「――イチイチ確認しなくたっていいじゃないですか」
ヒャクメはふてくされたように言った。
美智恵は、ちょっとだけ顔を緩めて、
「さすがにそういうわけにも……」
と、受話器を置いた。
ギシリと美智恵の椅子が軋んだ。少しだれ気味の姿勢を正したのである。
本腰を入れて話そうというのだろう。それを察したヒャクメは、ソファーに深く沈めていた身体を起こして、
「どうするつもりなんですか?」
と、訊いた。
「そうですね……」
美智恵は軽く俯いて、細い指で顎のあたりを撫でていた。考え深そうなしわが眉間に刻まれている。
美智恵とヒャクメは、美智恵のデスクを挟んで、向かい合う格好で座っていた。わりと大きめの部屋である。装飾は素っ気なく、機能的であるともいえるかもしれない。
暫くすると、美智恵は顔を上げて、
「とりあえずは、彼――横島くんの保護を最優先に考えます」
と、静かに口を開いた。「彼そのものに魔族が引き寄せられるとなると、もはや無視できる問題ではありません。周囲に被害が生じる前に、すぐにでも対処しなければならないでしょう」
「……妥当な判断ですのね」
ヒャクメは深刻そうに息を吐いた。「神界からの干渉も難しいですし」
「やはり無理でしたか…」
「はい。なんでも、『神界と魔界の、現時点における極めて良好な関係を崩すには、いささか役不足な問題であることは否めない』とか、『むしろ被害者としての立場は魔族にこそ当てはまる』とか――本当に勝手ですのね」
「いえ、決してそんなことは……」
美智恵は気持ち身を乗り出して、憤慨するヒャクメを宥めた。流石に神族だけあって、本気になられると、その雰囲気からして尋常ではないのである。
「――確かに神界の援助なしでは厳しいですが、ないものねだりをしても始まりません。なんとか私たちだけでやってみますから、ご安心下さい」
「そうですか……」
ヒャクメはがっくりと首を垂らした。「私ったら、ホント役に立てなくって…」
「そんなことありませんわ。ヒャクメ様がいなければ、こうして原因にたどり着くことすら出来なかったかもしれません」
「そうですか?」
「そうです」
暫らくの間、女ふたりは見つめ合った。
辛い立場にお互いが置かれたからか、美智恵と自分との間を、なにか柔らかいものが通い合っていることを、ヒャクメの「眼」は敏感に感じていた。
「――それじゃあ私、そろそろ帰りますね」
と、ヒャクメはなんだか照れたように言った。
「会っていかれないんですか?」
美智恵は意外そうに訊いた。折角であったし、このまま一緒に行くものであると考えていたのである。
「私、これでも色々忙しいのね」
と、宙に浮かびながら、ヒャクメはどこか空々しい声で言った。
実際、いまの彼女にはそれほど切迫している仕事などなく、それはただ逃げるための口実に過ぎなかった。神族のひとりに名を連ねる者として、あるいは気まずかったのかもしれない。
美智恵もそれには気付いているだろうが、
「そうですか。お忙しい中お呼びだてして、申し訳ありませんでした」
と、言うのみである。
ヒャクメは小さく頷いて、すぐに消えていった。
美智恵はそれを見送ってから、ソファーに身体を横たえた。ヒャクメが座っていたため、少し生温かくなっている。
はあっ。
自然、大きなため息がこぼれ落ちた。もはや癖になっているのではないだろうか。
美智恵は寝返りをうって、うつ伏せになってみた。それでもやはり、ため息は止まりそうにない。
どうして自分ばっかり、こんな仕事を……。先ほどのヒャクメのように逃げ出せるなら、どれほど気楽だろうか。
いつにも増して気が重かった。理想に燃えていられるような若さは、とうに失っている。
(――令子はなんていうかしらね)
怒るだろうか。ひょっとすると、隠れて泣いたりするのかもしれない。だけど……。
(だからって見逃すわけにもいかないのよ。それだけは分かって)
自分は公務員である。いかなるときも、全体の奉仕者としての務めを果たさなければならない。
その能力と功績いかんによっては、脱税くらいは目をつぶってあげられるが、人命がかかろうものなら、身内だからといって容赦は出来ない。
また寝返りをうって、美智恵は天井を仰いだ。
「横島くんか……」
ふと呟いてみる。
(彼には迷惑ばっかりかけてるわね)
それも親子揃ってなのだから、いっそう質が悪いといえた。だが、それだけに感謝の念は大きい。
しかし、
(私がやらなかったら、いったい誰がやるっていうのよ)
