
| a | 百魔 |
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二 平岡浩太郎氏と初對面の悲喜劇 壯士舊恩を追うて墓頭に泣き
快傑貧窮に處して異名を得る 庵主が頭山氏に面會して、四五日位の後心臟の鼓動も止まる程の驚報を聞いた。夫は庵主が云ふに云はれぬ厚恩を蒙つた、舊藩主黒田長溥老公薨去の報である。庵主は七歳の時から暫く此老公の君側に仕候し、初名《うぶな》秀雄と云ひしを、改めて今の茂丸と云ふ名を賜はつたのである。去る明治十三年初めて上京の砌《みぎり》、生涯忘るることの出來ない老公の御訓誨と、今筆に書くことの出來ない深大の恩惠とに悉く違背して、飽迄《あくまで》の我儘と暴戻とを續行して、終《つひ》に溜池のお屋敷の門前をも通れぬ程の、自分咎めの大罪を犯したのである。何時かは此罪をお詑《わび》せんと思ひ思ひて、心苦敷《こころぐるし》く暮して居る中に、此悲報である、庵主は數日前同郷畏敬の先輩、頭山氏の意見によつて、多年強情の骨をへし折られ、其後一週間も立たぬ中《うち》に、又此落膽の悲報に、云ひ得られぬ精神上の打撃を受けたのである、此庵主の心理状態を知る者は、第三者として一人もない故、庵主は苦痛煩惱の餘り、初めて此心中の■《※眞+頁。漢字フォント「顛」の正しい字体。unicode985A》末を巨細《こさい》に自白した長文の手紙を、郷里の草の屋に淋しく暮して居る老父に送り、多年強情に詫言を云うたのである。是が庵主臍《ほぞ》の緒を切つて初めての詫言である。庵主の父は、庵主を生んで庵主を育て、庵主にてこ摺りて、常に庵主で泣續けて來た人故、今此自覺改心の手紙を見た時の悦びは、不日に來た返書にも躍如として居て、今尚ほ記憶に新《あらた》なるのである。扨《さて》之は後の事で、庵主は先づ頭山氏及郷里の人々と共に、此感慨深き黒田老公の葬儀に列すべく待構へたのであつたが何樣一ケ月四圓の下宿屋に住み、新聞賣を渡世として居る身の上で、突然舊藩主の葬儀に赴くのであるから、其困難は名状すべからずである。先づ理髮店に行つて鬚や髮を刈り、宿の主人に事情を咄して、着物と羽織袴を借り、八錢の山桐の下駄を買うて出掛けたが、其宿の主人は、人並外れた小男であるから、羽織着物は庵主の腕の半《なかば》位の袖で、袴は脚の半分位よりないのである。時間間際の事故《ことゆゑ》仕方なしに其儘出掛けたが、餘程不思議の恰好であつたらうと思ふ。一方頭山氏の宿に行くと、氏も生れて初めて、非常に高價な洋服を拵へて、今日を晴れと初めて着るのであるが、着方が分らぬ。先《まづ》白《ホワイト》シヤツを着て、夫から直にチヨツキを着、夫からヅボンを着、其次にフロツクの上着をつけたが、後に一つ不思議な物が殘つて居る、夫は桃形のネクタイである。夫を二人で相談をして、『何でも此は頸飾に違ひない』と云うて、一番後で頸にピンでブラ下げた。最後にラツコの毛皮付の外套を着たが、サア大變帽子が無い。そうして又それを買ふ金が一文もないのである。『帽子位は無いで構はぬ』と云うて、頭山氏は市街中《まちぢう》のそのそ濶歩するのである。とうとう葬儀を仕舞ひ、青山の墓地に行つて、思ひ出多き舊主老公の御遺骸は、地下幾丈の底に永久の眠に就かれたのである。會葬者は廣き墓地に充滿する程あつたが、其中尤も敬虔の意と、悽鬱の感に閉ぢられた者は身幅の足らぬ借着の庵主と、不揃の洋服姿の頭山氏計りでは無かつたと思はれた。