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そして続く物語

タマモ、世話を焼く


投稿者名:ゼロ
投稿日時:05/ 4/ 6

 牛鬼の事件から数日経ち、『組み込み計画』の中心メンバー達は報告書の提出等の後始末を終えて、次の交渉相手の調査を始めていた。
 やがてその調査が終わり、現地に行って相手との交渉に臨む予定が立てられていたのだが、
 普段、交渉に行く際はメンバーの中で一番張り切っている秋美が今回に限っては、明らかにそのやる気を減退させていた。
 仕事中に幾度もミスを犯し、何度もどこかを見ては溜息をつく。
 弱々しい足取りからは彼女が本来持っていた瑞々しさが感じられず、顔色からもどこか翳を感じる。
 横島達の前では元気な素振りをするものの、観察力に長けたタマモから見れば秋美の不調は明らかだった。
 
 タマモにとって秋美は安心して質問や相談ができる相手だった。
 これからも人間社会で暮らしていく事にしているタマモにとっては、
 少し前までは、社会的な常識や化粧、服装等の擬態のための女性的な知識を得る相手は事務所のメンバーだけだった。
 しかし………常識を蹴散らして平気な顔で自分の作ったルールを適用する美神、それに付き合っていける横島、
 数百年前の常識が刷り込まれているせいで時折天然な間違いをするおキヌに人狼のシロでは、
 一部の知識に関しては、非常に偏った答えが返ってくるのが目に見えている。
 そこでタマモは、秋美と知り合ってからは彼女と会話をする事で必要な知識や情報を集めていた。
 その気安さ故か、タマモはらしくないと思いつつも、つい秋美に声をかけてしまった。

「ねえ、アキミ。まだあの事、気にしてるの?」

「タマモちゃん?………何のこと?」

「あのねえ。ヨコシマもちょっと落ち込んでたみたいだから気がつかなかったみたいだけど、
 ちょっと注意していれば、最近アキミがおかしいのはばればれよ」

 呆れたように言うタマモの言葉に、秋美の顔から無理矢理繕うように浮かんでいた笑顔が消える。
 しばらく見詰め合った後、また1つ溜息を吐くと彼女は観念したように話し始めた。

「ええ、そうよ………あの事件は、私の中にまだわだかまっているわ。
 それにあの事件で、この計画に疑問を持ってしまったのよ」

「疑問ってどんな?」

「あの計画が進めば、必ず人と人外の存在の接点は増えていくわ。
 そうしたら人外の存在の力を知ってしまった人たちが、余計に排斥を叫ぶかもしれない。
 あの署長さんのように悪い人ではないのに、人外の存在を恐れ、憎む人もでるかもしれない。
 この計画で私達が頑張れば頑張るほど、悲劇が起きる可能性を増やすのかもしれないって思ってね」

 そう言い終わると秋美は力無く笑った。
 あの事件がおきたのは相互理解の欠如が原因だった。しかし逆に理解が進んでもそれがプラスになるとは限らない。  
 人は自分達よりも強い生き物について知る事によって、彼らを効果的に罠に嵌め、狩り、生息地を奪って駆逐していったのである。
 人外の存在の生態について理解した人間が、彼らの弱点をついて滅ぼす事など無いと言いきれる者はいないだろう。
 逆に何をされるか分からないという恐れが、人間が彼らを徹底的に排除する事に歯止めをかけていたと見る事もできる。
 牛鬼の件でこの計画の末に訪れる未来の可能性を真剣に模索した秋美は、そう感じてしまっていた。
 勿論、これは可能性の1つでしかない。それは彼女も承知している。
 しかし、それでも現状を決定的に変えようとする前に、彼女の心には畏怖の念が沸いてきてしまったのである。
 心に強固な哲学を持つ美神や、数々の困難を乗り越えて死ぬ気になれば何でもやれると思う横島ならば、こうは悩まなかっただろう。

 タマモは彼女の心中を、その葛藤を察すると己の考えを伝えていった。

「アキミ、もっと人間を信頼していいわよ」

「タマモちゃん?」

「タマモ、でいいわ。畏まった口調も私にはしなくていい」

「分かったわ、タマモ。それで、どうして妖怪の貴方が人間を信じられると思ったの?」

 首を傾げる秋美に彼女はゆっくりと話し始めた。

「人間っていい加減で、悪賢くて、意外に涙もろいのよ。
 ちゃんとコミュニケーションが取れる相手なら、ヨコシマみたいに種族の壁をあまり気にしない相手だっている。
 私の幻術やシロの超感覚のような妖怪の持つ特技を利用してやろうって考える美神や西条みたいな人間もいる。
 それにね。会話が通じる相手を殺すのは、通じない相手を殺すのに比べて物凄く抵抗感があるものよ。
 だから絶滅してきた動物と知性があって会話のできる人外の存在を同列に語るのは不適当よ。
 もし保健所に運ばれた犬や猫が『殺さないで』って人の言葉を話しながら泣き出したら、保健所の業務は絶対に支障をきたすわ。
 ………私が昔、殺される時もそうだったしね」

