我が神、我が神、何故私をお見捨てになったのですか……?
何故私を遠く離れ救おうともせず、うめきも言葉も聞いて下さらないのですか?
我が神、昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙る事をお許しにならない……
ですが……あなたは、聖所にいらっしゃる――イスラエルの賛美を受ける方…………
(旧約聖書 詩篇 第二十二章 2−4節(一部変更))
機内の狭隘な空間から開放されて、更に狭隘な人の群れに押し流される。一週間程しか経っていないのに、何故か別の国に来たような違和感を感じる―― 母国、日本。ナルニアからブラジルに渡り、更にそこから十数時間。凝り固まった全身をほぐし、それでも猶冷たくシコリを残す心を自嘲する。
関東地方の住民にとって、海外への入口となり、出口となる新東京国際空港。――果たして、今の自分にとっては何に当たるのだろうか――
(…………)
それは――恐らく、今は判りようもない事なのだろう。
――風が、強い。
外気を受け、飛行機が発する轟音と共に強烈な日差しが眼を灼く。思わず、眼を細めた。
日差しもまた――強い。
彼――誠は歩を進めた。喩えどれ程の拒絶があろうとも、結局戻ってきてしまった事には変わりない。――決着をつけるまで、戻るまいと思っていた日本……その決着は――この国で着ける事となった。
自分がどうしたいのか――? それは、まだ解らない。美神公彦が語った言葉に対する答えも――まだ見つからない。……ただ、少なくとも、自分はあの老人を裏切る訳にはいかない。父としての哀しみの全てを凝縮したかのような、あの底知れない瞳に見つめられた後では――
「賢者――か……」
それは、あの瞬間……公彦に見つめられた瞬間に、自然に心に湧き上がって来た思い。――何もかもを知り、何もかもを見抜き――射抜く。その、哀しみに満ちた瞳に……
「……違うよ」
空港のロビーの前。独り、かぶりを振る。
「あの人は――美神公彦は『賢き者』なんかじゃない…… 本当にあの人が賢者なら――俺に……あんな風に接する事は出来ない……」
老人は、優しかった。優しく――厳しかった。厳しく――――哀しかった。
――残された者の、悲哀。愛する者を失った――その痛み。――既に老人は、四年前に妻を亡くし……そして今また――
――俺は……どうなのだろうか……?
……………………
太陽は照っていた。空を見上げ、ぼんやりと泳ぐ眼が痛い。――よく考えれば、建物内からそのまま地下鉄に乗ることが出来るのだから、わざわざ外に出る必要もなかったのだ。
だが――動かない。動く気も――しない。
「どうなんだろう……な……」
父の死。
その一つの事例。
そこに、美神ひのめが密接に関わっている事に疑いの余地はない。――それに対する、自分の感情。それが……どうしても、解らない。
――会えば、解るかも知れない。
……その期待も、公彦に出会ってしまった事で霧のように溶けて消えた。あの老人は、喩え誠が彼女を殺しても――誠を恨む事はないだろう。深い悲しみを抱く事はあっても――決して、誠を責める事もないだろう。
それが……痛い。
師も――ピートもまた、何かを隠している。恐らく、まだ誠に知らされていない……何かを。
師は……美神ひのめを知っている。――恐らく……四年前、彼女を国外へ脱出させたのはあの人なのだから。……実際に、誠が知る限り、他にそのような事が出来そうな人物はいなかった。
「先生――」
思えば、あの人もまた苦しみの内に生きている。自らが属する組織の腐敗した部位を除くことも出来ず、逆にその腐臭を放つ者達によって除かれた。――それは恐らくピートにとっては……屈辱である以上に絶望であっただろう。
自らの無力――それを端的に示された、絶望。
死した者達に対しての――罪悪感。自らに託して死した――自らを護った者達への――――
(それを……)
抉ったのは……俺か。
そして――恐らく自分に対しても師は絶望的な罪悪感を感じているのだろう…… そして、それが解っていた自分は、それを利用して目的を果たした。
――そんな事をして置きながら……今の俺はどうなっているんだ!?
