椎名作品二次創作小説投稿広場


道の先

白い道


投稿者名:馬酔木
投稿日時:02/ 8/16

 床に転がるワインの瓶。テーブルの端っこでその寸胴の丸い体を持て余しているのはウイスキーの大瓶だろう。
 背比べをするように並んだ形も大きさも不揃いな幾つものグラス。
 空気までもが葡萄酒の薄紫を含んだように重く香っていて。
 したたかに、酔っていた。


 したたかに、酔っていたのだと思います

 あの日の夜、父は酔っていたのでしょう
 だから僕に、そんな話をしたのだと思います



 ―――夜桜見物と、年度始めの祝いを兼ねた花見の宴。
 帰るついでに酔い覚ましをしようと少し遠回りして海沿いの公園を歩いている内に、話すことも無くなって黙り込んだ二人の沈黙を破ったのは、出会った時からいつまでも変わらない少年の声だった。



 ピートは母親の顔を知らない。
 母親の顔も声も抱き締めてくれる腕も何もかもを知らない。
 せめて血を分けた自分の顔から面影を探り当てようとしても水鏡で初めて目にした己の顔はあまりに父親に似過ぎていて、母の名残を探し当てることは適わなかった。
 残る血縁の父親は自分には無関心で、酷く扱われた覚えが無い代わりに可愛がられた覚えも無い。
 ハーフで生まれつき日光に耐性のあった自分とは違い、純血の吸血鬼であった父は夜に動き回るのが常だったので生活時間が一致しなかったせいもあるだろう。もしかすると、その昼型の生活リズムこそ見知らぬ母がピートに残していった唯一の痕跡だったのかも知れない。
 何にせよ、父子の生活リズムは見事にずれていて、ピートが目を覚ます頃にブラドーは寝入り、日が沈んでピートが眠気に目をこすり、幼い体を一人ぼっちの褥に横たえ眠る頃にブラドーは起き出してその夜の獲物を求めに出て行くというものだったのだ。
 そのため、ピートが物心ついてしばらくの間ブラドーはまだ元気だったが、とかく接触の無い父子だったという。
 島の人間は皆ブラドーに噛まれて吸血鬼化しており彼の下僕と化していたが、父の侍従はもっぱら蝙蝠やその他の使い魔ばかりで彼らが身辺の用事を済ませていたため他の吸血鬼が城の奥にあるピートやブラドーの生活区域まで入ってくることはまず無い。
 訪れてもただ父の前に頭を垂れて傅くばかりの島民達と言葉を交わす機会などある筈が無く、ピートは吸血鬼の島にあってただ一人日の光の中での生活を続けた。
 それでも時折、夜更けに蝙蝠の羽音で目を覚ました時など水平線に向けて飛んでいく父の姿を見送った覚えがある。別段何かしらの感慨を持って見送っていた覚えは無いが、ブラドーはブラドーで一応父親だと言う意識が少しはあったのだろうか。自室に使っていた部屋の窓からピートが顔を覗かせているのに気づいた夜は、自分の周囲にいる使い魔の蝙蝠達の中から何匹かをピートの窓に飛ばせて子守を任せるように置いていくと言う、気遣いとも思える行動を時折見せることがあった。
 けれども、父と子の接触はそれだけだ。
 昼間はひたすら眠り続け、夜に舞うブラドー。
 昼間起き出して特に何をすることも無いまま森や城の中で一人遊び、夜は眠る自分。
 父や使い魔達の話を聞いて言葉を覚え、城にあった本で文字を覚え色々な知識を得て、城に常駐している使い魔達から自分は「ピエトロ」という名前でありこの島の主で伯爵たる「ブラドー」の息子で、母は「人間」という生き物なのだと知った。
 それでも物心ついた時にはすでに島に人間はいなかったのだから「人間」と言われても何の事かピートにはわからなかった。
 ただ、自分に母はなく、そして父は自分を見ない。
 自分の家は城にある絵本に描いてあったような、父と母と子が手を取り合い抱き締め合っているような家族ではないのだということは何となくわかった。



 本当に接触の無い親子でしたよ
 父とは根本的に生活の時間がずれていましたから
 島民達も使い魔も皆日光に弱いから、昼間の島はまるで無人島でした
 本を読んだり森の中を走り回って、海にも潜ってみたり……ある意味、本当に自由だったんでしょうね。何しろ動物以外は僕一人だけで、昼間はほとんど皆寝てましたから
 ああ、勿論父も含めて、皆です
 子供は夜寝て父は夜起きて
 それが普通の家族だと思ってました
 だからあの夜は驚きました

