ふと、昔の事を思い出した。
――そこには彼がいて、彼の仲間達がいた。仲間達は彼と共に笑い、彼と共に闘った。そしてその遥かなる時間の中で、彼は確かに――
執務室にいるのは、彼ひとりだけだった。
キーボードを叩く軽快なリズムだけが、今のこの静寂の時にささやかながらも反抗を企てている―― それはなかなか面白い想像であったにせよ、別段、今のこの状況を崩す鍵となる訳でもない。
ピエトロ・ド・ブラドーは嘆息した。
変わらない。変わっていない。
――否。
変われない。
容貌だけでは……そう、決して姿形だけではない。
(こころまでも……か)
自分が幼い事は自覚していた。齢500を超えるヴァンパイア・ハーフであるピエトロにとって、変わらない事はある種当然といえるのかも知れない。変わる事を望めば、要望はともかく、精神が老いる。老いは気を奪い、それに伴う肉体の衰えを誘発する。……ドクターカオスが良い例だった。肉体的には不老を誇るカオスの老いは、精神面から始まっていたのだ……
タン!――内心の葛藤とは無縁にキーボードを叩きつづけていた指が、その仕上げとして、軽くエンターキーを叩く。一機種前のPCの画面に映し出されたのは、やはりと言おうか……厳重にプロテクトが掛けられたデータの数々であった。
美智恵のコンピューター。
ピエトロにとっては直属の上司であり、敬愛する人物の母であり、自ら敬愛していた人物であった。彼女は、入隊したピエトロを自分の直属の部下として育て上げ、今日に至らせてくれた。
そして、彼女は二週間前に――――死んだ。
パスワード入力画面を呼び出す。
キーボードを、無言で操作した。
『eyes_of_the_shine』
エンター。
「――見えた……か?」
老いた。何もかも、老いた。
記憶すらもまた、老いてゆく。過去の躍動はただ過去のモノになり、過去の感情もまたただ過去のモノとなる。――今。ただ、今。
そして、眼前の情報は過去を甦らせる。ピエトロ自身が記憶の奥底に封じ込めていた、過去の峻烈な――陰惨な、ひとつの記憶を。
真実。新たなる、過去の真実。
それは彼にとっては今。今は今である限り、過去ではあり得ない。過去の真実を――既に九年前となってしまった、ある『事件』にまつわる真実を――
――否。真実の『ひとつ』を。
コール音。
受話器を取る。
「……ピートです」
『西条だ』
用件は簡単に飲み込めた。即刻、眼前のPC内のデータの保存と、再プロテクトを実行する。
一度解かれたプロテクト。再び掛けるだけならば早い。物の数分で、かつての美智恵のPCはその活動を停めた。
永久に――
――グシャッ!!
頑なに無言のままで、その本体を叩き壊す。破損した本体部からハードディスクを引きずり出し、そのまま熱帯魚の水槽に沈めた。――爆風の中で奇跡的にも無事だったその水槽は、既に数週間替えられていない、緑に濁った水をなみなみと溜め込んでいる。やや厚い円盤は、水のヴェールに覆われてすぐに見えなくなった。
――それを確認し、ピエトロは再び受話器を手に取った。
「――完了しました」
手短に、報告する。細々とした説明をする必要はない。恐らく、西条は全てを飲み込んでいるはずだ。
『……ご苦労だった』
これも短い。労い。
「――犯罪ですね……?」
ピエトロは、小さく小さく、呟いた。――受話器の奥の相手へと。
――解りきった事だ。だが、確認しておかねばならない事でもあった。――彼らは決して合法的な活動を取っている訳ではない。
『……それも、『今更』だよ』
その言葉を最後に、受話器は沈黙した。後は黙って、彼は身体を霧と化した。
何もなくなった部屋には、水槽が立てる泡の音のみが微かに漣を立てている……
★ ☆ ★ ☆ ★
街には喧騒がある。――それは常でさえそうであり、休日ともなれば倍加する。喧騒は血液であり、人はその流れであった。
ひのめは街を歩いていた。
明るい栗色の長髪を、今日はアップに纏めている。――内心の憂鬱は容姿にまで出してはならない。……これは、ひのめの信念でもあった。
空は、晴れている。
真っ青な空は、それだけで訳もわからず、ひのめの心の暗鬱を加速度的に進めてゆく。――それが記憶によるものか――それとも、他の何かが原因としてあるのか……それは、ひのめ自身には解らない。
ただ――記憶。
記憶が……消えてゆく。
母の死からは既に三週間が過ぎている。――それ以来、ひのめ自身解った事だが、記憶の欠損――特に、幼い頃の記憶の欠損が目立つようになって来ている……
怖い。
恐い。
何処まで消えるのか。自分がどうなってしまうのか――それすらも、分からない。
美神ひのめは何処に消えてしまうのか――分からない。
「分からない……」
唇から声が漏れる。
思い出す。これはある種、高校時代に経験した、恋に近いのかもしれない。初めてしたキスは、一つ年上の先輩と。確か、自分が高校一年生――十六歳のときだった。
その後、世に言う『彼氏彼女の関係』になってみて初めて解った。『恋をする』という事は、それ即ち『心を相手に完全に預けること』――であるのだ。
――その後、『自分自身』は何処に残るのだ?
