| a | 虚構と妄言の偽伝 −「杉山茂丸伝」批評− |
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本稿で批評する堀雅昭著「杉山茂丸伝《アジア連邦の夢》」は、杉山茂丸の偽伝である。虚構と妄言、そして誤謬に満ちみちている。ある側面において、実によく調べて書かれていることは否定しない。いくつもの事項で、筆者は本書から杉山茂丸の事蹟に関する新しい知識を得たことを認める。しかしそれ以上に、妄言と呼ばざるを得ないほど根拠なき憶測や邪推が展開されることに加え、随所に存在するさまざまな誤謬は、本書を杉山茂丸の伝記と呼ぶことを肯んじ得ないものにしている。その意味で、これは偽伝と呼ぶしかない。
本篇について評する前に、本書のあとがきに付された「付記」に言及しておく。ここで著者は、本書が版元の予告よりも大幅に遅延して出版された経緯を説明し、読者に対して陳謝する姿勢を示しているのだが、この文章からは読者への陳謝にことよせて杉山満丸氏を非難する意思が芬々と匂ってくる。杉山氏が著者への協力を拒んだのは、この著者が本書の中で弄したレトリック、即ち著者自身がいうところの「匂い」を是とできなかったからであろうが、その杉山氏の行動を非難するために同じレトリックを用いるところに、筆者は何ともいえぬ不快感を覚える。この文章で杉山氏への非難を「匂わされた」不特定の読者に、杉山氏は自己の弁護を行うことができない。武器を持たない者が戦闘機で空から攻撃されたようなものだ。筆者には、どのような事情があったとしても、こういう遣り口が正当とは思えないのである。なお、本篇の批評においても、後ほどこれと同旨のことを述べようと思う。
もうひとつ、この「付記」に関して付け加えておく。著者は杉山氏からの協力拒否を受け、福岡県立図書館杉山文庫収蔵資料からの引用などを削除したと記しているが、筆者の見るところ、それは正確な記述ではない。相撲界の入間川親方や、陸軍の真崎甚三郎大将の回想、ラス・ビハリ・ボースと茂丸との会見の様子などは、杉山文庫に収蔵された談話速記などを参照しなければ書けないものだ。釜山港埋築に関する記述は「釜山日報」を参照しているが、この釜山日報の記事は原稿用紙に書写されたものが杉山文庫に所蔵されているから、或いはこちらを参照したものかも知れない。ほかにも杉山文庫所蔵資料を参照したと考えられる記述は随所にある。著者が「杉山文庫所収の諸資料を引用・使用した部分を削除するなど修正を施し」たというのが、具体的にどのような行為を指したものであるかが不明であるので、こうした事実のみここに記しておく。 筆者はかつて、杉山茂丸を伊藤博文暗殺の黒幕に擬した「暗殺・伊藤博文」(上垣外憲一・文春新書)と「伊藤博文暗殺事件」(大野芳・新潮社)への批判を試みたことがある。その当否はともかく、両著に対する筆者の批判の中心は、それぞれの著者が杉山茂丸という人物について、いかほどの研究をして著書を上梓したのかという部分にあった。しかし本書は、まさに杉山茂丸について、著者自身の言を借りれば「五年」もの間「全力投球」で調査研究してきたものの精華である。それだけに筆者は、このような著述が生み出されたことが不思議でならないのである。
本書に先行して出版された杉山茂丸の伝記類としては、早稲田大学教授であった国際法学者・故一又正雄の「杉山茂丸 明治大陸政策の源流」と、杉山茂丸の女婿石井俊次の遠縁にあたるという野田美鴻の「杉山茂丸傳 もぐらの記録」があり、学術雑誌に連載されたものとして東筑紫短期大学の室井廣一が著した「杉山茂丸論ノート」が未完成ながら挙げられる。その他、九州大学教授であった西尾陽太郎や、杉山茂丸の嫡孫杉山龍丸が書いたものなどが存在するが、質的量的にまとまったものとしては上記三篇が主立ったものと言ってよかろう。
一又の著作は未完成の遺稿であるが、アカデミズムが本格的に杉山茂丸を研究した嚆矢であり、学問的には一又の先行研究「山座圓次郎 明治時代における大陸政策の実行者」と対になって、戦前期における我国の大陸政策の研究というテーマを構成するものと言えよう。
室井の論文は、その第一回に記されているように「ある政治的人間がどのように誕生し、如何なる方法で基底的価値を実現し、政治過程の中にどのように関わっていったかという、主に人間の働きに焦点をあて、政治という世界を理解しようと」することがテーマとされ、東筑紫短期大学研究紀要を主たる舞台として、二十一回に及ぶ連載の初期においては「政治的黒幕の研究」と副題されていたように、政界の黒幕たる杉山茂丸が、その地位を獲得するまでの過程を綿密に研究したもので、茂丸の事蹟の研究としてはおそらくこれを凌ぐものは存在しない。
野田は研究者でもなく、著述家でもなく、序文を見ると、ふとしたことから茂丸伝の執筆を始めたものであるらしい。研究者の著作のような深みはもとより望み得ず、叙述も流麗とは言い難いものの、執筆にあたり茂丸の次女たみ子から注意されたという「事実を書くことが最も大切なことです。若し事実関係を正確に把握する事が出来ないもので父に関連性のある事項があるものについてはハッキリと『私はこう考える』と断ってから書くことです」という言葉を固く守ったというとおり、細かく典拠を明示し、丹念に、実直に、事実を積み上げて茂丸の生涯の出来事を提示したものといえる。
