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続・卒業

ローズマリーの赤ちゃん(前)


投稿者名:居辺
投稿日時:04/ 1/20

序.
 偏光バイザー越しに見る星は瞬かない。
 宇宙に大気が無いせいだとわかってはいるが、物足りない気がする。
 見上げると、青い身体に雲を綿菓子のように、まとわり付かせた巨大な球体。
 まるで頭上にのし掛かってくるかのような地球が、ゆっくりと回転している。
 いや回っているのは自分の方か。
 いやいや、どちらが回っていてもいいのだ。
 ここでは全てが相対的なのだから。
 まったく。先週まであそこにいたなんて信じ難いな。

 船外活動中にぽっかり空いた手空きの時間。
 ぼんやり景色を眺めてたら、インカムに作業に集中するようにと、指示が飛んできた。
 視線をシャトルに戻すと、マニュピレータが光電池のパネルをつかみ上げた所だった。
 そのマニュピレータの、アームの一番高い位置にある、関節の向こう側。
 そこで確かに、星が瞬いていた。

 スペースデブリ(宇宙ゴミ)の一つが衝突コースに乗っているのだ。
 何年か前に、日本のGS(幽霊退治屋だ)がロシアから打ち上げたロケットが、帰還時に切り離した外壁だとか。
 そんなことをして、よく無事だったと思うが、乗員は全員無事。
 大気圏突入時に燃え尽きるどころか、火傷一つ負わなかったそうな。
 噂では乗員の一人が外壁切り離し時に、帰還ポッドから地上にダイブしたんだとか。
 むろん信じちゃいないが。

 デブリの姿が少し大きくなってきた。
 デブリの、国際宇宙ステーションに対する相対速度は、非常に遅く、ジョギング程度だと地上からの連絡にあった。
 故に心配いらないが、可能なら回収するようにとの指示が付いていた。
 後々、事故の原因になるかも知れないからだ。
 確かに、小さい物の多いデブリの中では、巨大と言っていいサイズだ。
 機会さえあれば、取り除いておくのが安全だろう。
 もちろん不可能なら、ステーションごと回避してやり過ごすことになるが。

 作業を中断して、回収用のネットを用意するようにと指示がきた。
 地上コントロールが、デブリの回収を決断したのだ。
 急ごしらえのネットをステーションの外壁にセットして、中に戻らなければならない。
 あらかじめ用意しておいたネットを、マニュピレータの力を借りてセットする。
 そこはこれから光電池を設置するはずの場所で、本体から一番遠い場所だ。
 ネットは中心に物体を捉えると、物体の運動エネルギーを利用して、閉じるように設計されている。
 捕まえた獲物を逃がさないようにするためだが、作成には非常に苦労した。
 元々そんな用意はしていなかったから、有り合わせの物で作るしかなかったのだ。
 設置が完了し、ネットを支えるパイプを、宇宙服の分厚いグローブで軽く叩いた。
 少々やわな気がするが、設計上は問題ないそうだ。
 あとはステーションに戻って、獲物が掛かるのをじっと待つだけだ。

 中に戻る途中、もう一度デブリを見上げる。
 さっきより、だいぶ近づいたようだ。
 デブリが回転してるのさえ、見える気がする。
 するとさっきの瞬きは、デブリが回転しているせいだな。
 扁平な物体が回転しているから、反射される光の量が変化するのだ。

 エアロックに入ると、内部ハッチを閉じたまま身体を固定する。
 完全に中へ入るわけではない。安全のために待避しただけだ。
 この後も仕事が山ほど残っている。再び減圧する手間はかけられない。
 水を一口飲んで乾いた唇を湿らせた。

 地上コントロールからのカウントダウンが聞こえている。
 ここからでは外の様子はわからない。
 地上との交信とカウントダウンだけが、ぼんやりと様子を伝えている。
 カウントダウンが残り50を切った頃、急に地上とのやり取りの口調が激しくなった。
 外に設置されているカメラが、デブリの姿を捉えたらしい。
 残念ながらカメラの位置が悪く、一瞬しか映らなかったようだ。
 生き物の死骸とか化石とか言っているが、見間違いだろう。
 ほら、地上コントロールもそう言ってる。