 さりげなく言い放ったタマモの言葉の内容に、思わず秋美は絶句する。
 会話の主導権を握ったタマモは雰囲気を変えようといたずらな笑みを浮かべる。

「アキミが妖怪寄りの立場になったのは、オカルトGメンの仕事で妖怪と触れ合ったのがきっかけでしょう?」

「そうよ。猫又の美衣さんと息子のケイくんが、人と共に生きるためのお手伝いをした事がきっかけになったわ」

「アキミと美衣っていう猫又が会えたのもヨコシマが彼女を助けたからでしょ?」

「ええ、そうだけど」

「なら、ちゃんと続いているじゃない」

 そう断言するタマモに秋美は再び首を傾げる。

「つまりね、ヨコシマが美衣を助けたのがきっかけになって、アキミは美衣と親しくなれた。
 アキミと美衣が仲良くなったおかげで、ケイも人間を敵視しなくなったでしょうね。
 そしてこれからも美衣の傍に居れば自然とケイが人間と接する機会も増えるでしょう。
 それは何十年後も変わらないかもしれないわよ」

 タマモの言葉に秋美は、はっと顔を上げた。
 そうなのだ、横島の行動が起点となって美衣達は今の状態に至り、未来において猫又が社会に認知される可能性を示唆しているだ。
 それは、人外の存在が社会との接点を生かして共存共栄を成そうとする試みの成功例であり、それに………………

「ヨコシマが美衣を助けたから、アキミはヨコシマに会えたのよね」

「タ、タマモ」

 一瞬己の胸を横切った想いを見透かしたかのようにタマモ言い当てられて、秋美は面白いほどに動揺した。

「好きなんでしょ?ヨコシマが」

 何でもないことのように気軽に言われて黙り込む秋美。
 俯いていても彼女の顔が紅潮している事は丸分かりである。

「ヨコシマも鈍感ね。いえ、もしかすると気がついているのに気がついていない素振りをしているのかも」

「どういう事、タマモ?」

 想い人についての重要な情報に思わず秋美は彼女を問い質す。

「私が知ってる限り、あいつへの好意を隠さずにいる女はアキミの他にも4人いたわ。
 もしかしたらもっと多いのかもしれない。でもあいつと付き合うようになった女はいなかった。
 いくらヨコシマが鈍感でもちょっとありえなくない?」

 それを聞いて黙り込む秋美。彼女とて今まで横島と2人のときに何度か良い雰囲気になった事はあるのだ。
 けれど………どうしても、一線が越えられずにいた。まるで彼の前に見えない溝が置かれているような………

「その様子だとアキミも気がついているんだ」

 タマモの声に秋美は思考を止めて我に返る。

「ヨコシマはスケベだけど、ああみえて一途に想われる事には弱いわね。
 だから中途半端じゃ手を出せないのよ。
 普段のあいつの態度に比べれば、妙に純真というかアンバランスそのものだけどね。
 でも逃げようもないくらいに言葉を尽くして迫れば、きっと陥落するわよ」

 こちらを煽るようなタマモの言葉に更に秋美の顔が熱くなる。
 それを誤魔化すかのように彼女は勢い良く立ち上がると、お茶を入れた。
 その様子を見てタマモは潮時と感じ、秋美が戻ると話題を元に戻す。 

「アキミ。貴方、まだ悩んでるみたいだけど、あの計画を進めるのは無駄なんかじゃないわ。それは断言できる」

「タマモもあそこに居合わせたのに、どうしてそう言い切れるの?
 私はまだ迷ってる。この計画が人外の存在にとって薮蛇になるかもしれないって」

 熱の篭った口調で話すタマモに秋美もまた真剣な顔で答えた。
 タマモはお茶を一口啜ると、クールな表情を取り戻すと、その根拠を話し始めた。

「今から900年近く前にね…………」

 それはタマモの長い前世の物語の始まりだった。






「ああ、もう!毛が汚れちゃうじゃないの」

 絶世の美女から狐の姿に戻ったタマモはひたすらに京を抜け出そうと走っていた。
 彼女はパトロンの鳥羽院が体調を崩して寝込んだので、大事に至らぬように己の霊力を使って処置したのだが、
 その際に発生した妖気の残照を察知されて正体を見破られた。
 そのおかげで今は物の怪として朝廷から追われているのだ。

「油断したわね………」

 忌々しいあの阿部泰成とかいう陰陽師。
 彼女の幻術を見破り、九尾の狐の妖気を防ぎきって尚且つ反撃までしてくるとは。
 正体を暴かれた彼女は、鳥羽院を殺そうとした嫌疑がかけられ現在第一級の指名手配犯である。