それでは、本書「杉山茂丸伝《アジア連邦の夢》」は、杉山茂丸という人物に関して、何を読者に訴えようと意図して書かれたのであろうか。もとより本書は学術論文ではない。一般的には評伝と呼ばれる分野に該当しようが、茂丸評として著者は何を提示しようとしたのだろうか。 筆者は本書を一読して、この著者が本書で提示しようとした杉山茂丸像というのは、明治から昭和初期に至る近代史に刻まれた、様々なテロルの煽動者、協力者であったという極めてネガティブな姿であったように思えてならない。それは、著者が「はじめに」でいうような「一人の魔人の視点から日本近代の舞台裏を眺め」得るほどに近代史と杉山茂丸の関わりが掘り下げられているわけではなく、むしろ項目を羅列したに過ぎないと評した方が適切なほどに薄っぺらであり、また杉山茂丸が生涯を通じて為した政治上や経済上の事蹟に対して一貫した評価の視座が示されているわけでもなく、一貫しているものといえば様々なテロ事件の背後に茂丸の姿があるということを「匂」わせ、仄めかし、印象づけようとする意図のみであることから導き出される結論である。
本書において、杉山茂丸の関与が「匂」わされたものは、以下の通りである。
・児玉源太郎の急死
・伊藤博文暗殺
・原敬暗殺
・大杉栄暗殺
・二・二六事件
また、直接茂丸の関与に言及していないものの、遠回しに印象づけられたものとして、金玉均暗殺と閔妃暗殺が挙げられる。
しかし例えば、児玉源太郎が茂丸から贈られた凱旋釜を築地本願寺に寄進して一週間後に急死したことが不可解だから、茂丸が児玉の死に関わりがあるかも知れぬなどとは、理屈もなにもあったものではない。こんな物言いが成り立つというのなら、急死した人間と死の一週間前に何らかのコンタクトがあった人間はみんな怪しいと言われなければならぬ。徒事はさておくとしても、「政治的役目を終えたタイミングを計るように他界し」たとは、何事であろうか。児玉の「政治的役目」が何を意味するのかすら提示せず、凱旋釜の寄進、政治的役目、茂丸による児玉神社建立といった事象をぶつ切りのまま提示して「不可解」「気になりはじめた」と言うのでは、まるで風が吹けば桶屋が儲かる式の因果話か謎かけである。何の根拠もありはしないのだ。
原敬の暗殺については、少し詳しく論及しておこう。
著者は茂丸が原内閣の出現を喜んでいたと述べ、しかし組閣直後から茂丸と原の確執が始まり、挙げ句に原暗殺の前日に茂丸が「ここで少し心意の方針を改めねば、直ちに打殺されてしまうぞ」と言い残して九州へ旅立ったと言う。茂丸が原内閣の出現を喜んでいたというのは、何を根拠に記したのか、筆者には判らない。むしろ政党を蛇蝎の如く嫌っていた茂丸にとって、寺内内閣の崩壊後、政界にもはや人なしとの判断からやむなく原への大命降下に些かの関与をしたというのが、筆者の見解である。それはともかく、原との確執や茂丸の「打殺されて」云々の発言は、茂丸自身の著作「俗戦国策」に書かれているものだ。しかし本書に引用された断片だけではこの発言の意図を知ることはできないし、原暗殺と杉山茂丸との関係とを正当に判断することは不可能である。そこで筆者は、煩を承知で茂丸の「俗戦国策」から、原暗殺について言及した一章を左に引用しておこうと思う。 原敬の最期 原内閣は、大正七年の九月? に出來たかと思ふが、中々隅々まで行屆く原總理であるから、無理も何も押通して、トウトウ四年目の大正十年の十一月となつた。此時庵主は、原總理へ對する友誼として、見て居られぬ事があつたので、(極秘)此丈けは注意して置いて遣《やら》うと思うて、朝十時頃、總理官邸に電話を掛けて、面會を申込んだら、
「今は參内を仕掛けて居るから、明朝面會をしよう」
との事であつた。
併し庵主は、其日に今の總理の田中陸軍大將と、八代海軍大將と同行して、庵主の計畫して居る九州博多の築港を見に行く筈で、時間がモウ迫つて、明日が待たれぬから、止むを得ず原總理昵近《じつこん》の官憲を呼んで、傳言をした。
「總理に是れ是れの事を注意をして置いて貰ひたい。……今朝逢へぬと云はるるから、僕は明朝まで斯く斯くの事情で、待つて居られぬから、君に確と傳言をする。原總理は、是所で少し心意の方針を改めねば、直ちに打殺されて仕舞ふぞ。
僕は友誼上、見て居られぬからと云うて呉れ給へ」
と云うたら、其官憲は、
「委細承知しました。今日午後三時に總理に面會する約束ですから、慥《たしか》に御傳言を傳へて置升《おきます》」
と答へた。夫《それ》から直ぐに庵主は、田中、八代の兩大將と、汽車に乘つて、博多に向うたのである。夫《それ》から其翌日、博多に着いて、常盤館といふ料理屋で、三人で酒を飮んで居たら、其晩の九時四十分に、東京から其席に電報が來た。曰く、
「原總理大臣は、昨晩(七時)東京(ステーション)に於て、兇漢の爲めに短刀で腹部を刺された。兇漢は朝鮮人、……『オカゴン一』と云ふ壯士である。今混雜中」