「く……そ……!!」
壁を叩く。コンクリートの壁は音を響かせる事もなく、ただ殴った拳に痛みだけを伝えて来る。痺れと共に肩へと抜けるその痛みは、誠の心を多少なりとも落ち着かせる事には役立った。――少なくとも、表面的には。冷静とは言えまいが、今後の事を考えられる余裕を持てる程には――
蒼空から、視線を転じる。目の前には壁……殴った部位には、かすかな痕跡さえ残っていない。
――結局、俺もまた……どこかの誰かの思うが侭に動いているのかも知れないな……
そう思う心、それは常に在る。常に在るが故に常に噛み殺しておく事もまた出来る。組織に裏切られ、殺された美神美智恵。同じく裏切られ、心を壊されたピート。――多いなる力は常に個を圧殺し、また個を動かす。その、『力』とはいったい何なのだろうか――
『力』…………
美神ひのめ――彼女は、それを持っていると言うのだろうか。――ICPOという一つの組織が総力を尽くして追い、今まさに追い詰めようとしている……彼女は。
「…………時間が、ないな」
――少なくとも。
美神ひのめは恐らく、数日の内に消される事になる。自らがどう思っていようと――そのような事には一切構わない、組織という強大な力によって。
その前に……自分は、西条誠は彼女に会わなければならない……
歩き出す。建物の中に向かって。
確証は――全くない。美神ひのめが今何処にいるのか……自分には全く知る術がない。
……だがそれでも――自分には、恐らく解っている。美神ひのめが――日本に来て頼れる人物。また、それをせざるを得ない人物。
一人しか思い浮かばない。――そして、それは恐らく間違ってはいない。
ピエトロ・ド・ブラドー。彼。……誠の師であり、更にはほんの一週間前に出発の場所となった――あの荒れ果てた礼拝堂。恐らく、そこに――
彼女は――美神ひのめは……
「…………」
足は、地下鉄へ続く階段へと吸い込まれてゆく。
ふと風を感じ、誠は身を震わせた。
★ ☆ ★ ☆ ★
「…………」
空き地が点在するその界隈には、妙に寒々しい風が吹く。――かつてこの周辺には住宅地が広がり、それなりに賑わってもいた。今は、空き地と共に空家が点在する――まさしくゴーストタウンと化している……
(傷痕――か)
誠はその中を、独り歩いていた。――そこに、意味などはない。ただあるとするならば、確認……か。
人間の再生能力は、計り知れない。旧世紀の原子爆弾の後も、生き残った人々は焼け跡の上で必死に命の炎を燃やした。ただ――生きる為に。
……失われている。
恐らく、そこに住みたいと願う人がいなかったのだろう。空き地や空家には殆どの場合、『売地』『売家』などの立て札、もしくは張り紙があり、その下に現在の持ち主の電話番号が記載されている。――その値段は驚くほど安い。都会に生まれた、文明の抜け穴が――
「……ここ、か」
その古びた建物は、あろう事か未だ生命を保っていた。時代を感じさせる煉瓦造り、あちこちに罅があるものの、構造としては致命的なダメージは受けていないように思える。――かつての名は、美神除霊事務所。
構造上の傷は、やはり感じられない。――外から眺めた限りは……であるが。
昔――聞いた事があった。この建物には霊が憑いている。その例はかつてのここのオーナー……美神令子の強力な霊気を吸って生き長らえており……そして恐らく、この建物を修復させると同時にその存在を消した。
「……火……か」
流石に――中に入る気にはなれなかった。四年の歳月を経て猶生命が止まっているこの界隈が甦るのは――果たして、いつの事になるのだろう。その渦中に多くの生命を宿したまま時間を止めたこの町は、そのまま、美神ひのめが行なった事実を浮き彫りにしている。
美神ひのめ――その存在。
……確かに、それは一概に言えば、危険極まりないものであるのだろう。
少なくとも、ICPOオカルトGメンの首脳陣が懸念する事はその事――それと、もう一つ。もし彼女が、その強大な力を“自分の意志”で完全に使う事が出来るようになったら――?
「……どうなるんだろうな。全く――」
少なくとも、自分には想像が出来ない。テロリストにでもなるというのか?