それが怖くて、結局は別れた。その後も言い寄ってくる男性はそれこそ星の数程現れたが、その都度、ひのめはそれを断って来た。――断るしか――なかった。
(臆病――か……)
母はいい年齢になって彼氏のひとりもいない娘に、えも言われぬ不安感を持っていたようだが、それは自然に受け流して――誤魔化して来た。
怖かった。
自分は、臆病だった。
基本的に、昔から他人と深く付き合うことは苦手だったのだ。――これは幼い頃の体験――体験――体験?……体験……の、所為でもある。
ぼやける記憶。
合間を埋める、碧い闇。
その意味は解らない。理由は解らない。――解らないまま――自分は、自分でないものに変化しようとしている…… 毎晩見るあの『夢』。……どんどん、解らないピースが増えてゆく。彼の名前は――? 場所は何処だったのか――? そのとき着ていた服の色は――? 自分は何であそこにいたのだろう――?
そして、その喪失の中で覚えている事。絶対に忘れない事。
――それは、あのときの空の色。今日と丁度同じような、よく晴れた真っ青な空。あの日、自分は何で急いでいたのだろう……?
――それは、あのときの瞳の色。炎に包まれて燃え上がり、爆ぜる眼球の断末魔。爆ぜる前の一瞬、確かにあの眼は――まるで中に燈火でも入っているが如く輝いていた――輝きに包まれた、眼。
燈の眼――
「……やめよ」
頭を振って、意識を外に追い出す。――どうも最近、ネガティヴな事しか考えていない気がする。
ひのめはその場で伸びをした。人の流れがその為に一部途切れるが、別段それが流れにとって障害となる訳でもない。形を変え、道を変えて、流れは永久に止まらずに進んでゆく。
「……ふぅ、天気がいいと暗くなるってのも、割合性格としては考え物かも知れないわね……」
その代わりに、何故か雨が降ると活き活きとして来る。
(ホント――なんでなんだろ……?)
一時期、自分が途方もない天邪鬼なのではないかと疑ってみた事もあったが、そのあまりの無意味さに気付いてやめた。――それはそうだ。結局のところ、自分の性格を自分で判断する事など出来よう筈もない。
天気がよい日に元気が出ない所為で、元々は得意だったスポーツも億劫になってしまっている。高校時代の体育の成績は『3』であったが、これは調子が出なくて欠席した回数が多かったからであったりもする。
――空を見上げた。
蒼い。不安になるほどに、蒼い。
見上げるだけで空を飛んだような気になり、ふとした不安を感じさせる、広い空。――それは都会のビルの狭間から見ても変わらず、更には、田舎の山の上から見ても変わらない。――それと同時に、肌にぴりぴりと立つ鳥肌も変わらない。――昔からの事だった。
「あーっ、最っ……悪。なんで、たかが買い物に来ただけでここまでブルーな気分にならなきゃならないのよ…………ったく――」
家の中にいても母の死を忘れられはしない――それならば…………と思い、思い切って外に出て来てみたが、逆効果だったのかも知れない。ひのめはこのとき程、身に染み付いた自らの奇妙な性癖に苛立った事はなかった。
街に出れば何となくではあるが、視線を感じる事もある。一、二回、所謂『ナンパ』をされた事もあった。――自分の容姿が人並み以上である事は密かに自覚していたが、かといってそれに応じるつもりもない。――ただただ、街に出るという行為そのものに付随している現象に過ぎなかった。
彼女は気付いていない。
今日はそれが全くなかった。
★ ☆ ★ ☆ ★
「――そうか。やっぱり駄目か……」
「ええ……申し訳ありません…… でも、解ってください。僕達がやっている事は、純粋に『犯罪』なんです。先生を巻き込む訳にはいきません……」
教会の、礼拝堂。
唐巣にとって――そして、目の前に座る弟子、ピートにとっても恐らく――最も心が落ち着く場所であり、同時に、もっとも疑問視している場所でもあった。――此処におわす神は、此処だけにいらっしゃる訳ではないだろうに…… 神聖視を利用している自分に対し、疑問の思いは常にある。
手にした紅茶を、一口啜った。
嘆息する。――正直、落胆の思いは否めなかった。唐巣自身、自分が介入する事は難しそうだと悟ったからこそ弟子であるピートへと連絡したのだが、やはり結果は変わらなかった。――むしろ、師思いのこの青年は、その敬愛の念を以って唐巣を関わらせしめる事に反対しているような思いすらする。
(美智恵君の死を追って行けば……いつか突き当たるとは思ったが。――いきなり……だな)
諦め、苦笑する。それ以外に、自分に何が出来ようか?
