――ホムラフルエ――
場の雰囲気そのものには似合わず、そこには燦々と日が差していた。
固い蛍光灯の光ではなく、ステンドグラスから漏れる柔らかな自然光。――その白黄色の光明は、埃むした室内に複雑な陰影を刻み付けている。
ジャリ…… 履き古したスニーカーが、床に散乱したガラス片を踏みつける鈍い音。微妙に気にかかるその異音が、微瞬心を掻き乱す。
整然と並んだ木製の長椅子――そこは教会だった。
「また……なんですか。先生――」
そこは雑然としていた。いや――むしろ荒廃していた。砕けたガラス瓶が床に散乱し、年月の重みを持った埃が室内に降り積もる。そして――破壊。
壁の至る所に罅がある。拳の形をした血痕と共に。拳を打ち付け、打ち付け、打ち付け続けて……破壊された、建材と躰……
――ボロボロになった長椅子に仰臥する躰……
「……先生。ピート先生……」
その人影を光明の中に見出し、彼は――西条誠は唇を開いた。――若い頃の父を真似た長髪が、沈殿した空気と混沌の中に絡まれて落ちる。
絡め取る糸吐く、無形の蜘蛛。絶望する男。
「……誰だ? その声、誠か? 尊厳(たかよし)か……?」
「……誠です。先生。弟は――尊厳は今、アメリカに渡っています」
掠れた声が、明るい闇を震わせる。
むっくりと起き上がる――影。手元をまさぐり、空の酒瓶を床へと蹴転がす。
「誠か…………かけなさい。汚くて済まないが」
「失礼します」
ギシ…… 朽ちかけた木製の椅子が、誠の体重を不安げに受け止める。――汚水にまみれ、腐臭を放つ聖木。その姿は否が応にも、眼前の男の姿をダブらせる。その男からは、強烈なアルコールの臭いがした……
くすんでほつれた金髪を適当に後ろに流し、男は凄絶な眼差しをこちらに向ける。深い……深い、哀しみを湛えたブルー・アイ。汚水の中で、ひとつだけ輝きを失わない玉(ぎょく)。
ピエトロ・ド・ブラドー。
かつてのオカルトGメン捜査官であり、現在は無許可(モグリ)の神父。誠の父、輝彦のかつての信頼すべき部下であり――そして、誠の師。
「……何の用だ?」
その声は、掠れた風貌には不釣合に思える程若々しい。基本的には変化というモノを知らないヴァンパイア・ハーフである師だが、この四年の歳月――その間に起こった様々な事は、ピエトロ・ド・ブラドーの心身に覆いようもない変化を与えてしまった……
「僕に教えられる事は、君にはもう全て教えた。――もうここには来るなと……そう、言っておいた筈だ。君は聞き分けが良い筈だったな? だとすれば思い当たるのはただ一つ――僕に……何を訊きに来た?」
師の――ピエトロの頭脳はやはり、未だに鋭敏ではあった。心中、密かに胸を撫で下ろす。師はやはり、完全に世を捨て切れてはいない。世を忌み、酒に溺れても……その根源となる部分では、師はやはり師以外の何者でもない……
誠は眼を擦った。唇は重い。強いて開く。
「――そのとおりです。先生。俺はあなたに、どうしても訊かなくちゃならない事がある……」
「……そうか……」
答え、眼前のピエトロは煙草を咥えた。
「喫うか?」
「……いえ」
煙草…… 以前会ったときは、師は煙草は喫っていなかった筈だ。自分と――そして、弟にGSとしての能力を叩き込んだ師。その心は……今、揺れに揺れて崩れそうになっているんじゃないのか?
そして恐らく。今から自分が放つ言葉は、師を徹底的に痛めつける事になる。
――――そんな事が…………そんな事が何だ!?
「先生――――」
一度、言葉を飲み込んだ。師は無表情。圧倒的な――
唇を、開く。
「……美神、ひのめ。親父を焼き殺した、美神ひのめは……まだ生きているんでしょう?」
★ ☆ ★ ☆ ★
一人になる事はどうにも好きではなかった。あれこれ考えてしまうし、それ以上に、必死に考える事をやめようとしている自分にも虫唾が走る。
考える事をやめる事――それは自分にとって、過去を殺している事に他ならない。過去の自分を忘れようとしている事に他ならない。過去から逃げている事に他ならない。――闇の中で自分を滅し自らの罪業から逃れんとしている事は、ただその事実を確認するという以上にひのめの気分を暗澹とさせる。
固い空気。息を吐く。
「……やっぱり、眠れないか……」
眠れない事には既に慣れていた。むしろ苦笑をすら誘う程に。――今更の事だ。本当に…… ただ神経をすり減らしながら生きる。
(……何の、為に?)