 本当に驚きました



 その日は何となく寝つかれなくて、何度も何度も寝返りを打っていたのだという。
 あの夜は満月だったから、もしかすると吸血鬼の血が騒いでいたのかも知れないと一人ごちるピートの声は静かで、遠くの波を見つめる目は青白く澄んでいた。
 目の前に広がる東京の海とその上にぽっかり浮かぶ満月を臨んでピートはどこか高らかに言った。
 あの夜も、こんな夜だったのですよ、と。



 昼寝をしたわけでもないのに寝つかれず、寝返りを打つごとに返って目が冴えたピートは眠ることを諦めてシーツを被ると部屋を出た。
 何をするでもなく、石のレンガを敷き詰めた上に絨毯が敷かれた廊下をうろうろと歩き回る。
 城には大人用の、しかもやたら豪華なベッドしかなかったため、シーツも枕も幼いピートのサイズには全く合っておらず、半分に折り畳んでも長過ぎるシーツの裾を重く引きずりながらピートは城の中をさ迷い歩いた。
 生まれた時から魔物であったピートの目には幼い頃からすでに暗闇を自由に見通す力があったので子どもの足でも闇の中で不自由は無く、あちこち裸足で歩き回ったところで支障は無い。
 小さなランプも松明も無くひたひたと歩き続けて、ピートはふと、目の前に月明かりではない一筋の光が投げかけられているのに気づいた。
 開け放された扉の向こうから走り、廊下を横切って向かいの壁にまでへばりついた明かりはちらちらと揺れていて、月や星の明かりではなく何かを燃やして出来ている明かりだとすぐにわかった。
 物心ついてこの方、自分以外の人の気配などはっきり感じたことの無かったピートは驚いた。
 それからすぐに父親ではないかと思い当たり、そして今度は戸惑った。
 目を覚ましている時の父親とまともに顔を合わせたことなど無かったので、一体どうすれば良いのかわからなかったのだ。
 このままそ知らぬふりをして部屋に戻るか。
 それとも明かりの中に飛び込んでみるか。
 どうしよう、どうしようと思い悩み、結局ピートは好奇心に押される形で足を踏み出した。
 開け放された扉の陰に隠れるようにしながら、頭だけそっと覗かせる。
 そうして部屋の中を覗いた瞬間、これまで嗅いだことの無い不思議な香りがふわりと風に乗って流れてきたのを感じた。



 あれはワインの香りだったのでしょうと、ピートは昔を懐かしむように笑う。
 そして、ちょっと困った風に笑いながら、小首を傾げて言った。



 ああ……香りは思い出せるんですけどねえ
 やっぱり、肝心の部屋の中身はあんまり覚えていないみたいです
 その後、すぐに父さんの姿を見つけたものですから、そればっかり印象に残っちゃってて
 部屋の様子がどんなだったかは覚えていないんですよねえ
 だから、あの部屋が一体城のどこの部屋だったのか、今でもはっきりとはわからないんです



 初めて嗅いだ酒の香りに驚いて、何の匂いだろうと身を乗り出した時、ピートは父の姿に気づいた。
 大きく開けた窓のそばでワイングラスを片手に持って、ブラドーは窓の向こうに広がる景色を眺めているようだった。蝙蝠の翼のようにいつもまとっている黒いマントを下敷きにして窓辺に座り、満月を仰ぐ姿は美しかった。月の光にちらちらと透けて輝く金の髪も、白い肌も、手にしたグラスの中に満ちる不思議な香りの赤い液体も、よく出来過ぎた絵画のようでピートは感嘆し、そしてそれ以上近づくことに畏怖を感じた。
 初めて間近で見る父親に近づいて良いものか、いけないものか。
 戸惑ったまま固まって、どれぐらい息を殺していただろうか。
 気が付くと、ブラドーが振り向いてこちらを見ていた。
 そして微かに目を見開いたかと思うと、次の瞬間には、ふ、と力の抜けた表情をしていた。あの表情が微笑だったのか単に警戒していないだけの無表情だったのかはいまだにわからない。ただ、緊張の無い柔らかな表情だったとは思う。そして、その口唇がぼそりと「ピートか」と、声無く自分の名前をなぞったのを見たと思うとピートは言った。
 視線を向けられて固まったままのピートを見つめ、二、三度グラスを揺らしたと思うと、ブラドーはそっと話しかけてきた。


