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安全地帯の歴史

 間違いがありましたらご指摘下さい(敬称略)。

1955年
昭和30年
10月1日 六土開正、生まれる。
1957年
昭和32年
5月29日 田中裕二、生まれる。
6月27日 矢萩渉、生まれる。
1958年
昭和33年
5月16日 武沢豊、生まれる。
9月13日 玉置浩二、生まれる。
1965年
昭和40年
  武沢豊、小学1年生の時、親戚のおねえさんが聴いていたブラザーズ・フォーの『花はどこへいった』のメロディーの美しさに惹かれたのが、音楽に興味を持つキッカケになった。その後、ベンチャーズにのめり込む。
1969年
昭和44年
  武沢豊、小学5年生頃、通信教育でギターの練習を始める。使っていたのは友達から譲り受けたガットギター。
1971年
昭和46年
  玉置浩二、中学入学後、すぐにギターを入手。質屋で5千円で買った白いギター。音よりも見た目で飛びついたシロモノ。
最初に弾いたのが『太陽がくれた季節』(青い三角定規)。コード譜などいっさい見ないで、自分で音を探って弾いていた。実際のコードとは違っていたに違いない。でも自分の見つけた自分なりのコードで押し通した。それが一番の方法だと確信していた。いまでもその気持ちは変わっていない。玉置の押さえるコードが普通とちょっと違っているのはそのためだ。
  玉置浩二、中学1年のとき『コショウ』というバンドを組む。バンド名は浩二の「コ」とパートナーの名の「ショウ」から(この説、最近疑わしく思えてきました(管理人注))
1972年
昭和47年
 

玉置浩二、中学2年のとき、武沢豊(父親の転勤で旭川神居に引っ越してきた)と出逢う。ふたりとも14歳。
 玉置「おまえ、ギター弾けるか?」
 武沢「あー、弾けるよ」
 玉置「じゃあ、弾いてみろよ」
 なぜ、豊にそう聞いたのかは、玉置はよく覚えていない。ただ何気なく口に出してみただけだったのかもしれない。そのとき、豊は玉置の前で、クラシック曲(通信教育の練習曲)をさらりとギターを弾いて聴かせた。玉置はそれを聴いてびっくりした。玉置も中学校に入ってからすぐにギターを手に入れて弾いてはいた。でもそれはあくまで自己流。豊の弾く曲を聴いて驚いたのも無理はない。すぐに玉置は言った。
 「いっしょにバンド組もうぜ!」
 安全地帯はこのひと言から始まった。

1973年
昭和48年
4月 中学時代、玉置浩二(Vocal)、武沢 豊(Guitar)、武沢俊也(Guitar, Keyboard)の3人でバンド結成。この時点でのバンド名は『インベーダー』。後に『安全地帯』と名称を変更。「安全地帯」という名前は、初期に参加していた進藤氏が命名したという。当時のレパートリーはガロの『学生街の喫茶店』。
11月 玉置一芳(Drums: 玉置浩二の実兄)、宮下隆宏(Bass)が参加。
一芳はレッド・ツェッペリンに憧れていて、彼の影響もあって安全地帯はしだいにロック色を強めていく。「ツェッペリンの『ブラック・ドッグ』やブラック・サバスの曲なんかをやっていたんだよね。兄貴に“おまえ、ロバート・プラント(ツェッペリンのヴォーカル)みたいに高い声出せなきゃだめだぞ”とか言われて、よく練習していたな」(玉置浩二談)。
ポプコン(ポピュラーソングコンテスト)第6回に初出場。その後、7,8,9,10,12,13回と出場する。
  玉置浩二、中学卒業時、野球をとるか音楽をとるかで悩む。
「野球は自分一人の力だけではできない。音楽だったら、曲を作るにしても自分だけの世界でやっていくことができる。そう思って、音楽をとったんだ。そうは言っても15〜16歳の頃はまだいい加減な気持ちだよね。“オレは絶対にプロになるんだ!”って言っていたけど、ひょっとしたらなれるかもしれない。、そんな程度だったもんね。将来のことなんて、それほど真剣に考えてなかったしね。音楽で食えなかったら、オレにはこれ以外に何も見つけられない、って思い出したのは、スタジオを作ったときからかな」(玉置浩二談)
