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第三の試練!

〜失う痛みと気付いた二人〜


投稿者名:ヨコシマン
投稿日時:04/ 7/10

(・・・雨・・・。雨が降ってる・・・。)

 浅い眠りの中で、己の頬に微かに感じる雨粒。
 その感覚は次第に鮮明になり、美神の意識をまどろみの中から少しづつ引き上げていく。
 徐々に意識を取り戻しつつある美神の鼻腔に、ふわりと草と土の匂いが流れ込んだ。

(・・・ここは・・・どこ?)

 非常に快適な眠りだったせいもあり、美神は自分のベッドで眠っていたような、そんな錯覚を起こしていた。
 うっすらと目蓋を上げると、見たことも無い森の景色がその瞳に映った。

(あれ・・・? 何で私・・・こんな所に・・・?)

 美神はゆっくりと上半身を起こすと、濡れた髪に付いた泥を落としながらぼんやりと周囲を見渡した。
 うっそうと茂る森の深い緑。降りしきる霧雨に柔らかく濡れて、その緑はいっそう濃く見える。
 周囲を百八十度見渡した所で、不意に嫌な予感が美神の体の奥深くから湧きだしてきた。
 そしてまるで吐き気にも似た、その湧き出す予感が、美神の体の奥底からゆっくりと這い上がってくる。
 いや、“不意に”と言うのは正確ではない。本当は始めから気付いていたのだ。ただ気付かないふりをしていたかったのかもしれない。
 美神の体はまるで石のように動かなくなり、その背後にあるであろう光景を見ることを本能的に恐れた。
 続いて彼女の体はがくがくと震えだし、こみ上げてくる吐き気と喪失感が彼女の心を追い詰める。
 三度大きく深呼吸をして心を静め、意を決し、瞳を強く瞑ってゆっくりと彼女は振り返った。
 霧雨に濡れる彼女の睫毛から、水滴がぽたりと一粒零れる。
 そのままゆっくりと大きく一つ息を呑むと、美神はゆるゆるとその目蓋を開いた。


 夢であって欲しかった。


 目がさめたら自宅のベッドから跳ね起きて、酷い夢だった、と安堵したかった。


 自分の中の何かが、音を立てて崩れていくのがはっきりと判った。


 その瞳には、安らかな顔のまま石碑に横たわる、一人の男がはっきりと映っていた。


 美神は目の前が徐々に暗くなっていくのを感じた。ゆっくりと、しかし確実に意識が遠のき、無意識にその場に崩れると両膝を地面に付けた。
 かつて、似たような経験は何度かあった。けれどもそのどれもが、奇跡的な幸運で大逆転を収めてきたのに。
 だが、いま彼女が直面している現実は、その大逆転を期待する事を許してはくれなかった。

「い・・・やよ・・・。」

 美神はまるで幽鬼の如く、気力なく呟きながら立ち上がると、フラフラと石碑の方へと歩みだした。

「認めない・・・。絶対・・・!」

 傍から見れば、何かに憑かれたのかと勘違いしてしまいそうな程鬼気迫る表情で、彼女は歩を進める。
 美神は横たわる男の頭部側に廻ると、両手でその頬を柔らかく包み込む。

「起きなさい・・・、横島クン。ほら、起きなさいってば。」

 頬を包んだ両手で、寝坊する恋人を起こすように優しく揺する。しかし、男は決して目を開ける事は無い。

「いいかげんにしなさいよ・・・。ふざけてると時給下げるわよ!」

 先程よりも僅かに語気を強め、美神はもう一度揺さぶった。
 その声は強い語気とは裏腹に、最早涙声に近くなっていた。

「・・・起きてよ・・・。横島クン・・・。」

 解かっていた。男が決して目覚める事が無いという事は。
 それでも、彼女にはそうするより他に無かったのだ。
 美神はこの場に至りようやく、本当に理解した。


 “失ってしまったのだ”と。


「ゴメン・・・、ゴメンね・・・、横島クン。」

 美神の細く白い指が、そっと、動かない男の顔を撫でていく。
 口から溢れ出す謝罪の言葉。何に対して、何の為に、そんな事は何も考えつかない。ただひたすらに、彼女は謝りつづけた。