――なんということはない。自分が辞めたら、代わりに、別の誰かが仕事を引き継ぐだけであろう。それならば、出来うる限りの好待遇をもって、なにかと親しい自分が彼を保護すべきであった。
分かりきっていたことではないか。いつもでそうだ。自分の代わりとなるような役職をもち、なおかつ自分以上に彼らを気遣える人間が、このGメンのどこにいよう。過去の、あのアシュタロスの時もそうではなかったか……。
コンコン、と、ドアが規則正しくノックされた。
美智恵は慌てて起き上がって、服装の乱れを直した。それから急いで自分の机に座って、
「どうぞ」
と、冷静な声で言った。
「失礼します」
ドアが開くと、西条が入ってきた。畏まった様子で美智恵の前に立つ。
「なにかしら?」
「はい。現場の指揮が終わったので、その報告をと思いまして」
「そういえばそうだったわね」
美智恵は鷹揚に頷きながらも、ソファーに寝転がっていた時間の長さに驚いた。
「まず魔族の発見現場についてですが――」
「ごめんなさい。それに関しては報告書を読むから、後でいいわ」
自分から命じておいてなんだったが、美智恵は西条の言葉を遮った。やはり、だらだらと報告を聞いていられる気分ではない。
西条は少し拍子抜けしたようであったが、さしたる反応も示さず、素直に頷いた。
「ところで西条くん、あなた、今から抜けられる?」
「今からですか?」
「そうよ」
「部下たちに引き継ぎを任せれば、なんとかなりますが……」
「なら、ちょっと私に付き合ってくれない?」
それを聞いて、西条は戸惑ったような顔をした。どうやら意外だったらしい。緊張していた身体も、ようやくほぐれてきたようで、
「それは仕事として、ですか?」
と、意味深な笑みを浮かべた。
「そうね。言いようによっては仕事と言えなくもないかしら」
「……そうですか」
どうやら期待はずれの答えだったらしい。西条はがっかりしたように肩を落としたが、すぐに、
「もちろん構いませんよ」
と、胸を張って言った。
「ありがとう」
軽く礼を述べつつも、美智恵はすでに立ち上がっていた。机の引き出しを引いて、拳銃を手にする。
「しかし先生、どこに行かれるお積もりですか」
西条が声を抑えて訊いた。
「――令子のところよ」
そっと引き出しを閉じて、美智恵は歩き出した。神妙な面持ちで、西条が後に続いた。
「遅いですね、横島さんたち」
おキヌは、慎重に紅茶を注ぎながら言った。「やっぱり何かあったんじゃ……」
コポコポと流れ出る紅茶を見ながら、おキヌはその水面に映った自分を見ていた。
(――私ったら、何言ってるんだろ)
これでは美神を責めているみたいではないか。
お茶が淹れ終わった。おキヌは気を取り直して、専用のティーカップを、
「はい、どうぞ」
と、隣に座っている美神に差し出した。
その際、チラッと美神の顔色を窺ったが、当の美神と目が合ったので、すぐに顔を逸らしてしまった。
どことなく、気まずい雰囲気である。
美神もやはりこうした雰囲気を好まないのか、
「ありがと」
と言って、早速紅茶に口をつけた。
「どういたしまして」と、おキヌは小声で返すと、今度は自分の紅茶を淹れ始めた。
紅茶の暖かい匂いが、鼻腔をくすぐっている。
それを胸に満たしていったら、
(なんだかバカみたいね)
と、美神はちょっと笑えてきた。ウジウジしちゃって、まるで自分らしくもない。
「おキヌちゃん」
と、陽気に呼びかけてみる。「横島くんのことなら心配いらないわよ。どうせいつもみたく寝坊でもしてるんでしょ」
おキヌは、俯きがちの顔を上げて、ようやく美神と目を合わせた。
「そうですよね」
と、ホッとしたように言う。「すみません。私、暗くなったりしちゃって」
「いいのよ、そんなこと。――でも、横島のやつは許せないわね。丁稚のくせに寝坊だなんて、生意気だわ。電話でもしてさっさと起こしてやらないと」
とっちめてやるわ、と、美神はおキヌに微笑みかけた。
それを聞いて、おキヌはハッとしたように立ち上がり、
「私、すぐに電話してみます」
と、慌しく駆けていった。
(……なんだかなあ)
そうしたおキヌの様子を眺めながら、美神はすっかり気の抜けてしまった自分を感じていた。
(まったく、あんなに取り乱しちゃって)
幽霊の頃からちっとも変わらない、おキヌらしい振舞いであった。どこかそういう懐かしさに触れて、自分は安心してしまったのかもしれない。――おキヌのそれのように、変わらないものも確かにあったのだ。
美神がひとり紅茶をすすっていると、事務所のすぐ前から、車のブレーキ音が聞こえてきた。