1976年
昭和51年
  安全地帯が、ポプコン第12回にて、『昔にみたもの』で北海道代表になり、嬬恋本選会にエントリーされる。
12月25日 安全地帯、札幌FMスタジオにて番組に生出演。5曲を披露する。バンド名は確かに「安全地帯」と名乗っている。メンバーは玉置浩二、玉置一芳、武沢俊也、武沢豊、宮下隆宏。
1977年
昭和52年
  バンド名を『安全地帯』としたのはこの年という説あり。前年FM出演情報により、この説はボツ。
6月 玉置一芳が脱退。大平市治(Drums)加入。
12月 親交を深めていた3人組ロックバンド『六土開正バンド』から、六土開正(Bass, Keyboard)、矢萩 渉(Guitar)、田中裕二(Drums)が安全地帯に加入。当時、六土開正バンドはオールマン・ブラザーズ・バンドやレイナード・スキナードなどのサザンロックをメインにやっていた。
 この時点で安全地帯バンドメンバーは玉置、武沢(G)、矢萩(G)、武沢兄(Key)、六土(Key)、宮下(B)、大平(Dr)、田中(Dr)の8人で、ギターもキーボードもドラムスも二人ずつという編成。メンバーが増えたことで、サウンドもハードロック一辺倒から、よりリズムのはっきりしたアメリカンロック、特にドゥービーブラザーズ、ジャクソン・ブラウンを基にしたサウンドへと変化していった。
「ドゥービーは徹底的にコピーしたね。それと同時にオリジナルもどんどん作るようになったんだ。最初は、作詞、作曲をぼくがやっていたんだけれど、そのうちにぼくが詞を書くのをやめちゃったんで、武沢の兄貴が書くようになったんだ。その当時に書いたのが『まちかど』の元になった曲。だからこの曲には“武沢俊也”って名前がクレジットされているんだよね」(玉置浩二談)
1978年
昭和53年
2月

永山(旭川郊外)にある廃屋を借り、安全地帯専用スタジオ(練習場)にリフォームし(寝室付き)、MFP(ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション、「音楽を耕す農夫の集団」)と命名する。当初は屋根と壁があるだけで、そこに水道を引き、床を張り、壁に防音材を詰めた(周囲300m四方には家もなかったのに)。改装費用は500万円でほとんどが借金。このスタジオで安全地帯は連日連夜、曲作り、練習、デモテープ作りに励む(かたわらバイトに精を出す)。一日7〜8時間こもることもザラだった。
[現在この場所は宮下隆宏氏がオーナーのフランス料理専門のレストランになっている。またMFPは後に安全地帯が設立した独自の事務所の名前になる。](この項、1977年という説もあり)

7月 第1回ステージフライトに出場、グランプリを獲得。
11月 田中裕二(Dr)、宮下隆宏(Bass)が脱退する。そのため、六土開正はベースに戻る。
  この頃、安全地帯のデモテープに興味を持った金子章平(後にディレクター)がMFPを訪問する。
「テープを聴いて“これはいける!”と思った。直感でね。で、すぐに旭川の合宿所に会いに行ったんだ。当時の彼らはみんな長髪でね。玉置なんかまるでパット・シモンズ(ドゥービー・ブラザーズのメンバー)みたいな雰囲気だった。で実際に演奏を聴いてみると想像以上にパンチがあってストレートで“これは絶対にいける”って確信した」(金子章平談)
1979年
昭和54年
5月 キティレコードよりレコーディングの話が来るも、サウンドの建て直しが未完成との判断で保留。
8月 カルメン・マキの旭川、札幌公演に前座として出演。
11月26日 武沢豊の乗った車に飲酒運転の車が激突、あばらを全部骨折する重傷のため入院。「生きているのが不思議だったと、あとで医者に言われた」(武沢豊談)