 やがて霧雨はその密度を徐々に薄くし、森を覆う雨雲の隙間から日の光が差し込む。
 その光が作り出す彼女のシルエットは、その石碑から離れる事は無かった。





 大蛇の巣が在った“鎮守の森”の程近くに、一件の総合病院が建っている。
 その駐車場に一台の高級車が、映画のスタントの如く滑り込むように進入してきた。
 飛び降りるようにその車から出てきた男女は、足早に玄関ホールへと向かって歩き出す。
 女は見た感じ三十代前半、その美しい顔立ちとスタイルに、たいていの男は振り返る事だろう。
 ただ、彼女の落ち着いた仕草や服装から察するに、実年齢はもう少し上かもしれない。
 付き添うように並んで歩いてくるのは、年齢にして二十代後半、長髪長身の美丈夫だ。
 いかにもエリート然とした姿ではあるが、嫌味は感じられない。
 これもまた、町を歩けばたいていの女性は振り返る事だろう。

「美神令子の母親です。令子はどこに?」

 玄関の自動ドアが開くのを待っていられない、といった様子で女の方が先に中に入ると、彼女はそばにいた看護士に、早口でまくし立てるように尋ねた。

「あ・・・、それでしたらあちらに・・・。」

 母親と名乗るその女の勢いに押されながら、看護士は方向を右手で示しながら答えを返した。

「ありがとう。」

 言葉少なに礼を述べると、女は示された方向に歩き出す。
 後ろにいた長髪の男が、看護士に頭を下げ、振り向いて女の後を追う。
 立ち去る二人の背中から、ぴりぴりとした空気が流れていた。

「・・・令子! 一体何があったの?!」

 女が廊下を曲がったところで、放心状態でベンチに座り込んでいる自分の娘を見つけた。

「いきなりここの病院から先生の所に電話があったんだ。取りも直さず駆けつけたんだが・・・。
 一体何があったんだい? 令子ちゃん。」

 やや取り乱し気味の彼女の母親――美神美智恵――を右手で軽く制しながら、男は令子にゆっくりと聞いた。

「・・・ママ、西条さん・・・。」

 令子は二人がいる事にようやく気付いたかのように、のそりと虚ろな顔を二人に向けた。

「令子・・・。」

 美智恵はその令子の虚ろな表情に、背筋を凍らせた。
 こんな娘をかつて見た事が無かった。この子がこれ程の状態になる事態が有るとするなら、それは恐らく・・・。
 美智恵は廊下の突き当たりに目をやった。そこには重厚そうな扉と、その扉の上に“手術中”と書かれた赤いランプが灯っていた。

「・・・横島君、なのね・・・。」

 視線を虚ろな顔の我が子に戻し、美智恵はゆっくりと問いただした。
 “横島”という名詞が美智恵の口から発せられた瞬間、令子の体がぎくりと大きく反応した。
 そして、その焦燥しきった顔を更に歪め、令子は下唇をきつく噛みながら小さく頷いた。
 その表情と、明らかに普段の令子とは違うその仕草に、西条と美智恵は横島の身に最悪の事態が起こった事を感じ取った。

「何てことだ・・・。」

 西条が令子の隣に腰掛け、左の手のひらを額に当てて呟いた時、赤く灯っていた“手術中”のランプが消えた。
 美智恵と西条は、祈るような気持ちで手術室の扉が開くのを待った。

「・・・ご家族の方ですか?」

 扉の奥から現れた医師が、三人を見て言った最初の言葉。
 西条と美智恵は、その医師の言葉を敢えて否定せずに頷くと、次の言葉を待った。

「・・・最善を尽くしましたが・・・。残念です。」

 医師はゆっくりと首を振り、三人を労るように見つめて言った。

「そんな・・・。」

 その医師が何を言っているのか、一瞬美智恵には理解できなかった。
 もっとも、突然降って湧いたようにそんな事を言われても、誰だって理解できるものではない。
 しかもそれが、より親しい人間に関する事であれば尚の事だ。

(横島君が・・・? どうして?)