 地上コントロールがゼロを読み上げる。
 かすかな衝撃の後、ステーションがゆっくりと回転運動を始めたのがわかる。
 直ちに姿勢制御バーニアが点火され、ステーションを元の軌道に押し上げる。
 軌道が安定するまで数分。
 呼吸を数えながら、このあとの作業手順を頭の中で復唱する。
 ヘルメットの内側に、かすかに、汗で湿った靴下の臭いがした。

 ネットの様子を確認しに行くようにと、指示が聞こえてきた。
 エアロックを外へと抜けると、外壁を慎重につたって、ネットまで戻る。
 ネットは、ハエを捕まえた食虫植物のような姿になっていた。
 二つ折りになったシートが膨らんでいる。
 捕獲成功と言うわけだ。

 ネットの近くで安全索を固定すると、ネットに両手をかけて引っ張る。
 なんだか漁師になった気分で、大漁節でも歌いたくなってきた。
 ゆっくりと開いていくネット。
 肩幅ほど開いた所で、中の様子を確認しよう。
 音はしないが、軋むパイプの感触が手に伝わってくる。
 そろそろかな。

 ヘッドライトに照らし出された、焼きすぎたピザパイのような黒焦げの扇形。
 確かに、これが切り離されたという外壁に間違いない。
 裏側に何かあるようだ。
 断熱シートが剥がれたのだろう、灰色の切端がのぞいている。
 まるで何かの尻尾のようにも見えるが気のせいだ。

 だがそうではなかった。
 何気なく外壁をひっくり返してみると、目が合った。
 真っ黒な目がたくさん付いた、サメみたいな牙の生えた化け物。
 肉食の深海魚を思わせる、生物の化石を前に絶叫する。
 インカムから、何事かと問い合わせてきているが、知ったこっちゃ無い。
 こんな化け物が宇宙にいるなんて聞いてないぞ!?

1.
 ゆっくりと、水面に浮き上がるかのように意識が戻ってきた。
 反射的に起き上がろうとするが、体が言うことを聞かない。
 手を額にやってため息をつく。
 生きて帰れただけでもメッけもんかねェ?
 生き延びるために力を使いすぎてしまった。
 立ち上がることをあきらめて、メドーサは暗い天井を見上げた。

 大気圏突入寸前の美神達に襲いかかったメドーサは、あえなく横島に排除され宇宙空間を漂うことになった。
 何もない宇宙空間で、生き延びるためにとった方法。
 それはビッグ・イーターの腹の中で眠ること。
 軌道をめぐりながら、誰かに拾い上げてもらうのを待つ。
 非常に分の悪い賭けだった。
 ビッグ・イーターごと大気圏に突入して焼き尽くされるか、永遠に宇宙をさまようことになる確率がほとんど。
 一瞬にして焼け死ぬか、徐々に霊力を使い果たし、最後は消滅するか。
 二つの死の狭間に残された、ほんのわずかな生の可能性。

 経過はどうあれ、生き延びた。
 それだけは確かなようだ。
 メドーサはうつ伏せになると這い始めた。
 役目を終えたビッグ・イーターの皮がしわくちゃになっている。
 足首に絡まりついたそれを、蹴飛ばして前へ進む。
 伸ばした指先がへりをつかんだ。
 なけなしの力を込めて体を引き寄せると、下を覗き込む。
 暗くて何も見えない。
 舌打ちすると同時に、暗視能力さえ使えなくなっていることに気づいた。
 どれくらい若返ってしまったのだろう。
 メドーサは自らの身体をすばやく探り始めた。

