令子は横島の体が横たわるベッドの傍で、じっとその顔を見つめていた。
何も語らず、微塵も動く事の無い、横島の体。ただ一つ、彼に施されているという“法術”の存在だけが、今の令子の理性を繋ぎとめる希望の糸。
令子は悲しみとも怒りとも取れるような、悲痛な表情のままで片時も横島の傍を離れようとせずにいた。
あれからどれだけの時間が過ぎ去ったのだろう。もうそういった時間の感覚も、だいぶ薄くなってきていた。もっとも、今の令子にとってそんな事はあまり関係の無い事なのかもしれない。
あるのはただ、動かなくなった目の前の男と自分だけ。世界が自分達を残して閉じてしまったような、そんな感覚。
いつだったか、彼の両親がここに来た。正直なところ、その時の事はあまり覚えていない。ただ淡々と、現状を説明したような事だけはなんとなく覚えている。
殴られてもいい、と思っていた。罵られ、蔑まれ、いっそ憎んで欲しかった。今の令子にとって、それこそが贖罪となるような気がしていた。
けれど横島の両親――大樹と百合子――は決して、令子を責める事は無かった。責めるどころか、逆に令子を労る言葉が二人から掛けられたのだ。
そんな二人の自分を気遣う言葉が、まるで刃物のように自分の心を抉っていく気がして、立っている事が出来ずに座り込んでしまったのを思い出す。
本来であれば、今ここで横島の傍にいるのは彼の両親でなければならない。だがこの施設の性格上、いわゆる“一般人”を居座らせる事は出来ない。令子はその事も含めて、彼の両親に対しての申し訳ない気持ちにさいなまれていた。
「令子、少し休んだら?」
いつの間に室内に入ってきたのだろうか、気がつくと後ろから美智恵の声が聞こえた。
「大丈夫、もう少し・・・。」
どこからどう見ても、誰が見たって“大丈夫”には見えないわね。弱々しく自分の声に答える令子を見つめながら、美智恵は心の中で呟いた。
「令子・・・。貴女の気持ちは分かるけど、もうだいぶ寝ていないでしょう?
今、貴女にまで倒れられたら皆に迷惑がかかるのよ?」
美智恵は眉間に皺を寄せながら、軽く叱るかのように令子をたしなめる。
そんな美智恵の視線の先に、少し申し訳なさそうに頷く令子がいた。
「ゴメン。でも、もう少しだけなら・・・大丈夫だから。」
こうなってしまうと、何を言っても駄目だろう。美智恵は半ば諦め、半ば呆れた顔でため息を吐いた。もっとも、今の令子にはここでこうしている方が精神衛生上良いのかもしれないが。
美智恵は誰に似たのか強情な娘から視線を外すと、天井を一旦見つめて呼吸を整えた。そして再び愛娘に視線を戻すと、先程入手した“法術”に関する情報を話し始めた。
「・・・じゃあ、横島クンが戻って来る可能性はあるのね?」
美智恵から一通り話を聞くと、令子は先程より僅かに瞳に精気を宿らせながら聞き返した。
「可能性はあくまでも可能性よ。あまり期待するのはやめて頂戴。」
やや意気込む令子をわざと冷ややかな目で見ながら、令子の勢いをいなすように美智恵は淡々と答える。
ここで迂闊に期待させておいて、万が一蘇生不可であった場合の令子の心を想像するのは耐え難い。美智恵は咄嗟に、あまり期待させないような態度を無意識に取った。
そんな美智恵の心遣いを汲み取ったのか、令子は寂しげに微笑んだ。
「分かってる。流石にもう、覚悟はできているから。」
「・・・そう。そうよね。」
この一週間、きっと自分なりに色々と考えたのだろう。今の令子の心は、どうやら現実をきちんと見つめているようだ、と美智恵は思わず安堵した。
美智恵は視線を令子から横島へと切り替えると、ほんの少しの間思考を停止して、何気なくその動かない肉体を見つめていた。
「・・・令子?」
そんなとき不意に美智恵が、少しおどけたような声を出した。その訳は、突然自分の胸元に令子が頭を預けてきたからだ。