又間もなく又來た電報は、
「原總理は、今絶命した。兇漢は直ちに、捕縛せられた」
此《これ》を見た三人は、瞠若《だうじやく》として顏を見合せた。庵主曰く、
「僕丈けはコーシて居られぬ。……僕は出發前原總理に、『用心せねば殺されるぞ』と、人を以て警告をして來たから、殊に兇漢が朝鮮人と聞いては、何だか僕が、此事を事前から予知して居ながら、此地に外したやうで、自から安んぜぬ心地がするから、明朝の一番で歸京して、明白に事を處理せねばならぬと思ふ」
と云ふと兩大將は、
「貴樣が歸つて仕舞うて、俺共許りで、是所《ここ》で酒を飮んで居らるるか、夫《それ》では共に歸京しよう」
と云ふので、其翌朝一番汽串で、三人一所に歸路に就いたが、汽車中で八代大將が新聞を讀んで居たが、庵主の肩を叩いて、
「オイ杉山、……心配無用ぢや、兇漢は朝鮮人ではないぞ、……此《これ》見よ「中岡艮一」と云ふ、日本人ぢやぞ」
「何ぢや日本人か、何所の人間ぢやらう」
「夫《それ》はマダ分らぬ、……大阪で買ふ新聞では分るぢやらう」
「夫《それ》なら、丸《まる》で知らぬ犯人であるから、僕の關係はないのぢや、併し歸る事は歸らにやならぬ」
と云うて歸つて來た。是《ここ》に於て庵王は、トウトウ、大阪の藤田傳三郎から紹介された、稀世の畏友、原敬と死別れたのであつた。 ここに引用した文章を読めば、杉山茂丸が原敬に伝えようとしたことが朝鮮統治に由来するのだということは、容易に察することができる。おそらく朝鮮人のうちに原敬暗殺を狙う者がいるという情報を、茂丸は察知していた。そのため、原暗殺犯が朝鮮人であるとの一報に接したとき、茂丸は激しく動揺したのである。そこには、朝鮮をめぐる茂丸固有の事情があることも容易に推察できる。そして、犯人が日本人であると判ったときに、「何ぢや、日本人か」という間の抜けたような科白が出たのであろう。筆者のこの推論は、「俗戦国策」のこの章に続く「原から加藤まで」の章が、「高橋是清が總理大臣となつたから、庵主は直ぐに面會をして、朝鮮政治の、忽《ゆる》がせにすべからざる巨細《こさい》の事情を警告して置いた」という書き出しで始まっていることからも裏付けられるであろう。
ましてこの著者が、中岡艮一の背後に五百木良三がいたことを述べて「しかし茂丸は無関係を装った」などと書いているのは、何を意図したのか、全く意味不明である。「装った」という限りは、実際には無関係ではなかったということを証明せねばならぬ。その証明もせずに、かつ自己の説を否定されない範囲の断片的な引用だけを提示して、杉山茂丸が原敬暗殺事件に関与したかのような印象を読者に植え付けようとするのは、正当な態度とはいえぬ。筆者は、右に引用した茂丸の文章を読んだ者が、行間を読むが如き方法によって茂丸と原暗殺との関わりを推察するのであれば、それはやむを得ぬことであると思うが、著者の如き遣り口で読者をミスリードするのは是認できない。
二・二六事件への関与の仄めかしは、その二・二六事件で軍人としての生命を絶たれた真崎甚三郎陸軍大将の談話を元にしている。この談話は、昭和十七年三月三日に、杉山茂丸の伝記編纂にあたっていた門生の喜多川楚山が、真崎を往訪した際の速記録であり、原稿用紙に清書された状態で、福岡県立図書館杉山文庫に所蔵されているものである。
著者は杉山茂丸と真崎とが三度目に会ったときのことを「憂国志士が集まるきな臭い席上であった」という。しかし真崎自身が喜多川に語った言葉を引用するなら「其の次に會ったのは、其の時に列席した人も場所もちょっと言へないけれども、有志の人数名集った時ぢゃった」というものである。「憂国志士」も「きな臭い」も、著者の空想に過ぎない。敢えてこうした耳目をそばだたせるような言葉を用いて、センセーショナルな効果を狙うのは、本書の常套手段である。
さらに言おう。本書は、その席で茂丸は「軍隊を結束すべきと檄を飛ばし」、そして「真崎をはじめ、その場にいた軍人や民間右翼は色めきたった」というのだ。「檄を飛ばす」の誤用は愛嬌としても、その後の一文はいったい何事だ。右に引用したとおり、真崎は、誰が、どのような人物がその場に集まっていたのか、一切口を開いていないのである。「軍人や民間右翼」がその場にいて「色めき立った」などと、どうして言えるのか。軍人とは誰のことか、民間右翼とは何者だというのか。著者はそれを知っているとでもいうつもりか。それともこの著作は、見てきたような嘘をつくという講釈師の講談語りなのか。
筆者が本書を虚構と妄言の偽伝だというのは、まさにこうした点を指して言うのである。