 顔はやたらと大きく、丸くなっているような気がする。
 胸はペタンコ。手足もやたらに短い。
 闇の中に手をかざして、その大きさを見定めようとする。
 かなり小さいようだ。
 すると、顔が大きくなったように感じたのは、手が小さくなったからか。
 不安に駆られて、頭に手をやる。
 そこにあるのはふさふさの髪ではなく、ぽわぽわの産毛だ。
 赤ん坊になっちまった。
 メドーサは途方に暮れた。

 いつまでも途方に暮れている場合ではなかった。
 今にも誰かがやってくるかもしれない。
 もしビッグイーターと自分の関係に、感づかれれば後々面倒だ。
 意を決して、メドーサはへりを乗り越え、空中に身を預けた。
 体重が軽くなっているせいか、身体への衝撃は大したことはなかった。
 ただ首の筋力が弱っていたのか、頭をしたたかに打ってしまった。
 小さな手で頭を抱えて、うめき声を必死にこらえる。
 鼻の奥がツンとなって涙がでてきた。

 そういや、この前泣いたのは何時だったっけ?
 メドーサは痛みが引くのをじっと待ちながら、ふと思った。
 ここ最近では思い出せない。あったとしても遥か昔のことだ。
 そう、遠い昔。少女だったメドーサのほほを打った手のひら。
 そっとかぶりを振って、苦笑いする。
 思い出すものではない、母のことなどは。

 自分が赤ん坊になってしまったので、母親を連想してしまったのだろうか。
 それとも、アタシも女だったってことかねェ?
 自嘲気味につぶやこうとしたその言葉は、力の入らない口元のせいで意味のない音を並べただけになった。
 赤ん坊ってのは不便なもんだね。
 緩んだ口元から溢れ出るよだれを、どうにかしたいのだがどうにもならない。
 リノリウムの床に湿った線を描くようにして、メドーサは這って行った。
 まずは壁を、そして出口を見つけなければならない。

 わずか数メートルの距離を、メドーサは何度も休みながらゆっくりと進んで行った。
 この身体はハイハイをするにはまだ早すぎるようだ。
 肘や膝、胸から腹にかけてヒリヒリと痛む。
 あちこち擦りむいたかもしれない。
 何度もあきらめかけて思い直し、体を前へと引きずっていく。
 ようやく扉らしき感触を伸ばした指先に感じたとき、メドーサは叫び声をあげていた。

 ドアにもたれかかるようにしてようやく身体を起こす。
 ドアノブのあたりに向かって手を伸ばした。
 見つからない。反対側かもしれない。
 すでに涙とよだれと汗で、体中びっしょりとぬれてしまっていた。
 今にも尻餅をついてしまいそうな震える足に、必死に力を込めて身体をずらしてゆく。
 身体が滑って床に倒れ込んでしまいそうだ。
 ドア一枚分の幅を横に移動するだけに、ありったけの努力と忍耐が必要だった。
 無理な体勢を強いられた体中の関節が、バラバラになりそうだ。

 ようやくたどり着いて手を伸ばすがそこにもない。
 絶望的な思いに駆られながら、見えない上を見上げる。
 そこにあるはずのドアノブは、気の遠くなるほど遠くに感じられた。
 無力感とともにメドーサの身体は、尻餅をつくようにして床に倒れて行った。
 神竜の血を引くアタシがこのざまかい?
 メドーサはあきらめた。
 そして同じ状況におかれた赤ん坊ならするであろうことを、泣き声を上げ始めた。

2.
 ふと気がつくと、ローズマリーは赤ん坊のことを考えていた。
 生まれることのできなかった赤ん坊。
 私の赤ちゃん‥‥。
 誰にも頼らず、たった一人で生み育てようとしたのに、不注意で流産してしまった。
 平らになってしまったお腹を撫ぜると、後悔の思いが目の前を暗くする。
 これではいけない。
 わかっているはずなのに。

 今日はハロウィーン。
 子供のためのお祭りだ。
 子供のいない独り者でさえ、童心を思い出さずにいられない。
 そんな訳で、同僚達はすまなさそうにしながらも、早々に帰っていってしまった。
 いつもならローズマリーもパーティーにでかけるところ。
 でも、今年は一人ですごしたかった。
 幸い仕事はいくらでもあった。