「本当に人間って馬鹿ばっかりね。なんで私が自分を守ってくれるパトロンを殺す必要があるのよ。
 パトロンが消えたら私まで危なくなっちゃうじゃない!」
 
 タマモの言うことは理に適っている。
 彼女がパトロンを殺す事に意味もなければ益もない。そして恨みを持っているわけでもない。
 数百年後にオカルトGメンが取調べをしたら、事情聴取と裏付け捜査の後に彼女を無罪放免にしてくれただろう。
 だが生憎、欧米産の近代合理主義はこの時代には産声すら上げていない。
 ましてオカルトGメンやGSという概念は存在もしていない。
 更にタマモに不利に働いたのが九尾の狐に関して誤った認識が中国から日本に流れていた事だ。

───遥か昔、お隣の大陸には殷王朝という巨大国家が栄えていたのだが
   皇帝紂王の時代に九尾の狐が絶世の美人に変身して姐妃と名乗り皇后になる。
   そして、ありとあらゆる贅沢・残虐行為のかぎりをつくし、王朝は滅亡させた。

 そんな伝説がこの国にも伝わっていたため、九尾の狐は国家の大敵扱いだった。
 以前それを知ったタマモはその出鱈目さに激怒した。

 馬鹿な。数百年から千年を生きて尻尾を増やしていった狐には知恵と妖力が備わるのだ。
 身分の高い王侯などパトロンとして利用する事はあっても、破滅させる事などするはずがないではないか。
 どうしてそんな危険な事を賢い狐がやると思うのか。
 贅沢したいのならば、王朝が潰れない様にもっと工夫してやる。
 不必要に目立って余計な恨みをかうなどもっと愚かな生き物のやる事ではないか。

 この感想も尤もだろう。事実、伝説の真偽はともかく、紂王と姐妃は殷周革命の際に死亡している。
 自分の身を守るために王侯に取り入った結果がこれでは、本末転倒と言うしかなく到底九尾の狐の仕業とは思えない。
 それに姐妃が死ぬ前に正体を現した等と言う公的な記録はどこにもないのだ。

「全くこっちの事情も少しは理解しなさいっての!」

 朝廷は九尾の狐を妖しげな術を使って貴人を誑かす存在だと認識している。
 確かにそれは間違いでない。それが自分の身を守ってぬくぬくと生きていくのに最も適した方法であるのは事実。
 しかしそれは一方的な搾取ではない。
 彼女は保護を受ける代わりに、長い時を生きて身に着けた知略や術を使ってパトロンを繁栄させるのだ。
 その結果が彼女により多くの安全と富貴を約束するのだから。
 つまり彼女と彼女に魅入られたパトロンは、共利共生の関係にあると言ってもいいだろう。

「鳥羽もきっと長くないわね。あーあ、折角処置してやったのにね」

 彼女にしてみれば朝廷のこの仕打ちは、恩を仇で返す、という格言がぴったりあてはまる。
 ため息をつくと彼女は一旦都から出るべく門へと向かった。



「やっぱり固められてるか」

 普通の狐を装って門の近くまでたどり着いたタマモだが、そこには厳しい警備が敷かれていた。
 数十人の武装した武士達が篝火を焚きながら門に近づく者がいないかどうか睥睨している。
 おそらくどこの門でも同様の措置が取られているだろう。
 幻術を使おうにも流石にこれだけの人数が相手では、門から抜けるまで全員を騙し続けることはできない。
 どう頑張っても途中で誰かに疑いをかけられるだろう。

「強引に突破する事もできるけど、できれば私が都から出たって情報は与えたくないのよね」

 彼女は都を出た後しばらくは、何処かの地方の有力者に取り入るつもりだった。
 しかし万一全国に追捕の手が回るような事になれば面倒な事態に発展しかねない。
 死んだと思わせるのが一番だが、それはリスクが大きい。
 結局現状で取りうる方法の中で堅実なのは、朝廷に何の情報も確信も与えずに密かに都落ちすることだった。

「癪に障るけど仕方ないわね。朝、人の往来が復活したらそれに紛れ込むか」

 御所に仕える衛兵や貴族や皇族、それに都の多くの人口が消費する物資を賄っているのは地方から送られてくる税や献上物である。
 よってこの時代は、都の人間が生活を維持するためには人や物の流通を邪魔する事はできない。
 いちいち通行する人間や荷物を調べるなど自殺行為に等しいのだ。

 考えを纏めるとタマモは一旦その場を立ち去る事に決めた。
 しかし今宵の彼女はつくづく運に恵まれていなかった。
 たまたま彼女が鳥羽院の処置をした日に腕利きの陰陽師が院の許を訪れたのが1つ。
 そして2つ目は数日前からその門には陰陽寮から若手の有望株が、
 実地訓練と体力の鍛練も兼ねて門衛の補佐役として派遣されていた事だった。
 彼女が踵を返して静かに門を離れていこうとしたとき、彼は周囲に既に警告を促していた。


