「……なんだい?」
ゆっくりと。ことさらに、ゆっくりと。
唐巣和宏は疑問を投げた。――眼前で肩を震わせる弟子へと。
――晴れていた。教会の中にいてもなお感じられる蒼空は、確かにこれ以上はない程に晴れていた。その晴天はあらゆる事を齎す。――喜びも――悲しみも。
光は陰を生む。弟子の顔色は、唐巣の位置からは良く見えなかった。
「……ひのめちゃんの――事です」
嘆息。予想はついていた。
――と、同時に、ピートが懐から取り出した先ほどとは別のプリンタ用紙を受け取る。――それもまた恐らく、美智恵のコンピューターの中のデータであった物なのだろう。――そこには簡潔に、事務的に……ただそれだけとして存在する、事実のみが記されていた。
「美智恵さんのコンピューターの中で発見しました…… 先生、これはどういう事なんですか――?」
『封印』
まず眼に入るのは、その単語であった。
それは簡単な手記であった。――調査の結果……その、結果として分かった事を書き留めただけのような、ごく、短い言葉であった。
恐らく、ピートはこのデータから『ひのめの事』を知ったのだろう。――そして恐らく、その性格からして、まだこのプリンタ用紙は他に流れてはいない…… 好都合な事ではあった。
(これが――彼女に与える影響を考えれば……な……)
「ピート」
唐巣は唇を開いた。――何故か、ここ数十年は縁が切れていたはずの煙草が無性に欲しかった。――或いは、極度の緊張の所為かも知れない。苦笑する。心中で。
これから自分が語る事は――どう考えてもピート自身を傷つける事になると言うのに……
「はじめに断っておこう……私はこの事実を、まだ他の誰にも話してはいない。――また、生きている間は、誰にも話さないだろうと思っていた。それを踏まえた上で――」
ピートを見た。真っ直ぐに。
「君を信じるからこそ――話そう。私が知る限りの全てを…… 馬鹿げた政治屋どものままごとが、結果としてどのような事態を引き起こすのか――を……」
飲み終わった紅茶を、椅子の上のトレイに戻す。――見れば、可哀想なほどに実直なこの弟子は、紅茶に口をつけてもいなかった。――心中、ポタリと一滴、冷たい滴が垂れる。
すっかり冷めたその茶透明の液体をトレイに乗せて、後ろに置く。――眼前のピートは、それに眼もくれずに真っ直ぐに唐巣の眼を見つめ続けている――
――蒼い、瞳。
「――そうだね……あの事件が起こったのは――それを、私が美智恵君から告白されたのは……もう、九年も前になる……」
日が、翳った。
唐巣は再び、唇を開いた。
★ ☆ ★ ☆ ★
ピエトロにとって、それはまさしく衝撃的な事実であった。
一度翳った日が、また燦々と光輝を発し始めている。――夕刻に近づいたその日差しは窓から射し、先ほどとは逆に、今度は淡々と語る師の顔に陰を落としている。――その所為か――師の表情は、常に変わらぬ無表情に思えた。
「――ひのめちゃんが……」
炎。宿命。
――重い……
「――結局……年齢的な事も考えて、『判決』処分は恒久的な保護観察処分という事になってね。当然ながら――その役目を買って出たのは、母親でもある美智恵君だったよ……」
その内心は、ピエトロにも痛い程に想像出来た。――母である自分の元にいれば、ひのめは『普通の』生活をする事も出来る――
――愛……だった。
――それはまさしく、母の愛であった。
「美智恵君は立派だったよ……公の場では、母としての私情を些かも持ち込む事はなかった。――毎日毎日、娘の行動をモニターして、それを記録する。徹底した客観視で、トイレの回数から、外出の時間。好みの男性のタイプから、パンツの色まで――ね」
沈黙。会話の中での、擬似的な沈黙。
心霊現象は、実を言うといまだに全てが解明されているわけではない。『訳の分からない物』を処分するのに、『訳の分からない能力を持った者』が必要となる訳だ。――故にその観察は執拗を極める。どのような事が何に繋がるのか、誰にも予想が出来ないのだから……
日が、落ち始めた。礼拝堂の中を、徐々に暗闇が満たしてゆく。
それは、尋常な神経で耐えられる事ではなかっただろう。観察者として取ったその記録は、GS協会上層部に回る。――自分の娘の事が、常に『他人』に知られているのだ。
「――先生……」
「――いや、続けさせてくれ。……美智恵君はその後――確か、それから半年後だったかな――予てから検案していたある事柄を実行に移した」
