椎名作品二次創作小説投稿広場


燈の眼

其ノ二 『緋陰』


投稿者名:ロックンロール
投稿日時:03/ 6/ 1



 葬儀は、しめやかに執り行われた。

「なんで……なんでいきなりなのよ、ぉ……母さん……」

 その日もまた、雨だった。鬱々とした湿り気を周囲に撒き散らし、沈痛な面持ちの参列者達の表情を、より一層の暗い靄の中に隠す。

「なんで、母さんがこんなコトで死んじゃわなくちゃならないのよぉ!」


 美神美智恵。行年五十八。


 人類最強とも云われたGSの、あまりにも呆気ない最期だった。
 その死の事実を知ったとき――そして、無残に破壊されたその遺体に、確認の為に霊安室で対面したとき。涙は、流し尽くしたと思っていた。

 もう泣けない――あのとき、それだけ泣いたと思った。


 それでも、ひのめは泣いた。







 誰もが、泣いていた。
































   ★   ☆   ★   ☆   ★











 唐巣和宏の教会には、自然と人が集まる雰囲気がある。
 それは、『教会』というものに対する、唐巣の思想の結実でもある。彼にとって教会は『家』であり、同時に全ての人間にとっての『故郷』でもある。教会の中に一歩足を踏み入れれば、そこにいるのは全てが同郷の士。それが、彼の理想の教会であった。
 そして今、その質素ながらも広い礼拝堂には二人の男女が向き合って座っていた。

「まさか……美智恵クンが……ね」

 ズ……と紅茶を一口啜り、唐巣は呟いた。
 既に往年の鋭気は影を潜め、今はいかにもな好々爺の雰囲気が、この老紳士にはある。薄くなった白髪頭は、今回の心痛でよりその密度を縮めたように思えた。


「ええ……そうよ。ママは『殺された』……」


 その前の椅子に深々と腰掛け、カップを握る手を震わせている中年の女は、かつての唐巣の教え子であり、長く親代わりに面倒を見てきた、娘のような存在でもあった。
 握るカップに、ひびが入る。

 唐巣は嘆息した。やや濃い目の化粧をしている今日の彼女は、彼の眼から見ても異常なほどに取り乱していた。――その気持ちは、彼とて変わらない――それは、分かっているだろうに。
 栗色の――昔と代わらぬ美しさを誇る――長髪が、さらりと揺れる。――と、同時に彼女は動きを止めた。彼の心中を察したのであろう。
 聡明だ。思えば、彼女は昔から聡明な娘であった。
 軽く、胸の前で十字を切る。

 特に意味はない。癖だった。神に仕える道を歩んでから、今日までの半生が培ってきた、身体に対する記憶。時にそれは実際の記憶以上の意味を持ち、自らの行動そのものに影響を与える。……今がそうだった。

「……西条君は、現場の検証をはじめているんだろうね」

 それは、明らかに冷静さを失っている彼女に、多少なりとも落ち着きを取り戻させる為の手管でもあった。――そうは思いたくはないのだが、人心掌握術もまた自分のお家芸であるという事は自覚していた。

 床に落ちたカップの破片が、窓から漏れ入る陽光を受けてキラリと輝く。


「――そうね……西条さんは眼を血走らせてるわ……」





 そしてまた、君もそうなんだろう――?





 心中の言葉は、口には出さないでおいた。この状態の彼女に、このような事をいう事は出来ない。そんな残酷な事は、自分には出来ない。

(私は――卑怯者だな……)

 自嘲する。
 自分が罵られたくないばかりに、彼女に対して決定的な一言を言えないままにいる。思うに――それは取りも直さず、彼女に対する侮辱へと繋がるのではないか?


「でもね――それは――」













 出しかけた言葉は、途中で飲み込んだ。彼女が唇を開く気配が読み取れた。


「先生。ひのめの事よ……」


 そしてそれは、美神美智恵の『死』に付随する、最も事務的で、最も感情的で、最も深刻な問題であった。

 唐巣は唾液を飲み込んだ。

「聞こう」

 長椅子に深く座り直す。彼女と会話する為には自然と横座りの体勢になるのだが、それは意に介さなかった。どちらにしろ、ここで聞くべき話である事には違いない。――そうであれば、聞く事に体裁を見繕う必要はない。

 彼女は沈んでいた。

 やつれていた。





「――封印が、解けるわ」

 美神令子は、唐巣の前で短く呟いた。


















   ★   ☆   ★   ☆   ★


























 その中で、ひのめは常に独りだった。

























 良く、晴れた日だった。



 その日、前日に友人の母親に買ってもらった洋服を初めて着たひのめは、朝から機嫌が良かった。有体に言えば、嬉しかったのだ。彼女は当時十歳。買ってもらった白いワンピースは、彼女に充分に『大人』を感じさせるものであった。

 母はいなかった。仕事で、どこか、北のほうに行っていたというのは覚えている。

 そしてその日、学校に行った。

 そのときのひのめには、クラスメートの感想――それだけが楽しみであった。当時、密かに恋慕していたクラスの男の子――名前は……何て云ったっけ?――――そう、雨宮君。雨宮祐介君だった。その男の子に一番初めに見せるべく、ドキドキしながら門を潜ったんだった……

 教室には、雨宮君はいなかった。
 間が悪い事に、この日雨宮君は風邪で学校を休んでいたのだった。そしてその後、火の粉が飛んで台無しになってしまったそのワンピースを彼が見ることは永遠になかった。

