『我が神、我が神…………何故私をお見捨てになったのですか――――?』
(マタイによる福音書 二十七章 四十六節・マルコによる福音書 十五章 三十五節より)
眠っている。
その悲しげな寝姿の中に内に秘めた哀しみを秘し、美神ひのめは眠っている。
(…………)
葛藤は心の内に。焦燥は行動の中に。椅子に積もった埃を払い、間に合わせで作った闖入者の居場所。――それは否応なしに、ピエトロの心中にある種の疑念を生じさせる。
――何故、ここに来たんだろう?
思いは、深い。そして――それを許容し、頷いている自分もまた……
既に、夜になっていた。闇の帳は朽ち掛けた礼拝堂を覆い隠し、その渦中に在る一つの寝息を際立たせる。もう子供とは言えない――四年の歳月を経た……しかしそれでも子供である女性。――美神ひのめ。
彼女から一列ほどの間隔を空けた席に腰を下ろし、ピエトロはただ、その事のみを考えつづけた。――人が一人増えた所為か、礼拝堂内に沈殿した空気が重い。凭れ掛かっている長椅子の背が、ピエトロの体重をまともに受けてミシミシと危険な音を立てている。
ステンドグラス越しに、外の光を感じる――
「……満月。光――」
呟きは常に、意味のあるものではない。――自分にとっては。四年前の事件の責任を迫られるという形でICPOを辞職した時から今まで……自分――ピエトロ・ド・ブラドーは呟きつづけて、四年を無為にした。
光が、曇る。
もう、酒を呷る気にはなれなかった。相変わらず異音を発しつづける長椅子の背に体重を預け、ぼんやりとステンドグラス越しの月光を浴びる。表現のしようによっては、それは非常に幻想的な光景にも見えるのだろう――思い、漏れ出でた苦笑を噛み殺す。
それは、危険な妄想でもあった。
「……ひのめちゃん…………」
彼女がこの四年間、一体何をして過ごしていたのか。
――そして……そこから離れ、何故自分の元へと舞い込んできたのか。
漏れ出でる月光をその寝姿の上に。――やはりそれは幻想的な姿だった。苦難に煤けたその風貌を差し引いても猶――いや、それがあるからこそ更に……彼女は美しい。
目じりには、涙の跡が残っている。恐らくは、四年間常に悪夢に苛まれ続けた――その結果としての、涙の傷痕。深い、深い――
(……何を考えてるんだ、僕は)
かぶりを振る。肌寒さを感じた。
どちらにせよ――今の自分に出来る事は……彼女にしてやれる事は、もうない。既にオカルトGメンという肩書きすら存在しないし、心の支柱にすら――恐らく、なれまい。既にピエトロ・ド・ブラドーは世を捨て、信仰を棄て、退嬰の中に陥り、日々をただ死ぬ事だけなく無為に過ごしているだけなのだから……
「……ふぅ――」
ため息。
自然に出る――その事には既に狎れてしまった。仕方がないとも……既に諦めてしまった。常と違う状況の中で、常と同じように出る嘆息。それは――
光を浴び、立ち上がる。
「……ひのめちゃん」
歩む。眠るひのめの側へと。
「僕は……君を送り出した。そして、君はここに帰ってきた」
短くなった栗色の髪を、そっと指で梳く。
「……でも…………」
そして――腰を下ろした。ひのめの隣に。
「もう一度――もう一度訊くよ、ひのめちゃん。僕の中では、もう神は死んでしまった―― 君に『生』を強要した僕は、もう、いない。……君は何で……ここに、来てしまったんだ――」
眠るひのめ。当然ながら――ピエトロの呟きには、答えない。
――自嘲する。
「僕は――君の力にはなれない。……だってそうだろう? 僕には――もう、全てを掛けて信じるべきものなんて――」
ひのめは……答えない。
「……なくなってしまったんだから…………」
そして……天井を見上げた。
まだらの闇。そこにはそれが見える。月光に闇は浸食され、木製の梁に当たって複雑な陰影を生んでいる。混濁した白と黒。そして――緑黄色の月。ステンドグラスに色づけされた、灯火の如きオレンジ色の光――
「……優しいから…………」
――それは、唐突だった。
上へと放っていた視線を、下へと下ろす。
鼓動は平静だった。……感情の激流には似合わずに。――月光を受け、ピンク色に光る瞳が自分を見つめている。長椅子に寝転んだその体勢のまま、隣に座る自分の瞳を――美神ひのめは見つめている。