因みに、真崎と茂丸の三回目の会見となったこの席で、茂丸は「軍の今の有様では来るべき情勢に對して不安だから、何とか一つ出来ることなら結束せしめたい」(真崎談話より引用)との考えであった。本書の末尾で著者が「青年将校たちを焚きつけ」と表現したのも、真崎との関係から茂丸を二・二六事件に結びつけようとする著者の作為であろうが、おそらく茂丸の意図は、純粋な軍の結束であり、秩序と統制の回復であったろう。軍は平和のためのサーバントであらねばならぬという茂丸の軍人観を考えると、十月事件で橋本欣五郎を救ったのちも蠢動の止まぬ青年将校が、遂に武器をもって政界要人を襲った五・一五事件を憂えたであろうことは容易く想像できる。まして「焚きつけ」たなどとは、正反対の解釈である。この点については、夢野久作の「父・杉山茂丸」において、松岡洋右から聞いた話の中に伏せ字で表現された部分を読み解こうとした、一又正雄の論考も参考となろう。一又は「現在の□□の……を夜も眠られぬ程、重要視し、且つ憂慮されて居る」などという文章の□□に、「軍部」という言葉を当てはめて、最晩年の茂丸の煩悶の種が何であったのかを解明しようとしたのである。 ここで、少しこれまでの論述をまとめておこう。
杉山茂丸の事蹟は、茂丸自身が書いたものを除けば、同時代の政治家やジャーナリストらが書き残した文献から推察するしかない。しかしその文献も、茂丸の事蹟が多くは政財界の裏面に関わるものであったが故に、正史として語られるものではなく、かつ極めて断片的である。いわば、杉山茂丸は近代史の裏面から、その断影を垣間見せるに過ぎない存在である。
このことは、茂丸が為したことも、あるいは為さなかったことも、事実として提示できるものは限られているため、その事蹟を記そうとする者に、大胆な推論を展開する機会を与えることを意味する。
おそらく、アカデミズムに属する者が杉山茂丸研究を敬遠せざるを得ないのは、そうした推論に終始せざるを得ない人物研究に学術上の意義を見出し難いということがあるに違いない。
逆説的に言えば、アカデミズムから離れた位置に立てば、大胆に、面白おかしく、或いは扇情的に茂丸という人物を仕立て上げることが可能である。
そして本書は、杉山茂丸という人物の事蹟が学術的に証明困難であることを奇貨として、著者の放縦な空想を随所に鏤め、そのことによって茂丸について知ろうとする読者に、近代史上の数多いテロリズムを裏面で操った人物たる印象を植え込もうと意図したものと断ぜざるを得ぬ。
しかし考えても見よ、杉山茂丸の為した事蹟を証明できないということは、同時に為さなかった事蹟を証明することもできない、ということなのだ。本書において著者が、杉山茂丸が伊藤博文ばかりか、児玉源太郎や原敬といった人物の死にまで関わっていたかのように「匂」わせ、仄めかしたことに対し、茂丸の遺族や子孫は根拠を示して反論することができない。そして活字というもの、出版物というものの恐ろしさは、無知な者にとってそこに書かれたことが、たとえ「かも知れない」という程度の仄めかしに過ぎなかったとしても、事実であると書いたと等しい効果を生むことにある。
即ち、先に言った者が圧倒的に有利であり、言われた方がそれを払拭することはほとんど不可能に近いのだ。
杉山茂丸が、例え伊藤博文暗殺に関わっていたとしても、児玉源太郎を毒殺したのだとしても、原敬暗殺犯を操っていたのだとしても、明確な根拠を示して指摘するのであれば、その根拠の正当性をめぐった議論もできよう。その結果、指摘が正しいのであれば、汚名すら甘受せざるを得ないだろう。しかし本書で示されたものは、あくまで著者の主観であり印象に過ぎず、何らの根拠も有しないものばかりである。おそらくは著者自身、その点は判りすぎるほど判っているに違いない。であるからこそ、「匂い」と著者が表現したような、断言せず、従って事実に反するという批判を回避できる可能性を孕んだ記述を執拗に繰り返して、読者の理解を茂丸=近代テロリズムの操縦者という公式に向かうようレトリックを弄したのだ。そのようなものを、遺族が得心して受け入れられよう筈がない。
これらの点をふまえれば、杉山満丸氏が本書への協力を拒絶したことは、非難されるべき事柄とは言えない。
著者は杉山満丸氏に対し「濁の部分もあってはじめて茂丸の実像に迫ることが出来、本稿の存在意義もある」と主張したのだという。この主張にこそ、著者が本書を上梓した目的が語られている。すなわち、著者は杉山茂丸の「濁」、それも著者が根拠を示すことすらできない印象或いは「匂い」に過ぎない「濁」を描きたかった、そこにこそ本書の「存在意義」があった、ということなのだろう。しかしその「濁」が著者の作為に出た虚構、妄言であることは、これまで述べたとおりである。
試みに、この著者が得意とするようなレトリックを弄して本書の執筆意図を「匂」わせてみよう。著者は本書執筆に五年の歳月を費やし、平成十七年(2005年)に本書を出版する予定であった。では、五年前に著者を茂丸伝執筆に駆り立てたものは何だったのか。実は、上垣外憲一の「暗殺・伊藤博文」が上梓されたのが、五年前に当たる平成十二年(2000年)であった。「暗殺・伊藤博文」にインスパイアされ、それよりもっとセンセーショナルに暗殺者杉山茂丸を描けば話題になるかも知れぬ、と考えたのだとすれば、杉山満丸氏のみならず、三苫鐵児氏も室井廣一氏も、みんな利用されていたということになるのかも知れないが、事実は著者自身にしか判らないことである。 さて、本稿はここまで、「杉山茂丸伝《アジア連邦の夢》」の虚構について述べてきた。本稿執筆の意図は既に大半が満たされているが、もうひとつ、この著作の数多くある誤謬や意味不明の記述のいくつかを指摘しておこう。揚げ足取りに類した行為ではあるが、読者が誤った理解に陥ることのないように、といいわけを冒頭に付しておく。
