――ホムラオサエテ――
既に、礼拝堂の中には闇が落ちていた。
その中に、灯火と言える物はない。ただ暗いだけの、虚ろの巨跡。既にこの場が目的としての役割をはたしていない以上。この闇は今、死んでいる――
ピエトロは長椅子に座っていた。――闇の中。
(……ひのめ……ちゃん――)
無言で、右手に持ったウイスキーの瓶を呷る。瓶の口から直接口内に流れ込んでくる熱い液体が咽喉を灼く。既にヨレヨレになったスーツに飛沫が飛び、新たなシミをそこに刻んでゆく……
「ク……ソッ!」
そして……叩きつける。
床に叩きつけられた瓶は粉々に割れ、残っていた中身を辺りに盛大にぶちまける。金色の飛沫が暗中に煌き、瞬間、星のように輝いて消える……
(結局……何もかもが無理な事だったんだ……!)
少なくとも……そう、自分にとっては。
「――誠……」
彼。そう、彼。
自らの過去。――そして、そこに至る経緯の上での現在の自ら。
――その、体現としての存在。
「――誠……」
彼は……そう、西条誠は非常に行動的な人物であった。高校卒業後、その日の内にピエトロにGSとしての教えを請いに来たのは、決して彼の父の為だけでもないだろう。
……だが。
「どうするつもりなんだよ……」
ウイスキーの強烈な匂いが、密閉された暗闇の中に立ち込めている。
鼻腔から押し入り、脳を磨耗させるそのアルコールの霧さえもまた、独り座るピエトロにとっては埒のない事ではあった。関係ない――どうせ、自分はどうにもならないのだから。
「……ひのめちゃんを……どうするつもりなんだ……? それで――お前の気が晴れるのか……? 僕に――どうしろって言うんだ…………!?」
拒む事は、出来なかった。
――恐らく、誠が向かった先はナルニアであろう。目指す人物は、美神公彦。稀代のテレパスであり、美神令子、ひのめ姉妹の父親でもある。
そして、恐らく現在のひのめの居場所を知る男。
「――誠……」
現在のひのめの居場所は、ピエトロにはわからない。何処で何をやっているのか――それこそ、もしかしたら未だにナルニアに住み暮らしているのかも知れない。
――知ろうとも、思わなかった。
少なくとも――そう、彼女は、確実に『生きている』のだから。
彼女の『死』に対する重石。――今まで生きてきた“生”を吸い取ったという感情。――全て、かつてのピエトロ自身が植え付けた物だった。
「植え付けた……か」
思えば、残酷である以上に卑怯な事であった。
今の自分は何をしている?
恐らく自ら以上に世を忌んでいるであろう彼女に対し、自分は無責任に死を禁じた。――師、唐巣の遺言であるとして。……それならば、何故、自分は今の彼女を“知らない”のだ?
「――誠、ひのめちゃん…… 僕は無責任な男だよ。もう、何をする気力も萎えてしまった……」
生きる。それだけ。
金髪のヴァンパイア・ハーフは、それでもなお独白を続けた。
★ ☆ ★ ☆ ★
ひのめには、そこは何処からどう見ても生活区域に見えた。
時間的には、午前零時。基本的には既に街そのものが寝静まっている時間ではあるが、経済地区たる香港島辺りまで仕事に行っているサラリーマンらは、この時間になっても未だ家路を急いでいる最中である。その事実を考えると、それを解っていながらこの仕事を取って来た伊達の、眼に見えぬ思考が手に取るように解る。
(要するに……アンタはアタシを明弘君みたいにしてスパルタ教育したいんだろ……?)