「……なんだ。眠れんのか?」


 話しかけてきた声は、思いの外優しかった。
 頷き、おずおずと歩み寄ると手を差し伸べられた。
 それでもどうして良いのかわからず寝間着の裾を握って突っ立っていると、目で促される。そうして掴まったブラドーの手は大きく温かく、窓辺に引き上げられて足の間に座ると父の手はまだ小さかった自分の体を支えるように腰に回った。
 抱き上げられて部屋の中を見回してみれば窓辺の下やそのそばにある小さなテーブルの上にはガラスの瓶がごろごろ転がっており不思議な匂いはその空瓶から漂っている。よくよく嗅いでみればそれは父の体からも少し香っていて、一体何の匂いだろうと首を傾げているとブラドーは手にしていたグラスの中身を一気にあおり、そうしてまた窓の外を見た。
 つられて同じ方角に顔を向けると、城の外に広がる森が月光の底に暗く沈んでざわめいている光景が目に入る。そうしてしばらく父と共に窓の外を眺めている内にピートはふと、今夜は蝙蝠達の羽音が聞こえないことに気づいた。ブラドーの取り巻きや自分の世話係としていつもは日が沈むと同時に活動を始める蝙蝠達の気配が近い場所から感じられない。
 今夜は父が城にいるから、取り巻き達も休んでいるのか―――
 そんなことを考えながら、初めて近しく接した父親の膝の上で何をしたら良いかと内心では少々うろたえつつただじっと下から父の顔を見上げていると、その視線に気づいたのか、遠くを眺めていたブラドーはふと自分を見ると真一文字に引き結んでいた口唇を微かに緩めて目を細くした。



 ……笑ったんだと思います
 幼かった僕の欲目かも知れないし、もう何百年も前のことだから思い出を美化してるのかも知れないけれど……



 ……僕に、笑いかけてたんだと思います



 初めて間近で接する父親を相手に何をして良いか戸惑っていたピートに笑いかけて、ブラドーはそばにあったテーブルの上に中身を飲み干したグラスを置くとピートの頭を軽く撫で、不意にピートの脇の下に手をさし入れて抱き上げると自分の肩を掴ませて腰を支えながら窓の桟に立たせた。
 父親の肩を掴んで窓辺に立ったことで、ピートの視線の高さが窓に腰掛けるブラドーの視線の位置とほぼ同じになる。ピートをそうして立たせておいて、また遠くを見つめた父親に倣うようにして先程と同じ方角を見やったピートは、目の前に広がる景色に息を飲んだ。
 子どもの低い視線では森の木々に隠されて見ることの出来なかった海が、遠く森の向こうに広がっているのが見える。空の上にぽっかりと浮かんだ満月の明かりを受けて押し寄せる波の一つ一つがきらきらと輝いている様子にピートは見惚れ、白い頬を紅潮させて父親を見ると、ブラドーはそんなピートの子どもらしい単純な興奮に微笑で返してくれた。
 そうして目をきらきらと輝かせ、初めて全景を見渡すことの出来た森と、森の果てに繋がった海と、水平線から繋がる空と、それらを照らす月光の鮮やかなコントラストに見入って身を乗り出そうとするピートを落ち着かせるようにまた頭を撫でると、遠く月光に照らされて輝く海の真ん中を指して、ブラドーは静かな声で言った。



 ―――ピート、見ろ
 ……海の真ん中に、真っ白な道があるだろう?
 あれは、よく晴れた満月の晩にだけ海の上に現れる不思議な道でな


 ……あれはな、お前の母親がいる国に繋がっているんだ


 ―――あの道の上を歩いていけば、お前の母親のところに行けるんだ


 ……ん?ああ……今はだめだ。今は行けない
 ―――今は用事があるそうだから、いつか、帰って来ると行っておった


 そうしたら、三人一緒にあの道を渡ろうか……



「……それって……」
 ―――よく晴れた満月の晩、海の上に現れる、真っ白な道。
 目の前に広がる東京湾の真ん中にもそれと同じ道のようなものが浮かんで揺れているのを眺めて、エミは隣で海原を見やりながらにこにこと笑っているピートの横顔を見つめた。
「……ええ。満月の光が、海の上を照らして道みたいに見える―――ただ、それだけですよ」
 ピートはにこにこと笑っている。
 その彼の前に広がる海には、空にぽっかりと浮かぶ満月の月光を受けて輝く海が、その遠く広がる穏やかな胸の上に真っ直ぐ続く白い道を作っていた。
「……でも、あの頃の僕は本当に子どもでしたからね。信じたんですよ」