まず7頁。「日韓併合を断行したといわれる伊藤博文」は、明らかに誤謬である。韓国併合前に死去していた伊藤が、併合を断行できるわけがない。同じ頁の「南満洲鉄道を計画し台湾総督になった児玉源太郎」は順序が逆だろう。
10頁の「芦屋に移ったのは明治二(一八六九)年である」という断定は、実はできない筈だ。茂丸の著作においてはいくつかの異なった記述がなされており、時期の特定は困難であって、廃藩置県があった明治四年前後であろうということしかできない。この点については室井「杉山茂丸論ノート」の第四回に詳しく論述されている。
15頁の「わずか一四歳の茂丸もこのとき福岡の変に参加していた」というのは誤謬。「其日庵叢書第一篇」所収の「辛抱録」を参照したのだろうが、そこに書かれているのは「西南戦争の野次馬に行って直ぐフン捕まへられ」たというものである。同じ頁の「そして全ての叛乱が鎮圧されると、残党たちはことごとく新政府の弾圧を受けた。もちろん茂丸の家も例外ではなく、一家をあげて筑前山家宿(現福岡県筑紫野市)に転居」という部分は、誤謬というより虚構である。茂丸の家が新政府から弾圧を受けたというのは何を典拠とした記述だろうか。また、山家への移住は、西南戦争以前に行われたというのが有力な見方である。
16頁の頭山満が「萩で拘禁されていた」との記述と、それに続けて箱田六輔や進藤喜平太がやはり「皆、萩の獄舎にいた」という記述。萩ではなく山口である。参照テキストはいくらでもあろう。
22頁の「この頃の茂丸の認識は、朝鮮版明治維新を拡大することで、福岡の変(あるいは西南戦争)の再起を促し、同郷の先輩たちの名誉回復をしたかっただけかもしれない」という記述は、何のことやらさっぱり意味が判らない。甲申事変の拡大が福岡の変や西南戦争の再起になり、先輩の名誉回復になるという理屈は、斜めから読んでも理解不能である。
25頁の山岡鉄舟の紹介状を持って伊藤博文に面会に行った際の「そんな報告が書かれていたとは知らない茂丸は」とは、また理解に苦しむ誤謬である。茂丸は伊藤に面会する前に、山岡の手紙を開封して読んでいた。だからこそ、素手で伊藤を殺すしかないと決心していたのである。山岡の手紙を開封したくだりは、「其日庵叢書第一篇」所収の「借金譚」に記されている。
29頁、暢気倶楽部についての記述で「そこで政府の重要事項を話し合う秘密会である」と、いかにも謎めかした書きぶりだが、朝比奈知泉の「老記者の思ひ出」によれば、「同好の友人六七輩相會して閑談《むだばなし》もし、議論もし、時には政治談に渉りて、眉宇軒昂し、口角沫《あわ》を飛ばすこともあれば時には藝盡しとあつて、義太夫を語るもあれば、清元、長唄を唸るもあり。隨分馬鹿げた會合では有つた」のが実態であり、「政府の重要事項を話し合う秘密会」などではなかった。
次の30頁には朝比奈について「彼を茂丸に紹介したのは玄洋社の結城虎五郎」とあるが、そう断定する根拠は何だろうか。朝比奈と結城が友人関係にあったことは「老記者の思ひ出」に見えるが、著者の記述を証明するものはない。室井廣一の「杉山茂丸論ノート」第十五回には「結城の紹介という線もあるが」と、可能性のひとつとしては示されているものの、断定はされていないのである。
32頁では九州日報に関して「頭山の命を受けた平岡浩太郎」という記述があるが、これなどはとんでもない話である。誇り高い平岡が「頭山の命」なぞ受けてたまるものか。玄洋社の歴史というものに対する基本認識の問題である。頭山社長のもと、経営不振に喘ぐ福陵新報を、炭鉱経営者として成功した平岡が救ったのである。「西日本新聞社史」を参照すれば判る。
42頁には、夢野久作ファンなら噴飯ものの記述がある。「奈良原至(キリスト教者で玄洋社きっての乱暴者)」という記述である。キリスト教者とは洗礼を受けた者を指すことばだろうが、奈良原が洗礼を受けていたとは知らなかった。おそらくそんなことを知っているのは、世界中に著者だけだろう。
天佑侠(「侠」の字は正しい字ではないが)に関する記述は、46頁をかわきりに、48頁の冒頭、72頁、74頁などに見られるが、天佑侠に関する著者の理解には大きな誤謬があると思われるので、一括して採り上げておく。著者は、杉山茂丸が山縣有朋から託された資金で朝鮮に潜入させた同志六人(この間の経緯は筆者の別稿を参照されたい)が、別に川上操六から的野半介のルートで朝鮮に渡った玄洋社社員十数名と合流し、それが天佑侠となったと述べている。大きな誤謬とは、茂丸が送り込んだ同志と天佑侠とは無関係だという点である。天佑侠とは、従来朝鮮にあって大崎法律事務所に拠っていた浪人(吉倉汪聖、武田範之、白水健吉、田中侍郎ら)と、二六新報主筆の鈴木天眼ら、さらに玄洋社の内田良平、大原義剛が参加したものであり、概ね十四名であったと言われている。茂丸の同志と天佑侠とは、別のものなのである。また、著者は天佑侠を、茂丸が関与して組織したものであると記述しているが、茂丸は天佑侠には関与していない。天佑侠は鈴木天眼、的野半介、大崎正吉らの動きの中から誕生したもので、そこに茂丸の影は見られない。「玄洋社社史」や「国士内田良平 その思想と行動」(内田良平研究会・展転社)などを参照すれば明白である。なお、些細な部分を言挙げするが、72頁の「これにより頭山満以下の玄洋社社員十余名が東学党援軍のため渡韓することになった」という記述は、普通に読めば頭山満も渡韓したことになってしまうが、事実に反する。また、天佑侠に参加した玄洋社社員は、先に記した二名以外にはいない。十余名というのは事実ではない。