隣で肉まんを頬張るパピリオに気づかれないよう、密かに嘆息する。
旺角(モンコック)地区。事務所がある尖沙咀(チムサーチョイ)地区からは、ネイザンストリートに沿って七百メートル程であり、極めて近い。――その経済区の、裏側。
何処にでもある、街の裏側。美々しくネオンが散りばめられた表面からやや離れた、燈火の少ない地元人の空間。――既に香港で暮らして半年余りになるが、未だにこの空気には馴れる事が出来ない。
剥がれ落ちかけた託児所の看板が、年月の重みに晒されて朽ちている……
「……? どしたの、ひのめちゃん?」
その錆びた薄い鉄の塊に漠然と流していた意識が、隣のパピリオの一言で現在へと立ち返る。――肩に掛けられた手に、思わずビクリとした事も否定出来なかった。
「……な、何でもない……」
「嘘」
「う……」
一言で返され、ひのめは言葉に詰まった。遠くの方にある消えかけた街灯の光が、断続的にパピリオの顔を白く照らす。
再び、唇を開く。
「何でも……ないわ。本当に――」
「…………どーでもいいけど、私は一応神界からのひのめちゃんの監視人なんだからね? ひのめちゃんが何か変な事したら、小竜姫のお仕置きは私に向けられるんだから…………」
こちらを向かないまま言葉を投げた後、その光景が眼に浮かんだのか、かぶりを振った。――そのパピリオの動作も、結局は『仕事』に起因するのか――
パピリオには姉がいるらしい。――詳しくは知らないが、今現在は魔族の軍に所属していると言っていた。
――そういえば、パピリオ本人は、何故神族の領域である妙神山にいたのだろうか――?
その、当たり前といえば当たり前すぎる疑問を持った事も、過去にはあった。――結局は、本人の口から出た現在の神魔界の情勢――“デタント”という奴だ――によるものであるという事に納得したのだが……
(パピリオは……神魔の者か――)
ひのめにとって、直接的に接した新魔族は数人しかいない。それは小竜姫であり、斉天大聖であり、そして、パピリオその人であった。
彼女らは、自分にとって優しかった。――だが、彼女らの所属する体制は、自分にとって優しくはなかった。
――そして彼女らは、その体制に逆らう事が出来ない。この世の秩序を保つという事を存在意味にする以上、どんな事をしても彼女らは、『この世』そのものの維持に反する行動は取る事が出来ないのだ。
(そしてアタシは――『この世』の維持には最も反する存在……か)
その意味では、妙神山での三年間は、自分にとって一体なんだったのだろうか。
「……ひのめちゃん……!」
「――!」
その声は、ひのめに再びの驚愕を与えるには充分すぎた。自らの心臓が、まごう事無く『ビクリ!』という音を立てた事を自覚する。
「……やっぱ、おかしいよ?」
むしろ、パピリオの表情は心配げですらあった。――今度は、その困惑の表情はしっかりとひのめを向いている。
――そこに、言いようのない苛立ちを覚える……
「何でもないの! 状況は!」
手を振り、眼前の建物を睨む。
かつての託児所。――恐らくは、今もまだ。さしずめ、悪霊たちの託児所ででもあるのだろうか。……この場所に幽霊の存在が報告されたのは四日前。複数の幽霊は、現在もまだ建物内に居座りつづけている――
「………………霊気はそんなに強くないけど、数が多いように思える。――中途半端な状態で行ったら、大怪我じゃ済まないよ……?」
「体調は万全よ」
吐き捨て、ひのめはナップザックを下ろした。
ザックの中から破魔札を取り出し、腰のストッカーに入れる。―― 一応の予備だ。恐らく、“力”を使えばこの程度の悪霊は一網打尽にする事が出来る。
(“力”……か)
ふと……嘔吐感がこみ上げて来るのを感じた。――自分はこの“力”を忌んでいる。……だが、現実に自分はそれを利用しようとしている――
矛盾。限りない、矛盾。
「……ひのめちゃん……」
「行ってくるわ」
足を踏み出す。
振り返る事はしなかった。
★ ☆ ★ ☆ ★
建物の中は暗かった。――夜間である故、当たり前の事ではあるのだが……それでも神経はささくれ立つ。腰の破魔札のストッカーへと伸びる手が、自然に破魔札の束を握り締める。
(いる――)
ひのめの感覚は、上下左右、全ての方向からの霊気を感知していた。――それは建物内が既に人たるモノの住処ではなく、人ならざるモノの領域に堕している事の証明に他ならない……
精神集中。――暗闇の中で、徐々に悪霊一体一体の形状が読み取れるようになって来る。
破魔札を握り締めた手は、細かく震えていた。
「……来なさいよ」
短く、叫んだ……
★ ☆ ★ ☆ ★
――遅い。
その建物は、何処からどう見ても古かった。恐らく、既に築られてから五十年は経過しているであろうし、それだけのガタつきも見えている。
周りには、既に結界が展開してある。
その結界の外側。――焔の射程範囲外から建物を睨み、パピリオは数度目の焦りの言葉を、口中で反芻した。――遅い。
既に、ひのめが建物内に入ってから十数分が経過している。常ならば、ひのめの作業は迅速であった。――それも、必然的に。そして、その終了はあからさまではあった。――これも、必然的な事だが。
――だが、今。
(炎が――見えない……!)
