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「お疲れさん」 女将は勝手口から入ってきた男にねぎらいの言葉をかけた。 「今日は結構、いいのが取れましたよ」 男は威勢のいい声で、手につかんだ魚を、高々と差し上げた。 「まあまあ、今夜も料理長の腕の見せどころね。お客さんもきっと喜んでくださるわ」 「それじゃ、いつものように冷凍庫に入れときますね」 料理長と呼ばれた男は若者たちに指示して、いっしょに大漁の獲物を、奥へと運んだ。 首筋にタオルを巻いて戻ってきた男を、女将はちょいとと言って手招いた。 「久保田さん、あなたにお手紙が来てるわよ。はい」 「いつもすいません」 手渡された封書を開くと、懐かしい文字が並んでいた。久保田は日に焼けた目尻を和らげると、事務所の椅子に腰かけて文面を読んだ。 『拝啓 やっほー、久保田さん、元気にしてるー? 柳瀬ちんは今日もタロちゃん背負って、右へ左へと大忙しです。コンサートツアーもいよいよ大詰め。オーラスまでベルトの風車全開でがんばりまっす。それから例の日取りの件、ちゃんとタロちゃんのスケジュール空けてあるので安心して。ワタシも楽しみにしてるわ。奥様にもよろしくねー。 あなたの柳瀬より』 二枚目は、別の筆跡によって書かれていた。 『変わりないですか? 加太の夏は今年も熱いんでしょうね。今夜の僕は小樽にいます。たったいま一仕事終えて、ホテルにたどり着いたところです。さすがこの年齢になるとツアーがキツくなってきましたよ。でも来年は映画の撮影が立て続けに入るし、ナマの僕とは、しばしお別れってことでファンサービスにも気が抜けません。 久保田さんが提案してくれたシークレット同窓会、むちゃくちゃうれしいです。柳瀬が書いてると思いますが、その日は何が何でも加太にすっ飛んでいきますので、どうぞよろしく。美味い魚を食わせてね。でも全員集まるのかな? おっとそれは当日のお楽しみですね。 ふたり目のお子さんがもうじき生まれるそうですね。今度こそ〈あの名前〉が付けられるよう、僕も祈っています。 先月リリースしたアルバムを同封しました。音楽に縁のない久保田さんのことだから買ってくれてないと思いまして……。特にシングルカットした『彼女はリアル』はこれまででナンバーワンのヒット曲になりましたが、僕が作詞した自信作です。一緒に歌えるよう練習しておいてください。ではまた。 揣摩太郎』 確かに封筒にはCDが入っていた。久保田は参ったなあとケースの角で頭を掻いた。 今日、妻の美穂は娘のむんの手を引いて、病院に定期検診に行っている。彼女のお腹にはふたり目の子が入っている。ところが、早くも命名のことで、ひとり目の時のいざこざが再燃しているのだ。 男の子だったら『シュウ太郎』。これには彼女も異存はない。もっともシュウの字を何にするかは未定だが。 問題は女の子の場合だ。久保田は『萠黄』にしたいと思っている。これはひとり目の時にも提案したのだが、美穂は言下に却下した。「まだ未練あるの?」と鋭い視線で久保田をビビらせてくれた。そうじゃないといくら言っても取り合ってくれない。この辺りは旧姓和久井時代からちっとも変わらない。 (ひとり目は折れて第二希望にしたが、今度こそ!) 彼は太い腕をむきむきと膨らませ、ことさら気持ちを鼓舞するように胸を反らしたが、その時、腰ベルトに通したケースの中で着信音が鳴った。取り出すと、美穂からだった。 「……ナニ? 性別が判ったァ? ちょっとまて、その勝ち誇った口振りは何だ!?」 電話はすぐに切れた。久保田は深い息をひとつ吐くと、口許に苦笑めいた笑みを浮かべて肩を上げると、夜の仕込みをおこなうべく、厨房に入っていった。 ふと記憶が過去へと飛んだ。 あの事件が片付いた後、久保田はやっと近江八幡の妹夫婦を訪ねることができた。彼らは久保田を歓迎してくれ、しばらくは義理の弟の実家を手伝って農業に従事した。 世界は平穏な日々を取り戻した。 当初は、自暴自棄になった連中が大きな騒動を起こすのではないか、略奪や暴行が多発するのではないかという懸念が、人々の心を強く支配していた。 だが心配は全くの取り越し苦労に終わった。 誰もが一様におとなしく人間へと変わっていったのだ。いや、こわごわ、ビクビクといったほうが当たっているだろう。 何でもない怪我が命取りになりかねない世界である。おかげで世界各地の紛争地帯から、銃声や砲声がパッタリと聞こえなくなった。たった一個の手榴弾が、どれほど壊滅的な被害を相手に与えるかは容易に想像できるし、逆にそれは、自分が死ぬ可能性も飛躍的に増大したことを意味していたのだ。 この世界の生命は、ガラス細工のようにもろい。 それを思い知らされた人類は、傷つき傷つけることを極端に怖れ、避けるようになった。ある学者はそんな変貌ぶりを、種の保存の本能だと説明した。 笑い話のようだが、ヒゲ面の男性が増えた理由も、刃物を顔に近づけたくないことの現れであるらしい。 さてそんなある日、ひょっこりと和久井助手がやってきた。そして何となく地元に溶け込み、妹と意気投合し、あれよあれよと久保田は彼女と結婚していた。 「なんでかなあ。なんだかなあ」 そして娘が生まれた頃、加太の女将から連絡があり、漁業の再開が知らされた。信じられないことに、冷凍した状態で捌けば砂状化は起こらなかった(残念なことにまだ動物の肉では成功していない)。