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そして続く物語

発表準備


投稿者名:ゼロ
投稿日時:05/ 4/28

 その日は珍しく、オカルトGメンに唐巣が訪れていた。
 彼はしばらく美智恵と歓談した後に秋美と横島を呼び、やってきた彼らに重大なニュースを告げてきた。

「少し先の話になるけれど、『組み込み計画』の交渉について、今度ドイツで行われる学会で発表してみないかい?
 もちろん、この件についてはオカルトGメンにも、協会にも、日本政府にも話はつけてあるよ」

「ドイツに発表に行くって………誰がっすか?」

「君達だよ。横島くん、八代さん」

「…………ちょ、ちょっと一体いきなり何を言い出すんですか、唐巣さん!」

 焦燥と困惑の混じった声を出す横島。その横では秋美も驚いた顔をしている。

「政府とオカルトGメンとうちの協会がここいらで少し詳しい情報をオープンにしようと決めてね。
 とりあえず四ヵ月後にドイツのマンハイムの郊外でオカルト関連の学会があるんだけど、
 そこに来るオカルトの関係者も一般の人に君達による『組み込み計画』の具体的な成果を少しだけ発表しようという事になったんだ」

 落ち着いた表情を崩さずに述べていく唐巣と無言で頷く美智恵。

「発表といわれても、俺は全然そういうこと分からないっすよ。英語だって日常会話がなんとかなるくらいですし」

 驚くべき事に横島は英語での会話をこなす事が出来るのである。
 これは、この数年で美神から外国で仕事をする際に必要だからと徹底的に叩き込まれた事による。
 しかし、専門用語を駆使して説明したり質疑応答をこなすには横島の英語では役不足である。
 更に、少数対少数での交渉には慣れている横島も、大勢の前で公演するような経験はなかった。

「そのあたりの事は柔軟に対処すればいいわ。幸い八代さんは英語が堪能よ」

 美智恵の言葉に横島が隣を見ると、秋美が少し照れたような表情で俯いていた。

「秋美さん。それ、本当?」

「あ、あのその、オカルトGメンに入るときに英語ができないと駄目だったので必死で勉強しました。
 ですから英語の論文を読むくらいなら問題ないです」

 小声で話す秋美の言葉に、横島の意識が少しだけ遠くなる。
 忘れていたのだが、オカルトGメンはICPOの組織の中の1つなのだ。
 霊力の大きさや霊的戦闘力はともかく、ある程度以上の知識や教養がなければ当然入ることなどできない組織だったのだ。
 しかし、出向してまで計画に関わっている以上、横島に拒否権はない。
 厄介なことになりそうだと感じてブルーになっている彼の耳に唐巣の説明が聞こえてくる。

「人外の存在と交渉する時のケースでどのような方法が有効なのかについて発表してみたらどうだい?」

「でも、それは相手によって千差万別ですよ?普遍性を持った方法なんてありますかね」

「そのあたりは、交渉を重ねて蓄積した経験則による結論でいいよ。
 君達よりも人外の存在との経験が豊富な霊能力者なんて数えるくらいしかいないんだから、
 論理だった反論ができる人はいないだろうしね」

「…………拒否権はあるんですか?計画のほうが忙しくなったら、そもそも発表の準備なんておぼつかなくなると思うんですけど」

「横島くんたちが発表するのなら、準備のほうは唐巣先生が手伝ってくださるし、私は貴方達の代理として計画の担当に回ってもいいわ」

 いざとなったら令子にも手伝わせれば済むだけだしね、と言いながら退路を塞いでくる美智恵。
 結局、揃って笑顔を浮かべながら話す唐巣と美智恵に抗しきれずに、
 横島たちはドイツのマンハイムで行われる学会に発表する事になった。

「とりあえず横島くんの文章力が知りたいから、今日中にさっき言ったテーマでレポートを書いて、私に見せてね」

 その美智恵の言葉に頭を抱えたくなりながら、逃げるように横島は退出していく。
 その姿を微笑ましげに見送る唐巣と美智恵だったが、
 傍目から見れば横島を苛めて楽しんでいるようにも見えなくない。