1980年
昭和55年
4月 六土開正、病気のため入院。
10月 キティ・レコードから再びレコーディングの誘いが来る。「このときまでは、正直いって、つらいことの連続だったね」(玉置浩二談)
10月 6ヶ月ぶりのライヴコンサートに六土、病院より特別に許可をもらい出演。この夜、キティレコードと仮契約を結ぶ。
11月 六土開正、退院。
12月 武沢 豊、仮退院。
12月28日 コンサート終了後、星勝をまじえてミーティング。
元モップスのギタリストである星勝は安全地帯にとって偉大な存在だった。「ケガや病気でメンバーはいないし、バンドもガタガタでね。みんな意気消沈していた時期だったんだ。そんなときに星さんが来てくれて、精神的にも救われたって感じだったよ」「星さんは、オレたちにとってすごく大きな存在だね、昔も今も。着ている服の感じやスタイルも初めて会ったときと全然変わってないし。いまだに色あせることがないのね。彼を何かに例えるなら、とても不変で、まるでずっと地球を守り続けている岩のような存在かな」(玉置浩二談)
星勝訪問した翌月、キティから正式にレコーディングの話が持ち込まれる(10月の項との関連は不明)
1981年
昭和56年
3月 武沢俊也、一身上の都合で脱退。
7月

井上陽水、MFPを訪問。
「その頃のオレたちにはロック以外なにも考えられなかったね。とにかくドゥービーを聴いて、打ちのめされていたから。やっぱりロックはカッコイイし、オレたちにはこれしかないと思っていた。メソメソしたのはやってられんな、ってね。でもそんなことにこだわっている自分の方が小さいって気づいたんだ。自分のやりたいものをやることの方が自然だし、自分の姿勢の問題だって思うようになったんだ。表現の仕方で、たとえ歌謡曲だって違うものになる。陽水さんに会って、それに目覚めたのね。無言のうちに教えられたんだよね」

「本当のことを言うと、昔からポップスは大好きだったんだ。そんな曲を書こうと思えばいつでも作れたはずさ。ただそれまでは歌謡曲を嫌っていたから、無理して作品にしなかっただけの話。バンドのみんなにも聴かせてなかったしね。でも武沢なんかよく知ってるよ。オレが中学の頃、歌謡曲みたいなのをよく作ってたのを。オレ、グループサウンズ大好きだったしさ。すぎやまこういちさんの曲なんかよく歌ってたもんね」(玉置浩二談)
安全地帯は上京し、東京で初ライブを行う。場所は渋谷『屋根裏』。
伊豆ポリドールスタジオで『オン・マイ・ウェイ』のレコーディングをスタート。その合間に東京、大阪、神戸のライヴハウスに出演。

8月 "'81井上陽水ツアー"にバックバンドとして同行することが決定し、MFPに戻って練習に励む。
8月22日 第4回ステージフライトにゲスト出演。
陽水ツアーの最終リハーサルとレコーディングのため再び上京する。
東京での合宿生活が始まる。
9月24日

熊本市民会館からスタートし、最終日の東京・渋谷公会堂まで、陽水ツアーに参加。全国23カ所を回る(〜12月10日)。
「給料なんてないし、衣装買うカネもないような状態だった。だから陽水さんとの最初のツアーの衣装なんて、みんなで渋谷のジーンズメイトに行って買ったやつだったね。それにハチマキってスタイルだったよ」(玉置浩二談)
陽水とのツアーを通して、彼れは挫折感を感じた。
「練習を積んで、実力も十分ある。そう勢い勇んで東京に出てきてみると、オレたちぐらいの実力のバンドなんてザラにいることがわかった」(武沢豊談)
彼らは挫折感を踏み台にして、さらに練習に励む。

11月 『オン・マイ・ウェイ』がブリジストン・スノータイヤのCMソングとして北海道、東北地方にてオンエアされる。
1982年
昭和57年
  井上陽水のコンサートを春、夏とサポートし、秋から翌年1月までの全国ツアーをバックアップし、好評を博す。