 代わりに、教室にはアイツがいた。
 いつもいつも、ひのめに悪口を投げかけてくるアイツだった。
 ひのめは眼を伏せた。舌打ちもした。アイツは一瞬だけ眼を大きく見開いた後、わざわざひのめの机まで近づいてきて言ったものだった。

「うわ、ダッセェ」

 その瞬間、ひのめは胸中で舌を出していた。
 朝一番からこの怨敵に出会ってしまった事を、神に訴えたい気分であった。家を出るときに持っていた、何か溌剌とした気分は、完全にこの時点で消えていた。
 その後も授業中、時々こちらを向いては、こちらに中指を立てていたのを覚えている。





















 次の場面で、炎が見えた。



 そこは教室ではなく、良く買い食いをしていた駄菓子屋のおばさんが住んでいたアパートの前。このとき、付近に人通りは全くなかった。

 アイツが燃えていた。
 アイツは手足をばたつかせ、あたかも背泳の選手のように、手を振り回しながら背後によろけて見せた。
 そしてその眼はひのめを見ていた。アイツはこちらから眼を決して離さず、口をパクパクさせ、身体をよろめかせ、足を縺れさせ――

 アイツは……





 アイツは…………







 アイツは………………













 アイツは……………………?





















 アイツ。




























 誰。
































 名前が……思い出せない。































 アイツ。





 アイツ。



















 アイツ。






 薄れてゆく、記憶。




(いや……)





 閉ざされた、記憶。





(そんなのいやよ……)






 自分だけの、記憶。










(忘れたら……そんなの……)

































「嫌あああああああああああああああっ!!」


 そこで、目が覚めた。暗い。

 ベッドの上で、ひのめは胸元を押さえた。――苦しい。しかし、いつもの事だ。
 
 しかし、違う。
 いつもと――何かが違う。




(名前だ……)




 思い出そうとしてみた。あのとき、『自分の目の前で焼死した』、アイツの名前を。――夜間の涼気が頬に当たり、上気した身体を徐々に冷ましてゆく。



 数秒、そのままだった。

















(…………思い……だせない?)

















 再びベッドに倒れこんだ。






 それは恐怖だった。































 その部屋の天井には、小さな焦げ跡が残っていた。
 シーツにも、無数の黒い穴があいていた。



 これらの小さな事象が意味を持つようになってゆくには、もう少しの時を待たねばならない。――そしてそれはいずれ美神ひのめを、自分自身へと導いて行くことになる――














   ★   ☆   ★   ☆   ★














 既に、令子が教会を出たのは数刻前となっていた。

 空虚な、清廉な、教会。
 オルガンの音が鳴り響く。
 賛美歌だった。この曲は、祝福を意味する。

 唐巣和宏は疲れていた。――それは、かつての弟子の突然の死によるものであり、現在の弟子の心中の思いを推し量ることは出来ても、それを慰撫する事が出来ない己によるものであり、また、その妹に対する複雑な心中によるものでもあった。それははっきりと、老いた唐巣に苦痛を与えていた。

 オルガンの上を、皺だらけの指が滑らかに滑る。
 オルガンはミサの度に弾いていた。会う人全てに意外な顔をされるこの唐巣の隠れた特技は、既に習得してから半世紀になろうとしている。ヨーロッパに旅立った際、ドイツで齧ったものであった。
 指は動く。鈍い心中とは裏腹に。

(私は……動いてよいのだろうか)

 老いた唐巣は、そう考える。自分は今このとき、動くべきなのだろうか。
 自分は神父だ。今このとき――誰もが、目的を持ってそれを実行しようとしている今このときに自分だけは、ただ、美智恵の死を悼んでいるわけには行かないだろうか。それは――臆病なことなのだろうか。

(いや……美神くんはそうは言うまい……)

 それでも、そのこと自体に信憑性はまるでない。
 自分は既に、隠居した身だ。往年の霊能力も体力も、既に今は衰えている。――今の自分には、かつて美智恵がそうしたように、『ひのめの封印になる』事すら出来ない――


 既に、唐巣は六十四歳になった。
 GSとしてのノウハウは全て弟子達に授け、今はささやかな知識と人徳だけが、彼にはある――

 ――否。

 それだけしか、自分にはない。

(それも……なんとも腹が立つ話じゃあないのか?)

 苦笑した。自分の想像の馬鹿馬鹿しさに。

 オルガンから指を離し、長椅子に横になる。
 自分は、この半生をGSとして――そして、信者として生きてきた。……既にGSとしての自分はこの世を去り、今残っているのは信者としての自分――


















――もう、GSではないよ。……私に、既に荒ぶる悪霊は鎮められないのだから……

















 それは、今の唐巣の信条でもあった。自らGSであることを戒め、自らGSとしての立場を放棄し、自らGSとは関りのない世界へと隠遁した。
 ――遁げた――と言っても良いだろう。確かに自分は逃げた。
 だがそれも、今しばらくの事だ……やがて全てが無に帰せば、今こう考えている自分そのものが意味をなさなくなるのだから。それは永遠の恍惚への入り口とはなっても、闇への入り口にはならないだろう……

 それは――






 ガタンッ!






 立ち上がった。

(結局、私はこうするしかないんだろうね……)

 苦笑と共に、唐巣は黒電話の受話器を取った。
 ICPOオカルトGメン日本支部。その内に所属する、ピエトロ・ド・ブラドーの個人コール番号を、掠れた脳裏から必死に紡ぎだそうとしながら――






 〜続〜


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