「皆、ご用心くださりませ。妖気を感じました」

「物の怪の類か!?」

「断言はできませぬが、人に非ざる者の気配です」

「よし、辺りを徘徊するものがいないか探りを入れるぞ!」

 その若手陰陽師の言葉により、門の付近は一気に喧騒に包まれた。
 ここに集う者たちは、外から穢れが侵入することを防ぎ、中から湧き出た穢れを払う辟邪の武に長けた者ばかりだった。
 妖気を感知する能力にかけても陰陽師には及ばずとも常人よりは遥かに優れている。
 平安時代の日本は世界的には珍しく呪術と武の連携がしっかりしていたのだ。
 10人ほどの武士達が刀を片手に松明を持って四方に散らばっていく。

「まずい!」

 突如背後から聞こえてきた足音にタマモは一気に速度を上げた。
 
「何かいたか!?」
「まだ僅かに妖気が漂っているぞ!」
「ここに何かの足跡があるぞ」

 漏れ聞こえてくる声は彼女にとっては厄災そのもの。
 見れば霊力を纏った男達が松明をかざして門の周囲は夜の帳を消し去っていく。
 数十人の武士が放つ霊力と殺気は圧倒的な威圧感をタマモに与え、彼女に焦りと恐怖を生み出させる。
 それはタマモを、普段の怜悧な彼女ならまず犯さない決定的な過ちへと誘った。
 彼女は驚きのあまり軽いパニックに陥り、遠回りも隠行もせずに反対側の門へと向かったのだ。
 
 やがて朝廷の命を受けて妖狐の捜索をしていた一団が、必死になって駆ける彼女の姿を目撃する。
 彼らは馬を走らせてタマモを追跡。妖気を感知する陰陽師と狐の匂いを嗅ぎつける猟犬、そして武士達がそれに加わってきた。
 それによって更に追い詰められるタマモ。いくら広い都でも、もはや隠れて朝までやり過ごす事は不可能だ。
 ここに至ってようやくタマモも決心した。
 彼女はそろりそろりと城壁の近くまで移動すると、九尾の狐本来の姿に立ち戻って全霊力を開放する。
 その途端あたりの喧騒が静まる。
 彼女の霊力は鍛えられた武士達から放たれる退魔の波動とも遜色のない圧倒的な存在感。
 千年の時を経て初めて至ると伝えられている大妖怪が、その全容を現したのだ!
 タマモの周りには朝廷から派遣された辟邪の武士と陰陽師が集まる。
 しばし睨み合いが続いて緊張が頂点に達した瞬間、タマモが飛び上がって空を駆けた。

「放て!」
「五行相克、妖しき者よ、去れ!」

 弓を番えていた者が矢を放ち、符を構えていた者が呪を唱える。
 疾風の如き退魔の矢と符から湧き出る破邪の光が一斉に彼女を襲う。
 それはさしもの大妖怪を調伏してなお余りある必殺の一斉攻撃であった。
 それが妖狐と衝突した瞬間、辺りは轟音と閃光に包まれる。
 その巨大な霊力と霊力の激突の余波は、周囲に突風を巻き起こし衝撃を撒き散らす。
 たまらずその場に集まっていた人間全員がそれを凌ごうと地に伏せた。

 ………辺りに静寂が戻り、伏せていた者達が顔を上げる。
 そこには、九尾の狐の妖気は微塵も存在しなかった。
 歓声が沸きあがる中、陰陽師方の代表格と武士方の責任者は小声で状況を確認しあった。

「これであやつを調伏できたのだろうか?」

「あれほどの攻撃が直撃したのです。それでもなお生きているとは思いたくありませんね。
 万が一生きていたとしても大怪我を負った筈です。今後何年かは悪事を働く余裕などないでしょう」





 月のない真の闇夜を傷ついた一匹の狐が駆けていた。
 新月の夜にも関わらずその毛並みは黄金色に輝き、その尾は九つに分かれている。
 狐は都の門が視界から消えてなお速度を緩めずに走り続ける。
 やがて川の傍まで来た所で体力の限界に達した狐は、走るのを止めると水を飲んで疲れた体を横たえた。

「危ないところだったけど………なんとかうまくいったわね」

 霊力こそ殆ど感じないものの、彼女の体の傷はそれほどでもなかった。
 あの時武士たちが攻撃に移る直前に、彼女は己の霊力の大半を注ぎ込んで作り上げた幻を空に放った。
 作られた幻は、九尾の狐の莫大な霊力ゆえに実体がないにもかかわらず圧倒的な存在感を持っていた。
 そしてあの瞬間、追っ手が飛び上がった幻に攻撃を仕掛けた瞬間を狙って、彼女は後方の都を囲む壁に向かった。
 直後の激突で生じた衝撃を物ともせずに壁を駆け上がると、追っ手が伏せている間に壁から飛び降りて都を脱出したのだ。
 衝撃波を受けて体中には無数の傷がつき、あの虚像を作ったために霊力はほぼ枯渇、
 休みなしで走り通したせいで体力も完全に失われていた。
 それでも、彼女はあのぎりぎりの状況から己の全てを懸けて虎口を脱したのだ。