 強がってみたものの、一人でいるとどうしても考えてしまう。
 無念の思いを振り払って、ローズマリーは新しい資料を開いて読み始めた。
 液晶モニタに映し出されたそれは、休んでいる間にメールされたものだ。
 メールの冒頭には”極秘”と大きくでていて、これから明かされる秘密に期待が盛り上がる。
 内容は国際宇宙ステーションが偶然獲得した、異星の生命体と思われる化石について。
 簡単な話だけは聞いていたが、たまった仕事を片付けるのに忙しくて、そちらにまで注意を向ける暇がなかった。

 本当なら一番にみるべきだったのだろう。
 なんと言っても大発見なのだから。
 以前あった、細菌の痕跡と称する電子顕微鏡写真とはわけが違う。
 体長5フィートを超す異星の生物の化石。
 それがこの部屋から十数ヤードを隔てた、実験室におかれているとは。
 そんな物を目にする日が来るとは思わなかった。

 サムネイルをクリックして、化石の写真を開く。
 その姿には、生きたまま石と化したかのような迫力があった。
 大きく開いた口。乱杭の鋭い歯。
 今にも動き出して噛み付かれそうだ。
 生理的嫌悪を感じる。
 骨だけなはずの化石に、細かな鱗に覆われた体表や、眼球までが残っていたからだ。
 悪趣味な彫刻だと、言われれば信じてしまいそう。
 まるでギリシャ神話ね。
 その顔を見ただけで、石に変えられてしまうという魔人。
 名前はなんと言ったっけ?

 気を取り直して、ローズマリーはじっくりと写真を眺めた。
 たてがみ状のひれや、身体に比べて大きすぎる頭部。
 クモ類の眼を思わせる器官。
 肉食恐竜のような牙。
 なんだか地球の生命のキメラ(複合体)みたいにも見える。
 もしかしたら太古の地球の生き物かもしれない。
 先入観を持って事に当たれば失敗することはわかっているが、ローズマリーはそんな印象を強く持った。

「まだ残ってるのかいロージー?」
 背後からかけられた声に、ローズマリーの心臓が跳び上がった。
 夢中になりすぎて、ドアの開く音が聞こえなかったようだ。
 見るとドアのところから、男が肩から上を突き出している。
「そうよビリー、仕事がたまってるの」
 ローズマリーは用心深く答えた。
「あんなことがあったんだ。しばらくは無理しない方が‥‥」
「ありがと。でも仕事をしてる方が気がまぎれていいわ」
 ローズマリーは素早くさえぎった。

 ビリーは公平に見てハンサムな男だった。
 頭脳は優秀。快活で人受けもいい。
 そんな男がどうして、こうも付きまとうのだろう。
 夫がまだ生きているあいだですら、何かと近づいてきては身体に触ろうとしてた。
 夫を亡くした夜に訪ねて来て、慰める振りをしたときには横っ面を思いっきり殴りつけたことさえあった。
 そのときに二度と近づくなと言い渡した。
 ビリーも承服した。
 にもかかわらず、ビリーは事あるごとに近づいて来ようとする。

 一度は裁判に訴えようとしたが、上司にやめてくれと懇願されてしまった。
 彼の家から出ている寄付金無しには、この研究所はやって行けないのだそうだ。
 ならばと辞表を叩き付けたが、退職をズルズルと先延ばしにされて、今日まできてしまった。
 近頃では少し考え方を変えて、うまくあしらって行けるかもしれないとさえ思っていた。
 何と言ってもここは自分のキャリアにとって、申し分の無い職場だったから。
 要は隙を見せなければいいと。