「どうしたの? 令子。」
美智恵は一瞬、令子までが体調に異変をきたしたのかと顔を強張らせたが、見た感じではそうではなさそうだ。表情を緩めた美智恵は、子供のように寄りかかる令子の髪を撫でながら優しく尋ねた。
「ママ・・・、あたしってさ、GS向いてないのかな?」
美智恵の胸の中で、暫く押し黙ったままだった令子が小さくポツリと、搾り出すように呟く。
それはいつもの彼女の姿からは到底想像できない、信じられない弱気な姿だった。
「令子・・・。」
今、私は自分の娘に対してどんな言葉をかけてやればいいのだろうか。美智恵は己の胸の中で苦しむ哀れな娘の姿に、そう思わずにはいられなかった。
そもそも、“ゴーストスイーパー”という職業は常に危険と隣り合わせである。それほど頻繁では無いとしても除霊作業中に事故は起こるし、その事故は消防官や警察官と同等に死の可能性を孕んでいる。
言うなれば、これもGSという職業をやっていく以上、避けては通れない事であるとも言える訳だ。
だが、いかんせん今回はその事故の対象が悪すぎる。令子にとって横島という存在はあまりに大きすぎたのかもしれない。
初めのうちは単なるアルバイトに過ぎなかった横島は、いつの間にか令子の中で欠く事の出来ない存在になっていたのだろう。
「横島クンだけなら逃げられたのよ・・・。結界はもう無くなっていたんだからっ・・・。」
悲痛な顔でただ令子の髪を撫でる美智恵に向かって、令子はまた小さく呟く。その声は僅かに震えていた。
己の油断が招いた失態。そう、令子は思い込んでいるのだろう。実際は他のGSが行ったとしても同じ結果、いやさらに酷い結果になっているのは恐らく間違いない筈なのに。
令子は己の失態に、GSの資格を有するに相応しくないと絶望し、そしてそう思う事で自分の心をわざと苦しめている。美智恵はなんとなくそう思った。
そうする事で、令子は少しでも自分の罪を償えるかもしれない、と思っているのだろう。だが残念な事に、それは所詮錯覚でしかない。
そして何より一番辛いのは、きっと令子はそれが錯覚だという事を、心の奥底ではちゃんと理解しているであろう事だ。理解していながら、それでも己を痛めつけるしかない現状は、見ている美智恵にとってもあまりにも辛い。
その苦悩の中で令子が導き出したものが、己の資質への疑問だったとしたのならば、導き出される答えはおのずと絞られてくる。
“自分はこの職業に向いていないのではないか?”と言う、ほとんどの人間が人生で一度は考えるであろう苦悩。それ自体はそれほど大層な問題では無い。それは誰にだって起こり得る事に過ぎないのだから。
問題なのは、そのきっかけがこの事件だという事だろう。普段なら、人はその悩みを誰かに話したり、己の中で葛藤したり、それぞれに様々な方法で答えを出して前に進む事が出来る。
だが、今令子の心中に在るのは耐えがたい自責の念だけだ。
恐らく今回の事件の全てを、己一人で背負い込んでしまっているに違いない。
結果、そういう人間が先に示した苦悩に直面した場合、取るべき行動はほとんど一つしかない。
美智恵は静かに目蓋を閉じて、右手で愛娘の頭を抱き寄せた。
「・・・令子。冷たい言い方かも知れないけど、貴女がこの仕事に向いているかどうか、その事は私には何も言えないわ。
でもね、これだけは忘れないで。例え貴女がどんな結論を導こうとも、私は貴女を最後まで見届けてあげる。」
震える愛娘の髪をそっと撫でながら、美智恵は優しく、しかし力強く、令子の最初の質問に己の意志を示した。
本当なら“そんな事は無い”と慰めてやるべきなのかも知れない。しかし美智恵は令子が幼い時から、母親がいなくとも己の足で立ち上がれるように育ててきたのだ。その代わり、彼女が選んだ道にとやかく口は出さない、そう心に誓っている。