「――で、ピート君。何か解った事はあったのかい?」
「あ、ハイ。一応先日、バンパイア・ミストで美智恵さんのオフィスに忍び込んで、コンピューターの中を探ってみました……」
言い、ごそごそと鞄の中をあさり始めるピート。――その光景を眼を細めて見つめながら、唐巣はやはり心中苦笑していた。――おいおいピート君、部外者に情報を与えてもいいのかい?
或いは、わざと気付かないふりをしているのかも知れないが――
実際、部外者とはいえ、唐巣は以前はGS協会の会長を務めていた事もあった。完全な部外者とはいえないであろう。
ピートが鞄から取り出したのは、数枚のプリンタ用紙であった。それぞれにびっしりと細かい文字が書かれ、赤いボールペンで書き込みがされている。筆跡は、主にピート自身と西条のものであった。
「――考えたくはなかった事ですが……美智恵さんを爆殺したのは、やはり、Gメン内部の人間であるという可能性が高いです…… 美智恵さんは霊力がなくなって……その勘も、衰えてましたから……」
その表情は沈鬱であった。――さもあろう。自らの属する組織が、そのオカルトGメンであるのだ。その組織の暗部を目の当たりにし、気鬱になっても仕方がない。
そして唐巣自身もまた、ため息をついていた。予想はしていた事であったが、事実であって欲しくはなかった。――『狡兎死して走狗煮らる』。組織にとって用がなくなれば、発言力の高い実働家は厄介者となる。政治の軋轢の中で消されたと考えるのが、一番妥当な線であるだろう――
馬鹿げている。本当に、馬鹿げている。
「僕は……もう、こんな組織にいる事が許せなくなってきているんです――!」
――ダン!
力任せに、ピートは拳を椅子に叩きつけた。
唐巣は、何も言わない。今は、言うべきではない。――ピートの怒りは分かる。……何故ならば、唐巣自身が同じ怒りを感じているから。
だが、それもまた、若いピートには分からない事でもある……
「ピート君……組織そのものを『ひとつ』として取って、それ自体を憎んではいけないよ……」
ピートが、顔をあげる。その蒼い瞳に、困惑の色が浮かんでいた。
続ける。
「組織は『人』の集まりだ。――そして、それが集まって完成した得体の知れないもの――それが『組織』なんだよ。個が組織によって圧殺されるが如く、組織もまた内部の『個』を圧殺するんだよ……」
ピートは、動かない。動かないまま、徐々に瞳を曇らせてゆく。
「だから――憎んでもいい。だが、憎む相手を間違えてはいけない。――見極めるんだ。決して、組織に翻弄されてはならない。君がそれを成し遂げる事が出来れば……組織はまた、活性化してゆくんだよ――」
最後に、うなだれるピートの肩を叩いた。――微かに頷いたのが、手に伝わって分かった気がした。
「――先生、訊きたい事があります……」
その所為か――最後の言葉は、危うく聞き逃すところではあった……
〜続〜
今回は、ダークっぽさちょいと控えめであると思いますがどうでしょうか(更汗) (ロックンロール)
登場人物たちにスポットライトがあてられ、舞台説明とも言うべきナレーションがはいっていた感のある前回までのお話から、いよいよ舞台照明が全てあてられ、登場人物たちが自らの口と行動をもってこの物語を紡ぎだしはじめた印象を強く受けました。
私的にはダークっぽいというような印象は受けないんですよね、何と言うんでしょう……透徹な雰囲気……とでも言うんでしょうか?(笑) とても透きとおった語り口の物語、というような印象です。私はこのお話の雰囲気とっても好きですw (矢塚)
西条とピートのコンビ(?)が酷く印象に残りました。
犯罪を犯す場合、それに罪悪感を感じてしまう人間と、そうじゃない人間がいると思います。そして更に、その結果に思いを馳せることの出来る人間と、そうではない人間。
ピートや西条にはその行動の意味を知りつつも、そうせざるを得なかった内容であったってことなんでしょうね。うん、次話辺りで物凄い理由があると良いなぁ(ぇ
つーわけで、今から次話に行きます。 (NAVA)