 この突然の学会の参加には当然裏の事情が絡んでいた。
 『組み込み計画』の理念や成果については、既に国の発表などである程度の情報が公開されているが、
 横島達の行っている交渉のについての情報は明らかにされていない。
 計画がスタートしてからまだ1年も経ってない現状ではそれが当たり前なのだが、
 人外の存在と人との橋渡しを担う事もあるGSにとって、横島達の取り組みには興味を抱かざるをえないだろう。
 そこに目をつけた美智恵や針谷が、この際にある程度の情報を明らかにすることで、
 世界各国のオカルト関係者の関心やその繋がりを深めようと目論んだ結果が、このマンハイムでの発表だった。
 建前は情報交換にも消極的だったはずのオカルトGメンと協会は、
 『組み込み計画』に関してはいつのまにか良好で円滑な関係を築きつつあるようだった。





 その日の昼、レポート作成に頭を悩ませていた横島は美神の知恵を借りようと事務所を訪れていた。
 事情を話すと彼女は少し懐かしそうにしながら遠くに目をやる。

「へー、あんたも唐巣先生に発表用のレポートを作成するように言われたの」

「も、って事は美神さんもやった事があるんですか。というかあの人はそういう事に詳しいんすか?」

 少し驚いたように聞き返す横島に美神は呆れたように返事をする。

「あのねえ、横島くん。私もあんたにそういう事に関しては何も言ってなかったけど、あんたも知らなさすぎるわよ。
 唐巣先生は、仮にもあんたの上司になったんだから少しは調べなさい。
 …………あの真面目で勤勉な唐巣先生が論文を書くのが苦手なわけないでしょ。
 あの人は国際的にも有名な論文を既に幾つも発表してるわよ。例えば、これね」

 そう言って立ち上がった美神は、本棚の中にあるファイルからある論文を抜き出して横島に見せる。
 その論文には『神の前では全てが平等』と書いてある。
 一番後ろの年月を見ると、それは唐巣が15年ほど前に執筆したものだった。

「横島くん。その論文はあんたの計画やうちの事務所の方針の建前と結構似たような事が書かれてるのよ」

 そう言われて横島は真剣に中を覗き込む。
 美神がティータイムを他の楽しんでいる間に彼はそれに素早く目を通して要点を把握する。

「『宗教的には不浄の存在とされているものにも神の愛は等しく注がれている。
 よって、それらの存在にも分け隔てなく救いの手を差し伸べるべきだ』
 って事ですか。でも、少し唐巣さんらしくないっすね。
 なんだか聖職者の目からその他を見下ろすように書いてあるというかなんというか」

「まあ、当然そう思うでしょうね。
 でもね、この内容だって15年前の状況では相当先鋭的な内容だったのよ。
 今でも、人間から見て異端の存在を尽く滅ぼすべし、って考える過激派だっているし、
 そうでなくともキリスト教圏での魔物への恐怖ってのは、八百万の神への信仰があった日本とは比べ物にならないんだから」

「それで、発表しても大丈夫だったんですか?」

 現在、この計画がとある宗教圏では評判が良くないことをなんとなく知っている横島は首を傾げる。

「ええ。先生もそこは考えていたらしくてね。
 神への賛美と偉大さを説いた上で、
 『その御心は我々には到底及びもつかぬほどに深い慈悲に溢れている。故に異端なる者へ手を差し伸べることも厭わない』
 という風に書いているのよ。
 これを否定すると、神の愛と慈悲深さに対する批判と受け止められかもしれないから、
 この論文を快く思ってない人間も表立って先生を非難しているものは殆どいないかったわ。
 でも、もしそこで更に踏み込んで、今、私達が今やってる事と同じような理念を掲げたら、
 先生は大勢のキリスト教徒から吊るし上げを食らって、論文は燃やされたでしょうね。
 だからその論文を書いたときも、仕方なく聖職者の立場を一段上に設定したって言ってたわ」