親とは、己の子供に何でも道を示せば良いというものではない。どんな結論であれ、己自身で決めねばならぬ時が必ずあるのだ。だが、決して見放す事はしてはならない。子供がいかなる道を選ぼうとも、見守りつづける事。それが親の役目だと美智恵は信じていた。
美智恵は軽く下唇を噛むと、泣きそうな顔で天井を見上げた。
「それにね、例え横島君だけが逃げられる状況にあったとしても、横島君は決して逃げなかったと思うわ。」
美智恵は小さく深呼吸した後、軽く令子の両肩を掴んで胸元から引き離すと、真正面から令子の瞳を見据える。
「どうして横島君が命を捨ててまで貴女を助けようとしたのか、もう少しゆっくり考えてみなさい。」
令子は目を伏せて微動だにせず、美智恵の言葉をただ静かに聞いていた。
(今は何を言っても・・・駄目なのかしらね。)
無反応な娘の姿を見つめながら、美智恵は心の中で呟く。
このままだと娘は間違いなくGSを辞めるだろう。だが、それも仕方の無い事なのかもしれない。この世の中のどんな仕事でもそうだが、特にGSという仕事は本人のモチベーションが大きく影響する。今の精神状態でGSを続ければ、次に生死の境を彷徨うのは間違いなく令子になる筈だ。
それならばいっそ、辞めてしまった方が令子の為なのかも知れない。
「とにかく、今日はもう寝なさい。顔色が悪いわ。」
本当に顔色が悪い。愛する娘の力無いその表情に、美智恵は少し不安になった。
先程両肩を掴んだ時に気が付いたのだが、彼女からいつものような強い生気を感じなかったのだ。
(こんな状態じゃ無理も無いのかもしれないけど・・・。)
そう思う事で、己の令子に対する不安を押さえ込んだ美智恵は、ふらつく令子の体を支えながら仮眠室へと歩き出した。
「あの〜、どこまで行くんでしょうか・・・? いきなりゴツイ人が出てきて金を取られるなんて事は無いっすよね?」
横島は案内をする天女の後を歩きながら、ビクビクと周囲を窺っている。過去の経験から言っても、大体この辺で“その筋”の方が“こんにちは”って言うのが彼の人生におけるセオリーだ。
「・・・? 何ですか、それ?」
横島の奇妙な質問に思わず立ち止まった天女は、きょとんとした顔で聞き返した。その表情からは、横島の言葉の意味が全く分からない、という感情が読み取れる。
「い、いや、何でもないっす! わはは!」
どうも今のは場違いな質問だったようだ。横島は慌てながら笑って誤魔化すと、天女に先を促した。
(大体・・・ここはどこだよ・・・?)
延々と続く廊下をひたすらに歩きながら、横島はきょろきょろとあちこちを見ては立ち止まる。
廊下は朱色の柱が荘厳と立ち並ぶいかにも古代中国の宮廷風で、隅々まで手入れが行き渡っており埃一つ無い。
柱には炎とも蛍光灯とも違う、不思議な光が灯っていて、その光が廊下を柔らかく照らしている。
そんな風に辺りを観察しながら歩いていた横島の頬を、ふわりと柔らかい外気がそっと撫でた。それはえもいわれぬ花の香りが微かにたなびいて、包み込むように暖かくて心地よい。
通り抜けた風の方向に誘われるように目を向けると、天女が歩くその先に渡り廊下が見えた。
「あ・・・! ス・・・スゲエッ!?」
渡り廊下に差し掛かり、眼前に広がる神秘的な景観に思わず横島は声を漏らした。
見上げれば青色とも碧色ともつかぬ不思議な色の空、見下ろせば気が遠くなるほどの断崖。そのさらに下には、美しい森や泉が広がっている。
そんなこの世のものとは思えない景観に心奪われていた横島の耳に、紺碧の空に響き渡るように高く澄んだ鳴き声が流れ込んできた。