埋葬式が濟んで人は蜘蛛の子の如く八方に散つたが、其混雜の中に頭山氏の紹介で、庵主に挨拶を云うた人が、雷名天下に轟いた同郷の先輩平岡浩太郎氏であつた。抑々《そもそも》此平岡氏の嚴父仁右衞門氏と母の里方なる林作左衞門家とは、浩太郎氏の幼少の時より殆んど同家庭内に募した程の親敷《したしき》關係があつたさうなが、庵主は七歳の頃より無類の惡戯小僧《いたづらこぞう》で、諸所に流落して居た爲めに、浩太郎氏とは面識をさへ有せぬのであつた。浩太郎氏は天資の英邁に加ふるに、夙《つと》に深遠の大志を抱き、常に國事を慷慨して各地方の騒亂事件には一として關係せざる事なく、弘く天下の志士と結んで國事を謀議せるより、一種微妙の交際術に長じて、初對面の人等には、一見其人の心を執る程の氣魄を漂はす人である。頭山氏が青山原頭で庵主を介し『此人は同郷の傑士杉山と云へる人なり』と、破格の紹介をするや、平岡氏は慇懃の辭令に、温厚の態度を以て庵主に頻りに交歡を促がした。直《ただち》に自から奔走して三臺の人力車を群集の中《うち》より呼び來り、庵主と頭山氏とに『さあ之に乘り給へ今より自分の宿に同行して緩々《ゆるゆる》と物語しようでないか』と云《いう》た。庵主は素《もと》より一文の車代の持合《もちあはせ》もなく、頭山氏も同樣と見えて、歸路も又兩人でのそのそ歩行すべく思うて居た矢先故、平岡氏の厚意は至極の幸と思うて、云はるる儘に其車に乘つて一同乘付けた所は、京橋區南鍋町の山城屋とか云ふ宿屋にて、(此宿は鹿兒島の豪傑故野村忍助とて平岡氏が西南役以來の戰友の舊宿所たりし家である。後年庵主が此家屋敷を買入れて、門生共に三興社と云ふ輸入商店を開かせた家であつたのは實に一種の奇縁である)庵主も頭山氏も、平岡氏と共に車を乘捨て、二階に上り、三人火鉢を圍んで愉快に談話をして居る中《うち》、宿の下女が平岡氏の耳に近寄りて何事か■《※口+耳。unicode54A1。讀みは「ささや・く」》くと、平岡氏は目を瞋らして、『下で拂つておけ』と小聲で云ふ下女はしぶしぶと下りて行く、又暫くすると其下女が來て『帳場に小《こま》かいのが御座いませぬからどうか戴いて來いと申《まをし》ます』と云うた時の平岡氏のきまり惡るさうな顔は譬へるに物なしである。庵主は之を聞くと同時に、『あ、此人も一文なしぢやなあ、俺が拂つて遣り度いが素より一文なしである。鳴呼車など飛《とん》でも無い物に乘つて來た』と後悔したが頭山氏はと樣子を見ると、是も一文なしの爲めか、笑《ゑみ》を湛へて火箸で火鉢に字を書いて居る。平岡氏は同郷新顏の庵主に初對面の、氣前を見せて車に乘せたのは好かつたが、車代を帳場が立替へぬで總ての不體裁を露出したのは、當時我々浪人仲間が、如何に惨澹たる貧乏海に游泳して居たかが分るのである。夫《それ》から平岡氏も餘りのきまり惡さに『僕は失敬ぢやが風を引いて頭が痛いから、寢ながらお咄を仕樣』と云うて、直に西洋寢卷と着替へ、側《かたは》らに床を敷いて寢て咄始めたが茲《ここ》に又第二の毒箭《どくや》は平岡氏の急所を射貫いた。