(それこそ――お笑い種だ……)
どちらにせよ、自分のやる事は――やらなくてはならない事は変わらない。その後の事は――その後にしか、解らない事なのだろう。
歩く。重い足を引きずって。
師の教会は、もうそう遠くはない。
――ふと、足が止まった。
「…………」
美神除霊事務所の、隣。そこも空き地になっていた。四年前に、完膚なきまでに粉砕されたビル。既に今は、その名残もない――
オカルトGメン、日本支部。かつての、父の職場。悲劇の舞台。
既に都心に新たに支部が建設され、機能は全てそこに移っている。かつての父と共に、目の前の過去の遺物は静かに眠っている……
「…………」
再び――歩みを進めた。
――感慨……に似た思いはあるかも知れない。少なくとも、年月の経過だけは感じる事が出来る。
ただ……虚しい。自分のやっている事。やって来た事。やろうとしている事――全てが…… 結局、自分が何をしても、それは自分以外の何者にも、何も及ぼさない……
(そして……その自分すら――)
理解できていない。怒りも、悲しみも、湧いて来ない。ナルニアで出会った公彦老に植え付けられた、虚無の感情。絶対の物が存在しない――途方もない頼りなさ。
そう、もしかしたら――
「……俺は……美神ひのめに会うという目的に……すがっているだけなのかも知れないな……」
会って――そして何をするのだろうか。公彦が訊いたその言葉に、自分はこう答えた。『答えは出せない。――まだ、彼女の事を何も知らないから』――と。今思えば、あれは卑怯な回答だったのではないか?――少なくとも、質問者……公彦老人にとっては。
ただ――保留しただけ。決められるだけの、覚悟も持たずに……
(卑怯――か)
重い心とは裏腹に、重い足は動く。人通りが戻ってきた道を歩き、そして心の中でため息を重ねる。まだ見ぬ美神ひのめの姿が、心中に強烈なプレッシャーとなって圧し掛かっていた。
――俺は……決断を下す事が出来るのか……!?
……会わなければならない……その覚悟は、今でも変わらない。自分はその為にひたすらに彼女を追い求めて来たのだし、会わなければ、前へと進む事は出来ない……
――そして、もう一つ。会って――そして、決断しなければ……
息苦しさを感じる。極度の緊張が、身体に悪影響を与えているらしい。さほど暑さは感じないのに、汗が一筋、地面へと落下する。――その汗の玉を、眼で追うことが出来た――
恐らく、立ち止まればもう歩き出す事は出来ない。――それ故、立ち止まる事は出来ない。
重い足を、引きずる。増えてきた喧騒の中を、這うようにして縫って行く。住宅地にしては――人が多い。
……いや。
――――多すぎる……?
「――――?」
疑念は、瞬時に懊悩する頭とは別の部位を起動させた。内に向いていた感覚器が、全て外部に向けて解き放たれる。周りの状況が、頭に映る――
人ごみは、予想以上に激しかった。彼らが見ているのは、ただ一つの方角。――誠が、これから向かおうとしていた、まさにその方向。
そして、かなり近くから――これも、前方からだった――聞こえる、サイレンの音。緊急自動車のサイレンの種類など解らないが、この場合は一瞬で理解できた。
――消防車。
「な…………」
うめいた瞬間、足は、勝手に疾走を開始していた。――ざわめく野次馬を押しのけ、擦り抜け、喧騒を弾き、走る。
――最早、緊張も何もあったものではなかった。先ほどのゴーストタウンの光景が、脳裏にフラッシュバックする。師、そして、美神ひのめ――
焦燥。
「…………ッ!?」
辿り着き、そして、敷地を囲むように貼られた黄色いテープの内側で……
ピエトロ・ド・ブラドーの住む教会は、オレンジ色の炎を激しく撒き散らしていた。
〜続〜
楽しんで読んでいただければ、幸いです
(ロックンロール)
西条誠というキャラクターを掘り下げた今回のお話ですが、これまで彼が登場し、そして、その言動を追う中で、私が感じていた『彼は絶対的な復讐者ではない』という事が再認識できた今回でした。
誠もまた、このお話に登場した全ての人物と同じく、ひのめに(または自分が抱く感情に)対して苦悩して、それでもなんとか答えを何とか出そうとする「ありふれた」――語弊があるかもしれませんが――生々しい感情を持った一人の人間(登場人物)であり、その辺の葛藤を上手く描写されて物語中で違和感なく動かされているなぁと、その手腕に感心と感動しっぱなしの私でした。 (矢塚)
ものすごく続きが気になる展開ですね。
それはさておき、誠という人物のモノローグが、彼の抱える葛藤をよく表していますね。 (林原悠)
矢塚さん江
今回、意図的に行動描写をひたすら少なめにしてみたのですが、うまく行っていたでしょうか?(普段も、私の書く文章はそのような傾向がありますが(笑)) あまりにも手放しなお褒めの言葉に、こちらこそ恐縮しっぱなしでした。ありがとうございます。
林原悠さん江
前話へのコメントも、重ねてありがとうございます。二人の身に何が起こったのかは次で語られております。こういう引きにしてしまうと、次を早く書かねばならないというプレッシャーを当社費三倍感じたりもします(笑)。 (ロックンロール)