椎名作品二次創作小説投稿広場


夜のおはなし

銀の夜に


投稿者名:馬酔木
投稿日時:02/ 8/ 5

 銀色のお月さまの光が世界を隅々まで照らしています。
 真ん丸のお月さまの光がその銀色の腕を優しく伸ばして、人も動物も建物もお化けも何もかも全てをそっと包んでくれているような、仄白く明るい夜でした。




 ねえ

 僕は、お月さまの子なんですよ




 風に吹かれた風鈴がチリリと音を零したような小さな小さな囁きを聞きとめたのは、ただ一人お月さまの光から逃げ出したように部屋の奥に座っていた暗い暗い闇色の髪の女でした。
 囁きを零したのは同じ部屋の、開け放ったベランダのそばにぺったりと伏した男の子で、窓から射し込む月光を体中に受けている男の子の体はもともとの色素が薄いせいか、まるで月光を吸い込んでお月さまの白銀色の中に融けてしまっているようにも見えます。
 まだお月さまがお空に昇る少し前、紫がかった夕闇に紛れるようにして目尻を赤くした顔で女の部屋にやって来た男の子は、窓辺に伏しておかあさんのお腹の子どものように体を丸めたまま、今さっきまでずうっと黙っていました。
 暗闇色の髪をした女も、そんな男の子を咎めるでもなくただそばにいてじっと座っていただけで、女は今日この窓辺に伏してから初めて声を発した男の子の言葉に聞き耳を立てると、じり、と動いて少しだけ男の子に近づきました。


 僕、お月さまの子なんですよ
 母さんがそう言ってたんです


 そう お母さんが?


 ええ

 母さんは、よく僕をぶちました
 化け物の子だとか、生みたくて生んだんじゃないとか
 それでもしばらくして落ち着くと、今度はすごく優しくなって、お月さまを見上げて言うんです

 僕は、月から来た妖精とキスをして生まれた子どもだって
 だから、お月さまの子なんだよ、って、言ってました

 いつか、お月さまからお迎えが来ますよ、って、笑ってました


 男の子の声は、ぽつりぽつりと流れます。
 男の子が着ている真っ黒な学生服は、月の光を受け止めて反射して、銀色に透けて光っているようでした。


 ……ひきました?


 ひきました?、ひきますよねえ?、と。
 振り向かずに笑いながら言う男の子の声は、愉快そうでした。
 愉快そうに笑いながら、男の子は凍えたように二の腕をさすってますます身を縮めていきます。
 だんだんと体を丸め、小さくなっていく男の子の背中を見つめながら、闇色の女はまた、じり、と動いて少しだけ男の子に近づきました。


 あのねえ

 今日、学校で、美術の宿題が出たんです
 おうちの人の絵を、描いて行かなきゃいけないんですよ


 お腹の中の、それも、本当にいのちとして生まれたばかりの子どものように小さく小さく体を丸めて、男の子は静かに言葉を並べていきます。
 ベランダから射し込むお月さまの光の中に身を投げ出して、真っ白に染まった男の子の姿は本当にこのまま透き通って消えてしまうのではないかという程か弱く見えました。


 最初はね、唐巣先生を描こうと思ってたんです
 他の人のことなんて、思いつかなかったのに
 隣の席の子が、お母さんの絵を描くって言うのを聞いてたら、急に切なくなったんです


 切なくなったの?


 闇色の女が、月の光の届かない影の中からそっと手を伸ばして男の子に話しかけます。
 男の子は、肩に触れたその手に一瞬震えた後、頷くように頭を揺らして、女に背中を向けたままやっぱり体を縮めて言いました。


 ああ……顔、顔が思い出せないんですよ


 そう呟く男の子の声はまるでうわ言のようで、男の子はとうとう膝を抱えてすっかり丸くなりました。
 さらりと揺れて流れ落ちた髪の合間から覗くうなじは白く細く、男の子はいよいよ月の光に融けて消えてしまいそうです。