1月24日 井上陽水のバックバンドとして『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)に出演。
2月25日 安全地帯、シングル『萠黄色のスナップ/一度だけ』でデビュー。
4月 キティレコードと正式に契約。メンバーは東京に居を移す。
この時、大平市治が脱退し、田中裕二が再加入。“安全地帯”の5人のメンバーが確立。
「東京に出てきた最初の頃は、みんなで合宿していたんだ。まったく北海道時代と同じだったよ。デカいナベに一週間分のカレーライス作るわけ。で、カレーに飽きたらインスタントラーメンに変える。その繰り返し。当番で食事の後片付けを決めてね。食器もプラスチックので、まるで定食屋のノリだった。料理を作るのはたいていがカキくん。上手っていうわけじゃないんだけど、面倒くさいことはいつもカキくんがやることになっていた。オレの仕事は風呂の掃除。これは進んでやったね。オレきれい好きだから、汚いと入る気しなくてさ。部屋は一応あったけど、もうザコ寝だったしね、ほとんど」(玉置浩二談)
5月 東京・渋谷『エッグマン』でライヴ。
7月 井上陽水のバックバンドとして、東京日比谷野外音楽堂、大阪城野外音楽堂のステージをサポート。
8月 『北海道博覧会』特設会場(札幌市郊外)にFM北海道の招きで出演。
8月下旬 1stアルバム『Remember to Remember』のレコーディングを伊豆ポリドールスタジオ(現キティスタジオ)で開始。
この頃、メンバーは合宿生活にピリオドを打つ。
「オレが借りていたのは、目黒の四畳半一間のアパート。家賃は1万2千円だったな」
「そのとき、オレはマジに自殺を考えたんだよ。ちょうど金属バットで親を殺したって事件があった頃でね。あいつの気持ちがよくわかったね。毎日、同じ部屋にいるのがイヤでイヤでたまらなくて、身体中が震えてくるの。何もおもしろくなくてさ。レコードだって売れるわけじゃないし、コンサートやっても人は入らない。誰も来てくれない。それなのに毎日毎日が過ぎていく。自暴自棄になっていたんだ、その頃のオレって」
「曲はいくらでもあった。でもレコードにはしてもらえない。そういう人って世の中にまだたくさんいると思う。もちろん時代のタイミングもあるしさ。オレたちだって『ワインレッドの心』がたまたま受け入れられたからよかったけど、そうじゃなかったらいくら実力があったって、今頃はまだ地方でバックバンドをやっているかもしれないね」
「結局、オレ自身苦しかったけど、不安はなかったね。苦しいなりに自分に自信はあったね。どう考えても“いま流行っている歌よりオレの曲の方がいい。だから売れないわけがない”って星さんたちにいつも言っていたね。コマーシャルかテレビの主題歌になれば、絶対にヒット間違いなし!だって」 (玉置浩二談)
10月25日 安全地帯シングル『オン・マイ・ウェイ/FIRST LOVE TWICE』を発表(ブリジストン・アイスコンパウンド・イメージソング)。
11月 井上陽水のツアーに同行(〜'83.1)。
1983年
昭和58年
1月25日 安全地帯1stアルバム『Remember to Remember』発売。
2月 中京テレビの番組『5時サタマガジン』に出演。
3月 旭川市公会堂にてアルバム発売後初のコンサートを行う。
4月 道新ホール(札幌市)にてコンサートを行う。
4月1日 安全地帯シングル『ラスベガス・タイフーン/エイジ』発表。
4月中旬 神戸、大阪、京都、名古屋でコンサートを行う。
6月 2ndアルバムの制作が決定。伊豆でレコーディング開始。
11月 関西にてコンサートツアー。
11月25日 安全地帯シングル『ワインレッドの心/We're Alive』発表。