その声の出所を目で追えば、極彩色の見たことの無い大きな鳥が、物理法則を無視しているかのようにふわふわと浮いているではないか。その不思議な鳥はあっけに取られる横島の顔をちらりと見ると、もう一声鳴いてどこかへと飛んで行った。
横島はその不思議な鳥を眼で追っていくうちに、一つの事に気が付いた。この屋敷は信じられない高さの断崖に建てられており、しかもその断崖はどうやら巨大な山の一部分であるようだ。
「あら? 須弥山【しゅみせん】は初めてですか?」
渡り廊下の中ほどで、天女は立ち止まるとくすりと笑って横島に話し掛けた。とはいえ横島の無知を馬鹿にした感じでは無いので、その笑い方に嫌味を感じる事はない。
「・・・須弥山?」
聞いた事の無い名詞が耳に入ってきて、横島の思考回路は暫くの間停止を余儀なくされた。“須弥山”という言葉を受けて、彼の頭脳に浮かび上がる単語といえば“三味線”や“○×専”といった俗っぽい物ばかりだ。
ますます訳が分からなくなってきた横島を尻目に、天女は渡り廊下をさらに進む。そして彼女は廊下の突き当たりでその足を止めた。屋敷の離れなのだろうか、その建造物は先程の母屋に比べるとややこぢんまりとした印象を受ける。
ただ一つ、明らかに不可思議なのは、その離れは信じられないほど高い場所に存在しており、尚且つ柱のような支える物も無く空中に浮いているという事だ。
そして今横島が立っている渡り廊下が、母屋と離れを繋ぐ唯一の連絡手段となっているようだ。
「こちらです。奥で孔雀様がお待ちになっておられます。」
天女は部屋の入り口で立ち止まると、横島に向かって恭しく一礼をして微笑んだ。
彼女が指し示した入り口には扉が無く、赤く太い二本の柱の間は薄絹のようなもので閉ざされている。
(・・・どうする? 行くしか・・・無いよな・・・?)
ゴクリ、と一つ唾を飲むと、横島は奥へと促す天女の顔をじっと見た。見つめられた天女は少し困ったような顔で、横島の視線を受け止めている。
見つめている横島も同じように困り顔をしているので、もしここに第三者がいたとしたら、その目には非常に奇妙な光景に映っているに違いない。
時間だけが、ただ静かに流れていくのみである。
「あの〜、いい加減入って頂けませんか?」
度重なる横島の逡巡に業を煮やしたのか、天女の顔は微笑こそ保ってはいるが、うっすらと青筋が浮かんでいる。
天女でも怒る事はあるのか、と場違いな事を考えながらも、彼女の雰囲気に気圧された横島にはその指示に従う他に選択肢は無かった。
恐る恐る薄絹のカーテンをかき分け、覗き込むようにして中に入ると正面から誰かに声を掛けられた。
「待っていましたよ。横島。」
突然名を呼ばれて、横島の体が反射的に小さく跳ねる。慌てて視線を声がした正面に向けると、そこには一人の女性が白い雲のようなソファーに座っていた。
長く美しい黒髪を高い位置で束ねて、質素だがセンスの良い髪飾りで抑え、すっきりと整った顔立ちに慈悲深さを感じさせる落ち着いた黒い瞳。
角度によって微妙に色合いが変わる不思議な生地で出来たアオザイを身に纏う、年齢は見た感じ二十代後半辺りの淑女の姿だ。
「・・・お待たせしました、美しい方。」
そっと、その淑女の手を取り横島が囁く。間合いにして十数歩程を一瞬にして詰めていた。後方で控えていた天女の目も思わず見開かれる程だ。
いつもなら次の瞬間には彼の雇い主であり絶対君主である上司が、常人であれば致命傷である一撃を喰らわす所なのだが、残念な事に今は誰も彼を止める人間がいない。
しかもその淑女も突然の事に驚いたのか、抵抗する事も無く横島を見つめている。
「ふ・・・。僕が何故ここにいるのか、ようやく分かりました。それはっ・・・貴女に出合う為・・・!」
今が人生最大のチャンス、とばかりに目を血走らせながら、横島は更に顔を淑女に近づけた、がその時。