 いっぱいいっぱいぶたれたことと、お月さまの子どもだよ、と言われたことしか、覚えてないんです

 だって、僕の母さんは

 ……あんなにたくさん叩いたくせに、僕のことを怖がって、一度も目を合わせなかったんですよ


 化け物の子、化け物の子と罵って、目線すら合わせずにただ呪いながら怒るだけで。
 そして、優しく囁く時は、ただただお空に浮かぶお月さまを見つめるだけで。


 ……僕の顔なんか、見てくれなかった
 だから僕も、母さんの顔を覚えてないんです


 そこまで男の子が語り終えた時、闇色の女は、部屋の奥に暗く広がる影の中から、男の子がいるのと同じ、月の光が射し込むベランダまでゆっくりと出ていました。
 それでも、濃い闇色した髪と小麦色の肌をした女の姿は、色の白い男の子のように月の光に照らされてもぼやけることなく、真っ白なお月さまの光の中で、しっかりと自分の輪郭を保っています。
 部屋の中にある影が女の姿になって、お月さまの光の下にひょっこり抜け出て来たような。
 そんな風に見える闇色の髪の女は、まあるく小さくなってお月さまの光に融け込んでしまっている男の子の傍にぺたんと膝をつくと、男の子の、月の光に照らされて白く輝く金色の髪をそっと撫でてやりました。
 太陽の下では蕩けそうな蜂蜜色に輝くきれいな髪の毛がすっかり色を失って、心なしか冷たく感じられるのに女は胸を痛め、ことさら優しく男の子の髪を撫でます。
 男の子は膝を抱えて丸くなったまま、ほんの少しだけ女の手に擦り寄るように頭を動かすと、小さな声で囁くように言いました。


 ねえ、エミさん


 エミさん、と呼んだその声はどこか舌足らずなようで、まるで、小さな子どもがおかあさん、と呼んだようにも聞こえます。
 男の子は月の光の中でぼんやりと融けたまま、幼子の口調で祈るように囁きました。


 ねえ、エミさん

 僕、エミさんの子どもになりたいなあ
 お月さまや、お月さまばかり見ていたあの女よりも

 僕、エミさんのお腹から生まれたかったなあ

 エミさんの顔ならねえ
 きっと、誰より上手に描けるんですよ


 お母さんのお腹の中の子どものように身を丸めて、男の子は、ぽそりぽそりと呟きます。
 闇色の女は男の子にじりじり近づくと、小さく丸まった体を抱き込むようにお腹の下に抱え込んで、彼をすっかり融かしてしまっていた真っ白なお月さまの光から男の子を隠すようにしました。
 覆い被さってようやく見えた男の子の瞳からは、銀の滴がぽろぽろと零れています。
 嗚咽も無くただ涙だけをぽろぽろと落とす男の子は、闇色の女がいつか見たからくり人形のようでした。
 どこかの博物館に展示されていたそのお人形は、頭の中にある小さな水槽にお水を入れてしばらくすると、きれいな涙をぽろぽろと流すのです。
 その博物館では色々なからくりのお人形が実際に動くところを見世物にして人気を博しているので、その涙を流すお人形は、毎日それぞれ六回はぽろぽろときれいな涙を流すのです。
 真っ白な陶器の頬に透明な滴を流すお人形のきれいな泣き顔に手を叩いて驚く沢山の人達から少し遠巻きにしてそれを見ていた女はふと、お人形がとても切ない存在であるように思いました。
 お人形は、自分が泣く意味なんて理解していません。
 ただ、作った人が、お前は涙を流すからくりの人形だよと決めて作ったから、毎日水を入れられて涙を零すのです。お人形は、最初からそう決められた存在なのです。
 それでも、自分が泣く意味を理解することもないままほとほとと涙を零すお人形の姿が哀れに見えて、女はもうそれっきりその博物館には行きませんでした。
 しゃくりあげることも無くただただ涙を流す男の子の泣き方は、そのお人形さんにそっくりで、闇色の女はまるで、この男の子が色々なあたたかいものを落としてしまって、命のあるいきものではなくお人形になってしまったように思いました。
 そして寂しいことに、この男の子は、本当に色々なものが足りないまま大きくなってきた子どもなのです。
 お腹の下に抱え込んだこの体は確かに仄かなあたたかみを感じる生きている体なのに、お人形さんのように自分が泣く意味も理解出来ないままほろほろと泣く男の子を女は強く抱き締めました。