「成る程。考えてみれば真面目で勤勉なあの人には、こういうのを作るのがぴったりっすね。
 でも、こういうのを発表するのって何かメリットがあるんすか?」

「良い物を書いて発表できれば、少し長いスパンで見ればメリットも多いわよ。
 例えば横島くん。本来吸血鬼にとって天敵であるはずのエクソシストをやっている先生に、
 ピートが弟子入りしたうえ、更にブラドー島の秘密まで打ち明けたのは一体何故だと思う?」

「唐巣さんの性格から大丈夫だと判断したんじゃないっすか?」

「それは弟子入りした後の話でしょう。
 そうでじゃなくて、そもそもどうしてピートが最初に唐巣先生を頼ったのかは、
 彼がその論文の内容を読んで、唐巣先生なら信用できる相手だって思ったからだそうよ」

 普通は島民全体が吸血鬼の血を引いていることを知ったら、
 エクソシストはおろか普通のGSでも関わりになろうとしないだろう。
 しかし、唐巣の論文が様々な意味で大きな反響をよんだおかげで、ピート達は幸運にも彼と巡り合うことができた。
 もし、がちがちの考え方をしているエクソシストがブラドー島の事を知ったのならば、
 有無を言わさずに精霊石弾頭ミサイルをうちこんで島民の抹殺のために島ごとふっ飛ばしたかもしれない。
 現在は、アシュタロス大戦においてピートが功労者の一人としてマスコミに取り上げられて有名になり、
 その影響で、ブラドー島の島民に手を出す者はなくなり、彼らは平穏な暮らしを享受している。

 余談ではあるが、十字架が吸血鬼の弱点とされているのは、
 エクソシストが信仰の象徴の1つである十字架を媒介にして霊力を引き出して吸血鬼を灰に返してきたからである。
 だからこそ、十字架だけでは吸血鬼には殆ど効果はなく、
 従ってピートが教会で暮らしている間も体調で問題が起きる事はなかったのである。


「そんな事があったんすか。それで美神さんはどんなレポートを作ったんすか?」

「最初に書いたのは、免許を取って研修を終えて独立する少し前なんだけどね。
 先生の論文をもじって『金の前にはみんなが平等』って題で書いたんだけど、
 先生に見せたら、先生は青褪めた顔でその日ずっとマリア像の前で懺悔し続けるんだもの。
 あれは怒られるよりも、説教されるよりも、よっぽど堪えたわ」

 肩を竦めながら話す美神だが、それを聞いた横島はそのあまりの内容に固まった。
 美神らしいといえばこの上なく美神らしいのだが、発表していたらシャレにならなかっただろう。

「あ、当たり前でしょう。聖職者の前でそんな事を説くなんて何を考えてるんすか!」

「あら、これでも俗世の真実を言い当てたつもりで書いたのよ。
 例えば、『金を得る為の行動は、理想やら教義やらに従った行動よりもよほど普遍的で価値がある。
 何故ならば、理想やら教義やらは本人以外の人間には賛同しかねる部分もあり、独善に陥る可能性が常に付きまとう。
 しかし金を得るために働く事自体は、ほぼ全ての人間にとって必要だという事は否定できない事実である。
 だから依頼人の信条、過去、思想等々に細かく拘らずに、法に触れないのならば除霊はきっちりと遂行しよう』とかね。
 まあ流石に、巷で高潔な振りをしている狸どもには耳が痛すぎるだろうから、先生の顔も立てて別の内容に変えたけど」

「…………その次は何を書いたんすか?」

「『除霊前の準備の周到さと除霊のコストの関係』って題で、
 除霊前にいかに準備を整えて、
 また除霊の際に臨機応変に対応できるようにあらかじめ様々な道具を用意するかどうかによって、
 除霊そのものにかかるトータルなコストを削減できるかが決まるって事を書いたのよ」