 美智恵は令子の方に振り向いた。美智恵の瞳に映る令子は、ただただ俯いて黙り込んでいるだけだった。
 同時に軽い立ち眩みが美智恵を襲う。彼女の体がふらりと、力無く崩れ落ちようとしたその瞬間、西条が咄嗟に美智恵を支えた。
 その様子を見て、三人の中で一番冷静だと判断したのだろうか、医師は西条にその視線を合わせて話し掛ける。

「詳しい事については後ほどご説明致します。
 これからご遺体を霊安室に移動しますので、できれば一緒にいてあげてください。」
「・・・分かりました。」

 西条は医師の言葉にゆっくりと頷くと、美智恵を支える腕に無意識に力を込めた。





「横島さん!」
「先生!」
「・・・・・・。」

 霊安室の扉が勢い良く開かれた。
 静けさを破られたその室内に、扉が開かれる音が響き渡る。
 飛び込んできたのはおキヌ、シロ、タマモの三人。
 三人は一台のベッドの前で立ち尽くす格好になった。
 おキヌは両手で口を押さえ、瞳はベッドの上に横たわる男をひたすらに見つめている。
 シロは肩をわなわなと震わせ、大粒の涙をこぼして言葉を失った。
 そんな中タマモだけは、奇妙な事に極めて普段通りの顔をして横島の体に歩み寄った。

「・・・?」

 シロはそのタマモの奇怪な行動を見て、溢れ出る涙を拭いながら小首を傾げる。
 タマモは平然とした顔で、横島の顔に掛かった白い布を取り払うと、ペチペチと横島の頬を平手で叩き始めたではないか。
 おキヌとシロはそのタマモの異様な行動に言葉を失い、暫くの間その行為を呆然と眺めていた。

「おーい、横島。早く起きなさいよ、シロが泣いてうるさいから。」

 そう言いながら今度は横島の額を軽く叩く。タマモは本気で横島を起こそうとしているように見えた。

「タ・・・タマモちゃん・・・?」

 おキヌが恐る恐るタマモに声を掛けようと手を伸ばした時、シロの右手がそれを制した。
 戸惑いの表情を見せるおキヌの前に回りこみ、シロはゆっくりとタマモに歩み寄ると、俯いたまま小さく呟いた。

「やめるでござるよ、タマモ。そんな事しても先生は起きない。」
「・・・何でよ、横島は寝てるだけじゃない。」

 シロはタマモのこの一言に酷く共感を覚えた。
 自分もいつだったか、同じ事を言った事がある。あれはまだ本当に幼い頃、大好きだった母が死んだ時だっただろうか。
 あの頃の自分は“死”というものを良く理解していなかったのだ。
 冷たくなって動かない母が、当たり前のように起きてくるものだと信じて疑わなかった。

「それは・・・寝ているんじゃない、先生は・・・先生は・・・。」

 喉の奥からこみ上げてくる何かに遮られ、シロは最後の一言を言う事が出来ない。

「・・・うるさいわね! 寝てるったら寝てるのよ! ほら、起きろ、横島!」

 タマモは横島の肩を掴むと、ゆさゆさと揺すり始めた。
 そんなタマモの姿を見て、瞳に溜まる涙を払いながらシロはもう一度言った。

「本当はお前だって・・・分かってるんでござろう? 先生はもう・・・。」

 しかしタマモはシロの言葉を聞こうとはせずに、横島を起こす作業を繰り返す。
 シロは暫く俯いてじっとしていたが、やがてタマモの背後に回りこむとその首筋に当身を打ち込んだ。
 無防備の状態で当身を受けたタマモは小さく唸ると、その場に崩れ落ちた。その体をシロが担ぎ上げると、そのまま部屋の外へと歩き出す。