「オウ、ニーチャン、その辺にしとけや。」
都会の繁華街などでは割と良く耳にする、やたら野太い、ある種独特な声が室内にこだました。
条件反射的に横島は動きを止めると、まるで間接部分が錆びたロボットのように、その声の主の方にゆっくりと首を回して視線を切り替える。
そこには、一人の男が立っていた。
真っ白の下地に金黒のストライプが入った、イタリアンテイストあふれるダブルのスーツ。男の恰幅のいい体をゆったりと包んでくれている。
その胸元は目も覚めるような鮮やかな赤色のシャツにシルバーのネクタイ。
足元からちらりと覗く靴は、重厚感にあふれ、“鉄板でも入っているんですか?”と尋ねたくなる程だ。
視線を上に切り替えよう。
頭頂部は黒々とした髪にキッチリとアイパーがかかっており、一部の隙も見当たらない。
体格に比例した大きな顔に、一般人ならまず間違いなく目を逸らすと断言できる程の趣味の悪いサングラスが乗っかっている。
端的に言うと、“その筋の方”という表現で済むような気もしないでもない。
「・・・やっぱりかぁぁぁ?! そんなこったろうと思ったよ、コンチクショー!」
手の込んだ美人局じゃねえか、と誰に言うでもなく一人叫びながら、横島は頭を抱えた。
誰が予測できると言うのか。いつの間にこんな所に連れてこられたのかも分からぬまま、しかも霊体にされた上に有り金全部むしられようとは。
いや、ちょっと待て、これは多分夢だ。そうでなきゃ嫌だ。
「・・・おい、兄ちゃん、聞いてんのか?」
現実逃避気味の横島の横に、やたら迫力の有るサングラスがおもむろに近づく。そして横島の顔を覗き込みながら、その頭をコンコンとノックするように軽く叩いた。
「ああっ!? い、痛い?! ってことは・・・この野郎! 人が折角現実から逃避しようとしてたのに・・・!」
「おわっ・・・!? な、なんやこの小僧?!」
不意打ち気味に横島に襟首をつかまれ、虚を突かれた格好になったサングラスの男が思わず驚きの声を上げる。
男の襟首を掴んだまま、横島は最早訳の分からぬ言葉を口にして半狂乱となっていた。
「もーあかん! こーなったら、せめてこのねーちゃんと既成事実を作って元だけは取らねば・・・!」
そう叫ぶや否や、横島はこの部屋の主である淑女目掛けて全身で飛び掛った。
「あっ! コラ、坊主待たんかい!」
サングラスの男が叫ぶと同時に伸ばした右手が、残像が残るほどの速さで飛び掛ろうとする横島の首根っこを鷲掴みにする。
「なにさらす、ぼけぇ! その女はわしが遥か昔から狙っとったんじゃあ!
いきなり出てきて掻っ攫うような真似すんなや!」
サングラスの男は横島の首を掴んだまま、自分の顔の前に持ってきてそう叫んだ。
室内は混乱する横島と、興奮気味のサングラスの男が放つ訳の分からぬ言い合いによって混迷を極めていた。
「ああっ!? しまった!? 美人局じゃなくて、ヤクザとの三角関係!?」
「だから、誰がヤクザやねん?!」
「ああー! もう駄目やー! みがみざーん!」
「・・・話を聞く気になりましたか?」
ソファーにゆったりと腰掛けた淑女は、己の足元でうつ伏せに横たわる二人の男達に向かって、春の日差しのような暖かい微笑を見せながら尋ねた。
ごすごすごす。
「ええ・・・、話を聞く気になったので、僕の脳天をひたすら突付くこの鳥をどけて下さい。」
ごすごすごす。
「わしが悪かった・・・、頼むからこいつらを使うのはやめてくれ・・・。」
謝罪と許しを請う二人の上に、大きな紅い孔雀と蒼い孔雀が獲物を押さえつけるように仁王立ちしていた。
そして更に二人の後頭部を嘴で突付き、彼らの意識を彼方へと遠ざける。それでも、二羽の孔雀は一向にその攻撃を止める気配を見せなかった。
