頭のてっぺんから、無数の小さな虫が、サーッと駆け下りていくような怖気を感じて、眠りの淵から一瞬で浮かび上がった。
咄嗟に、美神令子は跳ね起きた。
全身が隈なく熱を帯びていた。荒い息を整えてから、じんわり滲んだ額の汗を、シーツで拭った。
(イヤな感じね……)
美神は剥き出しの腕をさすりながら、頭をゆっくり振った。ついで、時計に目をやった。
――五時。まだ寝ていても、誰に非難されることもない時間であった。といっても、非難されようがされまいが、彼女にとってはどうでもいいことではあったが。
なんであれ、早すぎる時間であるといえる。
美神は、もう一眠りしようと身体を深く横たえ、眼を閉じてみるのだが、しかしどうにも目が冴えてしまって、眠れない。それどころか、胸のなかの不安はますます大きくなった。
(……これは、なにかあるかも)
一応、覚悟だけはしておくべきかもしれない。
美神は、パンッと両頬を軽く叩き、気を引き締めてからベッドを抜け出た。そのまま歩いていって、カーテンをそっと開く。
空は白み始めていたが、まだまだ暗い朝であった。
こんな早起きは、いつ以来だろうか。
早朝からの仕事は、面倒なのであまり取らないことにしていた。それが、まったく珍しいことに、こうやって自分の方から進んで起きてしまうとは。――健康的に早起きをする自分。想像してみるだけで、おかしかった。
ちょっとした笑いが込みあがってきたが、それはすぐに引っ込んでしまった。胸騒ぎが止まらないのだ。いい加減、心配にもなってくる。
優れたGSである美神にすれば、こういう不自然な胸騒ぎは、なにかしらの前触れである可能性が高かった。現に、幾度かこういう体験をしたこともある。単なる思い込みで終わったこともあったし、そうでないときもあった。
だんだんイライラしてきて、頭を軽く掻いた。こういうときこそ、横島のやつを殴ってやって、すっきりしたいところである。
そう思ったら、少し唇が緩んだ。横島の、いつまで経っても変わらない、あの情けなさを思い出したのだ。
緩んだ顔をしたまま、
(――アンタ、いつまで私の助手なんかやってるつもり?)
と、宙に向かってうそぶいた。
美神は、よくよくそのような質問を、彼に向かって投げかけてみたくなるのだった。しかし今のところは、言わないつもりでいる。もう少しだけこのままの関係でいても、きっと罰は当たらないだろう。
横島くんとおキヌちゃん、タマモにシロ――それと、私。
その関係は、美神には悪くないように思われた。ちょっと騒がしいかもしれないが、それくらい賑やかな方が、かえってちょうど良いに違いない。
不意に、美神は、重々しげに息を吐いた。最近の彼女の、癖になりつつある仕草である。
というのも、彼女には分かっていたからだ。その関係の終わりが、もう間近に迫ってきていることを。
――横島忠夫。十九歳。
当初は、まるで普通の一般人であり、彼がやがて霊能に目覚めると気付いた人間が、果たして何人いただろうか。一番身近にいた美神でさえ、その才能に気付くことはなかったのである。
しかし彼は、いつしかGSになっていて、助手ではあったが、いまでは正式な社員として美神の事務所で働いている。給料も人並みに上げてやったので、もうかなり貯えはあるだろう。その実力も、ここ最近ぐんぐん伸びてきている。
しかし実力が増すにつれて、彼特有の情けなさの質が変わってきてもいた。美神にはそれがよく分かった。ずっと一緒だったのだ。それくらい、すぐに気付いて当たり前である。
(――本気だとは思うんだけど、ね)
彼の情けなさの奥底に、どこか余裕が感じられるのだ。
おそらく彼本人としては、グロテスクなゾンビなどを、いまだに真剣に怖がっていて、怯えたりしているのだろう。しかし自身でさえ気付かない心の奥深いところで、昔の彼からすればぞっとするような冷静さを宿しているのだ。
(……やっぱり変な奴よね)
そう思わざるをえない。本気で怖いのに、実は怖くない。どっちつかずの、奇妙な精神をしているといえた。
