「暗殺・伊藤博文」上垣外憲一著・筑摩書房(ちくま新書)・2000.10.20第一刷発行



伊藤博文がハルビン駅頭で安重根に射殺されるところから、本書は始まる。伊藤に随行していた室田義文の回想が引用され、伊藤を殺したのは安重根の銃弾ではなく、ほかに狙撃者がいたのではないかという疑問が提出される。
本書は、伊藤博文の半生における韓国との関わりを検証しながら、この疑問への回答を論考したものである。
たとえばジョン・F・ケネディ暗殺犯が、リー・ハーヴェイ・オズワルド以外にいたのではないかという疑問が、今に至るも世人の関心をひいているように、著者が本書で提示した疑問と、その疑問に対する回答も、フィクションを読むつもりであれば面白かろう。
著者は本書の大部分のページを割いて、伊藤博文が一貫した平和主義者であったことを証明してゆく。日清・日露両戦役を通じ、伊藤と軍部、強硬派外交官、そして国家主義勢力との暗闘の歴史が、執拗に描かれる。さらに日露戦争後、韓国の実質的支配権を手中にした大日本帝国政府が、さらに歩を進めて韓国併合に至ろうとするに際しても、伊藤はそれに終始反対していたことが述べられる。
そして、その平和主義者の伊藤を、韓国併合への妨害者と見なして謀殺したのが、杉山茂丸や明石元二郎であるというのが著者の結論である。杉山茂丸が伊藤暗殺を計画し、明石元二郎が実行者を選んだというのである。
しかし、著者の論考にはそれを証明する根拠がない。新史料が発掘されたわけでもなく、従来の史料に基づき推論を展開することに終始しているのである。推理小説に登場する名探偵は、時として物的証拠のないままに推理を展開し、犯人を名指しすることもあるが、研究者の著作において根拠なき推論に終始して事足れりとするのは、正当な態度とはいえまい。
推論を展開した根拠は、もちろん提示されている。杉山茂丸については、韓国統監の地位にあった伊藤が、その演説の中で併合はあり得ないと語ったことを不満として、単騎伊藤と面会して自決を迫ったことが紹介されている。このこと自体は、茂丸自身が自著の中で述べていることであり、事実であろう。また茂丸が玄洋社と近い関係にあり、日韓合邦推進者であった内田良平や、我が国右翼の源流といわれる頭山満と親しかったことも事実である。さらに日露開戦前夜、日露協商を主張した伊藤と対立していた桂太郎首相や児玉源太郎参謀次長とも、茂丸が親しかったことも事実である。
著者は、このような傍証を執拗に積み重ねることによって、茂丸が日露開戦論者、韓国併合論者であることを読者に印象づけ、最終的な自らの結論を正当化している。しかし暗殺実行に携わったと推論された明石については、茂丸において傍証として引用されたような事実の積み上げもなく、ただ明石と茂丸とが同郷の幼なじみであったこと、明石の妻と玄洋社の月成勲の妻とが実の姉妹であったこと、明石がヨーロッパに駐在していた日露戦争中ロシア革命を支援する謀略活動に従事していたこと、韓国進駐軍憲兵隊長として反日運動の弾圧に辣腕をふるったことなどが紹介されているものの、それらの事実から伊藤暗殺実行者として明石を指弾することは、いかにも唐突である。
本書で積み重ねられた著者の歴史認識においては、善玉伊藤博文に対する悪玉として、杉山茂丸、明石元二郎、山座圓次郎、頭山満、内田良平らが意識されているのであるが、これらの人物に共通するのは、いずれも福岡出身であるということである。そして福岡に興った玄洋社は右翼の総本山であり、右翼とはテロリズムの実行者であるという認識が、杉山茂丸=玄洋社=右翼=テロという図式で著者の思考を支配し、さらに茂丸の人的ネットワークに繋がり、かつ福岡というキーワードで明石=福岡=玄洋社=右翼=テロという図式が描かれ得る明石元二郎が、暗殺の実行者として著者の標的となったのであろう。
ただ、そこには杉山茂丸の生涯における伊藤の存在や、杉山茂丸という希有の人物に対する認識が欠落している。また、玄洋社の風土に対する認識も欠落している。テロリストたらんとして伊藤博文の首を狙った若き日の茂丸が、逆に伊藤に諭されて自己の狭隘な政治観を啓蒙されて以来の、二十年にも及ぶ伊藤との親交の中に、むろん著者が引用したような対立の構図はあったにせよ、たとえば「百魔」における後藤猛太郎の貴族院議員就任披露の逸話にせよ、「俗戦国策」における伊藤渡満に先立つ送別の義太夫会にせよ、思想的な相違や政治的立場の相違を超えて、伊藤博文と杉山茂丸の人間関係は成り立っていた。