『美神オーナー、お客様です』
と、すかさず人口幽霊一号がその旨を伝える。
「依頼人?」
『美智恵さんと西条さんのお二人です』
「ママと西条さん? 何の用かしら」
と呟いてみたが、大体用件は分かっている。おそらくは今朝の魔族についてだろう。
(そういえば、連絡するの忘れてたわ……)
うっかりしていた。あれほどの魔族だったら、Gメンの方でも動くに決まっているのに……。
また小言を言われそうであったが、おキヌには電話を任せていたので、仕方なく美神は自ら玄関へと出向いていった。
「いらっしゃい、ママに西条さん」
ドアを開きながら言った。
「やあ、令子ちゃん」
と、軽く手を上げる西条。
「令子、久しぶりね」
美智恵はちょっと頬を緩めながら言った。「急で悪いんだけど、いま時間空いてる?」
「ええ、大丈夫よ」
美神は頷いて、二人を事務所へと招きいれた。
応接室のソファーに座らせると、
「――今朝の魔族のことでしょ?」
と、美神はすぐに切り出した。
おキヌはまだ戻っていなかった。やはり朝の自分と同じように、電話が繋がらなかったのかもしれない。
「そうよ」
美智恵は冷ややかに言った。「西条くんが現場を発見したの。令子、あなたの事務所からそう遠くないわ」
「知ってるわ」
美神は西条と美智恵を交互に眺めている。「――私たちもそこに行ったのよ。魔族はもう死んでたけどね」
だから眠くて眠くて、と、空とぼけてみせた。
美智恵は顔色を変えず、
「そのとき、横島くんも一緒だった?」
と、端正な足を組み直しながら訊いた。
「横島くん? いなかったわよ」
美神は、自然な様子で、「タマモとシロは、横島くんの匂いがするって言ってたけど……」
「やっぱり」
美智恵は西条に目を走らせた。
(もう疑問の余地もないわね……)
おそらく西条は、ヒャクメから直接話を聞かされていなかったので、確信を持つまでには至らなかったのだろう。だが、人狼と妖狐の超感覚となれば、それだけで信じざるをえない。
西条は俯いたまま、顔を上げなかった。
「その横島くんの匂いは、現場で?」
「ええ、そうよ」
と、美神が答えたきり、なぜか会話は途切れてしまった。
重苦しい静けさが、部屋を包んでいる。
美神はたちまち手持ち無沙汰になってしまい、
(……そういえば、お茶も出してなかったわね)
と、ひとり後悔した。こういうとき、お茶かなにかあれば、それだけで時間を潰せるのに……。
美智恵は黙って考え込んでいる。西条は疲れきったようにうなだれていた。
それらを冷めた目で眺めながら、
(おキヌちゃんはまだかしら?)
と、美神は事態の変化を待っていた。分かっている、どうせ碌でもないことを、この二人は伝えに来たのだ。
暫くして、ノックの音が部屋に響いた。すぐにドアが開いて、
「すみません、遅れちゃって」
と、お盆にお茶菓子を載せて、おキヌがゆっくり入ってきた。そのまま美神の隣に座る。
「遅かったわね」
と、美神は小声で言った。「どうだった?」
「駄目でした。横島さん、家にいないのかもしれません」
おキヌはお茶を配りながら囁いた。
どう声を掛けてやれば良いのだろう……。美神は言葉を探してみたが、気の利いた慰めなど見つかるべくもない。
「そう…」
と応えて、目を伏せた。
美智恵はふとおキヌの顔を見やって、
「――そういえば令子、他の皆はどうしたの?」
と、訊いた。
今まで気付かなかったが、ここで寝泊りしているシロとタマモがいないというのは、どういうことだろう。
「横島くんの家よ」
と、美神はぶっきらぼうに言った。「あいつのことが心配だって、とんで行っちゃったわよ」
「横島くんのところ……」
美智恵はかみ締めるように呟いて、さわさわと顎を撫で始めた。ソファーの背もたれから熱が広がっていく。
「どれくらい経つの?」
「そうね……だいたい五時間ってところかしら」
と、美神は時計を見ながら言った。
その隣で、おキヌが無言で頷いてくる。
「五時間、ね」
嫌な予感がした。美智恵は、西条を横島のもとへ向かわせようと、口を開きかけて――固まった。
「魔力……」
呆然と、呟いた。
携帯が鳴り響いた。西条は色のない顔で、ポケットから携帯を取り出した。
「どうしよう?」
と、横島は情けない声で言った。
入り組んだ路地裏に足音が続いている。細い道をもつれ合うように走りながらも、横島はなんなく背後に目をやった。
「タマモ、何か良い作戦はないのか?」
と、訊いてみる。
「そんなこと私に聞かないでよ」
タマモは焦ったように手を振った。「だいたい、こんなところじゃ狭すぎてどうにもならないわよ」