(ま、アイツが変なのは、昔からか)
――いまさらであった。そんなことは、初めて会ったときから分かりきっていたことではないか。
なんだか妙におかしくなってきて、また笑いが込み上がった。美神は、今度こそうまく笑えるような気がしてならなかったのだが――。
しかし、あともう少しというところで、美神は飛ぶように駆け出していた。強烈な魔力を、そう遠くない辺りから感じたのである。
すぐに感傷のようなものを脱ぎ捨てて、
「まったく、朝っぱらから迷惑な奴ねっ!」
と、悪態をついた。
急いで装備を取って、着替え始めた。それと同時に、ドタドタと階段を下りてくる足音が聞こえた。少し遅れて、おキヌも起きたようだった。すぐそこのドアが開く音がする。
(――流石にみんな早いわね)
満足そうに頷いてから、寝室のドアを開けた。目の前には、すでに全員が揃っている。
「美神殿っ!」
と、一番に声を上げたのはシロであった。「あの魔力、いったい何事でござるか!」
言いつつ、美神に詰め寄った。その白い顔は、いまではうっすら赤みがかっていて、息もねっとりと熱い。血気盛んな、シロらしい興奮であった。
美神はそれに押される形で、後ろ歩きで寝室に戻った。ぞろぞろと皆が続いた。
全員が寝室に入り終わる頃に、
「――分からないわ。だけど、ヤバイってことだけは確かね」
と、美神はシロを見つめて言った。ついでタマモとおキヌに目をやった。二人はなにも言わず、眼だけで頷いてみせた。
それに頷き返してから、
「じゃあ」
と口を開き、これからの指示を出しかけて――そこで、ふと魔力が消失した。
「えっ?」
と言ったのは、誰だったか。もしかすると、この場にいた全員であったのかもしれない。
ともあれ、どういうことかは分からないが、魔力を感知できなくなったことだけは確かであった。美神は皆の呆然とした顔を眺めながら、
(まずいわね――)
と、ことの危険さに焦った。
誰かがなんらかの結界を張って、戦闘に突入している可能性もあるが、もし魔力を隠蔽できるような敵であったら、不意打ちを喰らいかねない。
(……殺されたっていうのは、いくらなんでもあり得ないわよね)
一瞬で殺されるというには、その魔力が強大すぎた。可能性は低い。
となれば、結界か、あるいは特殊な敵であるかの二択ぐらいしか思い付かなかったが、今回はおそらく前者であろう。魔力を消すタイミングが、いかにもお粗末過ぎたのだ。あれでは気付いてくださいと言っているようなものである。
「――人工幽霊一号」
と、鋭く呼びかけた。
「この辺りで、不自然な歪みのある場所はない? なんでも良いわ、あったらすぐに教えて」
『畏まりました』
すぐさま、きびきびした返事が帰ってくる。
しかし美神はその声を聞き流していた。
誰かが戦っているとしたら、こちらも参戦するべきかどうか、それを決めかねていたのである。相も変わらず、彼女はそういう損得勘定の狭間で揺れ動いていた。
悩みつつも、美神は視線をおキヌたちに戻した。先程の言葉で緊張を取り戻したのか、彼女たちは真剣な眼でこちらを見つめている。
その顔は、妥協などまるで許さないような、真摯なもので溢れていた。
(――そういえば、この子たちが黙ってるはずもないか)
所長である、この美神令子の思惑など、彼女たちにはあまり関係ないことなのだろう。
今の美神には、不思議とそれが心地良く感じられた。すっきりした思いで、
「まずは待機するしかないわ」
と、全員に声を掛けてから、
「――おキヌちゃん、お茶煎れてくれない?」と言って、優しく微笑んだ。
「はいっ!」
緊張が抜けないのか、おキヌはやたら張り切った様子で台所に向かった。
つぎに、横島の家へと電話をしてみたが、いくら待っても、でる気配はない。
(なにやってんのよ、あのバカは……)
なんとも口惜しかったが、とりあえずは諦めて受話器を下ろした。文珠の戦力は惜しいが、この際仕方がないだろう。
タマモはそれを興味なさそうに眺めていたが、
「ねえ、ちょっといいかしら?」