 エミさん、変です とまらない……


 自分がどうして涙を流しているのかもわからないのか、男の子が、今気づいたようにぺたぺたと濡れた頬を撫でて呟きます。


 どうしよう、エミさん とまらない


 いいの、いいの とめなくていいのよ


 どうしよう、どうしようと頼りない声音で呟く男の子に、闇色の女は覆い被さります。
 ふわりと広がった暗闇色の髪に覆い隠されて、女の体が作る影の中で、月の光に融けてしまっていた男の子は自分の輪郭を取り戻していきます。
 その男の子の頬を柔らかく撫でて、女はことさら優しく囁きました。


 なみだはね、流れる時は流しておくの
 それはね、体や色々なところが、泣きたいと思うから流れるのよ
 だから、無理にとめようとすると、どこかが壊れてしまうのよ


 こわれるんですか?



 そうよ   たとえば、こころとか



 だから、泣いておきなさい


 丸くなった男の子の体をお腹の中に抱き込んで、闇色の女は優しく甘く囁きます。
 そのあたたかそうな暗い腕を見て、お空に浮かぶお月さまは、自分の真っ白な光が冴え冴えと冷たく輝くことを哀しく思いました。
 お月さまの寂しく冷たい光では、男の子を白く融かしてしまうことは出来ても、あんな風に優しくあたたかく抱きしめてあげることは出来ないのです。
 覆い被さる女のお腹の下で自分の輪郭を取り戻した男の子は、ぽろぽろと涙を流しながら呟きます。


 ああ、エミさん
 僕、エミさんのお腹から生まれたかったなあ


 そうしたら、誰よりも元気に産声あげて。
 お母さんの顔を見て、とびきりの笑顔を見せて。
 ……満月のたびにお月さまを憎んだり、わけもわからず涙を流すなんてことも、きっと無かったのに。


 ねえ、エミさん どうしよう
 ねえ、ほんとにとまりませんよう


 大丈夫 大丈夫

 大丈夫 わたしはあんたを見てるから
 こうやって、お腹の中に入れておいてあげるから。

 だから、そのまま泣いてなさい


 詮無い願いを呟きながら、声も無く涙を流す虚ろな子どもをお腹の下に抱き込んで。
 闇色の女は、その暗くあたたかい腕を男の子の体に回して静かに微笑みました。

 冴え冴えとしたお月さまの光で澄み渡る空気の中を、エミさん、と呼ばわる小さな声が流れていきます。
 お母さん、と呼ぶような頼りなく切ない声音を聞いて、天のお月さまは、自分の光に融けていたあの寂しい白い男の子に、甘える場所があることを知って安心しました。

 虚ろな子どもをお腹の中に抱えて、女は、近くにあった毛布を引き寄せます。
 男の子と自分を優しく覆うように毛布をまとった女は翼を広げた大きな鳥のようで、闇色の女が作り出す月の光の届かない影の中、男の子は毛布の翼に包まれて卵になりました。
 大きく広げた女の翼の中で、すんすんと、兎のように小さく鼻を鳴らしていた男の子の吐息はやがて、すうすうという穏やかな眠りに変わります。
 そうして、闇色の女は男の子の頬に残る涙の滴に口づけると、男の子をお腹の中に抱き込んだまま目を閉じ、朝になって、男の子がまた強い心を取り戻して歩き出すまで、平穏な時をたゆたいながら、寂しい子どもをあたため続けました。



 銀色の、まろいお月さまがお空に浮かんでいた夜の、小さな小さなお話です。


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