光が差し込み、その両側には光が差し込まないような鬱蒼とした林がずっと奥まで広がっている。ただそこだけのみが光の侵入を許しているのだ。光と闇が共存していた。シロはその場のなにか得体の知れない美しさ、あるいは魅力に感嘆していた。
「シロ姉ちゃん、こっちこっち!」
 ケイはすでに川の上流の方へと先走って、手を振りながらシロを呼んでいる。上流では滝が大きな音を立てていた。近くに寄ると水しぶきが飛び散り、服がほんの少し湿り気を帯びる。辺りは水が流れているせいか、ひんやりとしていた。少し肌寒いくらいの気温だった。
「こっちだよ!」
 シロは呼ばれるままに、滝壺から少し離れたほとりへと歩み寄っていく。滝のほとりの岩場は少しおも高くなっていた。彼女達が立っている岩場から下が若干深くなっているようだ。それ以上に低い足場は無かった。川は下手して落ちたら、自分でも溺れそうな深さである。
 ケイはいつの間にやら川に頭を近づけていた。岩の上から上半身を乗り出して、側を流れる川の中をのぞき込んだ。すると彼につられ、シロも一緒にのぞき込んでみた。そこにはニジマスなどの川魚が何匹か泳いでいた。
「魚でござるな」
「釣れるかな?」
「やってみないと分からないでござるよ、ケイ」
 すると彼はじっと泳ぐ魚を見る。魚は身の危険を感じたのか、彼の視線から逃れるように岩陰に隠れてしまった。
「……やってみたいでござるか? 釣りを」
 シロはさりげなく聞いてみた。ケイはその言葉を聞くと目を輝かせると、たった一言。
「うん!」
 と、元気よく頷いた。
「よぅし。そうとなれば決まったでござる。たくさん釣れれば今日は焼き魚でござるな! ケイの母上もきっと喜ぶはずでござろう」
「じゃあ、頑張らなきゃね!」
「それじゃあ、拙者は釣竿にする竹を探すから、ケイはミミズを捕まえてほしいでござる」
「うん、分かったよ! シロ姉ちゃん」
 二人はそれぞれ分かれて、目当てのものを探しに行った。そして数十分後、先に川に戻ってきたのはシロだった。手には二本の細い竹を持っている。
「ケイはまだ来てないようでござるな」
 彼女はさっきいた滝のほとりでケイを待つことにした。すると彼は下流の方から元気一杯に走ってきた。どこから持ってきたのか、バケツを片手にこちらへ向かってきている。
「シロ姉ちゃ〜〜んっ!」
 川中にはごつごつとした飛び岩が、大小そこここに存在している。対岸からやって来るケイはその岩々を軽快に飛び駆けて、シロの立つほとりを目指す。そんな調子で飛び越えていくと、
「わっ!?」
「危ないっ!」
 彼は途端に体勢を崩した。岩にこびりついた苔に足を滑らせたのだ。幸いシロのいる場所のすぐそばだったので、滝に落ちることはなかった。
「ふぅ。もう、気をつけるでござるよ? ケイ」
 彼女はとっさにケイの腕を掴んでいた。
「ここら辺は岩に苔が多いみたいでござるな、滑らないように注意するでござる」
 確かに苔は多かった。おまけに川中に突き出している岩は水に濡れていて、余計に滑りやすくなっている。
「う、うん」
 腕を引っ張られて元の体勢に戻ったケイはうなずき、足元を注意した。
「で、どうでござったか?」
「いっぱい取れたよ! ほら、こんなに」
 彼はそう言って、バケツの中を見せる。ミミズはうにょうにょとバケツの中を押しやらんばかりに何十匹もうごめいていた。一見、気色の悪い光景ではあるが見慣れればどうという事はない。シロも一瞬、その多さに仰け反ったが、すぐさま気を取り直すとまるで驚いた表情をして話し始めた。
「ばっちりでござる! それにしてもよくこんなに沢山捕まえられたでござるな?」
「えへへへ」
 ケイは照れ臭そうに笑う。
「こっちも準備はばっちりでござるよ!」
 シロは釣り竿を彼に見せた。先には糸が垂れていて針も付いている。細く長い綺麗な青竹だった。
「糸と針は家に戻って調達して、それを上手に細工してみたでござる」
「うわぁ、本物の釣竿みたいだね! シロ姉ちゃん!」