と、今日初めて口を開いた。「私とシロなら、現場なんてすぐに分かるけど」
タマモはシロをちらりと見てから、美神に問いかけた。
「どうする?」
「――そうでござるよっ! タマモもたまには良いこと言うでござるな!」
シロは、嬉しそうに大声を上げた。「美神殿、拙者に任せてくだされ!!」
「……あんたたち、あんな強い魔力の中で分かったの?」
美神は目を丸くして言った。先程のような強大なエネルギーであったら、普通、霊感が狂わされてしまって、正確な場所など分かろうはずもないのだ。
「もちろんでござるよっ!」
しかしシロはこともなげに言ってのける。反応こそ乏しいが、タマモも当然のように澄ました顔をしていた。
「――やるじゃない、二人とも」
美神は挑戦的な笑顔を浮かべて言った。身体の深いところが、ぞくぞく震えてくる。「おキヌちゃん、お茶は後回しよっ! すぐに出るわ!」
確認するように二人を見据えてから、寝室を出た。その後ろをシロとタマモがついてくる。二人とも黙っていたが、その攻撃的な雰囲気は隠しようもない。
ふつふつとテンションが上がってきた。今日の調子は悪くないらしい。興奮を抑えきれず、歯を強くかみ締める。
(どこのどいつか知らないけど、好き勝手やってくれるじゃない)
ただし、私のシマを荒らしたんだから、この代償は高くつくわよ。
「――みんな、準備はいい?」
玄関を前にして、ぐるりと三人の顔を見回す。それぞれが、程よく昂ぶった良い顔をしていた。準備は万全のようだった。
ひとつ、小さく頷いてから、美神は軽快にドアを開けた。
移動手段は、徒歩となった。遠く離れていないどころか、ごく近所であると、くんくん鼻を鳴らしながらシロとタマモが言ったのだ。
徒歩にすると決めたら決めたで、二人はすぐさま駆け出した。
「――ちょっ、ちょっと早すぎるわよ!」
人間ではない彼女たちが本気で走ると、とてもじゃないが、ついていけない。美神は、仕方なさそうに止まって待っている彼女たちに追いついてから、
「戦闘前に疲れたら、元も子もないでしょ?」
と、少し恥ずかしそうにごまかした。二人についていけなかった自分が、ちょっと悔しかったのである。
「――それに、おキヌちゃんもいることだしね」
「わ、私なら、大丈夫ですから…」
と、すでに息切れしているおキヌが言った。やせ我慢であることは、誰から見ても明らかだ。
「そんなことより、早く進まない?」
と、待ちくたびれて、タマモが急かした。シロは遠慮したのか、一言も文句を言わなかったが、同意見であるらしい。退屈そうに、足をぶらぶら揺すっている。
「そうね」と、美神は頷いて、それから四人揃って小走りに走り出した。
五分ほど走り通すと、
「近いわ」
と、タマモが声を抑えて言った。
美神はそれを聞いて、隣を走るシロを見た。シロは少し殺気立った声で、
「タマモの言う通りでござる」
「そう。じゃあ、ここからは歩きましょう」
神妙そうに美神は言った。
周囲を警戒しながら、しかし足早に歩いていった。
美神たちは、歩きながら集中を研ぎ澄ましていったが、一向に怪しい気配を感じなかった。その残滓のようなものはわずかに見受けられるのだが、いまいちピンとくるものがないのである。
「おかしいわね」
と、こっそり呟く。「もう終わったのかしら」
結界も見当たらなかった。いよいよ気が抜けそうになったとき、
『血の匂いっ!!』
と、シロとタマモが同時に言って、一気に駆け出した。二人は公園の方に向かっている。
「拙者としたことが! この魔力の所為で気付かなかったでござるっ!!」
「ちょっと、二人とも待ちなさい! 危ないわよ!」
美神の掛け声でも、二匹の本能は抑えきれない。おキヌと顔を見合わせてから、二人を追って全力で走り出した。
公園には、ぽつんと魔族の死体が転がっていた。その付近には、攻防の為であろう二つの巨大な穴が、痛々しく地面に刻まれている。どうやら人間は死んでいないようだった。
(――やっぱり結界だったのね)
と、美神は顔をしかめながら思った。これ程の戦闘の激しさであれば、一瞬で終わったとは考えにくい。