 そして夫の子を妊娠していることが判明、その後自動車事故に巻き込まれ、流産した‥‥。

「どうだい、これから二人で食事でも?
 どうしてもと言うなら、食事のあとで君を送るよ」
「必要ないわ」
 ローズマリーはテイクアウトの中華の入った紙の箱を掲げてみせた。
「私にかまわないでちょうだい。お願いだから」
 言った途端に後悔した。
 ”お願い”なんて言葉を使ってはいけないのだった。
 ビリーに付け入る隙を与えるようなものだ。
「いい物を持ってきたんだ」
 案の定、ビリーが扉を大きく開いて入って来ようとしている。

「近寄らないで!」
 ローズマリーは後ずさりした。
「15フィート以内に近寄らない約束よ」
 ビリーがきまり悪げに、踏み出しかけた足を引っ込めた。
「わかってるよロージー、でも俺の気持ちだって少しくらい‥‥」
「このことについてもう議論するつもりはないわ」
 ローズマリーはなるべく冷たく聞こえるように言い放った。
 少しでも隙を見せれば、この男はさらに近づこうとするだろう。

 悲しげな表情でビリーが肩をすくめた。
「そうだったな、悪かった。でもこれを見てもらいたかったんだ」
 ビリーが手に持ったものを放り投げた。
 それが凶器であるかのように、ローズマリーは身をかわす。
 足下で黒い棒状の物がカランと音をたてた。
 ビリーの顔が一瞬歪む。
「化石の透過写真だ。
 明日サーバーに上げるつもりだったんだが、君は興味があるだろうと思ってね」
 ビリーは叩き付けるようにドアを閉めると去って行った。

 ビリーの足音が遠ざかるのを待って、床に転がったメモリーをティッシュ越しにつかむ。
 かすかに湿ってる気がする。
 大丈夫、気のせい。
 言い聞かせながら目の前に持って行く。
 USBに差し込むタイプのメモリーだ。
 もしウィルスが仕込まれていたらどうしよう。
 ローズマリーは用心深く考えた。
 あいつはどんな嫌がらせでもしかねない男だ。
 普段ならこのままゴミ箱へ直行なのだが、彼の話が本当なら見ておきたい。

 少し考えてイーサネットケーブルを引き抜いた。
 これならウィルスに汚染されても、サーバーまで被害は及ばない。
 仕事に必要な物はすべてサーバーにあるから、このマシンがやられたところで何の被害もない。
 せいぜいディスクをイニシャライズして、OSを再インストールする手間がかかるだけだ。
 さっそくスロットにメモリーを差し込んで、メモリーの中を開いてみた。
 中には写真ファイルがいくつか。
 ローズマリーは順番に見て行くことにした。

 モニターに浮かび上がったモノクロームの映像に息をのむ。
「何なの、これ‥‥?」
 全身の透過写真だ。
 しかしあるべきもの、骨格が写ってなかった。
 輪郭だけがボンヤリと映っている。
 そんなはずは無い。骨格が無ければあんな口元にはならないはずだ。
 これでは中身の無い空っぽということになる。
 そして体内の白い影。
 何だろう、撮影ミス?
 ビリーがミスをそのままにするとは思えない。
 不審な点を保留して、ローズマリーは次の写真を開いた。

 ビリーも気になったのだろう、白い影を拡大した写真が次に映し出された。
 見た瞬間、ローズマリーは眉根を寄せた。
 白い影、その輪郭が人間の赤ん坊のように見えたのだ。
 一度目を閉じて、自分に落ち着けと言い聞かす。
 あり得ない。見間違いに違いない。
 眼を開くともう一度じっと見つめる。
 それでも赤ん坊、いや胎児のように見える。
 ローズマリーは口元を押さえ、叫びだすのをこらえた。

 そうだ。ビリーの嫌がらせに違いない。
 コーヒーを入れたカップを引き寄せて両手で握りしめた。
 思った通りだ。
 あいつは私を追い込んで屈服させるつもりなんだ。
 流産したばかりの私にショックを与えて、その隙に近づこうという魂胆に違いない。
 背筋に寒気が走った。
 ビリーは帰ったと見せかけて、この部屋をそっとうかがっているはずだ。
 物陰に隠れたビリーの息づかいが聞こえる気がする。
 いや、扉の向こうに立っているかもしれない。