「出来上がったばかりの(『ワインレッドの心』の)デモテープを、キティでかけていたとき、たまたまコマーシャルの人が来て、それを耳にして気に入ってくれてね。この曲をぜひ使いたい、ってことになったらしいんだ。ほんの偶然だけどオレたちにとっては、その一瞬のできごとが今の安全地帯を築いたともいえるからね。ラッキーだった」「これも運命かな」(玉置浩二談)
このときデモテープに収められていたのが、この『ワインレッドの心』と『真夜中すぎの恋』『プルシアンブルーの肖像』であった。『マスカレード』もあったという説あり。
12月 サントリー赤玉パンチのCMイメージソングとして『ワインレッドの心』がオンエアされ、注目を浴びる。
関西にてコンサートツアー。
1984年
昭和59年
1月 関西にて4回目のコンサートツアー。
(全国のライブハウス・ツアーを敢行)
2月6日 『夜のヒットスタジオ』に安全地帯として初出演。『ワインレッドの心』を歌う。
2月16日 『ザ・ベストテン』に初出演。
3月 業界紙オリコン(オリジナル・コンフィデンス)で『ワインレッドの心』が、チャートNo.1になる。
「感動的だったね。もう、あとのことなんて考えなかった。このあと売れなくなったらどうしようなんて一切考えなかった。“これでいいんだ。やりたいことがやれたじゃないか”って。ダメだったら、またみんなで北海道に帰ろうって、そのくらいの気持ちだったね」
「ホントは今でも『ワインレッドの心』を発表したのは早過ぎたと思っているんだ。まだ実力がないのに出ちゃったなって感じ。ホントなら今頃(アルバム『V』リリース時)出したいくらいだよね。でもあれが出たから、なおさら腕を磨かなきゃならないって感じたね。とにかく毎日練習は欠かさずやっていたよね」(玉置浩二談)
4月16日 安全地帯シングル『真夜中すぎの恋/…ふたり…』発表。
4月18日
  19日
渋谷エッグマンにてライブ。収容人数に限界ができ、これが最後のライブハウス・コンサートとなる。
4月下旬 札幌教育文化会館を皮切りに、1stコンサートツアーがスタート
5月1日 安全地帯2ndアルバム『安全地帯II』発表。
「言葉の大切さ、難しさが、レコーディングの間中ずーっと付きまとっていた。後半になって、いい言葉がどんどん出来上がってきた。これはいいアルバムになると思った。そしたら、その通りになった」(玉置浩二、『安全地帯II』完成直後の談)
6月 『ワインレッドの心』が、TBS『ザ・ベストテン』のトータル3位を獲得。
7月1日 日本有線大賞(上半期)ベストヒット賞を受賞。
7月15日 北海道厚生年金会館での井上陽水のコンサートに玉置浩二飛び入りでコーラスをつける。歌ったのは『愛されてばかりいると』『ハッピーバースデイ』『ハウメニー・グッパイ』『ジャストフィット』。
全日本有線放送大賞(上半期)グランプリ。
7月25日 安全地帯シングル『マスカレード/置き手紙』発表。
8月?日 渋谷公会堂にて、東京で初めてのホールでのコンサートを行う。
10月3日 日本作曲大賞 最優秀曲賞を受賞(玉置浩二)。受賞曲は『ワインレッドの心』。
10月25日 安全地帯シングル『恋の予感/Happiness』発表。
『恋の予感』はJALハワイツアー・イメージソング。発売前から有線放送のリクエストで1位を獲得。
10月30日 初の全国コンサートツアー"ENDLESS"が釧路市民文化会館を皮切りにスタート(翌2月23日群馬県民会館まで49カ所)。このツアーには2日連続の日本武道館、大阪城ホールも含まれる。総動員数11万7934人。
11月28日 日本レコード大賞 金賞、作曲賞(玉置浩二)を受賞。
12月1日 3rdアルバム『安全地帯III −抱きしめたい−』発表。
12月7日 日本有線大賞ノミネート。
12月13日 全日本有線放送大賞ノミネート。
12月18日 FNS歌謡祭 最優秀歌唱賞(玉置浩二)受賞。
12月下旬 『ワインレッドの心』がベストテンの年間チャートで上位を獲得。