「タマモちゃん・・・。」

 その後ろ姿をおキヌは切なそうに見送りながら、ポツリと呟いた。

「・・・まだまだ“ガキ”なんでござるよ、コイツは。」

 シロはタマモを担いだままドアの辺りで立ち止まると、振り返ることなく、おキヌとその後ろで様子を見ていた西条に向かってそう言った。

「強いな、君は。」

 西条はシロが横を通り過ぎようとした時に、静かにそう言った。
 同情だとか、そういったものではない。西条は目の前のシロを見て、素直にそう思ったのだ。

「当たり前でござろう。」

 ぶっきらぼうに一言、シロが呟く。
 そのシロの足元に、ぽたぽたと滴り落ちる涙の粒を西条は見逃さなかった。

「タマモを頼むよ。」

 西条はシロから視線をはずすと、何も無い空間を見つめた。
 シロは黙って頷くと、そのまま歩き出す。
 遠ざかるシロとタマモを不安げに見つめながら、おキヌが呟いた。

「どうしちゃったのかしら・・・、タマモちゃん。」
「無理もないんだろう、彼女は転生してからまだ間もないから・・・。
 知識は人並み以上にあるんだろうが・・・、その代わり経験がまるで無い。
 さっきの行動も、小さい子供ならやりそうだったし。多分、シロはその事に気付いてたんじゃないかな。」

 勿論、それだけではない。きっとタマモにとって、事務所のメンバーは“家族”だったのだ。
 狐は群れで生活しないといっても、子供の内は家族と過ごす。恐らくは彼女の中では、横島が家族の長男的な役割を担っていたはずだ。
 その長男の死。しかも、なまじ知識として死という物を知っているだけに、そのショックは相当のものだったのだろう。
 その上、そのショックを乗り越える経験が絶対的に不足しているのだから目も当てられない。
 その点、シロは両親をすでに失っている。悲しみに対する免疫が出来ているのだ。今回のケースは、その差が如実に現れたといっていい。
 西条は自分なりに分析した結果をおキヌに話した。おキヌは思い当たることがあったのか、小さく頷き同意を示す。
 同時に西条はこんな時にさえ、そんなくだらない分析が出来てしまう自分を嫌悪した。

(こんな時にも感情を抑えてしまう人間は・・・最低だな。)

 欧米では、葬儀などで泣いたりするのは“感情のコントロールが出来ない人”として評価が下がる。
 それゆえ、普段から欧米人の感覚を身に付けている西条にとって、それはやむを得ない事なのだ。しかし、西条はそんな自分の習性に唾を吐きたい気持ちで一杯だった。
 西条は自嘲気味に頭を軽く振ると、おキヌの方に向き直る。

「僕は暫く席を外すよ。何かあったら呼んでくれ。」

 そう言うと西条は、おキヌの返事を待たずにドアを閉め、静かに歩き出した。





 すでに日が暮れて、静けさを取り戻した病院の廊下に西条の靴音だけが静かに響いていた。
 近くの山から、狼の遠吠えのような声が聞こえた。
 西条は立ち止まり、窓の向こうの山を暫く眺めて、再び歩き出した。
 廊下の蛍光灯の無機質な光が、西条の足元を淡々と照らし出す。
 何か言い様の無い虚無感に包まれながら、西条はロビーに向かってとぼとぼと歩を進めていた。
 何気なく、スーツのポケットから愛用の煙草を取り出すと、一本咥えてライターを探す。
 暫くの探索の後、右ポケットに入っていた百円ライターを掴もうとして、やめた。