 何故か用心しながら尋ねる横島だが、美神の答えは彼の予想に反して以外にもまともだった。

「それも美神さんらしいっすね。それで唐巣さんの感想は?」

「そんなに細かい事まで気を配らなくとも、
 私の霊力ならお金のかかる道具を多用しなくたって大丈夫だろうって言ってたわ。
 それにいくら論機応変の対応をするためでも、多くの道具を持ち運びすれば体力の消耗が馬鹿にならないって」

 そこまで聞いたとき、彼の頭に何かが引っ掛かった。
 道具。持ち運び。体力の消耗。といった単語が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
 その引っ掛かりが気になりながら美神に適当に相槌を打った瞬間、

「成る程……………って、俺が最初にバイトに入ってきた時に割り当てられた役目って!?」

 横島はその正体に気がついてしまった。
 それに対して美神は全く顔色を変えず、あろう事か懐かしそうな顔をしながら呟いた。

「ああ、あんたが重い荷物を担いでくれるようになって随分楽になったわよ。
 流石に私1人だと、除霊の時の体力を温存しながら運べたのって10kg分が関の山だったのよね」

「…………その割りには随分薄給で扱き使ってくれましたね」

「セクハラ分の慰謝料込みなんだから当然でしょう?
 首にしないでずっと雇ってあげたんだかったんだから泣いて喜びなさい」

 ジト目をしながら言った彼の言葉にも美神はあっさりと切り返してくる。
 その言葉に横島は黙り込んでしまう。
 美神の示した待遇も異常だったが、己の所業も負けず劣らず並ではなかった。
 もし美神の極悪非道ぶりを訴えたとしても、きっとその所業についてばらされて、結局薮蛇に終わったことだろう。
 けれど、そのせいで散々な目にあったとしても、自分の犯したセクハラ等に悔いなど抱いてはいけないのだ。
 何故ならば! 

「煩悩のない俺に意味はあるのか?」

 彼は美神に聞こえないようにポツリと呟いた。
 口に出してしまったせいで、妙にアンニュイな気分になる。
 とりとめもなく究極の魔体との決戦時にパワーが落ちた事や、
 煩悩が絡まないのに新技を編み出した香港の戦いやハヌマンとの修行の風景が浮かんでくる。

 果たして自分の霊能にとって煩悩とはどの程度のウェイトを占めているのか。
 デミアンや死津喪の時など真面目に戦っていたときも自分はそれなりに実力を出していたはずなのだが。
 いや、それ以前に煩悩なしに生きていくとしたら自分はどうなってしまうのか。

 いつのまにか己の存在意義とセクハラの相関関係について哲学的な思索に耽りそうになった事に気付いて愕然とする。
 なんとなく重大な危機感を覚えて、いそいそと事務所から出ようとした時、

「あ、横島さん。来てたんですね、これからお茶にするんですけど、良かったら一緒にどうですか?」

 戻ってきたおキヌ達とはちあわせになった。
 結局、横島は皆とお茶を飲んで寛ぐ事になってシロやおキヌを喜ばせる。
 内心でセクハラに関して一切考えないようにしながらも。





 結局、彼は美神のアドバイスを受けて、『脅迫』や『ひっかけ』等の裏技を使わずに交渉に成功した事例を選び、
 それを幾つか纏めたレポートを1つ作成する事に決めて、オカルトGメンに向かった。

 オカルトGメンに着いてから六時間後、横島は条件に合う報告書をいくつか選び、
 交渉の際にどのような方法が何故有効だったのかを記述したレポートを美智恵に見せた。
 それを無言のまま読んでいる美智恵の前で横島は落ち着かない様子でそれを見守る。
 学生時代にテストが返却されるときも、これほど緊張したことはなかった。
 内容次第では文章の書き方から学び直すために残業しないといけないかも、と思うと嫌でも緊張が高まるというものだ。