12月30日 TBS赤坂ライヴ大賞を受賞。
?月 ライブビデオ『安全地帯ライヴ WE'RE ALIVE』発表。
1985年
昭和60年
1月25日 安全地帯シングル『熱視線/一秒一夜』発表。『熱視線』はオートラマ「高感度レーザー」CMソング。
2月 初の武道館コンサート、2日間。
3月15日
  16日
安全地帯、香港のクイーンエリザベススタジアム(2500人収容)にてコンサート。
4月25日 安全地帯ライヴアルバム『ENDLESS』発表。
6月25日 安全地帯シングル『悲しみにさよなら/ノーコメント』発表。
8月?日 安全地帯のワンマンコンサートとして初めての野外球場コンサートが大成功する。
10月1日 安全地帯シングル『碧い瞳のエリス/彼女は何かを知っている』発表。
10月 香港のみ発売のベストアルバム『浪漫歌集』がゴールドディスクに輝く。
10月13日 『悲しみにさよなら』で日本作曲大賞(玉置浩二)受賞。
11月 コンサートツアー'85〜'86"夢のつづき"がスタート。翌年5月までの長いツアーになる。
日本レコード大賞部門賞 金賞受賞。
11月24日 アルバム『安全地帯IV』発表。
12月 TBS『ザ・ベストテン』、NTV『ザ・トップテン』にて『悲しみにさよなら』が年間第1位となる。
12月21日 ビデオ『安全地帯 ONE NIGHT THEATRE 横浜スタジアムライブ』発表。
12月31日 NHK紅白歌合戦に出場。
1986年
昭和61年
3月7日 映画『プルシアンブルーの肖像』(東宝系全国ロードショー)制作発表記者会見が行われる。
4月28日 安全地帯、香港コロシアムにてコンサート。
5月 安全地帯、武道館4日間コンサート。
5月下旬 映画『プルシアンブルーの肖像』撮影開始(〜7月)。同時にサントラのレコーディングに入る。
6月20日 玉置浩二、テレビ『笑っていいとも』テレフォンショッキング出演。飛鳥涼からの紹介。翌日は村上弘明。
7月1日 安全地帯シングル『プルシアンブルーの肖像/チャイナドレスでおいで』発表。
7月26日 映画『プルシアンブルーの肖像』公開。出演:玉置浩二、高橋かおり、村上弘明、原田美枝子ら。
8月1日 安全地帯、サウンドトラック『プルシアンブルーの肖像』発表。
8月20日
  21日
神宮球場にて井上陽水&安全地帯コンサート。
10月21日 安全地帯シングル『Friend/恋はDANCEではじめよう』発表。
11月5日 ライブアルバム『スターダスト・ランデヴー 井上陽水・安全地帯LIVE at 神宮』発表。
11月15日 安全地帯シングル『夏の終りのハーモニー/俺はシャウト!』発表。
12月3日 安全地帯シングル『好きさ/想い出につつまれて』発表。『好きさ』はCX系テレビアニメ『めぞん一刻』オープニングテーマ曲。
12月14日 5thアルバム『安全地帯V』発表。当時、LPで3枚組だった(のちCDでは2枚組)。
12月 日本レコード大賞部門賞アルバム賞を受賞(『安全地帯V』)
1987年
昭和62年
2月18日 安全地帯Vコンサートツアーが始まる。
3月24日 第1回日本ゴールドディスク大賞にて The Best Artist of the Year賞受賞。
3月25日 武沢豊、"r"Project初シングル『邪魔はさせない』(フジテレビ系アニメ『F』エンディングテーマ)発表(日付は確証なし)
4月 アルバム『安全地帯V』が'86年度レコードセールスのトップになる。
4月20日 安全地帯シングル『じれったい/ひとりぼっちの虹』発表。
松井五郎、詩集『Friend ドキュメント・安全地帯』発表。
4月21日
 〜25日
武道館にて5日間コンサートを行う。6万人を動員。24日の公演には井上陽水がゲスト出演。
5月23日
  24日
安全地帯、香港コンサート。
5月
〜6月