「これで朝廷のボンクラどもが私が死んだと思いこんでくれればいいのだけれど」

 そう呟くと彼女は眠りに落ちていった。



 しかし彼女にとっての最大の誤算は鳥羽院のトラウマであった。
 鳥羽院は天皇時代に、妻、待賢門院(璋子)を時の最高権力者である父親の白河法皇に強権を使われて寝取られている。
 そのせいで彼は妻が産んだ長男(崇徳天皇)の出自に疑問を持ち、
 長男を「我が子に非ず」と断じて愛さず、身内の裏切りに深い憎悪を燃やしていた。
 それ故に、院は、身内同然に寵愛をかけていたタマモが彼に正体を隠していた事に裏切られたと感じて激怒する。
 執念深い探索と追捕の結果、地方に身を隠していたタマモはついに追っ手に発見される。
 それでも武士達の追撃が迫るたびに、彼女は幻術を駆使して各地を転々として逃げ延びていった。

 業を煮やした鳥羽院は、源氏と平家の郎党から音に聞こえた武士達を召還。
 三浦介義純、上総介広常とその郎党を、安倍泰親と共に、泰親の占いによりタマモの潜伏場所だと判明した那須野が原へ遣わした。
 

 霊力を逃亡生活で消耗していたタマモは安倍泰親の陰陽術によって幻術の大半を封じ込められる。
 そのせいで逃げ出すことができなくなったタマモも、本気を出して彼らと戦わざるをえなかったのだ。
 那須野が原で激しい激戦が繰り広げられた。
 敏捷な動きと狐火で武士達を翻弄するタマモだが、恐れずに立ち向かってくる義純達を退ける事はできなかった。
 彼らはこの決戦の前に、激しい訓練を行い、陰陽師達の加護を受けた武具を身に付けていたのだ。
 それによりタマモの狐火は彼らを焼くには至らず、その動きも彼らを惑わす事はできない。

 数十名の武士たちがタマモを取り囲む。ある者は矢を放ち、ある者は果敢に斬りつける。
 そうして………どれほどの刻限が経っただろうか。遂に両者の均衡が崩れた。
 逃亡生活で疲れていたタマモは、長きに渡る戦いの末に力尽きてその動きを鈍らせる。
 そこに満を持して発動された泰親の奥義がタマモに襲い掛かった。

「我が念を持って汝の動きを禁ず。妖狐よ、静止せよ!」

 泰親から放たれた霊力と呪は彼女の体に纏わりつき、その動きを見事に止めて見せた。
 必死で体を動かそうとするタマモはぎょっとした。彼女の体毛に呪の文字が浮かんでいる。
 その文字は彼女が動こうとするたびに明滅して、体を鉛でできているかのように重くしているのだ。

 駄目だ。霊力の大半を失い、阿部泰成の陰陽術の奥義に捕らえられ、自分はもはや動く事すら叶わない。
 それでも、彼女は己の境遇に抵抗しようと義純達の方を向いて叫んだ。
 
「ねえ、何で私が殺されなければいけないの。私が、何をしたというの!?」

 ぶつけられる問いは彼女の激情。その純粋なまでの想いはさしもの剛毅な三浦介義純の心にも突き刺さる。
 それでも感情を感じさせない静かな声で義純はタマモに答えを返す。

「汝は鳥羽院に取り入り、院を衰弱させてその命を狙ったと聞く。
 それが露見するや本性を現して逃げ去ったではないか」

 その声に、タマモは絶望感を感じながらも尚も叫び続けた。

「鳥羽院が死んだら後ろ盾がなくなって困るのは私自身じゃない!
 それなのに、どうして私がそんな事をしたって決め付けるのよ!」

 その言葉は確かに理に適っていた。
 義純を初め、泰成も上総介も思わずタマモの言葉に三分の信を置いてしまう。

「なんで分かってくれないの!?私はただ人間社会に溶け込んでのんびり生きたいだけなのに。
 狐が綺麗な服を着ては駄目なの!?美味しい物を食べたいと強請っては駄目なの!?和歌や歌留多を楽しんではいけないの!?」

 それはまさしく悲鳴そのものだった。
 妖狐の体は既に死に体だ。
 その彼女から発せられた、人間の女ならば誰もが夢見るあまりにも素朴な願い。

 その言葉に共感してしまった者達の表情は見る間に驚愕へと変わっていった。
 耳に届いた言葉は、タマモの想像を超えた威力で、彼らの心に突き刺さったのだ。
 その叫びは、数多くの夜盗や獣を仕留め来た武士達の心中に今まで味わった事のない程激しい動揺を生じさせる。

「戯言を………命乞いの、つもりか」
「この妖怪が!」

 その動揺を隠そうと刀を構え直す者もいる。慌ててぶれそうになる矢の狙いを修正しようとする者もいる。
 しかし誰も、それでも彼女の言葉が嘘だと断ずることはできなかった。