 やがて美智恵が顔を上げて、レポートを返す。
 ごくりと唾を飲み込んで赤点の答案を受け取る時のような気分でレポートを受け取った横島の耳に美智恵の言葉が聞こえた。

「内容はもっと吟味する必要があるし、選んだ事例についてももっと工夫する必要があるけど、とりあえずこういう形でいいわよ」

 思いがけない言葉に彼が顔を上げらると、そこには微笑みを湛えている美智恵がいた。

「このレポートはとりあえず練習用だし、今日はもうこれで帰っていいわよ。
 今度は八代さんと相談して書き上げてみなさい」

 彼女の許しを受けて横島はなんとか赤点を免れて試験を終えた学生のように心安らかに帰途についた。
 残酷な拷問の如き苦痛の時間がすぐ傍まで迫っている事も知らずに。




 翌日、昨日の成功に気を良くした横島は、朝早くから秋美と共にレポート作成に取り組んでいた。
 流石にこういった作業に慣れている彼女が傍についているおかげで、
 事例選びや纏め方など様々な点で昨日よりもスムーズに運んでいく。

「横島さん、この交渉は使えるんじゃないでしょうか?」

「ん?ああ、こいつの件か。うーん、交渉の時に『買収』して契約を結んだんだよな。
 これぐらいの『買収』なら発表しても叩かれる事もないか。秋美さん、こっちはどう思う?」

「この件は、説得した相手がそもそも人間に好意的だったからあんまり良い例じゃないんですよ。
 私達でなくても説得できただろうって思われますから」

「あ、そうか。それだと美衣さんの件とか、ブラウンの時の交渉の事とか使えないんだな」

「ええ、そうですね。例として適当なのは、猜疑心がやや強くて普通に説得しても中々うまくいかない相手の事例がいいですよ」

「それならガルムの眷属の時の説得はどうかな?」

「えーと、あれは結局力ずくで成功させた面が強いので、交渉の手法として紹介するには不適当なんです。
 あの時に立てた作戦とか、その後に美神さんが相手の譲歩を引き出すために脅迫した方法とか、
 見習える人にとっては学ぶべき点が多いと思います。
 でもそれを実行できるのは、確固たる実力のある一部の霊能力者だけなんですよ」

「俺に言わせりゃ、確固たる実力もないのに人外の存在と交渉するなんて無謀極まりないんだけどな。
 いくら相手についての知識があったって、話し合いだけで納得してもらえるんなら『組み込み計画』もこんなに苦労しないってのに」

「ええ、そうなんですよね。でもだからこそ、日本政府は今回のドイツでの発表について特に何も言わなかったんだと思います」

「それってどういうことなのかな?」

「えっと、美神顧問や西条主任から聞いた話もあるんですが、
 他の国や組織がこの計画の要の部分を簡単に真似出来ないからこそ、
 日本政府は今回の真似しやすい部分を纏めた発表を許してくれたんだと思います。
 発表が成功すれば、自分達が真似出来そうな部分もあるだけに計画についての関心は高まるでしょう。
 でも発表した分の内容だけでは計画を完全には真似できないから、
 興味を持った人は詳しく知るために日本政府やオカルトGメンにコンタクトを取らざるをえなくなります。
 それをきっかけにしてその人たちとコネを作れる可能性でてくるそうなんです」

「………なんつうか、みんな色々考えてんだな。
 そういう事を分かっちまうと失敗できなくなるじゃねえか」

 そう言いながらでれっと机に突っ伏す横島を秋美はくすくす笑いながら見つめる。
 自分ほど信じられない人間はいないと言っているくせに、彼は他人に関係する事にはこちらの予想を上回る働きをしてくれる。
 妖怪達との交渉の際に、不意に相手に襲い掛かられた時に何度彼に危ない場面を助けられた事か。
 それを見ても、本気で彼を臆病者だと言い張る人間などいないだろう。
 
 やがてレポートが仕上がると、秋美はこれまでの交渉の個々の事例をできるだけ類型化して、
 それを基にデータベースを作るために別の部屋に向かった。
 一方横島は、再び完成したレポートを美智恵に見せるために部屋を出る。