ひどく、魔族の血が臭っていた。人間でここまで臭うなら、シロとタマモはかなりきついだろう。そう思って二人を見たら、案の定辛そうにに鼻をつまんでいた。美神は手で口を覆いながら、魔族に近づいていった。
その魔族は、無残にも二つに切り離されていた。流石の魔族であっても、これでは生きてはいられまい。
よくよく見ても、美神にはそれ以上分かることがない。すぐに飽きて、
「タマモ、シロ。あんたたち、何か分かる?」
と、駄目元で聞いてみた。
二人はちょっと躊躇ったが、鼻から指を離した。堪えるように顔を歪めながら、魔族に近づき、匂いを嗅いでいく。
暫くすると、シロの身体がピクンと震えて、
「――これ、先生の?」
と、喉の奥で言った。
「そういえば、横島の匂いに似てるかも…」
タマモも続いて言った。
「横島くんの?」
と、美神が意外そうに言うと、二人は曖昧に頷いた。
「確信は持てないけど、多分、そうだと思うわ」
そうよね、とタマモは同意を求めて、シロを見た。自分よりも、シロの方が横島に詳しいと思っているのだろう。
「拙者もそう思うでござる。これはちょっと違うけど、確かに先生の匂いでござるよ」
美神は腕を組んで考え込むふりをしたが、実際考えるまでもなかった。二人がここまで言うなら、おそらくそれは事実なのだろう。
それよりも、横島の底知れない勝負強さにこそ、驚いていた。
(あの横島くんが、ここまでやれるなんて――)
複雑な想いが、なくはない。これでも、一応は師匠を名乗っている者としては、弟子の成長は素直に嬉しかったが、ここまで強いとなると……。
もちろん、純粋にやり合って勝ったとは、いくら美神といえども思いつかない。誰かと共闘したか、もしくは、なにか特別な幸運のようなものが彼にはあって、今回もそれが作用したのだと考えている。
しかし事実は事実であった。横島が魔族と戦って、勝ったことには変わりはない。
美神は、いつの間にか自分に視線が集まっていることに気付いて、はっと我に返った。慌てて、
「横島くんなら大丈夫よ。魔族は死んじゃってるし、無駄足だったみたいね」
と、言った。「さ、帰って寝直しましょ」
「――美神殿は、先生のことが心配でござらんのか」
帰ろうとして足を動かしたら、非難がましく、シロが言った。
言われて、美神は自分が動転していて、横島の安否について深く考えられなかったことに気付いたが、いまさら心配するのも、なんだか過保護のように思えて、そのプライドが許すところではない。
「あいつは殺したって死なないような奴なんだから、大丈夫に決まってるじゃない」
と、切り捨てた。「いいからさっさと帰るわよ」
美神は率先して自宅へ引き返していったが、三人は戸惑ったように動き出そうとしなかった。
「拙者、先生の家に行ってみるでござる」
と、やがてシロは反対方向へと走り出した。自然、タマモもそれに同行した。なにも言わないまま駆けていった。
「美神さん…」
と、おキヌは呟いて、美神にそっと寄り添った。
「おキヌちゃんも、遠慮なんかしないで行っていいのよ」
どうしてか無性に腹立たしくて、美神は突き放すように言った。
「いいんです、私は」
「そう……」
「そうなんです」
ちょっと笑ってみせてから、おキヌは顔を俯けて、黙ってしまった。二人の靴音が、静かに朝の空気を震わせていた。
「――ほんと、バカね」
美神は疲れたように言った。おキヌのことか、自分のことか。あるいは、その両方であったのかもしれない。
なんで、魔族が出てきたのかとかが徐々に明らかになるよう期待します。 (スナクター)
美神の心理描写を気に入っていただけたようで、励みになりました。
タマモが妙に使い難くて大変でしたが、これからも何とかこのシロとタマモのコンビを書いていきたいと思っています。
魔族の現れた原因などの謎解きに関しましては、話数を重ねてしまうでしょうが、少しずつ明らかにしていきたいと思いますので、どうかこれからもよろしくお願いいたします。 (湯)