また杉山茂丸とは、上述したようにテロリストたらんとして政治的活動を開始した人物であったが、伊藤博文と頭山満という、二人の人物との出会いによって、テロリストたることを放棄した人物であった。著者の論調においては、伊藤の対外政策が一貫して協調路線にあったことを不満として、対外強硬派たる杉山茂丸らがテロルに及んだと主張しているものと読みとれるが、そういった行為というものは、おそらくは長期間にわたって蓄積されてきたものの噴出という形で発動されるものであろうし、著者の論考も日清戦争以来の伊藤の外交政策と、いわゆる右翼陣営との対立を執拗に掘り下げている。しかし、それであるのなら、なにゆえ杉山茂丸と伊藤博文との最初の出会い、すなわち伊藤に対する刺客としての杉山茂丸に言及しないのであろうか。著者にとっては、推論を補強する上で願ってもない逸話であろうに、と思うのは筆者だけであろうか。この点は後にも触れるが、著者の茂丸研究の深みに、疑念を感じざるを得ない。
一方、玄洋社との関わりにおいて杉山茂丸をテロリストとして捉えた場合、玄洋社のテロリズムが最も明瞭な形で示された大隈重信襲撃事件と、本書の伊藤博文暗殺とのあまりにも隔たった手法の相違に注目せざるを得ない。
大隈重信襲撃事件は、条約改正に反対する玄洋社社員で杉山茂丸の親友でもあった来島恒喜が、囂々たる世論の反対にも屈せず条約改正を断行しようとする大隈に対し、爆裂弾を投げつけた事件である。大隈は奇跡的に片足を失っただけで一命を取り留めたのであるが、犯行に及んだ来島は、その場で自らの首の大半を切り飛ばすという凄絶な自刃を遂げたのであった。
この事件によって大隈の条約改正は葬られ、来島恒喜は一命を賭して国を救った英雄となった。被害者である大隈自身が賞賛した、その潔い自裁によって、来島が英雄視されるようになったことは言を待たない。玄洋社のテロリズムとは、大隈襲撃事件に象徴されるような、加害者の顔がはっきりと見えるテロリズム、加害者が自らその行為の責を負うことに躊躇しないテロリズムではなかろうか。それが玄洋社の風土であり、著者が描くような暗殺手法は、それとは相容れないものであった筈である。
著者も言及しているように、伊藤が韓国統監時代に併合を否定する演説を行った際、杉山茂丸は伊藤と単独で面会し、短刀を突きつけている。その際茂丸は、自らも腹を切ってお供すると言い放った。茂丸が伊藤を殺そうとしていたのなら、このときに何故殺さなかったのであろうか。自らの手を汚すことなく人を殺して、陰でほくそ笑む杉山茂丸の姿は筆者には到底想像できない。
時間を遡れば、日露開戦に至る国内の政治状況においても、杉山茂丸の意図と伊藤博文の意図が対立していた構図があった。このとき杉山茂丸はどのような動きをしたのだろうか。茂丸は桂太郎や児玉源太郎と結び、伊藤を棚上げにして日英同盟を結ぶ謀略を献策したのであった。現実に伊藤は、日露協商のためロシアに滞在している最中に、桂首相によって日英同盟を電撃締結され、首相を4度も経験したこの大政治家は面目を丸潰れにされて失意の帰国を余儀なくされたのであった。茂丸自身は、このときの伊藤を「日露戦争の戦死者第一号」と表現したが、日露開戦を主張する者にとって、伊藤の存在が不都合であったことは、韓国併合を目論んでいた時期と比べて小さかったとは言えまい。そのとき、茂丸が選んだ伊藤への対応は、決してテロリズムではなかった。「機略縦横」と評された茂丸の面目は、日露戦争前夜のこうした知謀にこそ存する。韓国併合に支障となる伊藤を茂丸が暗殺したというのなら、なぜ日露戦前には茂丸のテロリズムが発動せず、どうして韓国併合前においてはテロリズムに訴える必要があったのかを説明しなければならないのではなかろうか。
そもそも本書の著者は、杉山茂丸や玄洋社について、どれほど研究をされたのであろうか。巻末の参考文献には、茂丸の著作から「山縣元帥」と「桂大将伝」が挙げられている。どちらも茂丸の著作としては入手し難いものであり、これらの著作を参照されている点はさすがにプロの研究者であると敬意を表する次第であるが、比較的入手し易く、かつ代表的著作というべき「俗戦国策」や「百魔」は読まれておられないのであろうか。玄洋社の存在が重要であると言及しながら、「玄洋社社史」を参照されていないのはいかなる理由によるものであろうか。