 美智恵のいる部屋に入り、レポートを渡す。
 秋美と共同で書き上げたそれは、完成度や質の面では昨日のレポートよりも随分と改善されているはずなのだが、
 それでもこうして待っている時間は落ち着かない。
 そわそわと視線を巡らせている間に美智恵がレポートを返してきた。

「どうでしたか?」

 緊張していたせいで思わず問いかけてしまった横島の態度に顔を綻ばすと、美智恵は言った。

「確実に良くなっているわよ。今度、唐巣先生にも見てもらいなさい」

「分かったす」

 そう言って嬉しそうに立ち去ろうとする横島の背中に美智恵の言葉がかかった。

「あっ、横島くん。本番の発表のときは英語で喋りながら、英語の資料を配るのよ、だからそのレポートも英訳してみなさい」

 ぴたりと彼の足が止まる。そのまま壊れたブリキの玩具のような動きで振り返ると、
 横島は口をパクパクさせながら自分とレポートを交互に指差す。
 どうやら予想外の課題をだされたせいで言語機能が麻痺したようだ。
 美智恵はにこやかな顔のまま英和辞典と和英辞典を取り出すと、それとレポートを交互に指差す。
 喉と体の動きの止まった横島を無言で手招きしてこちらまで来させると、彼女は有無を言わさずに辞書を握らせた。
 それを受け取った横島の顔には僅かに斜線が入り、更に少し涙目になっている。
 しかし美智恵はそんな彼の様子にも頓着せずに止めを刺した。

「今日は英訳が終わるまで帰ったら駄目よ。終わったら私か、私がいなかったら他の人に見てもらいなさい」

 その言葉に横島は俯きながらとぼとぼと部屋を出て行った。
 その後姿はさしずめ、
 夏休みを控えて苦手な教科をなんとか赤点にはならずに乗り切ったのに別の科目で補習が決定した生徒のようだった。
 それならば自分は、そんな生徒の姿に心を痛めつつ、しかし鉄面皮な表情を保っている教師の役目を負っているのだろうか。
 そんな感想を持つうちに、興がのったのか美智恵は誰もいなくなった部屋でポツリと呟いた。

「横島くん、これも貴方の為なのよ。だから私は、今は心を鬼にするわね」

 あろう事か、彼女は師には劣るものの、娘より色々な意味で責任感が強かった。
 そのせいかこの日、美神美智恵はしばらくの間、横島たちに対してスパルタの方針を取る事に決めた。
 思いの他、彼女の心は弾んだ。
 


「英語の読み書きは苦手だ。全く高校でもないのにどうしてこんな事をする破目になったんだ?」

 そう呟きながら横島は英和辞典と和英辞典を片手に四苦八苦していた。
 美神に叩き込まれた英語はあくまで会話に関するスキルだけ。
 ぶっちゃけネイティブアメリカンと話すことができても、英語の本をすらすらと読めるようになったわけでもない。
 Readingに関しては、地図を見たり、レストランのメニューを見たり、駅で行き先を調べるのに不自由しないくらいのレベルである。
 それなのに、ここに来て英語のライティングとプレゼンテーションをやる破目になるとは。

 視線を横にずらして時計を見ると、まだ昼を少し過ぎただけである。
 朝早くから頑張ってレポートを仕上げたのが仇になった。
 しかも今日はピートは外回りに行っているせいでオカルトGメンのビルに戻ってくるかどうか分からないそうだ。
 己の迂闊さに歯噛みしながらも、横島は必死でレポートの英訳に取り掛かっていった。

 そして数時間後、外がすっかり暗くなった頃、横島はなんとか英訳したレポートを手に美智恵の執務室を訪れた。
 そこで待っていたのは、誰もいない部屋と机に置かれているメモ用紙だった。
 メモ用紙には、『急用で出かけます。英語は西条くんに見てもらうように』と書かれていた。
 後に横島は、それを見てみぬ振りをしなかったことを激しく後悔する事になる。