 信じたんですよ
 父の話を
 ……しこたま酔っ払ってたクソ親父が気紛れに聞かせた与太話を、本気で
 あの夜、父はしたたかに酔っていましたから
 だから気紛れに、そんな話を聞かせたんでしょう


 ……でも僕は、本当に信じたんです
 満月の夜には海の上に真っ白な道が出来て、その上を歩いて行けば、母のところに行けるんだと―――



 ブラドーがピートに父親らしい素振りを見せたのは、それが最初で最後だった。
 母について話したのもその夜のたった一度だけのことで、それから間も無くブラドーはどこかでドジを踏み、瀕死の状態で帰って来ると島を結界で隠して長い眠りについた。
 そうして父が眠りについた夜から一ヶ月ほど経った満月の晩、ピートは一人、島の浜辺に立っていた。



 ……ああ。今思うと、本当にバカですね
 ―――そうですよ。母に、会いに行こうと思ったんです
 月が昇れば道が出来ると本気で思って、夕方からわくわくして待ってました
 父さ……ブラドーは城に帰って来るなり寝所に篭もったきりずっと出て来ませんでしたから、あんな父親でも姿を見なくなれば寂しいと思ったのかも知れませんね
 島の人達はまだブラドーの魔力が抜けなくてぼんやりしているし、使い魔達も似たような状態だしで、誰も喋る相手がいなくて……だったら、母さんに会いに行こうと思ったんです



 ……会いに行けると、本気で思ったんです



 果たして、夜になっても道は出来なかった。
 満月が昇って出来た白い道に足を乗せてみても、ばしゃりと音を立てながら銀色に光る波飛沫が虚しく飛び散るだけで。
 冷たい塩水に浸かって濡れる足を見つめ、自分はこの道を歩くことが出来ないのだと理解すると、ピートは風に乗って空を駆けた。
 海の上でゆらゆらと揺れる真っ白な光の道に沿って、ただその道が行きつく果てを目指して飛ぶ。
 しかし、空の上に浮かぶ満月によって出来た白い道はどこまで行っても途切れることなく続いて陸地に行き当たることもなく、幼い子どもの体は耐え難い疲労と胸の底から湧き上がる絶望に押し潰されて海に落ちた。
 そうしてぷかりと波間に浮かび、中天に浮かぶ白い月を見上げて波に揺られながら、ピートは自分では行けない遠くにある母の国を想ってさめざめと泣いた。
 柔らかな子どもの肌に海と潮風と涙の塩気がしみて、ひりひりと痛かった。
 潤んだ瞳で見上げた月はゆらゆらと揺れていて、けらけらと笑われているような気持ちになった子供はばしゃばしゃと波の中で暴れ、細い手足が虚しく水を蹴散らし、決して歩くことの出来ない道を寂しく揺らした。



 ……本当に、子どもでしたからね
 道なんて、本当は無いんだという考えには全く行き当たりませんでした
 ただ、母に拒まれたのだとそう考えましたね
 母の国に続く道に乗れなかったという事は、母に「来るな」と拒まれたんだろうと



 そうしてしくしくと泣きながら満月を見上げて子どもは、ああ、自分はひとりきりなのだと小さな呟きを暗い海に落としたのだと言う。



 それから時が経ち、ピートが父の話した白い道の正体がただの光の反射だと理解した頃、一人の島民が何かの折にぽつりと、ピートの母は、ある満月の晩、小さな舟を漕いで島を出たのだと話した。
 私の家はこの先にある、私の国はこの先にあるのだと、優しく微笑んで唄うように呟きながら母は、川遊びに使うような小さな小舟に乗って沖へと続く満月の光の道を進んで行ったそうである。



