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下弦の月

回想


投稿者名:ライス
投稿日時:04/ 2/ 3







  
 『彼女』は帰ってきたのだ。
 


 
 彼女は息を切らしていた。一晩中走っていれば、無理もないはずである。
 服も濡れている。その濡れた服には紅く滲む点々が大小さまざまに染み付いていた。
 今まで暗がりに居たので気付きもしなかったが、それは陽に当たって、より鮮明に映えている。
 すると、彼女は点々が飛び散っているTシャツの両脇の端を引っ張り、
 まざまざとそれを黙って見ていた。


「……………。」


 彼女は思った。計らずも自ら手に掛けてしまった友のことを。
 沈痛な表情を浮かべる。
 そしてまぶたを閉じると、その友の無事を祈った。
 今、彼女に出来ることはそれしか無い。
 彼女もまた、救いを求めている身であるのだから。 


「(行こう……。)」


 そして、彼女は向かう。
 自分の生まれたその地へと。



 そう、彼女は『帰って』きたのだ。






       ◆






「我が一族の守護神、アルテミスは月の守護神であることはここに居る皆も知っておろう?」

「ハイ!」

「よろしい。その昔、神々の生ける時代の話じゃ。
 彼らもまた今の人間と同じように地に根を張り、
 狩りをし、あるいは地を耕し作物を作り、生活を営んでおったそうな。
 そして同じように、神も恋をしたのじゃ。
 しかし我等が月の女神、アルテミスも恋をしたが、めぐり逢う相手が悪かった。
 おまけに生来の嫉妬深さも災いしてか、彼女は男の神を信じられなくなってしまった。
 だが、そんな彼女にもようやく愛情を思う存分、注ぐことの出来る恋人が現れた。
 彼女は恋人を大層愛していたし、恋人の方も同じであった。
 それはそれは、仲睦まじい二人だったと言われておる。
 じゃが、その終わりは突然やって来た。」

「終わりってぇ?」

「これこれ、最後まで話を良く聞きなさい。
そしてある日、これは彼女が森にいるワシ等の先祖、つまりは狼達や、
 その他の森の動物達の世話をしていた頃の出来事だと伝えられておる。」


 固唾を飲む子供達。その横にいる先生役の若衆も注目している。


「その日もいつもと変わらない、晴れた日であった。
 ご先祖様達に餌を与え、毛並みを揃えてやり、戯れたりしてやっていた時、
 向こうの草叢で物音が何かする。
 気になって見てみると、そこには恋人が別の女と歩く姿があったのじゃ……。
 ……恋人を信じていた彼女の動揺は激しかった。
 そして、それは嫉妬を生み、憎しみへと姿を変えたのだった。
 気付くと彼女は我を忘れ、一突きに恋人の心臓を貫いていたと言う。
 恋人が倒れると、側にいた女が寄り添う。しかし、それは恋人の妹だった。
 妹の話によれば、自分を紹介するため、兄と一緒に来たのだと言う。
 彼女は過ちに気付くと、自分を深く深く責めた。
 そして、悲しみに暮れた彼女は自らを戒める為、
 空に浮かぶ月へと己の感情の一部を封印したのじゃ。
 自分の中に渦巻く感情をな。」

「で、それがどう繋がるんですか、長老……?」


 若衆が不思議そうに聞く。
 それを見て、長老は溜息をつくと、やれやれといった表情で話を続けた。


「これにはまだ続きがあっての。
 皆も知っておる通り、月は満ち欠けをする。
 実は月は栓と砂時計の役目をしておってな。新月は月が無くなるので問題はないが、
 問題は月のある時じゃ。
 満月はともかく、それが徐々に欠けてゆくと、砂時計が傾き、栓が緩んで、
 封印されたアルテミスの憎悪という名の感情が漏れ、降り注ぐのじゃ。
 それは月が下弦の月となる時、一気に開放される。
 そして、月が上弦の月になる時、その憎悪は再び吸収され、封印される。
 下弦の月を見た者は、憎悪の月に魅入られて、仲間を殺そうとするのじゃ。
 だから、我等、人狼は下弦の月を見てはならぬのだ。」