先刻、伊達から言われた事が脳裏に渦巻く。
“覚悟”……ひのめにはそれが足りないと、伊達は言った。それを形成する段階を無視して、自分はあまりにも無定形で凶悪な“力”を手に入れてしまったと――
「……何で……アタシなのよ……」
闇夜。ベッドの中に入り込んできた蛾を、掌で追い払う。その掌に火の粉が見えた気がした。寒気がする――
(つめたい……)
自らが発する焔。その中にいて、少しでも温かみを感じた事などはなかった。――ただただ感じるのは、息も詰まるような寒気。そして、気が狂うような痛み……
しかし、仕方がない。それもこれも、結局原因は自らにあるのだから。
嘆息。短い、息を吐く。
(明弘君は……もう寝てるかな……)
伊達明弘。伊達雪之丞の息子。“覚悟”の象徴として、先ほど伊達が語った対象。既に伊達による調練を受け始めているという。
“覚悟”。力への、“覚悟”。――伊達の事は好きになれない。が、やはりその言葉には重みがある。ただ単純に年月を重ねた重みという事か。それとも――別の何かが伊達の身に起こったのかは解らないが……
重い―― だが……彼は、やはり解っていない。
暗闇の中に多少の濃淡がある。天上からぶら下がった電灯の紐。――それをベッドに転がったまま引っ張り、電気を点ける。
――暗がりに慣れた眼にはやや強すぎる光。眩さに眼を細めつつ、自らの左手首を見やる。
あるべき筈の傷。だがしかし、そこには何もない。二年前、自ら剣を取って切り裂いた、深い深い傷。
その傷は、駆けつけた小竜姫の竜気によってたちどころに癒された。――それこそ、自らが切りつけたという事実の方が幻に思える程に、完全に。傷はなくなった。その事実は、ひのめの心の空洞を更に押し広げた。
結局、空虚なだけだった。
“力”を使うとき、何度、このまま流れに身を任せてしまおうかと思ったか解らない。誰もいない荒野で“力”をその欲求のままに垂れ流し、最後には自分自身をその焔で焼き殺してしまおうと、何度思ったか解らない。
(結局……アタシはもう生きてないのかも知れない……)
生きるという事が何を定義するのかはわからないし、興味もない。それでも敢えて言うのならば、自分は、生物学的にすら既に生きてはいないだろう……
破壊。それのみを目的として何処かから舞い降りてきた、“力”。
破壊。それ以外に目的を持たず、それ以外の何を成す事も出来ない“力”。
破壊――――
「アタシ……なんなんだろ」
既に母は死んだ。名前も顔も知らないオカルトGメンの中の誰かに、邪魔者と断ぜられて爆殺された。姉は今、何処にいるのか解らない。合衆国の何処かにはいるのだろうが、既に死亡した事になっている――そして、恐らく姉もそう信じているに違いないひのめに、転居届けが届く筈もなかった。
そして――
「忠兄ぃ、元気かなぁ……」
美神忠夫。現在は、姉のパートナーとして活躍している筈だ。
もう十年も前になる。姉と忠夫は結婚した。つまり、今ひのめにとって忠夫は義兄となる。――小さい頃から高校生のときまで、何くれとなく面倒を見てもらった記憶が残っている。
――恐らく、彼もひのめが生きているとは夢にも思わないだろう……
知らない街で、知らない人と共に、知らない事をして過ごす。
そこに、ひのめはいない。少なくとも、姉や、義兄にとっての『美神ひのめ』は存在しない。――今の自分は、生きるだけのただのモノ。ピンを抜いた手榴弾だ――
方向性はない。自分が求めているモノでもない。爆発し、全てをなぎ倒す。……ただ、この手榴弾は爆発しても存在しつづける。“力”生る炎は、決してひのめ自身を灼く事はない……
燃えるのはひのめ自身。滅ぶのはひのめ以外。――余りにも矛盾した摂理。四年前、何も解らずに街の一区画を消し尽くした自分が、何故自らを燃やし尽くせなかったのだ……!?
(…………アタシ、怖いよ)
迷走する思考。胸中の美神忠夫はピエトロ・ド・ブラドーに姿を変え、次には小竜姫に、次に斉天大聖に、パピリオに、美智恵に、唐巣に……と、刻々とその姿を変えてゆく。
そして、恐怖。
涙は出ない。既に流し尽くした。嗚咽は漏れない。既に枯れ果てた。
ただ怖気に震え、ひのめはそこに何十度目かの死を思った。
★ ☆ ★ ☆ ★
(……やっぱ、それが本音か……)
室内の闇。むしろその中に心地よさすら覚える。
伊達雪之丞はソファに横になり、聞くともなしに聞いていた。隣室から漏れる独り言は、その主の精神状態が今現在どのようなものであるかを如実に表現している。
隣では、明弘が寝息を立てている。パピリオを散々追っかけ回って疲れたのだろう。死んでいるのではないかと危惧する程に深く眠っている。――恐らく、明日の朝まではどんな事をしても起きまい。
(さて――こういう場合、忠夫の野郎だったりしたら、慰めてその後の事に思いを馳せたりすんのかな?)