47頁に戻って、満洲義軍に関する記述については「玄洋社が組織したゲリラ部隊」と表現され、さらに満洲義軍の資金が頭山所有の炭田を売却した金から出ていると断定されている。しかし満洲義軍とは、参謀本部の福島安正少将から花田仲之介中佐に与えられた正規の命令に基づく特別任務隊なのであり、頭山満が協力して玄洋社から義兵を募ったものであるから、「玄洋社が組織した」という表現は正しくないし、その活動資金は自ずと陸軍によって賄われた筈である。頭山の炭鉱売却資金が流れたという根拠がいずくにあるのか疑問である。また、同じ頁に茂丸が「明石元二郎を通じて第一次ロシア革命に加担していた」という記述も、根拠のない説である。
56頁。山縣有朋が首相に就任した旨の記述に続き「そしてこれ以後、陸軍内部で頭角を現し、陸軍=山県のイメージが出来ていく」とある。山縣有朋が、明治三年八月に外遊から帰国して兵部少輔に任ぜられて以来、兵部大輔、陸軍大輔、陸軍卿、参謀本部長などを歴任し、陸軍大将に登りつめて、徴兵制の実現などの実績をひっさげ、軍政畑に君臨していたことを知らないのか。「これ以後、陸軍内部で頭角を現し」たなぞと、いったい何を参照して書いているのかと思う。山縣に関しては岡義武の「山県有朋 明治日本の象徴」を参照すれば事足りる。
70頁には茂丸が川上操六との談話の中で「朝鮮からの亡命客の金玉均や宋秉■(田+俊の旁、読みは「しゅん」)も日本に協力してくれると勇気づけ」たと書かれている。この部分は茂丸の著作「山縣元帥」からの引用であるが、実際の茂丸の記述は、川上から「朝鮮と深い関係があると聞いているが今はどうか」と問われて、「別に深い関係と云ふでも有ませんが、安炯壽などは、暫く日本にも呼んで居升たし、其一派は今に往來もして居升、又金玉鈞等と十八年頃一所に來升た、宋秉■等も居升から、相談すれば親切に世話丈けは何時でも仕て呉れると思ひ升」と答えたのである。著者の記述との相違は歴然としていよう。こうした勝手読みや引用時の改変によって、どれだけ本書の記述が歪められていることか。
73頁には、茂丸ではなく頭山満に関して、著者の得意な仄めかしが披露されている。金玉均暗殺の「犯人である李逸植と洪鐘宇の二人が、事件直前に頭山満と密談していたという謎だ」と書かれており、恰も「密談」が確定された事実であるかのように見せかけられている。この記述は石瀧豊美の「玄洋社発掘」の記事を元にしたものらしいが、「玄洋社発掘」には「上村希美雄氏の『宮崎兄弟伝』によると、朴仁根編『金玉均年表』には、金の上海渡航直前の三月十一日、頭山満が『大阪駅頭で刺客李逸植、洪鐘宇と密談を進め』たとの一行が見られるという。金の永年の友人である頭山が、金玉均暗殺事件に一枚かんでいたとすれば、こんな不思議な話もない。何か根拠があるのだろうか」と記されているのである。誰も事実だとは言っていない、むしろ石瀧は、当然の態度ではあるが「何か根拠があるのだろうか」と懐疑を表明しているのである。
89頁には「その『兒玉大將傳』は、現在、周南市立中央図書館の郷土資料室に保管されている」という記述があるが、何をわざわざこのようなことを書き記したのか、意図が判らない。幻の稀書とでもいうならともかく、この「兒玉大將傳」なら拙宅の書架にだって並んでいる。
その89頁から91頁にまたがる「鄭成功伝説」という章は、児玉源太郎と後藤新平のコンビによる台湾統治について書いた章であるが、浄瑠璃の「国姓爺合戦」を引き合いに出して「児玉や後藤は『国姓(性)爺合戦』や「台湾歴史歌」に見える日台同祖の意識の延長で台湾経営をしたのである。その奥に潜んでいたのが茂丸だった」と述べるのだが、ここも何を言っているのかさっぱり判らない。「日台同祖の意識の延長」の「台湾統治」とは具体的にどのような統治手法を指すのだろうか。茂丸が浄瑠璃愛好者だから「国姓爺合戦」を知らないはずがないという点はまずその通りだろうと思うが、だから児玉と後藤の台湾統治に「国姓爺合戦」が活かされて、その背後に茂丸がいるのだ、とは牽強付会にもほどがあろう。