「そ、そうでござるか?」
 ケイが嬉しそうな顔をする。本当に嬉しそうだ。ここまで喜んでもらえるとシロも悪い気はしなかった。しかし体調は必ずしも良いとは言えないし、不安と葛藤が頭の中をさまよっている。そう遠くないいつか、自分が自分でなくなってしまうかもしれない。いや、考えるのはよそう。こんなこと考えていても気が沈むばかりだ。彼女はそっとケイの手から釣竿を取ると勇ましくというよりは快活な口調で、高らかに宣言する。
「さぁ、釣りを始めるでござるよ? 出陣の用意はいいでござるか、ケイ」
「もちろんだよ、シロ姉ちゃん!」
「じゃ、これよりしゅっつじ〜ん!!」
「お〜〜っ!」
 そして二人は魚のいそうなポイントを目指す。ちょうど川原は小春日和にほのかに暖かく、森の冷ややかな質感を僅かながら取り払っていた。そしてミミズが刺さった二つの釣り針は岩の上から垂らされたのであった。


       ◆


 十分、三十分、一時間経っても『引き』はこない。それは二時間、三時間先でも結果は同じだった。ただ時だけが流れていく。釣りではあせらず落ち着いて我慢強くじっくり待つことが、簡単なようでとても重要な事だ。だが、待てと言われても限界があった。
「あ〜も〜、釣れないでござる!!」
 先に音を上げたのは無論、シロの方だった。彼女はばったりと岩の平たい面に背中から倒れこんだ。そして大の字で寝転がるように腕を横に伸ばして空を見上げた。空では雲が流れている。上空の風が強いのか、いつものような雲のゆったりした流れではなく、まるで激流のようにとても流動的なものだった。
「当てが外れたでござるなぁ〜っ」
 流れゆく雲を見上げて、シロは残念そうに言う。すると、あざ笑うかのように魚が水の中で跳ねる。それを中心として水面で波紋となって静かに広がっていった。
「もう少し待ってみようよ」
 ケイは言う。どうやら沢山釣れなくても一匹ぐらいは釣りたいようである。
「え〜、もういいでござるよ? 拙者、今日の晩ご飯が魚じゃなくてもいいでござる……」
 彼女はすでに諦めかけていた。釣りに誘った本人がやる気を失うのも問題である。しかし、それでも魚は食いついてこようとはしなかった。
「ケイ〜」
「もう少し!」
 気が付けば夕方。辺りは少し肌寒くなってきた。若き太公望は依然と石の上に座り込み、釣り糸が揺れるのをただ待っていた。
「日も沈んできたし、今日はあきらめるでござる。ケイ」
「でも」
「釣りはまた出来るでござる。母上が家で帰ってくるのを待っているでござるよ?」
「シロ姉ちゃんはいつまでここにいるの?」
 辺りを風がよぎった。うすれゆく夕日に森が静かに唸る。寒々とした川原の上流からは、流れ落ちていく滝水の音が耳にずっと鳴り響いていた。ケイが何かを言っていた。けれどもシロはそれを良く聞き取ることは出来なかった。
「え?」
「嬉しいんだ、シロ姉ちゃんがいるのが。ぼく、いつも遊ぶの一人だったから……」
「ケイ」
「母ちゃんはいつも忙しくしてるし、人間が来るか来ないか警戒もしてるから。あんまり一緒に遊んでもらえないんだ。だからぼくはいつも独りぼっちで遊んでた。どういう理由でここにいるのか知らないけど、ぼくはシロ姉ちゃんが来たことがなんだかとても嬉しかったんだ」
 シロは何も言わず、ケイの言葉を聞いていた。寂しかったのだろう。彼は遊び相手が友達が欲しかったのだとようやく彼女は気付いた。なんで頑なに自分と遊びたがっていたのか。それは遊ぶ相手が今までなかったからだ。親はいたけれど、友達と遊んだことなんてほとんどなかったのだろう。おまけに彼ら親子もまた人外の者である。その上、決まった群れを持たない化け猫であるから、同族に会うことなんてほとんどないだろうし、その機会も皆無だろう。そうなると子どもであるケイは必然に孤独を覚えたはずである。