暫くして、ソファーに腰掛けてその様子を眺めていた女の右手が上がる。同時に二羽の孔雀は一声無くと、羽ばたいて天井に上がっていった。
「・・・さて、と。では改めてご挨拶致しましょう。」
そう言いながら女は姿勢を正す。その仕草になんとなく気圧された横島も、思わず起き上がって正座した。隣のサングラスの男も同様に起き上がると、おとなしく正座している。
「私は孔雀明王と申します。初めまして、横島。」
「は、はあ、初めまして。」
丁寧な口調につられて、横島も丁寧に挨拶を交わした。この女性の前では何故か無意識に萎縮してしまうような感覚を覚えるのは、気のせいなのだろうか。
そんな事を考えながら、横島は彼女の言葉の中で気になる単語を見つけた。
「・・・“明王”って・・・、あの“明王”っすか? 仏教の?」
いくら横島と雖も、“明王”ぐらいは知っている。ただ、過去に会っているとか、そう言った類の“知る”ではなく、あくまでも文字による知識に過ぎないが。もっとも、人生においてそんな存在と対面できる機会は、宝くじより低い確率なのはまず間違いない。
「ええ、その“明王”です。私が人間と直接会うのは殆ど無いですから、信じられないのも仕方ありませんね。」
孔雀明王は横島の懐疑的な視線を微笑みで受けながら、右手で隣にいるサングラスの男を示した。
「そして、そこに座って居られるのが不動明王です。」
横島が孔雀明王の指し示す方向に視線を回すと、正座からあぐらに切り替えて座っているサングラスの男がこちらを見ていた。
「・・・アホぬかせー! こんなヤクザのおっさんが“不動明王”の訳あるかー!
コラおっさん、白状しろや。どういう手でこのお姉さんを洗脳したんだ? 今なら警察には言わんでおいてやるぞ。」
「オマエ・・・とことん失敬なやっちゃなー。」
横島に襟首を掴まれ、首がもげるほどガクガクと揺さぶられながら、不動明王は心底呆れた表情でそう呟いた。
「話を戻しても良いかしら?」
そんな二人に、孔雀明王は静かに笑いかけるとそう尋ねた。言うまでもなく、その笑顔に強力な無言の圧力を添えて。
「さて、あまり時間が無いので、早速本題に入りましょう。」
孔雀明王は借りてきた猫のようにおとなしくなった二人を見据えながら、ソファーに腰掛けた状態で姿勢を正すと、ゆっくりと話し始めた。
「まずは、横島。貴方は何故ここにいるのか理解していますか?」
孔雀明王の瞳が真っ直ぐに横島の瞳を見つめる。その視線にどぎまぎしながら、横島は“さっぱり分からない”と言った表情を浮かべて首を横に振った。
「・・・そう。魂だけの状態でいるから無理も無いですね。」
孔雀明王は横島の仕草を見て何か考え事をしているような顔を作ると、突然何も無い空間から孔雀の羽を取り出して右手に持った。
次にその羽を横島の霊体にかざすと、横島の頭頂部から触手のような霊体が伸び始めた。その触手は意思を持っているかのように離れの入り口を抜け、断崖の下へと向かう。
霊体の触手は須弥山を猛烈な速度で落下しながら一気に天界を突破し、次元の穴を抜けて横島の肉体が眠る都庁の施設へと突き進んだ。
誰もいない室内に霊体の触手が入り込むと、速度を緩めて横島の肉体の頭頂部へと侵入する。
「・・・?! なんだっ?!」
同時に横島の意識に、強烈なイメージの嵐が吹き荒れた。
報酬をふっかけて駆け引きをする美神の姿。
深い森の中、重い荷物を背負って歩いた道。
不思議な石碑。
巨大な白蛇。
そして・・・。
「・・・! も、もしかして・・・俺・・・?」
横島は自分の顔を指差しながら、動揺した顔でゆっくりと孔雀明王の顔を見つめた。
「ええ、死にました。」
横島の表情とは反対に、孔雀明王は朗らかな顔であっさりと言い放つ。
「・・・な・・・なんじゃそらー!? 一体俺が何をしたと言うんだ!? こんな若さでもう人生終わりってか!?