97頁には「暢気倶楽部の一員で渡米経験のある金子堅太郎」という記述がある。先にも引用した朝比奈知泉の「老記者の思ひ出」を見ると、暢気倶楽部はもとより会員名簿があるわけでもない知友の集まりに過ぎないが、「常連として杉山茂丸、後藤新平、大河内輝剛、加藤正義、加藤敬介、後藤猛太郎、高崎安彦及び予あり。時には突拍子もなき飛入の會員もありて、中には馬越恭平、郷誠之助杯もあつたと思ふ」と書かれている。金子が暢気倶楽部に出入りした可能性は否定しないが、その「一員」とまでは言えないであろう。朝比奈が書いた別の著述「暢気倶楽部に就て」(「朝比奈知泉文集」に収録)や、杉山文庫所蔵の金子堅太郎の回想にも、そのようなことは書かれていない。
107頁には「小美田隆義から金を引き出し、それを政友会の政治資金として伊藤に渡した」と書かれている。茂丸が伊藤博文の政友会結成に際し、十万円という大金を提供したことは、茂丸の著「山縣元帥」や「俗戦国策」に記されているが、その金の出所は明らかにされてはいない。この両著に記されたいくつかのヒントを元に、一又正雄と野田美鴻がそれぞれ調査をして辿り着いた名前は、どちらも「岡田治衛武」という人物であった。それでも一又は、金の出所は小美田隆義ではないかと考えていたようだが、結論は出ていない。従って小美田と断定するのは正しくないのである。因みに岡田治衛武という人物の経歴はよくわからないが、山口県人で安政六年生まれ、東京鉄道株式会社の社長を務めたほか、明治三十年代には衆議院に議席を有していたようだ。
115頁の記述にも驚かされる。「政友会総裁時代の星亨」という記述がされているのである。星亨が総裁をしていた時代の政友会とは、いったい何時からいつまでであろうか。政友会の初代総裁は伊藤博文、二代総裁は西園寺公望である。星亨は西園寺が総裁になる以前に刺殺されたので、政友会総裁になることはできなかったと信じているのは、おそらく筆者だけではあるまい。
117頁から119頁にかけて「義太夫と日露戦争」という章がある。この章も先の「鄭成功伝説」と同様に、茂丸の義太夫趣味と国事を強引に結びつけようと試みた結果、意味のよくわからない内容になっている。日露戦争に備えた話し合いをするために茂丸が義太夫会を頻繁に催していた、茂丸は「義太夫論」を書いた、「死の哲学が茂丸の義太夫だった」、そして「更にまた戦争指導までも、それを通じて行っていたのだ」とは、何を言いたいのであろうか。とりわけ、「戦争指導」とは何だろう。茂丸が戦争指導をしていたとしか理解できないが、それは具体的にいつ、何をしたというのであろうか。茂丸が戦争を指導するような立場であったというのだろうか。また、118頁の「この時期に茂丸が主催した義太夫会には皆がよく悩まされたと陸軍中将の堀内文次郎は語っている」という部分は、福岡県立図書館杉山文庫所蔵の「陸軍中将堀内文次郎閣下訪問記」が典拠であろうが、「義太夫というものには皆悩まされた。よく拝聴を仰せ付けられたものです」と発言したのは堀内ではなく、聴き手の喜多川楚山であるし、会話の内容は日露戦争前のことだけを言っているのではない。これほど参照がいい加減では史実が歪んでしまう。
121頁の明石元二郎に関する記述では「シーリヤス」という表記が気になるところ。明石が支援したフィンランドのコンニ・シリアクスのことだが、小森徳治の伝記「明石元二郎」ではシリヤクスと表記されている。「シーリヤス」と表記しているのは杉山茂丸の「明石大將傳」であるが、茂丸自身が「小説」と呼んでいる著作から、あまり一般的とは思えない表記を引き写すというのはいかがなものかと思う。また明石の工作資金について「もちろん茂丸を通じて筑豊炭田の売却資金が流れたことも容易に想像がつく」というが、何か根拠があってのことであろうか。筆者にはあまりに荒唐無稽な想像のように感じられるのだが。
125頁の「その後は満洲軍総参謀長の児玉源太郎の部屋に閉じこもり、児玉の副官だった田中義一を交えて南満洲鉄道株式会社の経営案を練る」。これは「俗戦国策」が典拠と思うが、よく読み返してみるがよい。茂丸は児玉から資料を託され「君誰にも云はずに之を持つて歸つて(中略)君が一己で考えた案を僕に聞かせて呉れ給へ」と言われたのである。そして、日本に戻って向島の別荘に籠もって資料の分析に十三日間を費やした上で、官民合同会社としての南満洲鉄道株式会社の案を取りまとめたのである。茂丸の南満鉄道案は、奉天の児玉の宿舎で練ったわけではなく、田中義一を交えたものでもなかったのである。
128頁の「児玉の急死後、満鉄総裁を継いだのは」という部分と「児玉の後釜に」という部分は、何のつもりで書いたのだろうか。この書きぶりでは、後藤新平が総裁に就任する以前には、児玉源太郎が満鉄総裁であったかのように読むしかないのだが。