 足取りが重い。これから西条と顔をつき合わすのが憂鬱だ。
 普段も決して自分から顔を合わせたいと思っているわけではないが、
 今日に限ってはいつもとは比べ物にならないほどに会いたくない。
 やつに頭を下げて添削の指導を頼まなければいけないなんて、美智恵は自分に何らかの恨みでもあるのではないか?
 まさか、美神にもばれていないあのセクハラがばれたのか。
 それとも、ひのめの面倒を見ているときに、誤って念力封じのお札をはがしてしまって部屋を黒焦げにした事だろうか。
 いや、あの時は慌てて手持ちの文珠を全て使ってなんとか部屋を元に戻したはずだ。
 しかし、元に戻そうと焦りすぎて新品同然の状態にまで戻してしまったせいで、ばれてしまった可能性もなくはない。

────心に移りゆく由無し事を、そこはかとなく思いつくれば、妖しゅうこそものぐるおしけれ

 どこぞの随筆の通り、横島の精神は次第にやばい方向に向かおうとしている。
 ため息をついた瞬間、いつの間にか西条の部屋に来ていた。
 震えた手でなんとかノックすると、返事が返ってくる。
 思わず霊力を高めて不意打ちをしたくなる衝動に駆られるが、
 この場所では証拠の隠滅が難しい、と心に言い聞かせながら彼はノブを回して中に入っていった。

「俺だ、西条」

「相変わらず礼儀知らずだね、君は」

「いまさら俺がお前に畏まった態度を取ったら気持ち悪いだろうが」

 そう言いながら横島は美智恵のメモと書き上げたレポートとその英訳を見せる。
 それを受け取った西条の顔が僅かに変化する。確かめるかのようにメモとレポートと横島と順々に目線を移す。

「忙しいなら無理しなくていいんだぞ。唐巣さんに見てもらったっていいんだし」

「いや、先生から頼まれたのなら断るわけにもいかない」

 あさっての方向を向きながら喋る横島に、西条はにやにや笑いながら告げた。

「安心したまえ、この僕が責任を持って英語の苦手な君に、本場でも通じるようにしっかりと指導してあげようじゃないか」

 やけに嬉しそうな声で宣言すると、西条は早速コピーをとって読み始めた。
 やがて読み終えたらしい西条は、にやりと笑うと赤ペンを持ちながら横島の英訳に次々と線を引き出す。
 
「横島くん。君の高校生だったときの成績が芳しくなかった事は知っていたけれど、まさかろくに文章も書けないとは思わなかったよ
 どこから突っ込んでいいのか分からないけれど、とりあえず単語は正確な綴りで書いてくれたまえ。
 まさか、『research』を『reserch』と書いてあるとは思わなかったよ」

 やれやれといった風に首を振りながら指摘する西条に横島はぐうの音も出ずに黙り込む。
 そのの顔を見てこみ上げてくる笑いをこらえながら、彼は次の指摘をする。

「おいおい、いくら『妖怪』の事を説明するにしたって『monster』なんて書いたら相手に与える印象が悪くなるじゃないか。
 それとも君はシロくんやタマモくんがmonsterだとでも言うのかい?」

 容赦なく突っ込む西条に対して徐々に横島の顔が羞恥と怒りと屈辱で赤くなっていく。
 もし証拠を隠滅する自信があったなら、西条の目の前の机をひっくり返して彼を窓からポイ捨てしただろう。
 しかし美智恵から、西条に教わるように、と釘を刺されているためになんとか深呼吸して踏みとどまる。
 そこへ更なる追撃が襲い掛かってきた。

「学術的な場合に用いる単語の選別は今後覚えていけばいいけど、君の場合は直訳しすぎなんだよ。
 これじゃあ日本人じゃない人間には却ってニュアンスが通じないよ。面白みもセンスもない英訳だね」

 理性が完璧に感情に負けて、というか率先して理性が感情を助けたせいで、横島の忍耐は容易く限界を超えた。
 文珠を片手に握り、霊波刀をいつでも展開できるようにしながら一歩踏み出した瞬間、西条の声が耳に飛び込んだ。