「…………。」


 長老が話し終えると、子供達は少し怯えた表情をしている。
 内容が内容であるから、仕方ないか、とふぅッと深い溜息をつき、長老は
 そして、子供達をなだめるように語りだした。
 

「まぁ、そう怖がるでない。
 お前たちの親の言う事を良く聞いて、普通に暮らしておれば安全なのじゃから。
 この話は村の大人、殆どが知っておる事。まぁ、中にはここに居るような例外もおるがの。」


 そう言って、若衆の方をジロっと見やると、彼は照れ隠しに咳払いをしている。
 すると、くすくす笑う子供達。
 気が付くと、日は昇りきり、正午の鐘が鳴っていた。


「おぉ、もうこんな時間か。それでは昔話はここまでにしておこう。
 今日の授業は昼飯を食べてからじゃ。良いな?」

「はぁ〜い!!」


 元気よく散っていく子供達。そしておのおのの自宅に戻っていく。 
 外は相変わらずの弱い日差し。
 季節のせいだ、と言われてしまえばそれまでだが、
 老人にはやはり、それは異様なものに思えた。


「下弦の月……、か。」


 長老は遠い目をして、天を仰ぐ。
 今、感じている違和感は以前にも感じた事のあるものだ。
 それは、遠い過去の事。思い返しても、仕様のない事だ。
 彼は溜息を漏らす。
 そして、自分の書斎に戻り、どっかりと座り込むと書物を取り出して
 おもむろに読み始めたのだった。 
 




       ◆






 呼んでいる。何かが呼んでいる。
 誰かが拙者を呼んでいる。
 その呼び声は徐々に大きくなっていく。
 頭が割れそうに響いてくる。
 しかし、どういうわけか、それに引き寄せられていくように身体が動いていく。
 そうして、段々と近付いていく。
 呼び声は誘う。悪魔の囁きだろうか。まぁ、いい。
 そして、拙者は村へと、村へと草叢を掻き分けて駆けて行く。







       ◆ 





 夕暮れ時。
 今日は下弦の晩。
 この日はいつも村の誰もが早寝をして、明日に備えて静かに眠りに落ちる。
 それはこれから焦点を当てる、この家族も同じであった。


 今は、ちょうど夕食時のようである。
 微笑ましい会話が家族の間でなされていると思われるだろうが、
 やはり、そこは曲りなりにも侍の家。
 食事は厳かに、慎ましく進んでいた。
 上座には、一家の長。
 そこから側面を真正面にして、一歩隔てた脇に縦一列ににその妻、子供二人が正座している。


 椀が置かれる。その他の皿も綺麗さっぱり跡形もない。
 食事の終わり。
 父親は席を立ち、書斎へ。
 母親は片付けをしに、台所に。
 そして、子供達は湯殿へ。


 さて、ここで紹介するのは、親の方ではなく、子供の方である。
 長男は名を隼という。既に元服を済ませたこの家の嫡男だ。
 もう一人は名を疾風と言った。五つ下の次男坊である。
 さほど年の離れた兄弟、と言うわけでもなく端から見れば仲の良い普通の兄弟であった。


「なぁ、ハヤテ。」


 湯船に浸かる兄が言う。
 弟は、掬った湯を被ると手拭いで、身体を擦りながら聞いていた。


「なんだよ、兄者。」

「……変だと思わないか?」

「何を。」

「今日みたいな下弦の晩が、って事さ。」

「?」


 再び桶に湯を掬い、身体に浴びせると弟は湯船に入ると、
 兄と向き合うようにゆっくりと浸かる。


「不思議に思わないのか?」

「なんで?昔から決まってる事じゃないか。」

「それが変じゃないか。なんで、皆、言い伝えを信じるんだ?怪しいもんだ。」

「でも、言い伝えは守らなきゃ……。」

「何をしてるのです?早く出なさい。後が仕えているのですよ?」


 母親が早く湯から出るよう、催促する。
 子等はそれに従い、湯船を出ると、寝巻きに着替えて寝室へと出て行った。
 外では日が徐々に遠い山々の方に隠れてゆく。森は暗闇に包まれ、夜を演出していた。
 彼らの家族が住む家、とはいえ、どの家もそうであるが、雨戸が引き出され、
 家中、外の景色が見ないように全て閉ざされていた。