 そうか、拙者と一緒なんだ。彼女は思った。違う状況ではあるが彼が感じているものは、少なからず自分と一緒なのだと。自分には親に接する機会が無かった。特に母上。父上は父上で楽しい事もあったが、父上には仕事があったからそう長く遊ぶ事は出来なかったし、まして母上は病弱だったから一緒に外に出て遊ぶなんてことは全く無かった。だからケイが母親の美衣と一緒にいる時、胸が痛んだのも、きゅっと締め付けられたのも、羨望からの妬みだったのだ。自分がすることのなかった事をしているケイの姿を心の奥底で悔しがっていたから。どうしようもない思いを掘り返して、ぐしゃぐしゃにしていたのだと思った。そう考えて、なんだかシロは自分が恥ずかしくなってきていた。
「すまぬ、ケイッ」
「シロ姉ちゃん」
「拙者は、拙者はっ!」
 シロはケイの前に立ち尽くしていた。日はますます暮れ、辺りは暗くなり始めている。ケイはシロの顔を見ていた。暗くなったせいか、彼女の顔は半分以上薄暗い陰に隠れてよく見えない。しかし、彼女の口調から察するに、慙愧に耐えられないといった風であった。
「いきなり、どうしたの?」
「いや」
 シロは瞬間、目を逸らしたがすぐにまた目を合わせて言った。
「ケイは強いでござるなぁ、ずっと一人で我慢してきたんでござるから」
「ううん、そんなことないよ? でも、ぼく男の子だから。母ちゃんがいつも言ってるんだ、男の子なんだから我慢しなさいって。でもね、シロ姉ちゃん」
「ん?」
「やっぱり一人で遊ぶより、シロ姉ちゃんと一緒に遊ぶ方が楽しいんだ!」
「っ、当たり前でござる! 一人で遊ぶより二人三人で遊ぶ方が楽しいに決まってるでござろうっ」
 シロはケイの頭をくしゃくしゃと強引になでた。照れ隠しなのか知らないが妙に力が入っていたので、ケイが嫌がった。
「痛い、痛い!」
「と、力の入れすぎでござったな。ハハハ!」
「もぅっ」
「さぁ! 日も暮れたことだし帰るでござる」
 と、次の瞬間だった。ケイの釣り竿に待ちに待った『引き』がやってきたのだ。
「し、シロ姉ちゃんっ!?」
 ようやく食いついてきた魚は必死に抵抗していた。釣り竿は大きくしなり、糸は引きちぎられそうだ。ケイは目一杯、竿を支えていたが魚もそれに応戦して一歩も譲らない。
「そのまま竿を引っ張るでござる!!」
 シロはすかさずケイの釣り竿を一緒に持ってやり、思いっきり引っ張った。魚は岩の陰に隠れようと水面を荒らして力強く、身を大きく動かしている。
「くっ、こしゃくな! 敵はよっぽどの大物でござるな!」
 こうして二人と一匹の攻防戦はこう着状態へ。水面では水が弾けている。魚が動くたびに釣り糸が切れないかはらはらしながら、二人は決して竿を放そうとはしない。その攻防が何度も繰り返されていた。これは長期戦になるかと思われたが、決着はあっけなく一瞬でついた。針に掛かってからも威勢良く暴れまわっていた魚が、ほんの少し釣り竿の引っ張る方向に身体を向けたその時をシロは見逃さなかった。
「今でござるっ!!」
 するとシロは力のあらん限りを尽くして、しなった竹を今まで以上に思いっきり引っ張り上げた。隙を突かれた魚は水面を飛び出し、空に舞った。魚は大きなニジマスだった。薄暗がりの夕日の中。夕暮れはこころなしかどす黒く見えた。しかし、二人はそんな景色の事なんかまるで気にかけていなかった。今はただ魚が釣り上げたことを喜んでいた。
「釣れた、釣れたよ!! シロ姉ちゃん!!」
「やったでござるな、ケイ!!」
「うん!」
 笑顔から歯がこぼれるケイ。とても嬉しそう。二人で協力して釣れた魚だからこそ、ケイにはこの上ないくらいの喜びだろう。シロはそう思った。笑顔のケイを見ていると良かったと心から思えた。友達と一緒に遊べる楽しさを感じてもらえたことが。そして、自分はケイの友達になれてよかったと。彼女の気持ちはすっかり晴れやかだった。