 眼を閉じて息を吸い込み、ゆっくり十数えた。
 ゆっくりと息を吐き出し、眼を開ける。
 大丈夫、パニックは起こしてない。
 バッグの中から銃を取り出し、装弾を確認する。
 護身のためだ。そのつもりは無いがビリーの出方次第では必要になるだろう。
 扉の向こう側の気配を探ると、ノブに手をかけた。
 どうせそのうち対決しなければならなかったのだ。
 だったら今すぐ決着をつけてやる。

3.
 廊下は静まり返っていた。
 誰もいない、真夜中の研究所。
 照明の落とされた暗い廊下が、ローズマリーの前後に続いていた。
 非常口を示す陰気な明かりが、冷たい床に反射している。

「ビリー! 居るんでしょっ!? 出てきなさい!」
 ローズマリーの叫びは自分にも、ヒステリックに聞こえた。
 闇の向こうで、何かがうごめく気配を感じる。
 ビリーの姿ではないかと眼をすがめる。
 わからないまま近づいてゆくと、気配は嘘のように消えた。
 気のせいかと立ち去りかけたとき、小さな声が聞こえて来た。

 暗闇の向こうから聞こえてきたのは靴音だ。
 息を殺して聞き漏らすまいとするが、すぐに靴音はやんでしまった。
 小走りの自らの靴音が邪魔になって、ローズマリーはハイヒールを脱いだ。
 スニーカーを履いてくればよかったと、思いながら裸足で歩いて行く。
 私はもう大丈夫。自分にそう言い聞かせるように、今日はハイヒールにしたのだ。
 女性としてのプライドを甦らせるために。

 あの程度で逆上しそうになったくせに。
 ローズマリーは自嘲した。
 そんな簡単に立ち直れるものでないことは、カウンセラーからも聞いていた。
『しばらくのあいだ仕事を休みなさい』
 カウンセラーはそう主張した。
『なんなら家に来てしばらく過ごすといいわ』
 身寄りの無いローズマリーのために、そこまで言ってくれたのだ。
 それを振り切るようにローズマリーは出勤した。
 自分に残されているのは仕事。
 そう信じて。

 靴音のしたあたりに、そっと近づいて行く。
 相手に悟られないよう慎重に。息を押し殺して。
 ビリーは絶対にこちらを誘っているはずだ。
 必ずまた物音を立てるはず。
 今度はその先を読んで捕まえてやる。
 どんなわずかな音も逃すまいと、ローズマリーは耳をそばだてた。

 しばらく待ったがもう音は聞こえなかった。
 もうビリーは近くには居ないのかもしれない。
 この先には確か階段があったはず。
 昇るか降りるかして別の階に居るのだろうか。
 階段の前でローズマリーは躊躇した。
 自室からかなり遠くまできてしまった。
 今更ながらビリーの挑発に乗ってしまったことを後悔した。
 どんなに頑張ったところでビリーの足にかなうはずが無い。

 向こうからこちらに来させるべきだったのだ。
 あきらめて部屋に戻ろう。
 手に持ったハイヒールをあらためて履く。
 靴音を響かせて、ローズマリーは廊下を戻って行った。
 どこかで聞いてるに違いないビリーに聞かせるように。

 自室に戻る途中には実験室があった。
 宇宙から持ち込まれた化石は、厳重な検疫を終えて、この部屋に安置されているはずだ。
 ローズマリーは閉ざされた扉を、一瞥して通り過ぎようとした。
 すると、耳をかすめる小さな音が聞こえた。
 ローズマリーは立ち尽くした。
 かすかな、甲高いうなり声。
 普段なら気づきそうもない、かすかなうなり声だった。

 ビリーだろうか。
 そっと実験室の扉に耳を当てる。
 不意にその声が泣き声だとわかった。
 母親を求めて泣く、赤ん坊の泣き声だ。
 真夜中の研究所に赤ん坊の泣き声。
 ローズマリーの脳裏に、さっき見た写真の映像が浮かび上がる。
 赤ん坊のような形の白い影。
 まさかあれが泣いてるのだろうか。