こんな事なら、美神さんに殺されるの覚悟で襲い掛かっておけばよがっだー!!」
「これ、少しは落ち着いたらどうです。横島。」
孔雀明王は錯乱している横島を苦笑いしながらたしなめると、不動明王に目配せする。
不動明王はその視線を受けて小さく頷くと、ウン、と呟いて横島を睨んだ。
するとどうした事か、途端に横島の体は石のように硬くなると、身動き一つ出来なくなってしまった。
「・・・!? な・・・ん・・・で?!」
声を出すのも大変な様子で、横島は小さく震える声でうめいた。
「わっはっはっは。どや、驚いたか? 不動金縛りの術やで。」
品の悪いサングラスを振動させながら、少しおかしな関西弁で不動明王が愉快そうに笑っている。
「これで嫌でも話を聞けるでしょう? 横島。」
その姿を見て、相変わらず可憐な微笑を浮かべながらそう言うと、孔雀明王は横島の顔を見つめた。
「“死んだ”という言い方は少し適切ではありませんでしたね。
正確に言うと、貴方は非常にゆっくりと死に向かっているのです。」
動けない横島の周囲をゆっくりと歩きながら、孔雀明王は静かに語りだした。
「今貴方は、先の大蛇との戦闘と、その戦闘で自分が致命傷を受けた事を思い出したはずです。」
そう言いながら、孔雀明王が小さく合図する。彼女に視線を合わせた不動明王が小さく唸ると、横島の首だけが動くようになった。
戸惑いながらも、横島は孔雀明王の質問に対して肯定の意思を込めて頷く。
その横島の仕草を確認してから、孔雀明王は再び口を開いた。
「では・・・貴方が致命傷を受けた後、貴方の上司である美神令子が大蛇によって倒され瀕死の状態になった時の事は?」
その質問に再び横島が頷く。どうやら彼の記憶は完全に戻っているようだ。孔雀明王は満足げな顔で再び横島の正面に回りこんだ。
「よろしい。そこから先の事は恐らく覚えてはいないでしょうから、かいつまんで説明しましょう。
・・・死が間近に迫った貴方は“ある方法”で無意識的に文珠を作り出すと、それを用いて無理矢理時空に穴を開けました。
その“穴”はあらゆる空間、時間を越えて世界を繋ぎ、ついには貴方“達”の命を懸けた願いが私の居る無色界に届いたのです。」
ここで孔雀明王は一度言葉を切った。その瞬間、心なしか今まで微笑を絶やさないでいたその顔が、少し曇った様に見えた。
「本来ならば・・・私自身が下界に降りる事はあってはならない事なのですが、これも何かの縁なのでしょう。
私は貴方“達”の命懸けの、そして時空を繋ぐほどの強い願いに答えざるを得ませんでした。」
(貴方・・・“達”・・・?)