――ゴクリ。
唾液を飲み込む――それだけですら、この二人の空間の中に作られた、会話という名の静寂の中で無意味に響きわたる。音響効果を考えて設計されている礼拝堂は、無意味な残響をその場に残す。
唐巣の唇が開いた……
「……即ち――美神ひのめの霊力の『封印』……」
「――『封印』……」
その言葉は自然と、ピエトロ自身の唇からも漏れ出でていた――
「それは、ネイティヴ・アメリカンのシャーマンの呪法だよ…… その儀式の一端には、私も参加していた。――本来は、死者に対して、その力を自らの内に得る為の儀式であったらしいんだがね……」
唐巣の表情は、やはり窺えない。朗々とした声音は、聞いているピエトロ自身が驚くほどに平静である。――その場を想起しての苦渋もなにも、その声音からは窺えない。
「……とにかく、美智恵君の決意は固かった……」
「それで――」
ふと――何かが見えた気がした。刻々とその濃度を増してゆく闇の中で、心だけが、刻々とその存在する領域の幅を広げてゆく――
「特定の感情を軸に、『自らの霊力』を以って『相手の霊力』を封じ込める。――ピート君も分かるだろう?――その結果として、術者、被術者ともに霊力を失う事になるんだ」
思い返す。確かにそうだった。確かに九年前、美神美智恵は突如として、その強大な霊力を失っていた。――本人は、歳の所為よ……などと言っていたが……
ピエトロは沈黙した。それ以外に――出来ることはなかった。
「ピート。美智恵君の――いや、ひのめ君でもいい。彼女らの胸の傷痕を見た事があるかい?――あの傷が……儀式の際に、私が二人の皮を焼き剥がしたときの傷痕だよ……」
確かに――見た事はあった。服の上からですらその端が見える、巨大な……傷痕だった。
「美智恵君が封印の『鍵』として選んだ感情――それは、『罪悪感』だった。……残酷かも知れないが、彼女はその娘に自らのやってしまった事については、忘れて欲しくなかったんだろうね……この『感情』は、封印が継続している限りは、その感情に喚起される記憶と共に、忘れる事は出来ない……それを忘れれば、封印は破綻する」
礼拝堂に――闇が満ちた。
同時に、礼拝堂に――沈黙が落ちた。
そして、呟き。唐巣の、小さな小さな、呟き。
「――ピート君。君は……ひのめ君が晴天を厭い、雨に安らぎを覚える――という事を知っていたかい?」
小さな、声。――だが、それに込められた意味は、その小ささに比しては余りにも大きな――そして、重要なものだった。
再び――息を呑む。理由として考えられる事はあった。
「――潜在意識……ですか? 自らの持つ、『火』に対する……」
「……そうだ。彼女は、『事故』と同じような晴れた日を嫌い、炎を吸収してくれる雨の日に安心する……彼女の持つ『火』は、とてもじゃないが雨程度で消せる物ではないのだけどね。――そもそも、力源が霊力なんだから……」
それは――多分に精神的な物なのだろう――
ピエトロは息を吐いた。――重い。受け止めるには、あまりにも――重い――
「……私が知っている話は、こんな物だ。後、これを知っているのは――公彦君と令子君……ぐらいのものだろう。確か、西条君も知らなかった筈だ。言うべきかどうかは任せるよ――」
それだけを言い切り、眼前の師は黙した。――不意に、気付いた。師は『老いている』。最早師には、これ以上をする事は出来ないのであろう……
唇を湿らせ、流れ出てくる言葉を舌に乗せた。
「――先生。ひとつだけ、最後に答えてください……」
返事はなかった。……が、師が聞いている事に関しては確信があった。
どうしても――最後に答えを得て置かねばならない事がある。――それは不吉な予想だった。その答えも、既に想像はついていた。
「美智恵さんの死と同時に、ひのめちゃんの『封印』を押さえつけていた力はなくなった――だとするならば、その後、押さえつけられていたひのめちゃんの『力』はどうなるんですか……?」
その問いに、老いた唐巣は答えを返さなかった。
浅い息をつきながら、いつまで経っても、何も語らなかった……
★ ☆ ★ ☆ ★
その日の夜は、漸く慣れた新しい日常の通りに過ぎていった。
一人で晩御飯を作り、一人で着た物を洗濯し、一人で晩御飯を食べ、一人でTVを眺め、一人でベッドに入る。
――広かった。
(この家……こんなに広かったっけ?)