「……起きて、いたんだね?」
「……うん」
その姿勢を保ったまま、ひのめはかすかに首肯した。
月光は、その表情を青白い光の中に照らし出している。――盗み聞きを気にしているのか、少し視線を逸らし、くたびれたスーツのネクタイの結び目の辺りを見つめているひのめの――
……やはり、訊かなければならないのかも知れない。
(それが……僕の責任……か……)
「ひのめちゃん……」
言葉と同時に、ひのめに顔を近づける。かがみ、その眼を見つめ……その瞳の中にあるかすかな脅えの色に、自分の瞳を見る――
―― 子供…………か。
「……話してくれ。この四年間――何があったのかを。君が――何から逃げて、ここまで辿り着いたのかを……」
月光を遮り、ひのめの表情に影を落とす、ピエトロの顔。
その言葉に、ひのめはかすかに頷いた。
★ ☆ ★ ☆ ★
賞味期限切れ寸前の紅茶のポットは、それでも芳しい芳香を立ち上らせた。――礼拝堂の裏手にある居住区。もう二年ほど足を踏み入れていなかったそのスペースは、当然のことながら荒れ放題になっていた。沈積した埃を踏み越え、開封していない紅茶を見つけ出すまでの、その長くとも短い時間。――その間に、どうにかピエトロの感情は人並の落ち着きを取り戻す事が出来ていた。
「…………小竜姫さま……パピリオ……雪之丞……か」
湯気を立てるティーカップをトレイに乗せ、呟きながら埃の海を越える。
ひのめの語った事柄は断片的ではあった。途切れ途切れに呟き、そして俯く。ナルニアから妙神山に登り、小竜姫による修業を受けて、香港でGSまがいの仕事を。そこで雪之丞と出会い…………そして――
「……雪之丞…………」
結局のところ、ひのめを最終的に追い詰めたのは雪之丞であった。――しかしその事――雪之丞自身に対しては、別段怒りの感情は湧いてこない。……結局、雪之丞も同じ事を思っていたのだ――――自分には、恐らく、その感情が理解出来ている筈だ……
――いや……違う。……恐らく、自分は雪之丞にすらなれなかった――――
礼拝堂へと続くドアをくぐる。荒れているという意味では似たようなものだが、それでも今は人がいるという意味で、居住区の方よりもむしろ温かみを持つ礼拝堂の見慣れた風景。その中にひとつ。ちょこんと座る人影……
「おまたせ――紅茶だよ。レモンはなかった、砂糖で我慢してくれ」
「……ありがとう――――」
ひのめは薄く微笑み、カップを受け取った。――久々に見る、ひのめの笑顔。その笑みは、『泣く』という行為に慣れ過ぎてしまった表情筋の所為か、どこか今にも泣きそうな表情に思えた。
――恐らく、外れてはいまい……
既に、夜半を過ぎていた。月光はその光を弱め、ステンドグラスから漏れ出でてくる光は、青白い弱々しげなものへと変わっている。
夜。
「何でここに来たのかは――アタシ、わかんないんだ…… ただ、伊達……さんは……アタシに優しくなかった……」
「……それで、僕は君に対して優しいのかい?」
「……わかんないよ…………でも、アタシ、また火を出しちゃったんだ……もう、あそこには――尖沙咀(チムサーチョイ)にはいられない……」
「そうか……」
紅茶の芳香が、鼻腔をくすぐる。思考に間を持たせる為、一口、唇をつける。
「アタシが何かする度に――後悔ばかりが増えていくんだ……! もしかしたら――アタシは伊達さんや……明弘君や……パピリオを殺しちゃったかも知れない…………アタシは……そういう人間なんだよ!」
「…………」
涙が出易くなっているのだろう。暗闇で猶輝く、光玉。――そして、この光玉が今ここにあるのは、自分の所為であり、自分のお陰でもある。
ただ――美しかった。
(幼……過ぎるんだ……)
少なくとも、その運命に比すれば。
自分は、既に七百余年を生きた。――その上で、自ら挫折を悟った。全てを諦念の中に置き捨て、自らの生命を、混濁の中に奪おうとすら思った。
しかし、彼女は――
(……彼女には――『今』しかない。四年前に壊した日常――そして、自ら再び壊した新たなる日常…………彼女は……ひのめちゃんは…………!)