「横島くん。君がこんな調子では、八代くんにかかる負担が大きくなりすぎてしまうかもしれないよ。
 せめて彼女の補佐ができるようになってくれたまえ。
 まあ、君が彼女の信頼を裏切って勉強するのが嫌だというのなら仕方ないけれどね」

 横島の足がぴたりと止まる。彼の頭に真剣な顔でデータベースを作成している秋美の顔が思い浮かんだ。
 渋い表情のまま霊力を消して沈黙する横島に西条が嬉しそうに声をかけた。

「それで、横島くん。君はどうするんだい?」

 横島の内心で、西条に頭を下げる事への嫌悪感と秋美に負担を掛ける事への罪悪感とがぶつかり合う。
 その葛藤を強引に捻じ伏せると彼は兜を脱いだ。  

「頼む。俺に教えてくれ」

 頭を垂れる横島をたっぷり数秒間眺めながら西条は軽い感動を覚えた。
 内心で、彼を学会に派遣する事を決めた美智恵と唐巣に10回通りの感謝の言葉を呟いく。

「そこまでお願いされたのなら、僕も鬼じゃない。君の頼みを引き受けてあげようじゃないか。
 けれど君の英語力はお話にならないからね、少し厳しく指導する事になるよ」

 そう言いながら西条は赤く添削済みの英文を返して告げた。

「とりあえずこれを声に出して読みたまえ。もちろん、発音、アクセント、抑揚、目線に注意しながらね」

 屈辱感に蝕まれながらも横島は黙ってそれを受け取る。
 やがて1つ深呼吸をすると、彼はそれを読み始めた。



 二時間後、すっかり疲れきった横島は重い足取りで帰途についた。
 予想通り、英文を読んでいる間、西条は何度も何度も親の仇を取るが如くしつこくしつこく突っ込んできた。
 時には、

「なんてヘボな発音なんだ!」
「そんな棒読みじゃあ笑われるぞ、日本の恥さらし!」
「原稿を見ながら喋ったらテンポが悪くなるだろうが、この唐変木!」
「質問にはとっとと答えろ、ノロマめ!」

 などと叫びながらパンチが飛んできた。
 こちらが反撃できない事を分かってやっている西条のしごきに、横島の忍耐はずたずたになるまで酷使された。
 むしろ我慢するために精神力を使い果たした気もする。

 想像の中で48通りの手段で西条を抹殺する光景を思い浮かべ、
 更に西条が用済みになったときに、証拠を残さずに闇討ちするための52通りの方法を想像して心を慰めながら、
 横島は帰り道をとぼとぼと歩いていった。

 一方、その日散々横島の英語力と質疑応答の技量を扱き下ろせて西条は上機嫌だった。
 帰り道では珍しい事に鼻歌交じりに歩いていったぐらいに機嫌が良かった。
 誰も見てなければ思わずスキップしたかもしれないくらいに浮かれていた。
 よほど横島を格下の存在として恩着せがましく教えてやれる事がうれしかったようだ。

 しかしその3日後、彼も美智恵からのスパルタ方針を適用されることとなる。
 おかげで西条は、ピートの代わりに『オカルトを捜査に用いるメリット 人外の存在の有効活用』
 というテーマでドイツの学会に発表するように命じられて燃え尽きてしまった。
 これにより西条の天下は三日で終わり、彼も発表準備に取り掛かるために、
 しばらく休日返上で原稿作成の修羅場に足を踏み入れざるをえなくなったのだ。
 そしてその一週間後、西条は夜道で謎の襲撃者によって気絶させられる。
 通行人が仰向けに倒れている西条を発見した時、その頬と額の三箇所には油性ペンで大きな字で鮮やかに『肉』と描かれていた。


 一方、西条の代わりに横島の英語の質疑応答を指導する事になったピートは、
 横島から散々に西条に関する愚痴を聞かされることになるのだが、それはまた別のお話である。
 横島が二度と西条に馬鹿にされない為に、珍しく頑張って短期間にその英語力を飛躍的に上昇させたのも別の話となる。
 


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