 しかし、喜ぶ二人をよそに魚は虎視眈々と機会を狙っていた。油断は禁物。喜ぶあまりに二人はある事をすっかり忘れていた。そう、魚を釣り針から取ることを。宙ぶらりんとなった魚はまだ諦めてはいなかった。彼はえら呼吸もままならなかったが、まだ抵抗を続けていたのだ。その大きな身体を小刻みに動かしていた。それは振り子の要領で次第に振れが大きくなっていく。そして。
「あぁっ!?」
 魚は釣り針から逃れることに成功した。一瞬だった。だが次の瞬間。
「待てーーっ!!」
「け、ケイ!?」
 動物的勘かそれとも本能か。とにかくケイは逃げた魚を追うために岩場から飛び出した。魚もろとも川に沈む少年。川の流れは滝に近いせいもあって、けっこう急流である。深さは先ほど目算したとおり、彼ぐらいの子どもだったら溺れかねないものであった。すると、ケイは水面から顔を現した。すでに飛び込んだ場所からは大分流されている。
「シロ姉ちゃん、助けて!!」
 彼は川の急な流れに押されて、溺れかけていた。あっぷあっぷしながら顔が水の中を出入りしている。
「ケイ!」
 助けなくては。シロは自然と己が意識に訴えかける。身体は流れる方向へと駆け足で向かっていた。でもどうすればいいだろうか? 考えている暇もない。すぐにでもケイを助けないとまずい。そうなると方法はただ一つ。気付くと、彼女は川に飛び込んでいた。
 水は冷たかった。しかし今は命が掛かっている。そんな事は気にも掛けていなかった。一心不乱に下流へと泳ぐ。水しぶきが散り、さらには川の水が顔面全体、はたまた耳の穴まで入り込んでくる。鼻がつんとなってきた。彼女も決して泳ぎが上手と言うわけではなかったが、それでも必死に溺れる少年に追いつこうとしていた。川の流れもあってすぐに追いつくことが出来た。
「大丈夫でござるか!?」
 ケイの片腕をなんとか掴み、引っ張り上げた。彼はむせ返ってはいたが怪我はどこにも無さそうである。そして彼女は彼の首に自分の腕をひっかけると流れに逆らいながら、対岸の岩に近づいていった。
 何度か岩苔に滑りながらも、ずぶ濡れのケイの身体を岩の上へと持ち上げると彼女も岩を登ってようやく川から脱出できた。二人は息を切らしながら岩の上で座り込んでいた。ぽたぽたと雫が岩に落ちてゆく。岩には大きな水のしみが二つ出来上がった。
「い、いきなり、飛び込むとは、お、思わなかったでござる」
「ご、ごめん」
「死にかけるところだったのでござるよ?」
「ごめん、で、でも釣った魚を母ちゃんに見せたかったから……」
 それを聞いてシロは溜息を一つ、大きくついた。
「ケイ。分からないでもないが、それはいけないでござる」
「母上に自分の釣った魚を見せたいのはよく分かるでござる。でも、逃げた魚を捕まえに飛び込むなんて無茶なことはしてはいけない事でござるぞ? ケイの母上はケイが元気に帰ってくるのを待っているはずでござる。もしケイが助かっていなかったら拙者も悲しむだろうし、母上もきっと悲しむでござるよ?」
「……そうだね、ごめんなさい」
「気にしなくて良いでござるよ。今度から気をつければいいんだし、魚なんてまた釣れるでござるよ。今日は運が悪くて逃げられてしまったござるがなに、明日があるでござる。明日もまた釣りしに来るでござる!」
「うん」
 言われた事を気にしているのか、元気のない答えが返ってきた。
「なにしょんぼりしてるんでござるか! 男の子なんだからこのくらいでくよくよしてはだめでござるぞ? ほら、元気を出すでござる!」
 シロはケイの背中を強く叩いた。
「痛いよ、シロ姉ちゃん」
「痛がる元気があるなら、もう大丈夫でござるな!」
「もう」
 ケイは少し不満げに顔を膨らませてみせた。それがなんだかおかしかったのでシロの笑いを誘った。
「笑わないでよ、もうっ」
「ごめんごめん。さぁ、もう大分日が沈んできた事だしそろそろ帰るでござる」
「あっ、シロ姉ちゃん」
 夕日はもうすぐ山の向こうに沈もうとしていた。森もまた深い闇に包まれようとしている。二人が帰ろうとした矢先、ケイがいきなり呼び止めた。
「どうしたんでござる?」
「血、出てるよ」
「え?」