 出来の悪いホラーみたいだ。
 念の入ったことに実験室だ。
 あれはビリーの嫌がらせ。
 自分に言い聞かせながら、そっと手をドアノブにかけ、勢いよく開いた。
 くぐもった泣き声が鮮烈なものにかわる。
 すぐ足下だ。

 録音やビリーの声色でないことはすぐにわかった。
 逃げ出したい衝動を抑えて、中に踏み込まないように照明のスイッチに手を伸ばす。
 一瞬の後、明るくなった実験室の床に転がった血まみれの赤ん坊。
 まるで今産まれたばかりみたい。
 膝の力が抜けて行く。
 座り込みながら、ローズマリーは悲鳴を上げるのを、自分で止められなかった。

 あおむけの赤ん坊は力なく手足を動かしていた。
 あちこち擦りむいていて、血が滲んでいる。
 動悸が収まると、ローズマリーは赤ん坊におずおずと手を伸ばした。
 素裸の赤ん坊。女の子だ。
 指先に感じる柔らかな肌。
 とするとこれは夢ではない、本物の赤ん坊だ。

 そっと抱き上げると、床に触れていた背中が冷たい。
 どこかに隠れて見ているはずの、ビリーに小さな声で毒づく。
 嫌がらせのために、こんなことをするなんて信じられない。
 ローズマリーはブラウスが汚れるのもかまわずに、赤ん坊を胸にかき抱いた。

4.
 メドーサはチャンスが近づいてきたことを知った。
 この女から霊気を吸えば失った力を取り戻せる。
 女の首筋に牙が食い込むところを想像すると、楽しみで仕方がない。
 蛇神であるメドーサにとって、女の身体は暖かすぎて気持ち悪いがそれは我慢しよう。
 今はまだ体が思うようにならないが、待っていれば必ずチャンスが訪れるはずだ。
 そのうち。歯が生えたら。

 温かな腕に包まれたメドーサは、そんなことを考えながらうとうとし始めていた。
 女の身体からにじみ出る霊気が、少しずつメドーサを回復している。
 元の体格にまで回復するには全く足りないが、少なくとも生き残る目処がついてきた。
 安心したのと、疲れもあって急に眠くなってきた。
 次第に遠くなって行く意識を、快く感じながらメドーサは眼を閉じた。

 赤ん坊が自分の胸の中で、微笑みを浮かべ目を閉じる。
 それを眺めるのがどれほど幸せなのか、ローズマリーは実感していた。
 またそれと同時に一抹の寂しさも。
 この子が自分の子だったら‥‥。
 赤ん坊の頬を指先でそっとなぞりながら、ローズマリーの心はさまよっていた。

「やあ、ロージー。鬼ごっこは終わりかい?」
 背後から一番聞きたくない声が聞こえた。
 せっかく眠りかけたのに、赤ん坊がむずかっている。
 ローズマリーが体を揺すってしまったせいで、眠りかけたところを邪魔してしまったのだろうか。
「ビリー‥‥」
 自分でも驚くほど落ち着いていた。
 赤ん坊を気遣いながら立ち上がると、ローズマリーはゆっくりと振り向いた。
 ビリーは、両手をスラックスのポケットに突っ込んでニヤニヤしている。

 ビリーは、もはやその悪意を隠してはいなかった。
「悪いけどその赤ん坊は、こっちに渡してもらうよ。
 君はゲームを放棄したんだから、景品は諦めてもらわないとね」
「ゲーム?」
「そうさ。君が俺を捕まえれば君の勝ち。俺が君を捕まえれば俺の勝ち。
 君はゲームを放棄したから当然負けだ。
 負けた君には罰ゲームを進呈しよう」