ひのめが家の中で思うことは、常にそれだった。掃除をするにも広すぎるし、歩き回るにも広すぎる。――かつては『美神除霊事務所』といったこの建築物は、そのありようからして、一人で暮らすには向かないらしい。
――だが、いつまでもウジウジと思い悩んでいるのも芸がない。それ以上に――ひのめの性に合わなかった。考えてばかりでは、美容にも悪いし健康にも悪い。結論は単純明快。それに尽きる。
(ま――慣れるまで……だね)
空を見上げた。――満月、だった。
きっと明日は『今日のようないい天気だろう』。――そう思い、ひのめはそのまま天を仰いだ――
『彼女の記憶は……現在急速に失われている筈だ……元々時と共に薄れ行く筈の物を、無理矢理に残してあるんだから…… いずれ彼女は、全てを忘れる――』
寝室の闇の中に、先刻の師の声が木霊する…… 寝付けない焦燥感に、言われもない不快感が募る。
(行って見よう……明日)
ピエトロは決心した。
「あーあ……眠い……」
TVを消し、家中の電気を消してゆく。
ベッドに潜り込み、ひのめは寝室の灯りを消した。――元々、昼間の行動で疲れ果てていた身体は、程なく心地よい眠りへと落ちてゆく――
――『夢は見なかった』。
その翌朝。かつて『美神除霊事務所』といったその建物は、この地上から消え去った。
〜続〜
今回はちょいといつもと違う手法も取り入れてみました。楽しんでくだされば僥倖です
(ロックンロール)
唐巣さんの仕草や心情が、煙草や紅茶といった小道具を通して上手く表現されているのも凄いなあと、ただただ感動するばかりでした。
本当に凄いお話です。 (矢塚)
人は忘れることで生きていける。しかし、忘れてはいけないこともある。全ては心の中。今はそれで良い。
うむ。某対使徒戦特務機関の鬼畜司令の言葉ですが、言い得て妙な部分もありますね。
なんというか・・・壮絶ですね。
美智恵の呪縛(他に当てはまる言葉が浮かばなかった)はひのめの人格形成にも大きな影響を与えただろうことは、想像に難くありません。
が、そうしなければ、色々と不都合が起きたことも想像出来ます。
しかし、最も残酷な手段を選んだなぁと。
そして・・・予想が当たってご満悦な私(笑)<記憶 (NAVA)
今回のコメント返しは、三と四の二つまとめて行ないます。申し訳ない。それでは。
矢塚さん江
ダークという概念で括れない話を書いてみたい。書いてみたい……(挨拶)
過分なお褒めの言葉、誠にありがとうございます。『透徹』ですか…… 確かに地の文に感情が篭っていないというのは感じておりましたが、それをこのような素敵な言葉で表現して貰い、感謝の言葉もありません。
NAVAさん江
畜生! ああ、当てられたさ!w(挨拶)
まぁ、伏線がちゃんと機能していたという事なんでいいんですけどね(´ノω-`) ピート&西条ですが、次回から、ちょいと立場が違ってくるかも……? 美智恵の『呪縛』については、確かに(ひのめにとって)残酷すぎるという感もありました。……でもまぁ、これも『業』という事なのですよ……これ以上はネタばれになるので避けますがw
さーて、次は其ノ五ですよ? (ロックンロール)