 二人の寝室に蝋燭の火が灯る。
 彼らはそれぞれの布団に包まり、なにやら話し込んでいた。


「考えても見ろ。一族がこぞって、今晩みたいな事をやってるんだぞ?
 誇りある人狼族がなんでたって、たかが月の為にこそこそとしなきゃならないんだ?
 それも、昔の言い伝えを頑なに守ってまでだ。」

「だけど、言い伝えの通りに守らないと……、」

「そんな物、今の大人で誰一人として、見た奴がいるのか?
 長老は見たことあるかも知れないが、それだって怪しいもんだ。」


 ヒソヒソ声で話してはいるが、兄、ハヤブサの声には熱気があった。
 弟、ハヤテから見れば、兄は頭脳明晰で人望も厚く、何一つ欠点のない人物だった。
 行動が直情的である事が玉に瑕だが、それでも頼りがいのある優しい兄であった。
 しかし、今回の兄の疑問について、弟は疑念を抱かずに入られなかった。


「だからな?これからこっそりと外に出て、言い伝えの真偽を確かめてみないか?
 俺の仲間を誘おうとしたんだけど、誰も言い伝えを怖がって、乗ってこなくてな。
 まったく、腰抜けばかりでしょうがないったら、ありゃしない……!」

「え……、でも……。その、もし怒られたら……、」

「なんだ、そんな事心配してるのか?
 大丈夫だ、この俺がついてるんだ、言い訳ぐらい何とかするさ。な、行かないか?」


 弟は悩んでいた。兄の誘いに乗って、行くべきか、行かないべきか。彼は気弱であった。
 いつも兄の陰に隠れて、おどおどとしていたし、何よりも頼りなかった。
 そしてその頼りなさを助長していたのが、今、彼らの会話にも表れているような優柔不断さである。


「な?」


 兄は、兄で隣に寝そべる弟に、同意を求めている。
 行くと言い出したら、誰にも耳を貸さなくなってしまう所がこの兄の欠点だが、
 しかしまた、結果的にそれに流されて行動してしまっている所が自分の嫌な所だと、
 弟は思っていた。
 そして彼は兄の方を向いて、しばし熟考した後、口を開いてこう言った。


「……行かない。」

「なんで?」兄は不思議そうに言った。弟は黙ったまま、首を横に振る。

「……どうしてもか?」再度首を振る。今度は縦に。

「そんなに怒られるのが、怖いのか?」

「……違うけど、やっぱり行きたく……。」そう言って、口をつぐむ弟。

「あぁ、分かったよ!!そういう事なら、俺一人で行くさ!
 お前はそうやって言いつけ守って、寝てろ!この意気地なしがっ。」


 兄の怒った口調でそれが言い放たれると、
 彼は静かにすっと立ち上がり、襖をそっと開いて、寝室を出て行ってしまった。
 それが兄と喋った最後の会話だった。
 その後、兄は姿をくらませてしまったのである。
 捜索隊も結成された。しかし、彼は見つからなかった。
 神隠しか?とも言われたが、それを証明するのは難しいものだ。
 方々、手が尽くされ、昼夜問わず捜索は続けられたが、やはり一向に発見できず。
 弟は少なからず、自分の下した判断に後悔しつつあった。
 果たして、自分は正しかったのだろうか?それが不安だった。
 その一方で、大人たちは深刻そうであった。
 下弦の晩に外に出た者が居るとなれば、彼らは焦るのは無理はなかった。
 人狼族にとっては仲間内の繋がりは固く、村全体が群れであり、家族のようなものである。
 彼等は最悪の事態を未然に防ごうと、細心の注意を払い、警戒した。
 しかし、それは起こったのであった。