 ケイが指さしたのは濡れた太もも。水滴の中に一筋の黒っぽい線があった。辺りが暗いせいでよく見えないが、確かにそれはあった。不思議に思って、その黒い筋を指で触ってみた。一本だった筋は拭い取られ、指先には滲む黒いものが集まった。彼女はその指をなるべく光のある所で見てみた。夕日は沈みかけているので薄暗かったが、それでも色ぐらいは確認できた。赤い。やはり血だ。
「あれ?」
 どこも怪我をしていなければ擦りむいてもいない。おかしい。シロは慌てて太ももに流れる血を手で拭った。しかし血はどこからともなく再び流れ落ちてきた。
「あれ? あれ? 一体どこから……」
 拭いとっても拭いとっても、流れ落ちてくる血。シロは次第に困惑し始めていた。
「だ、大丈夫? シロ姉ちゃん」
「お、おかしいでござる!? なんで血が流れてくるんでござるか? どこも怪我をしてないというのに、おかしいでござるよ!? 一体、いったい拙者の身体はどうなってしまったんでござるかっ!?」
「お、落ち着いてよ、シロ姉ちゃん! い、今、母ちゃん呼んで来るからそこで待ってて!?」
「あ、待ってケイ。待つでござる! 拙者を一人にしないで!? 頼むでござる!」
 シロの悲痛な叫びも走り急ぐケイの背中には届く事はなく、その姿は闇に消えていった。
「ケ、イ……」
 不安が広がっていた。こんなことは初めてだった。突如、起きた体の異変。どうしたらいいのか、さっぱり分からない。一体なにが起きたのだろうか。彼女は側の大きな木に寄りかかり、そして座った。頭がくらくらしてきた。そう言えば、体がだるくて気分がすぐれなかったのを今更思い出した。さっき川に飛び込んだせいで風邪を引いたんだろうか。もうなにがなんだか。
 もう何も考えたくはなかった。みんなの事も自分の事も何もかも。とりあえず、横になろう。彼女は瞳を閉じて休んだ。視界は真っ暗闇になった。しばらくそのまま無言で静かに、静かにシロは黙り込む。森のせせらぎが聞こえる。上空の風はまだ強いようだ。その葉が揺れる音も次第に聞こえなくなり、風は止まったかに思えた。
 さらに時が過ぎていく。すると、彼女の目の前には突然懐かしい顔が思い浮かぶ。それは母の苦しそうな笑顔だった。
「母上」
 母は辛そうに微笑みかけている。
「シロ、私はもう行かなければなりません」
 そんな、いやだ。シロは強く思った。
「私はあなたという子を授かって幸せでした。これからは父上の言う事をちゃんと聞き、武士道に精進しなさい」
 いやだ、いやだ、いやだ。シロはとても強く思う。しかし母は怯える彼女の頬を触れて言った。
「でもね、シロ。私はあなたにもう少し女らしく……」
「母上!?」
 頬を触れる手が力なくそっと落ちていく。そして二度と母が喋る事はなかった。
 そして、目を見開く。目の前に広がるのは真っ暗な森。遠くで聞こえる滝の音。時折、風に吹かれて木々の葉がかさかさ擦れあう音が聞こえる。
「なんだ、夢でござったか」
 シロは呟いた。頭が重い。大分寒くなってきていた。意識が朦朧としている。見上げてみると空には星空が広がりつつあった。今日に限ってなぜか月が夜空に見当たらない。どうやら今夜は新月の晩らしい。
 しばらく月の無い夜空を見ていた彼女。その視線は切なげに憂いに満ちていた。一点の闇。そこには月があるはずだが今はない。シロは視線を闇に合わせていた。星々の光も寄せ付けない完全なる闇。瞳は闇に魅入られていた。そして彼女の瞳孔が開く。まるで闇に吸い込まれていくかのごとく。あるいは闇を全て飲み込むように。彼女はじっと見つめていた。
「母上……、拙者の体はどうなってしまったんでござるか?」
 視線を元に戻すとシロはうつむき呟いて、そのまま気を失ってしまった。遠い母の記憶を振り返りつつ。不安と恐怖とうごめく狂気に苛まされながら。


 続く


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