夫《それ》は下女が座敷の隅の方に散在して居る蕎麥の丼三四個を取片付けて持下げる序《ついで》に、又平岡氏に向つて『今下に蕎麥屋が昨晩のお蕎麥の勘定を戴きに參つて居りますが如何致ませう』と責め寄せたには、今迄堪へ堪へて來た平岡氏ももう耐へ切れずに、思はず大聲を發して『五月蠅《うるさ》い、金の無い事は分つて居るでないか』と呶鳴り付け、其返す聲で『おい頭山知らぬ顏せずに少將《二文字に白丸傍点》の事丈は早く金を拵へて來て片付けて呉れよ。風を引て寢て居ても寢かさぬでないか』と叫んだ。此時迄庵主も頭山氏も可笑《をか》しさを耐《こら》へに耐へて居た我慢の堤防は、一時に決潰して只腹も破裂せん計りにドツト哄笑した。此を見た平岡氏も餘程可笑《をか》しかつたと見えて、ズーツと蒲團を頭から被《か》ぶつて蒲團の中でわあーツと笑ひ出した。夫《それ》が又可笑《をか》しくて庵主も頭山氏も滿身汗になり涙を流して笑ひ出し挨拶も何もせぬ儘に只々笑ひに笑ひて二人でぞろぞろ同道して歸つて來た。是が頭山庵主平岡三傑の初對面の記念で一生涯忘るる事の出來ない事柄である。夫《それ》より平岡氏の綽名《あだな》を庵主と頭山氏は少將《二文字に白丸傍点》と付けて、同氏の生涯中は平岡少將と呼《よび》なしたのである。此平岡氏が後に大炭坑坑主として成功し、明治三十年の大隈内閣の時には、數百萬圓の黄金を泥土の如くに擲却し、双手大勢の樞機を握つて内閣の興廢を企畫した同名同一の平岡氏であらうとは、何人も豫想する事は出來なかつたのである。鳴呼世運は梭《をさ》の如く織成《おりな》して、三十餘年の年月を、花に紅葉に彩《いろどり》し、眺めに厭かぬ春秋も、移ると共に平岡氏は、圖《はから》ず二豎《じゅ》に冐《をかさ》れて、今は此世になき魂《たま》を、弔ふ野邊も松風の、音のみ戰《そよ》ぐ淋しさに、只だ頭山氏と庵主のみ、仇事《あだごと》にして餉《かれい》を、潰す浮世の戲れは、可笑しき事の極みである。斯く物語れば世の中の、憂事《うきこと》知らぬ若冠《わかうど》は、今も音も均しかる、青年血氣の世渡りは、後先知らぬ荒事と、只一向《ひたぶる》に思はんか、そは大いなる曲事《まがごと》にて、そも筑前と云ふ國は、文久元治の昔より、維新廢藩の其時まで、夙に薩長に先驅して、勤王大義の犧牲《いけにへ》に、幾多の名士を失ひしが、圖らぬ事より藩論の、蹉跌と共に後《おく》れを取り、遂に藩閥の族《やから》に乘り越され、道路に倒れ牢獄や、鼎钁《ていくわく》に就きて憤死せし、先輩傑士の血を受けて、二の手となつて驅出せし、頭山平岡兩氏等の如き機■《※さんずい+發、讀みは「はつ」、漢字フォント「溌」の正字。unicode6F51》の人々が、空手赤裸と艱難を、命の的と定めつつ、君と國との犧牲《いけにへ》に、傾け盡す心血の、其慘憺の有樣は、貧と飢との其後は、奴隷となりて大江戸の、街《ちまた》に行吟《さまよ》ふ苦節こそ、寧ろ郷國一致の花として、今猶《いまなほ》心に誇つて居るのである。之に引かへ一方藩閥の族《やから》は時を得て、日毎夜毎の宴遊に、太平樂の化粧會、鹿鳴館の樓上を、照らす火影《ほかげ》の凄まじく、帝都の夜を睨むのであつた。庵主時に詩あり曰く
鹿鳴館上宵如晝。《ろくめいかんじょうよるひるのごとし》
歌曲騷然飜舞袖。《かきょくそうぜんとしてぶしゅうひるがへる》
誰識檻窓零落中。《たれかしらんかんそうれいらくのうち》
幽囚月下作怨呪。《いうしうげっかにゑんじゅをなすを》
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