「み、みんな……、きき、来てくれぇぇぇぇ!?」


 その大声が村に響いた。
 村の男達は一斉に家を出て集まり、声のする方へと向かう。
 現場は凄惨たるもので、辺りの草木は血にまみれ、また地面も血液が覆っていた。
 臓物はあちらこちら飛び散り、その三体の遺体は生前の面影を残していない。
 そこにあったものは無残にも殺され、身動きのせぬ、ただの屍であったのだ。
 衣服から判断して、彼らは兄、ハヤブサの友人である事が分かった。
 そして、この惨殺を誰がやったかという事も。
 一同は騒然となり、一層、警戒を強める。
 ここが人間の村であるならば、事件の当事者を出した家は村八分か同等の扱いを受け、
 虐げられるものであるが、ここは人狼の隠れ里である。
 彼らの結束は並大抵のものではない。
 一族全体が家族のようなものであり、
 また友として、仲間として、そして兄弟のような繋がりが彼らの内に存在するのである。
 だからハヤブサのような者を出してしまったのは、
 全員の責任であり、全員で対処せねばならない問題なのだ。


 そして、悲劇は怒るべくして起こったのであった。
 彼は月の照り輝く夜中に颯爽と来襲してきた。彼の名である隼の如く。
 切りかかり負傷する者、あえなく討ち死にする者、無残にも惨殺される者。
 切り裂かれた腕が飛び交い、腹は掻っ捌かれ、血しぶきが月夜に吹き続ける。
 かつてのハヤブサは最早、存在しない。狂気の眼に満ち、殺戮を繰り返す。
 しかし、彼は立ちふさがる者達をなぎ払いながら、ある方向に徐々に近付いていた。
 彼が生まれ、そして幼い頃よりずっと住み続けた家。
 そこに家族は待っている。
 立ちふさがる者も多いだろう。そして、父もまた立ちふさがるだろう。
 彼は思っていた。しかし、実際そんな事はどうも良かった。
 家族にさえ会えれば良かった。


「グアッ!?」


 生首がぼとりと落ちる。
 家の中には、父を含め、五人の屈強な、剣術に自信のある者達がいた。
 二人目は腹から縦に真っ二つに裂かれ、
 三人目は心臓を一突きにされて、掴まれた心臓が握りつぶされ、
 四人目は一瞬にして、細切れの肉塊にされてしまった。
 残るはただ一人。部屋には血を分けた親と子だけが残った。
 部屋の明かりは燭台の蝋燭の火のみ。周りには惨殺された死体が四体。
 それも先程、目の前にいた息子に殺された者達。
 父親は唇を噛み締めていた。命を落とした四人に対しての無念。
 そして、彼らを殺した息子へのどうしようもない憤り。
 確実に目の前にいる男は息子であり、そうではなかった。
 複雑な感情、そう言い切ってしまえばそれまでであるが、
 如何ともし難い怒り、悲しみが渦巻いている。
 しかし、如何に肉親であろうとなかろうと眼前にいる者は、
 人狼族にとって、倒さねばならない存在。それ以外の何者でもなかった。
 息子にはじりじりと一歩ずつ近付き、刀を持つ父は逆に彼が近付くと、一歩後ずさりをする。
 薄暗い部屋、そのうっすらな闇の中で息子はニヤついていた。
 変わり果てる前のような朗らかな笑顔。父は冷や汗を流し、厳しい眼差しでそれを見つめる。
 こうなってしまっては、もうどうしようもない。
 父は腹から大きくゆっくりと深呼吸をする。そして、息を止めた瞬間!
 ……それは一瞬だった。
 父は素早く、息子の懐に入り込み、一気に彼の心臓を一突きにするつもりであった。
 しかし、その思いも空しく、息子はそれ以上の敏捷さで腕を伸ばすと父の頭部を鷲掴みにした。
 父は抵抗をした。両手に持っていた刀を右に持ちかえて、足に目掛けて投げつけた。
 刀は右に太腿に突き刺さり、それが最後の抵抗となった。
 ハヤブサは父の体を天井高く持ち上げ、
 そのまま頭部を、そう、まるで林檎を手で握りつぶすかのように、強い力で砕いた。
 ベキベキと鈍い音がした後、そして実が弾け、父親の頭部はぐちゃぐちゃになって、
 身体はぐったりと畳に崩れ落ちる。林檎を握りつぶした彼の右手には赤い果汁が残った。
 それを舌で舐めとると、その部屋を後にして、再び探し始める。
 自分の愛する肉親を。母を、そして弟を。