「鳥羽院が寝込んだのは偶然よ。私だって彼に死なれたら困るからなんとか治そうとした。
 それに私が鳥羽院の傍に上がるようになってからもう随分と経つじゃないの!
 その間に院は一度も病にならなかったのに、今回起きた初めての病がどうして私のせいになるの!?」

 動く事すら叶わないというのに、彼女は血を吐くように必死でこちらを見つめて訴えかける。
 
 義純の心がその言葉で更に苛立つ。説明できない衝動が、彼を突き動かそうとする。
 ……何が正しくて、誰が嘘を言っているのか。

 鳥羽院は命令書に直筆で書いていた。
 あの妖狐の策略で自分は死にそうになり、放っておけば大いなる厄災がこの国に降りかかるであろうと。
 偽りの姿で側に居たあの者に目をかけてやったのに、あの女狐はあろうことか私に病を与えて苦しめたのだと。

 そうだった筈だ。院が体調を崩されたのは事実であり、あの女狐は危険だと皆が断じた筈だ。
  ……けれど。
 もし、あの妖狐が言っている事が真実なら、罪のない者を容赦なく痛めつけた我らこそ、武士の名に恥じる愚か者ではないのか。

「私、鳥羽院のそばに仕えるようになってから、院が健やかに栄えるようにずっと心を砕いてきた!
 それが院から私に与えられる富貴への返礼、そう心得ていたから。
 その在り方は武をもって主の知遇に応える貴方達とも変わらないのよ!どうして………どうして信じてくれないの!?」

 その叫びは義純達の殺気を粉々に打ち砕いた。それはまさしく彼らの武士の生き様を、彼女の生き様を表す魂からの声。
 瀕死の彼女は、尚も生きようと、彼らに自分の生き方を伝えて誤解を解こうと足掻いている。
 まるで悪い夢のようだ。己が守るべきか弱き女子をこの手で殺そうとしているような錯覚。
 ただ必死に生きようとしている異種族の女を、情け容赦なく斬り捨てる己の残忍な姿。
 
「……………………!」

 かすれた声で彼女は、こちらの心に届くようにと、祈るように、叫ぶように、願うように、涙を流しながら尚も話を続けようとする。
 けれども、彼らは鳥羽院や帝から命じられたのだ。必ずや我が国に仇なす妖狐を討ち取るべしと。
 そして義純は誓ったのだ。自分を将軍に任じてくれた院の信頼に必ず報いると。
 国許にいる一族郎党のために、後世まで誇れる手柄を立てるのだと。

 脳裏に浮かんでくるのは、家族の顔。
 自分が守るべき者達。この大任をしくじれば彼らはどんな目に遭わされるのか。
 院の怒りを被れば自分の首だけは済まない。
 最悪、一族郎党もろとも島流しにされてもおかしくはない。
 それだけはなんとしても避けねばならない、何をしてでもこの大任を果たさなければならない!
 
 そして、この感情に決着をつける方法などないと義純は悟った。
 妖狐は救えない。自分達ではどうにもならない。我々は我々の手の届く存在しか守ってやる事はできない。

 絶望する彼女の顔を見て、義純は挫けそうになる心を叱咤した。
 余計な事は考えるな!愛する者、これからも守っていく者、その者達の未来のために、私は、妖狐を、殺す!
 
 矢が放たれる。必中の加護をうけた破邪の矢は狙い過たず妖狐の体を貫いた。
 彼女の体がビクンと震える。渾身の力を込めた一撃はその体から奪っていったのだ………命を。
 
 義純の目の前が歪んで妖狐の姿がよく見えなくなる。
 気がつくと泣いていた。
 武人としてその力で数々の障害を打ち倒してきた彼にとって、たかだか狐一匹撃ち殺して泣くなど無様な事この上ない。
 だがその涙を、妖狐の叫びは真実だと直感してしまった彼の姿を、どうして笑い飛ばす事が出来るというのか。
 無事に大任を果たしたというのに…………誰もが、阿部泰成でさえも、黙って倒れて地に伏す妖狐の姿を見つめている。
 そこに笑顔はない。彼らも分かってしまったのだ、タマモの言葉が真実だと。
 自分たちは院の憎しみと誤解に振り回されて、人間との共生を望む賢い狐を死に追いやってしまったのだと。




 矢が己の体を貫いた瞬間、タマモは助かる術無しと悟った。
 辛うじて残っていた霊力までもが失われていく。
 血を流しすぎたせいで意識も闇に落ちそうになる。
 これまで………か。
 そう思っても生への執着は消えない。
 彼女は次の世に生れ落ちる為に最後の霊力を振り絞って己の体に石化の秘術をかけた。