――壊れたがって……いる。
「アタシ…………多分このままなら、母さんみたいに殺されると思う……」
「……! そうか……!」
失念していた。――当然、香港の事務所の炎上にはICPOも目をつけている筈なのだ。彼らの組織力をもってすれば、ひのめが何処へ逃げたのか割り出す事など造作もない事であろう。
――そして…………
顔をあげる。
ひのめは――微笑んでいた。……先ほどのような泣き笑いではなく――困ったような……苦笑に似た、最高の笑顔。――何処か、諦めと期待を含んだ――
……こころ。
「…………殺させない…………」
そして、唇からは反射的に、言葉が滑り出していた――
……何故、僕が言える?――僕が言えた事ではない――
――止まらない――
「そんな中途半端な気持ちじゃ……君を死なせるわけにはいかない……絶対に……絶対にだ!」
視線見据えるその先に、ひのめ。驚いたような顔で、固まっている。まさか――この期に及んで、それも自分に、ここまで強硬に否定されるとは思わなかったのだろう。ひのめは、先ほどの自分の独白を聞いていた筈だ――
――当然だ。自分でも、どうしてなのか解らないのだから……
ICPOのやり方への反発か…… オカルトGメンからはじき出されたが故の反発心が、心のどこかに残っているとでもいうのか?
いや、これは……違う。
「僕が……君を殺させない……! ICPOの奴らになんか……絶対に……絶対に……!」
……ああ、そうか。
長く、感じていなかった感情。――忘れられていた思いに、その名を忘れていた。
(懐かしい……な……)
僕は…………この女(ヒト)を愛している――――
……それ故の、理不尽な思い。それ故の、感覚的な安らぎ。
その短い生の中に幾多の苦しみを受け、その重みに折れそうなそのこころ――名前をつける事は出来ない。そして、絶対に失わせる事は出来ない――
四年前は……義務感……そして、責任感からだった。その言葉は、ひのめに対する重石であり、禁止事項であった。
今は――――違う。確信できた……
「僕は……君を死なせたくない。――君を……失いたく……ない……!」
握った、ひのめの手は冷たかった。ひのめの驚いた表情に、徐々に赤みが指してゆく――
「……でも……アタシは――」
目をそらすひのめの手を、更に強く握る。――体温が移り、徐々に、ひのめの手に温かみが戻ってゆく……
自分が、言っている言葉の意味は、理解できていた。――その上で、ただひたすらにひのめの逸らした瞳を見つめた。――ただ……必死だった…………
「僕が……君を必要としているんだ……ひのめちゃん……」
逸らした眼が再び合ったとき、はやりそのピンク色に輝く瞳は涙で濡れていた。
「……やっぱり……優しいよ……ピートさん…………」
初めて交わした口づけは、渇いた血の味がした――
〜続〜
楽しんで読んでくれたら幸いです。 (ロックンロール)
自分に対してピート以外誰も、優しくはなかった。だから、優しいピートに心惹かれる。
それは、自然な心の動きなのかも知れません。
しかし、そういうひのめ自身は気が付いていない。いや、もしくは気が付いていながらもその思いを殺しているのでしょうか。彼女を気遣い取り巻き、そして死んでいった人間達がひのめに対して自分が表現しうる優しさのあらん限りを注ぎ、失っていない事に……。
優しさに形式はなく、登場人物それぞれの思いに従ってそれは表現され、その中からひのめは自分に一番居心地の良い優しさを選んだように感じました。
そして、ひのめがピートの中に感じた優しさは、本当の優しさだったのか、それとも過去から逃げて生きることを選択した者が持つ心の弱い部分だったのか……。
逃げ出した者同士が、心惹かれあう印象を受け、とても切なくやりきれない感覚を受けました。
┃━┏┃。oO……しかし、HFC会員が一番恐れていた(何を?)展開になってしまいますた。……この結末、最後までしかと見届けさせていただきます(笑) (矢塚)
……んで、やはり今回も鋭い所を突いて来なさる(笑) ここで私が説明するのも芸がないので、今後作中でしっかりと描写してみせます。します。出来たらいいなぁ……(ゑ
……やはりこのような展開にしてしまった私は、HFCから除名の刑なのだらうか……(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
(ロックンロール)
ピートとひのめが……ってのはちょっと予想外の展開でしたね。
何となくピートの接し方は父性みたいなものかと思ってましたから。
ちなみにHFCって何? と思いましたが、今、わかりました。
ふたりを待っているのが悲劇なのか、しかと見届けさせていただきます。 (林原悠)