その場には、未だに闇が蔓延していた。――遠くの街灯の、死にかけた明滅。その頼りない灯火だけが、悪霊に支配される廃屋を青く浮かび上がらせる……
「……ひのめ……ちゃん……?」
パピリオは廃屋を睨み、呟いた。
明らかに、イレギュラーな事態であった。――思えば、先刻のひのめは何か様子がおかしかった。――あそこでもっと強く問い詰めていれば……! 自らを罵倒し……それでも、建物内に入る事は出来ない……
パピリオ自らが展開した結界は、世界でも最高レベルの物である。――その最高の結界は、展開者たるパピリオをも容赦なく排除する。
――そして……結界を解除してしまえば…………
(もし……“炎”が溢れたら……防げない……!)
最悪の想像に過ぎない。――が、想像というモノは、何故か常に悪い方へと向かって現実化してゆく……
結界は――解除できない……!
「く……ッ!」
唇を噛む。――建物からは、未だに炎は上がらない。……ひのめは、中で今窮地に陥っているのかも知れない。――不調で、上手く精神集中が出来ないのかも知れない……
しかし――
(何も……出来ない……!)
「ひのめちゃぁーん!!」
既に、二十分が経過している。変化は……ない。
「――ッ!?」
否。
あった。
「――ひのめちゃん!?」
――ガタンッ!!
廃屋の扉がガタつきながらも開く。――その内から現れたのは、紛れもなく美神ひのめだった。――疲労困憊し、身体のあちこちに傷を負っているが――
間違いない。
「ひのめちゃんっ!!」
即座に、結界を解除する。フラフラと――こちらに歩み寄ってくるひのめに向け、全力で走る。
そして、同時にひのめは倒れた。パピリオの胸の中に。――ほつれた短髪がパピリオの鼻をくすぐり、腕の中にひのめの重みを感じる。――そして、血臭。
「ひのめ……ちゃん……?」
声に混じるのは、安堵。――そして、困惑。……表情が――ひのめの表情が読めない。
音が聞こえる。呟きが聞こえる。――破れて、血が滲むひのめの唇から。掠れているその声は、恐らくパピリオに向けたものではない。誰に向けたものでも――
「ひの…………」
「アタシ……出来たよ……? 火を使わなくても……出来るんだよ……? アタシ……もぅ、やだよ…… 怖いの……やだよ…………」
後は、嗚咽。
立ち尽くす――
〜続〜
そして、その一方で、ひのめはその忌むべき力から自らの意志をもって解き放たれようと、新たな一歩を踏み出しました。それは『力』を持たないありふれたGSにとっては当然の除霊方法であり、今更ながらの行為だったのかも知れません。
しかし、それは彼女が自ら未来を掴む為の、大切な儀式であったのではないかと思います。
過去に囚われ答えを出せずに停滞した生を送るピート。ひのめが力に対してひとつの答えを出し、生への小さな一歩とも取れる各パートの対比がとても印象的な十三話でした。 (矢塚)