傷ついた女性を慰める。――古今東西に類例が見られる、極めて古臭い女性を口説く方法である。実際に、結構成功率が高かったりするからタチが悪いのだが。
(……ま、俺がやる事じゃねぇな。流石にそんな事やったら、かおりに完璧に愛想をつかされちまうし)
寝返りを打ち、無意識に抱きついてくる明弘から遠ざかる。
夜目は利くほうだった。泥のように眠る明弘の寝顔を、至近距離からしげしげと観察してみる。
確かに、自分の息子であるという事は解る。特徴のある髪型も、やや悪い目つきも、生意気な口元も……全てが自分を継承している。唯一違うところといえば、この年齢にしては背が高いという事くらいか。こちらは、母のかおりの血なのだろう。
そして――性格。闘争本能。
(どっちかと言うと、コイツは昔の俺に似てんだよな…… まだこの世に何があるとも知らないでいた、メドーサに出会った頃の俺に……)
悔しかった。憎かった。力が欲しかった。
ただただ、強くなりたかった。自分には、その理由があった。――いや、なかった。
“力”の理由。――それはあらゆる場合において、結局のところこじつけに過ぎない。たとえどれ程崇高な理由があったとしても、“力”は平等にその対価を求める。
――だから。
(明弘……)
息子。――その寝顔に、そっと手を触れる。
(何で……お前は強くなりたいなんて思っちまったんだ……!?)
隣室で苦悩するひのめ。彼女は“力”故に生きようとする意志を殺された。彼女は周りを殺したが、彼女もまた“力”によって殺された。
そして、明弘。――まず間違いはなかった。明弘には才能がある。
だが――いや、だからこそ。
(クソッ……タレ! “力”だと!? ンなモンはロクなモンじゃねぇ!! 人を操るだけ操って、その後でとっとと駄目にしちまうだけのクソッタレじゃねぇか!? なんで――なんでお前はっ!!)
少なくとも、態度には出さない。ただ、恐らくは眼だけが変わっている。悲哀は眼に湛え、後は何もない。闇の中でその輝きは、自分以外には解らない。
解っては――ならない。
「なぁ…………ひのめ……」
お前は結局、何処に行くんだろうな……?
〜続〜
そして、今回の十二話で最も印象深かったのはやはり、雪之丞でした。
前回の十一話では、『力』を事もなげに肯定し息子に対して禁忌なくそれを教えることで、結果としてひのめの心のうちを否定していたにも関わらず、この話では自分の息子がその力に振り回され破綻することの可能性に苦悩し葛藤する。
その親として子を思う葛藤は、いつから彼の中に芽生えていたのでしょうか。
もしかすれば、力によって全てが破綻したひのめの存在が、押し込めていた彼の本心を浮き彫りにしたのでしょうか……などと、己の勝手な妄想に浸りつつ、雪之丞というキャラクターが深く描き出されていた十二話でした。 (矢塚)
そして雪之丞。『力』を肯定しつつも信じることができずに葛藤を抱えている彼。
このお話しに出てくる誰もが迷い、そのために傷ついているんですね。
彼らが一体どんな方向に向かっていくのか? 続きを楽しみにしています。 (U. Woodfield)
矢塚さん江
この場を借りて、某所の画像の御礼を……
雪之丞は、割と昔からこういうキャラクター性を持ったキャラであると私の中では認識していたので、比較的書きやすかったです。どの人物にも心があり、それが時に相反し、時に誤解を生む。そのような物語を、書いていきたいです。
U. Woodfieldさん江
あああ、こんなにも続きを楽しみにしてくれている人がいるのに、既に一ヶ月近く伸ばしていてごめんなさい……
心、そして傷は、誰にだってあります。――私はこの話では極力、必要のないキャラクターは登場させないようにしているのですが(名前だけ登場のキャラは除く)、彼ら全てに心があり、その心を何とか、拙くも伝えていけたら良いと思っております。
次回予告(ゑ?
――ホムラオサエテ――
ピエトロは、自らを罵倒する。――僕は、卑怯な男だよ……
ひのめは、自らと他人との差異に脅える。――アンタは、アタシを明弘君みたいにしてスパルタ教育したいんだろ……?
次回、其ノ十三 『炎抑』
現在作成中、もうちょい待って下さいm(_ _)m
(ロックンロール)