「病院内は禁煙・・・か。」

 目の前に飛び込んできた“禁煙”のポスターを眺めながら、やれやれと言った感じで西条は咥えた煙草を元に戻して再び歩き出した。


――「死因なんですが・・・、恐らく出血多量による失血性ショック死だと・・・。」
  「恐らく?」
  「ええ、遺体の状態から判断するに間違いは無いと思うのですが・・・。
   なんと言いますか・・・、あの遺体にはその要因となる、目立った外傷が全く見当たらないのです・・・。」――


 歩きながら、西条は先程医師と話した会話をぼんやりと思い返していた。

(外傷が無いのに出血多量・・・。そんな殺し方が出来る敵なのか・・・。)

 西条は己の知識を総動員して、過去の悪魔や妖怪、悪霊の情報を脳内で検索を開始する。
 暫くすると、ロビーのホールが西条の視界に現れた。この短い時間で、しかも歩きながらまともな分析が出来る筈も無いか、と西条は呟きながら先程までの思考を一旦ストップさせた。

 ロビーのベンチには美智恵が座っている。その横には、令子が横になって眠っていた。
 その向こうには、タマモが脚を抱えた状態でうずくまっているのが見える。
 眠っているのか、はたまた泣いているのか、ここからでは判断できないがピクリともしない。

「どうです、令子ちゃんは。」

 流石の西条も少々疲労の色を顔に出しながら、美智恵の横に腰掛けた。
 相当に参っていたのだろう、美智恵の向こうの令子は昏々と眠り続けている。

「駄目、もう言ってる事が支離滅裂。とりあえず今日はこのまま眠らせて、明日詳しく事情を聞くわ。」
「きっと相当混乱しているんでしょう。」

 そうね、と美智恵は一つため息を吐いた。

「一つだけ分かった事は、横島君が令子をかばったらしいの。ターゲットの大蛇が繰り出した体当たりから。」
「大蛇って、もしかして“鎮守の森”の大蛇ですか? それって確か・・・。」
「そう、ここ最近暴れだした奴よ。もうじきコッチ(オカルトGメン)に回ってくると読んでたのだけれど・・・。」

 まさか令子が・・・、と美智恵は呟きながら両手で顔を覆い、天井を見上げた。
 そんな美智恵を隣で見ながら、西条の中で奇妙な違和感が思考の片隅に浮かび上がった。

(・・・何かがおかしくはないか?)

 その何かが、西条には思いつかない。今自分は正常な判断が出来ていないのだ、と西条は自分に言い聞かせると、その違和感を忘れようと次の質問を美智恵に飛ばした。

「・・・大蛇は、どうなったんです?」
「・・・分からないわ。ただ、令子が生きて還ったって事は、退治したと考えるのが妥当かしら・・・。」

 美智恵はそのままの姿勢で西条の質問に答える。その表情からは、今は何も考えたくない、という気持ちが溢れ出んばかりだ。
 西条にも美智恵の気持ちは痛いほど理解できたが、それでも更に質問を続けた。

「横島君の・・・ご両親には?」

 西条のこの質問に、美智恵の表情がにわかに曇った。

「・・・明日、私から連絡を入れます。本来なら令子がやらねばならない事だけど・・・、この状態じゃ・・・。」

 眠る令子にちらりと一瞥をくれると、美智恵は小さくため息を吐いた。
 人の親として、『自分の娘の為にお宅の息子さんが死んだ』などと平然と言える訳が無い。だが、それを言わねば先へ進まない。
 まさに“針のむしろ”と言った所か。
 西条も考え込む美智恵の心中を察して押し黙った。