135頁、辛亥革命に関する記述に「満洲義軍の参加者と重複しており、日露戦争時にゲリラ活動をした彼らが後に辛亥革命に参加したようである」という記述は、二重の誤謬を孕んでいる。まず、「辛亥革命に参加」という言葉の定義から始めなければなるまい。「辛亥革命に参加」という言葉を額面通りに解釈するなら、まさに武装蜂起として実現された革命戦争そのものへの参加であると読むことができる。とすれば、辛亥革命には満洲義軍に加わった玄洋社員が参戦していたということになるのだが、革命軍に投じた日本人は末永節、萱野長知、金子克己、岩田愛之助、三原千尋、石間徳次郎といった人々であり、石間は漢口下流の戦闘において戦死している。そしてこれらの人々の中に玄洋社員はいるものの、満洲義軍に参加した玄洋社員の名は見られない。一方、この文章の前には、辛亥革命勃発後に、頭山満らが中国に渡ったことが記述されているから、この「辛亥革命に参加」という言葉は、頭山らの行動を指すと読むこともできる。それであれば、柴田麟次郎と藤井種太郎の二名が、頭山の渡航に同行しているが、しかしそのことを「参加」と呼ぶのは些かならず無理があろう。なぜなら頭山の渡航は、辛亥革命成った中国において、所謂「支那浪人」が跋扈跳梁し狼藉の限りを尽くしていたことから、それらを掣肘できるのは頭山を措いてないというので、頭山の出馬に至ったものであり、革命成立後の行動であるから「参加」と呼ぶことはできないのである。以上の記述については「東亜先覚志士紀傳」及び「玄洋社社史」を参照。
136頁。「茂丸の長女瑞枝の嫁ぎ先の親であり、医者でもあった金杉英五郎」という記述がある。瑞枝が嫁いだ金杉進は、杉山龍丸の「わが父・夢野久作」によれば、金杉英五郎の甥であったという。一又正雄は金杉進を金杉英五郎の長男と書いているが、筆者は叔母と甥の関係にあった杉山龍丸の言を採用したいと思う。
137頁には、茂丸の次弟五百枝(龍造寺隆邦)の死について書かれている。「茂丸は弟を順天堂病院に入院させて手術を受けさせるが時既に遅く、手厚い看護と治療の甲斐もなく間もなく他界した」とあるのだが、ここもいったい何の文献をどう読んだらこんなことが書けるのか、理解に苦しむ。典拠が茂丸の「百魔」であろうことは疑いないが、「百魔」には五百枝の闘病について、「數へ來れば龍造寺が新橋停車場にて發病以來、丁度十年の間、各名醫方も驚嘆する程學理と藥劑と、施術と看護との四つに最善を盡した」と書かれているのを読まなかったのだろうか。十年という歳月が「間もな」いなどとは非常識と言わねばならぬ。そして五百枝の死因は、膀胱癌ではなく、腎臓病と心臓に転移した結核であったというのが、「百魔」の結論なのである。
140頁の高山秀雄(姜昌基)に関わる記述も、杉山文庫所蔵の「巨人杉山翁を偲ぶ」と題された高山の回想が典拠であろうが、この回想を読んだ限りでは韓国併合の「喜び」を語ったものではないし、高山は茂丸の友人と呼べるような間柄ではなかっただろう。この回想の冒頭には「杉山翁には約十年間出入りを許され」と書かれているのである。
147頁から149頁にかけて、伊藤博文暗殺についての記述がある。伊藤暗殺への茂丸の関与云々については、筆者は既に別稿を記しているからここでいちいち反論をするつもりはないが、「もしかすると安と茂丸たちとは、どこかで繋がっていたのかもしれない」(149頁)とは、根拠もない憶測を、実に作為的に言挙げをするものだと思う。
176頁の国技館再建に関する記事では、入間川に関する記述が全くの誤謬である。相撲界と茂丸との関わりについての事実関係は、杉山文庫所蔵の「入間川訪問速記」を典拠とするのだろうが、入間川の経歴などは著者独自の調査によって執筆されたものだろう。しかし、これは人違いである。茂丸とともに国技館の再建や相撲界の振興に奔走したのは、もと幕内格行司の木村宗四郎であった入間川親方である。本名は坂本源治郎、のち中田姓となった。行司を引退後、はじめ年寄春日野を襲名し、のち入間川となった。念のため、著者の調査が誤りであり、筆者の記述が正しいとする根拠を示しておこう。「入間川訪問速記」の取材は、昭和十七年三月十一日に入間川邸で行われている。そしてこの日に「入間川」を襲名していた人物は、元行司の木村宗四郎であった入間川なのである。また、談話速記の中で、茂丸の入間川に対する呼びかけが「春日野、こんなことでは駄目だぞ」と書かれていることから、この入間川は、もと春日野を襲名していたことが判る。もと春日野の入間川とは、元行司の木村宗四郎しかいない。
以上で誤謬の指摘を終える。気になる点は外にもあるが、些細な事柄であるから書かずにおこう、本書がどのような著作であるのかは、もう十分に語り尽くしたであろうから。 筆者は、これほどに虚構と誤謬に満ちた著作が出版され、杉山茂丸に関心を持つ若い読者に読まれるのかと思うと、慄然たる想いを禁じ得ない。筆者は幸いにして、本書の正当な価値をいくばくか読み解く知識と資料を持ち合わせていたが、茂丸に関心を持ちながら関係書籍の高騰する古書価に手が出ず、本書の刊行で初めて茂丸の生涯を俯瞰しようとする若者が、多くの誤った知識を植え付けられるのだとしたら、本来文化的営みであるはずの出版という事業が、実に罪作りな営みに変じてしまうのである。誤謬を見抜けないままにこの著作を出版した弦書房は、もと葦書房のスタッフによって興された出版社であると聞いたが、あの良質な図書を数多く生み出した出版社にゆかりの版元から、このような出版物が登場してしまったというのも、悲しい限りである。
(2006.02.05)
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