「……」
 優しく笑いながら舟を漕いで行ったという母親の話に、エミはピートの方に向き直るとその顔を正面から見つめた。
 ピートは、相変わらずにこにこと笑っている。
 満月の光に真横から照らされたその微笑は表面上とても穏やかで優しげで、エミもとりあえず似たような笑顔で返しておこうと思い笑おうとしたが、口唇の端が微妙に引き攣っていて上手く笑えていないのが自分でもわかった。
 ピートは相変わらずにこにこと笑っている。
 そして、何でもないことのようにさらりと言った。
「……どうも、僕を産んでからだったそうです。島の皆もブラドーの魔力に支配されていたので、記憶がはっきりしなくてぼんやりとしか覚えてないそうですけれど。……まあ何しろカトリックが絶対という時代でしたから、吸血鬼の子どもを産むってのは色々負担があったんでしょうねえ」
「……ああ。……ねえ」
 明日の天気について話しているような、気軽な口調でさらりと話すピートにぎこちなく相槌を打つ。
 そんなエミの横で、ピートは相変わらずにこにこと笑っていた。



 ピートの母が果たして海を越えることが出来たのか、それは誰にもわからない。
 ただ、それから三日ほどの間、朝から晩まで続くひどい嵐が海を撫でて行ったのだと、ピートに母の話をした島民は彼の表情を伺うようにしながらぽそりと付け加えた。



 父の思い出と母の話を語るピートの口調は淡々としていた。
 顔にはにこやかな笑みが浮かんでいて、正面に広がる東京の海に浮かんだ満月の白い道を前に、どこか遠くを懐かしむように見ている。
 そのあどけない横顔を見てエミは不意に、ピートの両親を張り倒したくなった。
 私の家はこの道の先にあるのだと、月が作った銀の道を辿り、笑って海に出た女。
 彼女が妄想の中で作り上げた偽りの道の話を、何も知らない無垢な息子にまるで本当のことのように話した男。
 その二人の胸倉を掴み上げ、揺さぶって、エミは詰め寄りたかった。
 信じたのか。
 お前達は、本当に信じたのか。
 満月の夜に月光が作り出す、幻の道を。
 その先にあんたの家があると信じたのか。
 その先に妻の、そしてあの子の母の国があると信じたのか。
 虚しい偽りだけ吹き込んで子どもの手を放した二親を、エミは心の底から憎んだ。
 ピートは相変わらずにこにこと笑っていて、海沿いの公園の広場を足取りも軽やかに歩いていく。
 エミはその後をやり切れない悶々とした思いを抱えてついて行ったが、しばらくして、ふと、ピートが立ち止まったのに気づいてエミも止まった。

「……ピート?」



 ……でもねえ、エミさん

 あの時は泣いてしまったけれど、僕は、満月の夜に出来る道が幻で良かったと思うんです

 だって、もし本当に道が出来てしまって

 その上を歩いて行くことが出来て

 ……その先に母がいなかったら

 ……………いても、僕を迎えてくれなかったら

 …………………………きっと、泣くことも出来なかったと思うから



 だから、幻の道で良かった。
 行くことの出来ない道で良かったと、ピートはくるりとエミを振り向いて笑う。



 ついに出会うことの無かった母は、ただ漠然としたイメージとしてピートの中に存在し、そのおぼろげな顔は永遠に優しく笑い続けている。
 その笑顔さえ、ピートが作り上げた寂しい想像だけれども。



 それで良いのだと笑うピートの笑顔を見てエミは、ただただ無邪気な心持ちで優しい母親を思い描くピートの行為を母親の偶像化だとか言って「それは正しくない」と、したり顔で言うようなやつがいたら、そいつを呪い殺してやろうと決めて満月を見上げた。

 ……ああ。


 やっぱり、こんな満月のせいだろうか。


 誰に対しても開放的に接しているように見えて、その実、自分のことはあまり話さないピートが両親の話をするなんて。
 満月のせいか、今宵の宴で飲まされたアルコールのせいか。
 それとも、そういったもののせいにして、長く溜め続けた澱みを吐き出しているのか。
 酒のせいというふりをして、明日になれば、ピートは今夜話したことを忘れるつもりでいるのかも知れない。
 それでもいいとエミは思い、そして、先程ピートの両親を張り倒したいと思った自分を恥じた。
 ピートに「道」を教えたブラドーは、それが幻だとわかっていてもなお、満月が作り出す道を信じたのかも知れない。
 だからブラドーは、いつか三人一緒にあの道を渡ろうなどという言葉をピートに言ったのではないか。
 それが決して果たされることのない虚しい約束だとわかっていても、ブラドーもまた、妻とした女の家に続く幻の道を信じたのだ。
 それは、息子を産んで狂気へと沈んでしまった己の妻へのせめてもの手向けだったのか。