本書には軽率な事実誤認が散見されることも、著者の論述に疑念を起こさせる所以となっている。
明石元二郎に関する記述で、明石が玄洋社の月成勲と義兄弟であったことが記されている。そのこと自体は誤りではないが、月成勲が韓国の閔妃殺害事件に関与した月成光の子であるという記述(p.202)には、開いた口が塞がらない。月成光は勲の弟である。著者が参照された石瀧豊美氏の「玄洋社発掘」中に、系図まで示されている(同書、葦書房、1997、p.252參照)のだから、理解に苦しむ誤認であると言わざるを得ない。
その明石元二郎を、世界にも何人といない謀略の大家である(p.213)と言い、レーニンに資金を提供してロシア革命の援助をした(p.195、213)と著者は言う。しかし明石が主として支援したのはフィンランドのコンニ・シリアクスであり、レーニンと明石が会った事実は確認できていない。明石がシリアクスらを援助して日露戦中のロシアの後方撹乱を謀ったのは事実であるが、現実には悉く失敗したことは、最近の研究で明らかである(稲葉千晴「明石工作 謀略の日露戦争」丸善ライブラリー、1995參照)。明石の動静が詳細にロシア側のスパイに察知されていたことも、近年明らかになった。すなわち明石元二郎は、戦時謀略活動の先駆者ではあっても、著者が言うような謀略の大家であったり、世界にも何人といないような存在ではなかったのである。
また、日露開戦前の児玉源太郎を「参謀総長」と表記している部分(p.180)が「参謀次長」の誤りであることは、日露戦史を少しでも囓ったことのある読者なら、誰でも気づくであろう。
著者は杉山茂丸を「玄洋社の幹部」という(p.124)。茂丸は果たして玄洋社の幹部であったのだろうか。むしろ茂丸は玄洋社とは別行動を取っていた人物であるというのが、茂丸を研究する者にとって有力な見解ではなかろうか。茂丸は玄洋社とは無縁のところで政治に目覚め、頭山と相知るに至って玄洋社の活動(例えば福陵日報の創刊や炭鉱経営)に協力したが、頭山満が松方内閣の選挙干渉後に実政界と縁を切ったのと時節を合わせるように、玄洋社の主たる活動、即ち満州義軍への人材供給や孫文の中国革命支援といった活動(これらは政府閣僚の動きとは無縁のところで行われた。むしろ政府に対しては面を背けていたというべきであろう)とは一線を画して、政界の実力者の懷に跳び込み、それら実力者を動かすことによって自らの政治信条を実現するという手法によって、「政界の人形遣い」の名を恣にしたのである。政界との繋がりを求めなかった玄洋社=頭山満の行動とは全く対照的な活動をしたのが杉山茂丸という存在であり、そうした茂丸の行動なり玄洋社との関わりなりについては、夢野久作の著述や、「巨人頭山満翁」「頭山精神」といった頭山に関する著作を参照すれば明らかであるし、その事実を把握すれば杉山茂丸が「玄洋社の幹部」であったか否かについても自ずと結論が導き出されよう。また、前述石瀧豐美の「玄洋社発掘」には、玄洋社社長を務めた喜多島淳による歴代玄洋社社員の名簿が紹介されているが、そこに杉山茂丸の名が存在しない(例えば杉山と並んで頭山の二股肱と呼ばれた結城虎之助や、広田弘毅、中野正剛といった次の世代の人物の名すらそこには記されているにもかかわらず)ことにも注目すべきであろう(同書p.398〜407)
日露戦後に山座圓次郎が満州へ出張する際、「伊藤さんの随行ではないから」と言ったという記述(p.178)も、実は満州へ出張する際ではなく、小村寿太郎全権大使の随員としてポーツマス講和条約の交渉に赴く際のことである(一又正雄「山座圓次郎伝」原書房、1974、p.49〜p.50參照)
山座圓次郎が日頃伊藤暗殺を公言していたと著者は言う(p.203)が、「日頃」とは日常的に、よく、といった意味であろう。なにを根拠に、日頃公言していたと言うのであろうか。
総じて本書は、著者の推論を正当化する可能性のある文献については都合よく深読みをし、それを否定する可能性に対する考究が疎かにされているように感じられる。そのような態度はマスコミのセンセーショナリズムに任せるべきであって、研究者の採るべき態度ではなかろう。