「そういえば、おキヌちゃんは?」

 ようやく一人足りない事に気が付いた美智恵が、西条に問い掛ける。
 西条は足を投げ出して体を背もたれに預けると、天井を見ながら答えた。

「二人っきりにしておきました。・・・いろいろあるでしょうから。」
「・・・そう、そうね。」

 美智恵も西条と同じように脚を投げ出すと、天井を見ながらそう呟いた。





 おキヌは、かつて“横島だったモノ”が横たわるベッドの横に座って、ただじっとそれを見つめていた。
 万感が胸に迫る。伝えたい事が多すぎて、心とは裏腹に言葉は何も出てこない。
 しかしおキヌは、その事に少しももどかしさを感じることは無かった。
 言葉に出ないならば、出さなければ良い。ただ、波のように打ち寄せる様々な思いを、ひたすらに心の中で奏で続けるだけで良い。
 おキヌは今、心の中で横島と膨大な量の会話をしていた。


 誰も二人の間に割り込む事は出来ない。


 それは、とても神聖な時間だった。


 二人っきりになってどれくらい経ったのだろう。おキヌはようやく、何かの呪縛から解かれたかのように大きく息をした。

「横島さん・・・。」

 ぽつりと一言。ようやく出た言葉。おキヌはもう動く事の無い、男の冷たい手を両手で握った。

「なんとなく、なんとなくですけど、覚悟は出来てました。こんなお仕事だもの、こんな事だっていつかあるって。
 だけど、物凄く胸が痛いんです、苦しいんです。こんなんで覚悟だなんて・・・笑われちゃいますよね?」

 おキヌは横島に笑いかける。

「でもね、何ででしょう、涙が出ないんです。こんなに悲しいのに、こんなに辛いのに!」

 おキヌは右手を自分の胸に当てると、そのまま洋服を力いっぱい握り締め、その顔を悲痛に歪めた。

「心が・・・、空っぽになったみたい・・・。」

 正直、自分でも何を言っているのか良く分からない。それでも、何か言っていないと自分に押し潰されそうで仕方が無かった。

「覚えてます? 私がまだ幽霊だった頃、『死んでも生きられます!』って馬鹿なこと言ってましたよね。」

 おキヌはあたかも生きている横島と話しているかのように、優しく微笑んだ。

「そうそう、『死んだら一緒に迷いましょうね』なんて馬鹿なことも言ってたっけ・・・。」

 そこまで言って、おキヌは突然何かを思い出したように大きく目を見開いた。
 続いて、立ち上がると部屋の四隅を何かを探すように見回し始める。
 一通り辺りを見終わるとゴクリ、と一つ喉を鳴らして、おキヌはもう一度横島の体をじっと見つめた。
 その瞳の奥には、ほんの僅かではあるが光が宿っている。

「確かめなきゃ・・・!」

 おキヌはクルリと振り向くと、ドアノブを勢い良く回して部屋を飛び出した。





「ねえ、おキヌちゃん・・・少し遅くないかしら?」

 美智恵はベンチでうとうとしている西条に声を掛けた。

「は、はい、すいません、少し寝ていたみたいです。」

 西条は慌てて体を起こすと、仕事場にいるような感覚で美智恵に謝罪をした。

「ゴメンなさい、起こしちゃったわね。それで・・・、おキヌちゃん、もうだいぶ経ってない?」

 美智恵は少し悪い事したかしら、と西条を気遣いながら、もう一度おキヌの事を尋ねてみた。
 西条はちらりとロビーの時計に目をやり、そういえば、と呟いた。
 何気なくタマモのほうを見ると、いつの間にかシロも戻って一緒に眠っていた。

「ちょっと、様子を見てきます。彼女も寝てないだろうし。」
「そうね、お願いするわ。」

 窮屈な姿勢で寝ていたせいか、体の節々が痛い。西条は少し体を伸ばしながら立ち上がると、霊安室に向かって歩き出した。
 廊下を曲がり、右手の階段を地下へと下りる。
 霊安室へと続く廊下は、蛍光灯は点いているのに奇妙に薄暗い感じがする。
 霊安室のドアの前で立ち止まると、西条は一つ間を置いてからドアノブに手を伸ばした。