 いつか、三人一緒に母の国に、家に行こう―――

 今となっては確かめる術も無いが、ブラドーは、そんな日がくることを案外本気で待ち望んでいたのかも知れない。
 たとえ虚しい幻でも、当人が心の底から信じればそれは真実だ。
 そして、ピートはあの道が幻の道で良かったと笑う。
 ならば、それで良いのだろう。
 それで良いのだろうと思ってエミは、ほろりと見せられたピートの脆さを見ないふりして忘れようとしたが、ふと、自分の前を歩くピートの背中を見つめて目を細めた。
「ああ……もう、桜も終わりですねえ……」
 海沿いの歩道から離れて公園の中に戻り、桜並木の下を歩きながら、ピートは両手を大きく左右に広げて伸ばしている。夜目では白っぽく見えるベージュ色のスプリングコートを羽織ったその後ろ姿にエミは、シーツを巻きつけて一人城の中をうろうろとさ迷ったという幼いピートの姿を見た気がした。
 夜桜見物の花見客も既に帰った公園の中は静かで、時折海の方から潮の匂いが混じる強い風が吹きつけては夜目にも白い小さな花弁をはらはらと散らしていく。
 ピートが言う通り、もう時期が終わろうとしているのか、風が無くともほろほろと散っていく桜の花弁がアスファルトで埋めた歩道の上に白い道を作っているのを見てエミは、は、と思いついた。
 思いついた心のままにピートの脇を走り抜けて先回りし、歩道の真ん中に立ってふわりと微笑む。
 突然追い越されたことと、その優しい笑みにピートが小首を傾げて足を止めたのを見て、エミは首に巻いていた白いストールを外して広げると、桜の花弁が降り積もる地面の上に無造作に置いた。
「エミさん!?」
 恐らく、それ相応の値がするであろうシルクのストールを地面に敷き、しかもその端を押さえるようにヒールのつま先で踏み付けたのを見て、ピートが思わず悲鳴じみた驚愕の声を上げる。
 が、エミは穏やかな微笑を崩さずストールの端を踏みつけて立つと、ピートを見つめて両手を広げた。

「ピート、おいで」

「……え?あの、エミさ……」

「『渡って』おいで」

 さあ、と、促すようにエミが広げた両手を軽く振って見せる。
 その突然の行動の意味がわからずピートはしばらく呆然としていたが、やがて、エミの思惑に気づいたのか「あ」と声を上げた。

 ピートとエミが、それぞれ立っている場所の間。

 無造作に地面に投げ置いた真っ白なストールと、真っ白な桜の花弁で埋まった道。

 満月が海の上に作り出すものとは違うけれども、闇の中でぼんやりと白く光る小さな桜の花びらに埋め尽くされた道は、吹きつける風にふるふると揺れながら月光の下で白く光っていた。



「おいで。『渡って』おいで」



 さあ

 両手を広げて微笑むエミに向けて、ピートが恐々と足を踏み出す。

 白い道。
 いつかは歩けずに沈んだ道。

 満月が作る白い道の先にはもう、自分を待っているものは幻以外何もないけれど。
 この、白い道の。
 この、白い道の先には―――

 あ、あ、あ

 一歩一歩踏み出す毎に、ピートの口唇からよくわからない声が漏れ出る。
 吐息と共に吐き出されるその舌足らずな声は、ようやく喋り始めた頃の赤ん坊が出す声に似ていた。
 よちよちと、初めて歩く幼子のように緩く両手を広げ、頭を揺らして全身でバランスを取りながら、震える足でよたよたと白い道を進む。
 桜の花びらを踏み締め、エミが敷いたストールの上に足を乗せて、ピートは歩くことを覚えたばかりの赤ん坊のようにゆっくりと前に進んだ。





 やがて、満月がスウッと辺りを照らした夜の中で、二つの影がくっついた頃。
 涙に紛れて舌足らずになった感謝の言葉がひとつ、さめざめとしたすすり泣きに混じって風に乗った。


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