 ローズマリーは静かに口を開いた。
「だったら私も言わせてもらうわ。
 あんたは私の警告を無視した。
 あんたの神経を逆撫でするような行為で、私はどれほど傷ついたか知れない。
 これ以上の嫌がらせは絶対に容認できない」
 ローズマリーが思った以上に冷静なので、ビリーは当てが外れたと思ったらしい。
 下唇が突き出てきた。

 ビリーから目を話さないまま、ローズマリーはあくまで冷静に先を続けた。
「選びなさい。
 私とこの子をこの場から立ち去らせるか。
 あんたがこの場から立ち去るか。
 それ以外の選択肢は認めないわ」
 ビリーの下唇はますます突き出て、白くなった粘膜が見える。

 ビリーの目に狂気がきらめいた。
「バカ言うな。こっちの罰ゲームの方が先だぞ!」
「あんたの馬鹿話につきあうつもりはないわ!!」
 ローズマリーは銃を構え、ビリーの胸に狙いをつけた。
 粘り着くような視線が、震える銃口を見つめ、あざ笑う。
「お前が撃てるはずないさ、ロージー。人を撃ったことないだろ?」
「ええ、撃ったことは無いわ。でも、あんたがきっかけをくれれば必ず撃つ」
 ローズマリーは容赦なく言った。
「それで充分、正当防衛が成立するわ」

「手を挙げて。中に入って向こうの壁まで行くのよ。
 ゆっくりとね。
 ちょっとでもおかしなことをしたら撃つから」
 ローズマリーが顎で示すと、ビリーが苦笑いしながらゆっくりと入ってくる。
「待って。手を挙げてと言ったはずよ」
 ビリーの両手はポケットに入ったままだった。
 ビリーが面倒臭そうに両手を引き抜くと、ポケットから何かが落ちた。
 ローズマリーが思わずそれを目で追った瞬間、部屋の照明が消えた。

 ローズマリーは何が起こったのかわからないうちに、床に押さえつけられてしまった。
 仰向けになったローズマリーの腰を、ビリーの両膝がガッチリと締め付けている。
 銃を持っていた手を床に叩き付けられ、銃はどこかは飛んで行ってしまった。
 叩き付けられた肩と腰が痛む。
 だが、ローズマリーは自分の痛みよりも、赤ん坊が心配だった。
 首も座っていない生まれたばかりの子なのだ。
 かろうじて両腕で抱えていたが、こんなに激しく揺すぶられては、首が折れてしまったかもしれない。

 ビリーの胸を押しのけようと力を込めると、ビリーの両手がローズマリーの首にかかった。
「おとなしくしろ」
 ビリーが冷酷にささやく。
「できれば生かしておきたいからな」
 廊下から差し込む常夜灯の明かりにビリーの姿が浮かび上がる。
 その背中に何かぐにゃぐにゃした腕のようなものがうごめいていた。

「邪魔だな」
 そう言いながらビリーは、赤ん坊をローズマリーの手から奪い取った。
 赤ん坊の弱々しい息づかいを感じて、安堵とともに怒りが込み上げてきた。
「赤ちゃんに乱暴しないでッ!!」
 ローズマリーは叫んだ。
「お前次第だ」
 赤ん坊を脇に置いて、ビリーはローズマリーのブラウスの襟元に手をやった。
 その意図がわかったローズマリーは、阻止しようとビリーの腕をつかむ。
 するとビリーの背中の軟体動物の腕が伸びてきて、ローズマリーの腕に巻き付いた。
 白い半透明の、死んだイカの足のようなそれは、氷のように冷たく濡れている。

 悲鳴を上げるローズマリーの口は、新たに伸びてきた触手によって塞がれてしまった。
 両腕を左右に引き延ばされ、もう何の抵抗もできない。
 足をばたつかせても、ビリーの体はびくともしなかった。
 ビリーの手がローズマリーの胸をなで回す。
 あまりの屈辱と不快さに、ローズマリーは痙攣するかのように体をよじった。
 ビリーが含み笑いするのが聞こえる。
 溢れ出た涙が、こめかみを伝って流れ落ちた。


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