 母子二人は、家の入り口から一番奥の父の書斎に潜んでいた。
 母は子を強く、抱きしめている。遠くから悲鳴が聞こえる。
 もう一人の息子が近付いてきているのだろう。母は思う。
 残った弟に話を聞いた。兄は一人、下弦の晩に飛び出していってしまったと。
 叱るにも弟を叱っても、しょうがなかった。弟は誘われた挙句、悩んだ末に家に残ったのだから。
 その選択は正しかったとも言える。だけども、兄の方は……。
 最初の犠牲者が彼の友人であると聞いた瞬間、胸がとても苦しくなった。
 そういう事態が起こった時点で一族全体の責任ではあるが、やはり負い目というものを感じてしまう。
 そして、息子の手に掛かって死んでしまった彼らに対して、申し訳が無い感情で一杯だった。
 今、その息子はこちらにやって来ている。恐らく、父親である夫と闘う事になるだろう。
 どうなろうとも、これ以上は犠牲は出せない。しかし、夫も敵わないかも知れない。
 しかし、その時はたとえ相打ちになろうとも、自分がケリをつけるべきなのだ。
 それが自分の産んだ子に対する責任であると。


 すると、途端に周りは静かになった。書斎は真っ暗である。
 月の光がほのかに光る以外の明かりはない。書斎のすぐ後ろに面する外の森に風が吹く。
 ササァと木の葉が揺れ、静かに擦り合う音がする。
 母は障子から辺りを見回した。
 すると、廊下からゆっくりギシギシと足音を立てて近づく、一人の影がやって来た。
 影は障子を空け、中に入ってくる。影の足元にはポタポタと血が落ちていた。
 よく見ると、太腿に刀が突き刺さっている。
 そして、彼から発する匂いは………、間違いなかった。
 目の前に立っているのは息子だ。


「母上……。」


 息子が口を開く。すると、母は彼に父親がどうなったかと問う。
 死んだと、月並みな回答が返ってきた。やはり、と母は思った。
 静かに天を仰ぎ見た。しかし、それも長くやっている暇はない。
 今は、夫の果たせなかった事を果たすのみだ。
 そして、母親は立ち上がった。


 強く抱きしめられると、母は立ち上がった。
 さっき声が聞こえた。それは兄の声だった。
 弟、ハヤテは兄が戻ってきたのだと思った。
 しかし、それは喜ぶべきものではなかった。
 母は父がどうなったかと聞き、兄は死んだと言い返す。
 沈黙がしばらくあり、そして母は立ち上がり、懐に隠し持っていた小太刀を取り出して、
 その鞘から刀を引き抜いた。一方の兄は、太腿に突き刺さる父の刀を引き抜いて、畳に投げ捨てる。
 この状況にもかかわらず、兄は笑っている。
 月が照らす光しか明かりが無いので、良くは見えなかったがその様に弟には見えた。
 母は刀を突き立て、兄に向かっていく。
 が、兄は向かってくる母を何のためらいもなく、腹部を一突きにした。
 腹部のど真ん中に突き刺さった腕が抜き取られる。そして母は、眠るように崩れ落ちていった。
 兄は腕を振り払い、血糊を飛ばす。それが弟の顔に飛び散る。その時、悪寒が走った。
 弟は感じ取った。兄は得体の知れないものと化してしまったのだと。
 すると、今度は弟の方へと兄は近付いていく。
 その足取りは一歩一歩がゆっくりとしたものであった。
 太腿の怪我のせいだろうか、右足を少し引きずりながらそれはゆっくりと。
 弟は怯えていて、なす術も無い。ただ襖にへばり付いて動くことが出来ない。
 目の前で母が死んだ。父も死んだという。多分、兄が殺したのだろう。
 逃げようようとも思ったが、足がいうことを利かない。身体はガクガク震え、涙も出てきた。
 兄はもうすぐ側まで来ていた。そして、腕を差し出すと手が弟の首に触れた。