 ゆっくりと彼女の姿が石に変わっていく。その秘術は体を石に変じさせると共に、人払いと守りの加護を与える。
 うまくいけば石には誰も近寄ろうとしなくなり、石そのものも非常に大きな硬度を得る。
 そして秘術がうまくいった事を悟ると、タマモは己を殺した者達の顔を睨みつける。
 しかし、何故だろう?手強い妖怪を倒せたというのに彼らの顔には涙すら浮かんでいる。
 その顔を見てタマモは分かってしまった。自分の言葉が彼らの心に届いたのだと。
 今は彼らも自分の事を少しは理解してくれたのだと。
 それでも、彼らの立場のせいで義純達は自分を殺さざるをえなかったのだと。
 全く馬鹿ばっかりだ。こんなやつらを呪うなんて馬鹿馬鹿しい。
 だから………死ぬ間際の命の瞬きによって可能になるこの呪いは、あの男にかけてやろう。
 彼女は、都の方角を向きながら鳥羽院の顔を思い浮かべて呟いた。

「我が身を害したあの男に災いあれ」

 そして、彼女の体が完全に石に変ずると共に、その意識も永い眠りについていった。






「義純殿、泰成殿!妖狐が石へと変じていきます」

 タマモの姿を見ていた者達が叫びを上げる。
 彼女は徐々に大きな石へと姿を変えていく。
 やがて妖狐は一度武士達を睨むと、刹那、自嘲的な笑いを浮かべて彼方を向いた、大きな石へと成り果てた。

「泰成殿、これは?」

「これなるは強い霊力も持つ稀代の妖狐。その死骸も常の狐とは違うでござるよ」

「では、我々は帝から与えられた任は果たせたと見てもよろしいのかな」

「そう………ですな」

 上総介が泰成に問いかける。
 それを泰成はゆっくりと言葉を選びながら答えた。

 そして彼らが帰り支度を始めた時、恐る恐る部下の1人が義純に尋ねた。

「義純様、この石を打ち砕いて京まで持ち帰らずともよろしいのでしょうか?」

 その問いに、義純は石をじっと見つめながら首を振る。

「汝の申す事、尤もなれど、あの石より未だ強き力を感じる。
 下手に手を出せば我らもただでは済まず、都の殿上人の方々に累を及ぼしかねぬ。
 もはやあの妖狐もここより動く事叶わずと見るが、泰成殿?」

「左様。あの石、未だ強き霊力を放っておる。石を砕けばそれこそ厄災を振り撒きかねん。
 されど石である限り妖狐はここから動く事もできず死んだも同然。私がその経緯を説明しておこう」

 泰成の言葉に皆が賛意を示す。好きこんであの妖狐の死骸を切り刻みたいと思う者などいないのだから。
 やがて帰り支度が終わると、義純は石に手を当ててそっと呟いた。

「来世では、そなたに幸多からん事を」

 そして彼らは帰途についた。
 大任を果たした彼らは厚い褒美を賜り、その名は国中に大いに鳴り響いたという。

 しかし玉藻御前が石へ変じてからも鳥羽院の体調は相変わらず優れなかった。
 程なくして息子の近衛天皇を亡くし更に1年後、彼は病没する。
 その死を境に彼の治世に不満を持っていた者達が蜂起する。
 それは「保元の乱」、「平治の乱」へと繋がっていき、天皇家と公家の権勢は著しく衰退。
 それと同時に平清盛、源義朝のような武家の棟梁が台頭していく。
 やがて国家権力の行政機構の担い手は天皇、公家から武士達に取って代わられる事となる。







「あの時もしもアキミやヨコシマみたいな人間が朝廷の重要な部署にいてくれたら、
 私は今頃『人と人外の存在の共存共栄』の代表例になってたかもしれないわね」

 昔を思い出しながら、タマモはしみじみとした口調で自らの物語を締めくくった。
 だがその内容は、人と人外の存在のすれ違いそのものであった。
 思わず俯く秋美の耳に更に彼女の言葉が飛び込んでくる。

「でも、今の世の中はそう捨てたもんじゃないわよ。
 妖怪だからって理由だけで私に襲い掛かってくる霊能力者なんていないしね」

 その言葉に勢いよく顔を上げた秋美にタマモは嫣然と微笑んだ。

「ミカミやヨコシマやアキミ達はむしろ私を守ってくれている。
 勿論それは一方通行なだけの関係じゃあないわ。
 形ある利害に基づいて結ばれた縁とそれを補強する情というファクター。
 私は貴方たちに協力するし、貴方たちは私に便宜を図ってくれている。
 私の、うまく人と共存共栄しながら生を謳歌してやるって野望は、時を経て貴方たちが叶えてくれたのよ」

「タマモ………」

「増長されると困るからミカミやヨコシマの前では絶対言わないけど、
 ミカミにはむしろ恨みもあるけど………感謝してるわ。
 アキミが頑張って進めてる事もうまくいって欲しいと思ってるわ、少なくとも私はね。
 だって………絶対に間違いなんかではないもの。昔に比べて変化した妖怪に対する認識も、この計画も、アキミの想いも」

 いつもクールな表情を浮かべている顔を僅かに紅潮させて、それでもタマモは真っ直ぐに秋美を見つめている。
 その視線を受けて、タマモの感謝の言葉を聞いて、自らの理想を肯定されて、
 秋美の目に悲しみとは対極にある感情から生じた涙が浮かんでくる。