事実、二人並べるか並べないかという横幅の狭さであった。もし見つかったら、全員が袋叩きにあうことは間違いないだろう。立ち並ぶビルが壊されたりするだけでも、それらの下敷きになりかねない。
「今更引き返すわけにもいかないし…」
と、口惜しそうにタマモは言う。
率先して路地裏に逃げ込んだ横島は、それを聞いて、
「仕方なかったんやあ!」
と、突然頭を振って叫びだした。「堪忍や! まさかこんなに長いとは思わなかったんや!」
長いというより、迷ったというべきであった。敵から逃れようとジグザグに進路を取っていたら、どういうわけか路地裏から出られなくなってしまったのである。
そんな横島をタマモの後ろから眺めながら、
「先生、拙者に任せるでござるよ」
と、シロが自信ありげに言った。それから真っ直ぐに横島を見つめる。
シロの妙な視線に気がついて、横島はちょっとうろたえたが、
「いいぞ、シロ! 流石は俺の弟子だ!」
と、感動したように大声で言った。
そうこうしつつ、彼らは走り続けている。障害物を縫うように避けながらも、風を切っては駆け抜けていく。
「――ちょっと」
と、苦しそうな声が、シロの背後から聞こえてきた。
「少し、休ませてくれませんか……」
顔を真っ赤に染めながら、息も絶え絶えに弓は言った。
横島は思い出したように立ち止まった。シロとタマモもそれに倣った。
弓の激しい息遣いが、ひっそりと路地裏に染みこんでいった。
少々余裕が出来たので、急いで書き上げました。皆様に満足していただけたら幸いです。 (湯)
気になる点は、ヒャクメの喋りかたが少しおかしいところですかね。
続きを楽しみにしています。 (邪魅羅)
意外すぎる登場ですね。あのお嬢様キャラをどう使うのか期待してます。 (スナクター)
ただ、私だけかもしれませんが文の途中でいきなり会話文が入ってくるところが
少々読みづらいと感じました。
とはいえ、先が楽しみです。頑張ってください。 (堂旬)
弓さんがいきなり絡んでくるのが珍しいかも^^ (綾香)
冒頭からの失敗にただ悔いるばかりです。ヒャクメの口調を捉えきれなかった私の、純粋な勉強不足でした。よりそれらしい個々のキャラのセリフにするべく、これからも精進していきたいと思っておりますので、今後ともよろしくお願いいたします。
スナクターさん、コメントありがとうございます。
弓さんには、横島や美神事務所の面々に対する、ある意味においての一般的傍観的ともいえる視点の役割を担ってもらうつもりです。
今後、弓さんだけに留まらず、登場する全てのキャラの魅力的な個性を引き出していきたいと思っております。これからもよろしくお願いいたします。
堂旬さん、コメントありがとうございます。
ご指摘ありがとうございます。仰るとおり、確かに読みづらいかもしれません。大変勉強になりました。これからは、きちんと段落がえをしてからの会話文、という形式による一貫した見やすい作品をつくっていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
綾香さん、コメントありがとうございます。
謎らしきものが分かるとき、それは本作品においての序章の終わりを意味しています。
謎解きともいえないような謎明かしになるかもしれませんが、その後の物語の過激さは、現時点のそれに比べて怒涛のものとなりそうです。そこに弓さんが綺麗に絡めるかどうか分かりませんが、これからもよろしくお願いいたします。 (湯)
まー、それはそれとして一話から読むごとに謎が深まりますね。
なんか最近、アンチ美知恵物を読む割合が増えたもので
横島の心配をする美知恵さんがなんか新鮮だったりしますが、
これからが楽しみです。でわ。 (Louie)
弓さんは今後どうなるのでしょうか、果たして私自身も決めかねております。しかしながら、その折角の登場を無駄にしないよう努力していくつもりですので、今後の彼女の活躍を見守っていただけたら幸いです。
美智恵さんに関しては、個人的に気に入っていると申しますか、GS美神に登場するキャラは全員揃って魅力的であると、勝手ながらに思っております。ですので、物語の進行上、もしそれらのキャラ同士が対立関係に置かれたとしても、私としては両方の言い分をフォローしていきたいと思っております。
長々と書いてしまいましたが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。 (湯)