「……………兄上!?」


 近付いてきた兄は血まみれであった。
 そのほとんどは返り血であろう。母の、父の、そして村の人々の。
 恐ろしかった。そして、弟は恐怖を覚えていた。
 自分はこれから兄によって首を絞められ、殺されるのだと。
 そして、兄はニッコリと笑い、自分の名前を囁く。

 
「ハヤテ………!」


 そして、首を絞められた。
 その血を浴びた手は首にゆっくり、ゆっくりと、少しずつ力を入れていく。
 息が詰まる。
 呼吸が出来ない。
 意識も朦朧としている。
 苦しい。とても苦しい。助けて欲しい。でも、周りには誰もいなかった。
 父も母も、もうこの世にはいないのだ。
 そして、楽になろうと力を抜こうとした。
 その瞬間。
 兄の身体に、いつの間にか数本の矢が刺さっていく。
 一体何かと、弟は意識が薄れつつもその先に見たものは、弓矢を携えた村の若衆達であった。
 兄も後ろを振り向く。しかし、その間にも次々と矢が突き刺さっていく。
 生暖かい血が矢の先から滴り落ちていく。それが弟の着物に落ち、滲んでいく。
 首を絞める力が弱まった。
 気付くと膝を突き、血まみれの兄。
 そして、そのまま弟の覆いかぶさるように倒れこみ、
 ………動かなくなった。


「兄上ぇぇぇぇぇぇ!?」


 薄れゆく意識の中で、弟は叫ぶ。
 若衆達が近付いてくる。しかし、それまで意識が持ちそうにも無かった。
 そして、彼は目を閉じて、気絶してしまう。 
 この夜、多くの犠牲者が出た。しかし、それでも被害を食い止めたのは、不幸中の幸いである。、
 その後、犠牲者を弔う村総出の葬式が行われ、ハヤテの家族も弔われた。
 彼が後から聞いた話ではあるが、弓矢を引いた者達は母と自分の護衛であり、
 母の命令で、隠れていたのだと。しかし、母が亡くなった今となってはどうしようもない。
 しかし、そのお陰で生き残れた。だから母には感謝しなくてはいけない。
 彼の様子は、今までのおどおどした感じはなくなっていた。
 これからは一人で生きていかなければならない。
 それが彼の意識に大きな変化をもたらしたようである。
 強く生きよう。
 彼はそう決心した。
 それからのハヤテは、まず勉学武道に励み、瞬く間に成長していった。
 また図らずも人望を集め、若衆の筆頭として若かりし日々を過ごした。
 そして歳をとり、いつしか人狼族の長として生きながらえていったのであった……。






       ◆





 夢から覚めると、既に日が暮れていた。


「ん……、もう、夕暮れか。」


 どうも書物を読みふけっている内に寝入ってしまっていたようだ。
 老人は背伸びをすると、首を回してコキコキと肩を鳴らした。
 時が経つのは早い。最近とみに思うようになってきた。


「しかし、今更となって夢に見るとはな……。」


 今となっては、あの事を知る者も少ない。
 しかし、未だに生々しく覚えている。
 母が死に、自分も殺されそうになった事を。そして、殺そうとしたのは実の兄であったことを。
 近いようで遠い彼方にある記憶。
 今、何故、こんな事を夢見ることが不思議ではあった。
 何かの暗示であろうか。一抹の不安がよぎる。
 外では風がさわさわと木を揺らしている。
 夕暮れの茜色が不気味に映えていた。朝からの異様な雰囲気は拭い去れていない。
 それも心なしか、徐々に強くなってきている。
 長老は、村から反対側の縁側から山肌の森を見つめた。すでに奥の方は闇に包まれている。
 そして、彼女がその森から出てきたのはその時であった。
 彼女は岩が転がるように落ちてきた。
 

「う、わ……!?」


 その森と縁側の間にある庭で彼女は止まった。
 そして、頭を抑えながらゆっくりと立ち上がる。
 長老は驚きながらもその姿を見て、それが誰なのか即座に分かり、彼女の名を呟いた。


「シロ……、おまえはシロなのか?」





 続く。



 


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