「ありがとう、タマモ」

「さて………トイレに行ってくるわ。そうね、30分くらい」

 小声で告げられた感謝の念を聞こえなかった振りをしてやり過ごすとタマモは立ち上がった。
 こんな遣り取りをするのは背中が痒くてしょうがない、決して不快ではないけれど。
 何より、秋美の心の整理をつけるために今は1人にしておこう。
 内心でそう呟きながらタマモは部屋から出ていった。



「本当に…………ありがとう」

 タマモが出て行った扉に向かって秋美はそう呟いた。
 彼女の目から、湛えられた涙が零れ落ちていく。
 やがてその部屋の中では静かにすすり泣く女性の声が微かに響いていた。



 タマモが戻ったとき、秋美はさっぱりとした顔で彼女を迎えた。
 その様子に安心したタマモが秋美の赤い目元をからかうと、彼女は慌ててメイクを直す。
 やがて秋美が落ち着いて、2人がお茶を飲みながら雑談をしていた時、
 秋美がほんの少しの不安を込めてタマモに尋ねてきた。

「ねえ、1つ聞いていい?」

「なに?」

「タマモは人間を恨んでないの?随分大勢の人に追われてきたんでしょう」

 それは秋美がタマモの過去を聞き終わった時から、ずっと心に引っ掛かっていた事であった。
 しかし秋美の問いに、タマモは全く陰のない余裕の表情のまま答えた。

「確かに私を追い立てた朝廷の貴人どもは憎いわよ。同じ体験したら誰でもそう思うでしょうけど。
 でもそんなことで人間全体を憎むなんてナンセンスよ。それこそ視野狭窄じゃない。なにより………」

 そこで一呼吸置くと、彼女は拳を握って力強い口調で断言した。

「キツネうどんやデジャブーランドみたいな良い物を創り出した人間を憎めるわけないじゃないの!
 人間ってある意味くだらない事にかけては本当に凄いんだから!」

 タマモのあまりにも予想外のセリフに秋美は呆気に取られて絶句する。
 やがて耐え切れなくなった彼女は肩を震わせながら吹きだした。

「ぷっくくくく………あはははは」

 その反応に自分が言った事を振り返りはっとするタマモ。

「アキミ、もう黙りなさい!」

 彼女は珍しく顔を赤らめて秋美の肩をつかむとその笑いを押さえ込もうとする。
 そうして2人が揉み合っているうちに、部屋に入ってきた横島が声をかけた。

「そろそろ、しゅっぱ………なにやってるんすか、秋美さん?」

「あ、いえ。何でもありません。大丈夫です」

「………分かりました。荷物積んできますんで、五分後に車までお願いします」

 慌てて離れる二人の様子に首を傾げる横島だが、特に口を挟まずに引き下がった。

 それを見送りながら秋美は自分の心に前にも増して気力が満ちてくるのを感じていた。
 そう。あの出来事はけっして変えることのできない悲しい過去。
 激しく哀しく絶望した末に死んでいった牛鬼の少女に私達の手は届かなかった。
 
 それでも、たとえ無駄に終わるかもしれなくとも、分かり合いたいという願いは真実なのだ。
 それだけは胸を張れる、いまも私が抱いている夢。
 だからこれからも私は訴え続ける。
 人と人外の存在は、互いに理解を深めていけば、いつかきっと分かり合える、共に生きていく事ができるのだと。
 自分も、心底から信頼している彼も、決してできない筈がないと、強くそう思っている。

 数え切れぬほどの過ちを犯していくかもしれない。
 いつかこの手が血に塗れることになるかもしれない。
 でも、それでも、まっすぐに前を見て。
 立ち止まる事なくいつか『人と人外の存在の共存共栄』の夢の果てへ。
 
 たとえ『組み込み計画』がうまくいってもあの牛鬼の少女を救う事は叶わない。
 あのとき人間によって家族を失った少女に、安らぎを与える機会は永遠に訪れない。
 ただ、想いの一端を汲む事はできたと思う。
 それを胸に、必ずこの社会の在り方と認識を変えていく。
 あの少女が輪廻の渦を抜けて再びこの世界に還ってきた時には今度こそ彼女に希望と祝福が訪れる事を願って
 これからも私は遠い果てにある理想の達成に向けて歩んでいく。
 
 きっとあの出来事を思い出して何度も泣いてしまうだろう。
 もう少し早ければ、もっと早く調査を終わらせていれば、私はそう悔やみ続けるだろう。
 でもそれでも、私達がやっている事は無駄なんかではないんだ。


「それじゃあ行くわよ、アキミ」

「ええ、出発しましょう」

 そう言って立ち上がった秋美の顔には少し前に見られた翳りが完全に消えていた。
 以前よりも輝きを増したような瞳には、強い意思が込められている。
 立ち上がって歩き始めた彼女の足取りは確固たる強さを感じさせ、その視線は真っ直ぐ前に向けられていた。 


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