その方法を伝え聞いた女将は、観光旅館を再開するので、是非手伝ってほしいと言ってくれたのだ。 海のにおいが恋しくなっていた久保田は、一も二もなく承諾し、美穂と娘のむんを連れて和歌山に引っ越した。そして今日に至るのである。 「ねえ、ちょっとちょっと」厨房に入った久保田に女将がスススと近づいてきた。目が異様な光を帯びている。「しあさっての同窓会、カゲヒナタさんも来るよね?」 久保田があわてて唇の前で指を立てた。 「秘密ですから、声を落としてくださいよ」 「あらぁ、判ってるわよ〜、そのくらい。ウフフフフ」 女将は初代カゲヒナタからのファンだ。そして二代目カゲをPAIのカバ松が襲名した今は、新生カゲヒナタを全精力で応援している。 「ちゃんと参加するってメールが来てますから」 「やった! うれしいなぁ」 女将は鼻歌を歌いながら、踊るように自室へ引き上げていった。 十年ぶりの同窓会。 あの日、萠黄と炎少年を見送った面々が、久しぶりに集まるのだ。もちろん秘密である。そうでないと、女将のようなカゲヒナタファン、そして揣摩のファンが大挙して押し寄せることは必定だ。 そうそう、忘れてはならないもうひとり。影松清香は海外での公演を終え、日曜の夜には関空に到着するというから、こちらも大丈夫だ。彼女は変装が得意だそうだから、ロビーで待ち伏せしているファンやマスコミもうまく撒くことだろう。 久保田は指を折って、参加人数を数えた。その指がふと止まった。あとひとり。ひとりだけ居場所が不明の男がいる。 シュウ・クワン・リーとはあれ以来、音信不通である。全員となれば彼も呼びたいし、皆も同じ思いのはずだった。ところが彼は連絡先を残していかなかった。政府もリアルキラーズの情報を一向に開示しようとしない。 (ええい、考えていてもどうにもならん) 久保田は窓を開いた。道路を隔てたすぐ先に海がある。萠黄とむんが伊里江の水中船で、たまたまたどりついたのはここだ。 奇妙な縁だった。そしてとんでもない経験をした。あんなことは二度とご免だ──当時は何度も思ったものだが、時間が経つにつれ、懐かしく感じることが増えた。もう会えない人々が夢の中に出てきたりもした。 (萠黄さんも、炎少年も、元気にやってるだろうか) 青空の下、道路も波除もじりじりと焼かれている。空気も揺らめいている。こんな日に海水浴なんぞしたら、焼けた背中から砂状化して、砂浜と同化しちまうな。 青い海。停泊する漁船。麦わら帽子でそぞろ歩く親子や竿を持った釣り客たち。どの顔にも温和な表情が浮かんでいる。まるで争いを避けるうちに、争いかたまで忘れてしまったかのように。目の前を通り過ぎる車でさえ、制限の半分以下の速度でゆっくりと走っていく。 今となっては、ヴァーチャル世界に放り込まれたことを恨んでいる人間はほとんどいないのではないか。真佐吉の禍々しい憎悪によって作り出された世界。それを知らない人間はいないのに、人々はこの世界を愛し始めているようだ。 ふと目が道路の先にある小さな橋に止まった。わずかに中央の反り上がった向こうから男が歩いてくる。この猛暑の中を黒いポロシャツにグレイのスラックス。それでも服の下の引き締まった身体は隠せない。さらにサングラスの下には精悍な風貌が見え隠れしている。 「まさか……」 思わず声が漏れた。久保田は窓を離れ、厨房を走り出ると、全速力で玄関を飛び出した。そして太陽の照りつける道路を駆け、男の前に立った時、久保田はあまりの懐かしさに声も出なかった。 男は久保田の足許を見て、少し首を傾げると、その顔を上げて言った。 「この町では、みんなスリッパで外を歩くのか?」 あわてるあまり、靴に履き替えることも忘れていたのだ。久保田は苦笑いしながら前に出ると、手を差し出した。シュウはサングラスを外したが、その手は握らず、ガバッと久保田の身体を抱きしめた。 「相変わらず魚臭いな」 「あんたは硝煙のにおいが抜けたんじゃないか?」 「そりゃそうだ。今じゃ教師さまだからな」 「嘘だろう? ハハハ」 久保田はひとしきり笑うと、真顔に戻って訊ねた。 「ここへは、どんな用事で?」 するとシュウはボストンバッグを持った手を大きく広げて、 「それはまたご挨拶だな。同窓会をするっていうから、わざわざアメリカから来たのに」 「そのこと……誰から聞いた?」 「君が全員に案内メールを出したんじゃないか」 「それはそうだが、内輪だけの秘密の集合だし、誰もあんたの連絡先を知らないはずだが」 するとシュウは、もっともだと頷くと、 「実は数日前、ある人から教えてもらったんだ。だから取るものも取りあえず、こうして馳せ参じたというわけさ」 「ある人?」 シュウは身体をねじって、後ろに顔を向けた。 「今日もここまで案内してきてくれたんだ。ほら、来た来た」 久保田は目を橋のほうに向けた。 反り返った向こうから、頭の先、顔、肩とその人物は、徐々に姿を現した。 「あ……あ……」 久保田は自分の目が信じられなかった。 その女性はこの世のものとも思えぬ涼しい風を連れて、彼のそばまでやってくると、すっと足を止め、にっこりと微笑んだ。 「──おかえり」 久保田はそれだけ言うのが、やっとだった。 |
《完》
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