「あいたっ!」

 西条は思わず声を上げた。ドアノブを掴む前に、その扉が勢い良く開いて西条にぶつかったからだ。
 ぶつけた額を押さえながら、西条は何事が起こったのか分からない、といった表情で開い扉を見た。

「あっ! ゴメンナサイ、西条さん! ちょ、ちょっと急いでいたもので。」

 おキヌにしては珍しく、落ち着きの無い様子で西条に近寄ると、西条が怪我をしていないか確かめる。
 何事も無い事を確認すると、おキヌはもう一度西条に謝罪し、足早に階段の方へ向かおうとした。

「どうしたんだい、おキヌちゃん。何かあったのか?」

 とても先刻までの弱々しいおキヌと同一人物とは思えないその仕草に、西条は思わず問いかけた。

「いえ、ちょっと確かめたい事が・・・! すぐに戻ります。」

 おキヌは小走りに遠ざかりながら、西条の問いにそう答えると、そのまま階段を登って行った。

「・・・?」

 西条はおキヌの不可解な言動に小首を傾げつつ、扉が開いたままの室内の方へ視線を切り替えた。
 横島の顔にかかっていた白い布が外されたままになっている。

(おキヌちゃんらしく無いな。一体どうしたんだ?)

 西条は再度おキヌの行動に首をひねりつつ、室内に入ると横島の隣に腰を掛けた。
 やはり西条の中にも、横島に対して色々な感情が渦巻いていたのだろう。暫くの間、西条は無言でその顔を見つめていた。

「・・・ふん、ずいぶんと安らかな顔をしてるじゃないか。」

 そろそろロビーに戻ろうと、布を横島の顔にかけようとして、西条はふと呟いた。

「令子ちゃんを命を掛けて助けて、さぞ満足ってか?」

 さらに先程より少し大きな声で、西条は動かない横島に話しかける。
 ずっと感情を抑えていたせいなのか、一度声を出してしまったら言葉が溢れ出しだ。

「君はそれで良いのかも知れないが・・・、今の令子ちゃんの様子を見たか?」

 手にしていた布を握り締めた西条の語気が、徐々に大きく、怒りと苛立ちを含み始めた。

「令子ちゃんをあんな風にして、本当に助けたなんて言えるのか!
 アレじゃ、死んでいるのと殆ど同じじゃないのか?!」

 西条はむき出しになった感情を叩き付けるように、己の拳を壁に打ち付けた。
 鈍い音が部屋に響き渡り、西条の右手から血が滲み出す。
 西条は息を荒げ、西条は己の拳を見つめた。
 まるで作り物の手のように、その痛みが他人事みたいに感じる。

「また・・・、また貴様は女を僕に預けて去っていく気か!? あの時と同じように!」

 西条は自分が何を言っているのか、全く分からなかった。
 ただ、己の奥底にある、マグマのような感情に身を委ねていた。

「いいのか? 今度は妹としてなんて扱わないぞ? 僕の女にしてやるよ。
 どうした? ほら、何とか言ってみろ。口惜しかったら掛かって来いよ!」

 西条は横島の襟首を掴むと、挑発するようにまくし立てる。
 暫くの間、そのまま動かなかった西条は、最後に小さな声で一言だけ囁いた。

「馬鹿野郎・・・。」

 小さな水滴が、ベッドのシーツに小さなシミを作る。
 その瞬間、西条の視覚と聴覚が異変をきたした。


(なんだ・・・、これは・・・。)

 それはまるで古い映画を見ているような、ノイズの走った荒い白黒の画像だ。
 場所はいったいどこなのか、とにかく森の中であることは間違いない。
 何人かの人影。その内一人は地面に横たわっている。

(・・・横島クン?! いや、違う?)

 横たわっている男は横島に良く似ていた。だが、その姿は水干を身に纏い、あたかも古代の陰陽師かのようだ。
 その額には大きな穴が開いており、その出血量からも明らかに致命傷だと分かる。
 その傍で、一人の女が泣いている。その姿は呆れるほど令子に似ているものの、よくよく見ると人間ではなさそうだ。

(まさかこれは・・・メフィストとかいう魔族か?! するとこれは・・・前世の記憶?!)