言われてみれば、その時の事はうっすらとだけれども、覚えている気がする。とは言っても、最後の力を振り絞って、文珠に石碑の呪文を浮かべて天に放った所までの記憶に過ぎないのだが。
それよりも一つ気になる事がある。横島は“貴方達”という、孔雀明王が発した単語の意味が今ひとつ理解できないでいた。
戸惑いの表情を見せる横島の前で、孔雀明王はなんとも言えない憂いを含んだ表情を一瞬だけ垣間見せた。
「・・・貴方の請願に答え、地上に降臨した私は法力を持って大蛇を撃ち滅ぼし、我が胎内にて浄化したのです。」
孔雀明王はそう語りながら、手にした羽でふわりと横島を撫でる。その瞬間、横島は己を拘束していた見えない力から解放された。
「・・・じゃあ・・・、美神さんは・・・無事なんすか?」
金縛りが解けてもそのままの格好で身じろぎもせずに、恐る恐る横島が尋ねた。記憶が戻ってから、ずっと心に引っかかっていた事、それは己の上司の安否。
もう二度と、自分の目の前で大切な人間を失う事は避けたい。あの苦い思いだけは絶対に味わいたくは無いのだ。
孔雀明王はその横島の問いに答える事無く、無言で今度は右手の羽を床にかざした。
すると、足元からまるで水面のように波紋が広がり、その波紋が通り過ぎた後の床に何処かの室内が浮かび上がった。
そこは白色を基調とした清潔な一室で、大抵の人は一瞥しただけでそこが病室らしき場所である事に気が付くだろう。
その部屋の中央には一台のベッドが据えられており、そのベッドには顔色の芳しくない男が横たわっていた。
「・・・あ、俺だ・・・。」
本来、そこに映っている肉体に入っているべきである霊体が小さく呟いた。以前にも、自分の死体を客観的に見つめた事があったような無かったような、そんな既視感を感じながら、横島は視点を少し横にずらした。
己の抜け殻が眠るベッドの傍らには、亜麻色の髪の女性が殆ど動く事無くただじっと、ひたすら何かを待っているかのように座っている。
「そっか・・・。助かったか・・・。」
横島は瞬時にその女性が令子であることを確認すると、心底安堵したようにほっと胸を撫で下ろした。
そんな彼の表情は、かつて大事な人を失った時のあの痛みを、あの悲しさをもう一度味わうかもしれない、という恐怖を紙一重で回避できた安堵感で溢れている。
そんな感じで意識を完全に下に向けていた横島は、その傍で孔雀明王が再びその微笑を曇らせた事には全く気がつかなかった。
「見ての通り、美神令子は生きています。そして横島、貴方も私の法術によってまだ肉体は完全に死んではいないのです。
本来なら、あの鎮守の森で美神令子と共に蘇生すべきだったのですが・・・。
貴方の魂は酷く破損していましたので、やむを得ずこちらで修復せねばならなかったわけです。」
なるほど。俺の魂は酷く破損していたから、その場での蘇生ができなかったって事か。横島はようやく己が霊体の姿でこんな場所に居る訳を理解した。
それにしても、あの大蛇の体当たりが魂までもダメージを与えるものだとは思いもしなかった。横島は自分の霊体をまじまじと眺めながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。
「さて、横島よ。実は貴方の肉体にかけた法術の効果がそろそろ限界に近づきつつあるのです。
思ったよりも、失われた魂の補填に時間が掛かってしまいました。
早速ですが、今から貴方を本来の肉体に戻そうかと思います。よろしいか?」
孔雀明王は横島の返事を待たずに、もう一度床を羽で指し示した。すると先程まで水面の様だった床が元に戻り、代わりに複雑な梵字が描かれた法円が姿を現した。
帰れる。皆の元へ。横島は迷う事無く二つ返事で頷くと、孔雀明王の指し示した法円の中へと足を踏み出した。
完全に横島が法円の中に入ったのを確認すると、孔雀明王は頷いて手の中で遊ぶ孔雀の羽を横島の足元へと放った。
足下の法円は羽が落ちた場所からゆっくりと輝きだすと、次第に光量を増して横島の体を光で包み込み、暫くすると完全に彼の姿は見えなくなった。
「・・・ええんか? ホンマの事言わんで。」
事の次第を横で見ていた不動明王が孔雀明王の横に歩み寄ると、後ろからボソリと尋ねた。
「・・・仕方ありません。霊体の状態で細かい事を説明しても、理解しにくいでしょうし・・・。
何より、今の彼の精神状態で事実に耐えられるかどうか・・・。」
孔雀明王は不動明王の方に振り向かないまま、どこか遠くを見つめるような目で呟く。
「せやなぁ・・。後は・・・あの小僧次第やな。」
不動明王もまた孔雀明王の方向を見る事無くそう答えると、おもむろに胸ポケットから煙草を取り出し、これまた趣味の悪いライターでゆっくりとそれに火をつけた。
緩やかに、紫煙が煙草の先から立ち昇る。二人はそれ以上何も言わず、じっと横島が消えた場所を見つめていた。
のんびり、ゆっくり、コツコツと。(笑)
マイペースでやっていきます。(^^) (ヨコシマン)
ぜひとも完結を目にしたいものです。これからも頑張ってください。 (三石)