 サイレントムービーのように、何を話しているのか全く聞こえない状態であるにも関わらず、西条にはその会話の内容を何故か知っていた。
 倒れている横島に似た男から、ゆっくりと光の玉が抜け出し、フワフワと浮き出す。
 その光の玉を、メフィストが泣きながら握り締めた。
 その直後、映像は徐々にノイズに飲み込まれ、何も見えなくなった。

 全ての感覚が正常に戻った時、西条はゆっくりと辺りを見回した。
 今の映像はなんだったのか。何故あんなものを見たのかを西条は冷静に考え始めた。

(あの光の玉は・・・多分霊魂だ。魂の契約をしていたからメフィストの元へ・・・。)

 この瞬間、先程の美智恵との会話で感じた違和感が、再び西条の中で溢れ出した。

(まてよ、先生(美智恵)は『横島は令子をかばって、体当たりを受けた』と言っていた。
 だが、医者は『出血多量の要因となる外傷は見当たらなかった』と・・・。)

 なんともおかしな話ではないか。いくら動揺していたからとはいえ、そんな矛盾に気付かないなんて。
 西条は今まで、横島は外傷を与えずに出血させる攻撃をされたと勘違いしていた。
 しかし、今の矛盾を踏まえて考え直せば、もう一つの可能性が導き出せる。
 横島は確かに大蛇の体当たりを受けて、出血多量で死亡した。その後、令子も意識を失った。では、その間に何が起こったのか?
 通常であれば、その後令子は殺され、二体の死体が転がっている筈だ。しかし、令子は生きている。しかも“無傷”で。
 しかも死亡した横島までも、その肉体に傷一つ無い。そして、大蛇はその存在を消した。
 Gメンである程度入手していたデータでは、件の大蛇は人を喰う魔物だと報告されている。とすれば、大蛇が彼らを治療したとは考えにくい。
 明らかに大蛇と彼らの間に、何者かが介入している形跡が感じられる。
 しかもその何者かは、彼らの怪我を完全に治す技術と、大蛇を倒す力を持っていると思われる。
 もしもそれほどの力を持つ者がいたとするならば・・・。

「そして、さっきの映像は・・・。」

 ここまで推測して、西条はもう一つ気が付いた。横島の魂だ。
 あれ程の霊力の持ち主なら、何らかの形でこちらにコンタクトを取ってきてもおかしくない。もしも、殺された場所で地縛霊になってしまったとしても、その肉体に霊気の残りカスが死後二十四時間は必ず残っているはず。
 だが、この肉体にはそれが無かった。つまり不自然なのだ。
 あの不思議な前世の映像は、魂が綺麗に抜けるときの“条件”を西条に示していたのかも知れない。

(とすると・・・彼の霊魂は・・・別の場所に・・・?)

 不意に、さっきのおキヌの姿が脳裏に浮かんだ。

「あ・・・! もしかして、おキヌちゃんはそれに気が付いたのか?!」

 にわかに西条の心臓がその速度を早める。
 その時、部屋の外からなんとも言えない不思議な笛の音が聞こえてきた。
 地下にいる自分にも聞こえる不思議な笛の音。それは間違いなくおキヌのネクロマンサーの笛に違いない。
 もしも彼女が西条と同じ事に気が付いたのなら、この地に彼の霊魂が存在していない事を確かめているに違いない。

「気休め程度の、ほんの僅かな可能性に過ぎんが・・・!」

 西条はおキヌと同じように、素早く振り返ると、ドアノブを勢い良く回した。
 同時に、叩き付けた右の拳が脈打つように痛みだした。今度は間違いなく、自分の手としてはっきりと痛い。
 しかし、今の西条にとってその痛みはむしろ心地よささえ感じるものであった。


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