玉置浩二、ソロ活動を開始。シングル及びアルバムをロサンゼルス、ロンドンにてレコーディング。他のメンバーも個々に活動を始める。
6月10日 ライヴアルバム『安全地帯LIVE』発表。
6月21日 ライヴビデオ『安全地帯LIVE』発表。
6月24日 蛎崎 弘&"r" Project Produce by 武沢 豊、渋谷エッグマンにて初ライヴ。
7月22日 玉置浩二シングル『All I Do/Only You』発表。
8月10日 玉置浩二アルバム『All I Do』発表。
8月下旬 玉置浩二、海外ミュージシャンをゲストに、大規模なソロコンサートを全国4ヶ所で行う。
11月1日 玉置浩二ソロビデオ『TAMAKI 〜Koji Tamaki "All I Do" filmed in U.K.〜』発表。
12月2日 安全地帯シングル『Juliet/きっかけのウインク』発表。
1988年
昭和63年
1月25日 安全地帯(六土除く)、CMとアルバムジャケット撮影のためスペイン・バルセロナへ。
1月25日 成田出発。
1月26日 バルセロナ到着。衣装の詰まったスーツケース1つ行方不明。玉置「絶対に見つかる」と予言。
1月27日 荷物発見。ガウディ作の回廊にてポスター撮影。
1月28日 陽水ツアーに参加していた六土到着。グエル公園内の『百本柱』で『安全地帯VI』のジャケット撮影。
1月29日 陽水ツアーに戻るため六土帰国。玉置はプロモビデオ撮影のためフランス・ニースへ移動。矢萩、武沢、田中は休暇を楽しむ。
2月2日 玉置以外、朝から繁華街ゴシック地区にてスチール撮影。午後、玉置バルセロナへ戻り取材インタビューを受ける。
2月3日 街頭で玉置のスチール撮影を行い全行程終了。
3月10日 安全地帯シングル『月に濡れたふたり/時計』発表。『月に濡れたふたり』は(Sometime MIASS CMソング)。
4月10日 6thアルバム『安全地帯VI -月に濡れたふたり-』発表。
4月28日 札幌・真駒内アイスアリーナを皮切りに、7月7日の日本武道館まで全国17ヶ所24本『MIASS CONCERT 安全地帯VI』敢行。
6月 矢萩渉、20世紀Jr.のデビューアルバムのサウンド・プロデュースを担当。
6月21日 安全地帯シングル『I Love Youからはじめよう/Too Late Too Late』発表。That'sCMソング。3万枚限定発売。
7月2日 映画『ふたりぼっち』にサラリーマンの役でチョイ出演。
7月15日 玉置浩二、テレビ『笑っていいとも』テレフォンショッキング出演。マリーンからの紹介。翌日は篠ひろ子へ。
7月23日 安全地帯、突然の活動休止宣言。
7月25日 蛎崎 弘&"r" Project Produce by 武沢 豊、アルバム『Freaks』発表。
8月24日 「より良い音楽をやるために、ちょっと時間を下さい」と、安全地帯のバンド活動の休止をCX『夜のヒットスタジオ』にて公表。
8月25日 安全地帯シングル『微笑みに乾杯/ナンセンスだらけ』発表。
11月9日 玉置浩二、札幌を皮切りに全国10ヶ所13本のコンサートツアー"Koji Tamaki MIASS SPECIAL NIGHT"始まる。
11月?日 フジテレビにてドラマ『並木通りの男』主演。音楽は六土開正。
12月3日
  4日
玉置浩二、中国から招待を受け、北京で日中友好10周年記念コンサートを行う。
12月10日 ベストアルバム『I Love Youからはじめよう -安全地帯BEST-』発表。
12月17日 玉置浩二、日本武道館で追加コンサートを行う。
12月21日 矢萩 渉、テレビアニメ『F』サウンドトラック発表。
六土開正、ファミコンソフト『貝獣物語』サウンドトラック発表。
1989年
昭和64年
平成元年
1月4日 玉置浩二出演テレビドラマ『キツイ奴ら』スタート。出演は他に小林 薫、柳葉敏郎、篠ひろ子、鷲尾いさ子、名古屋章、吉行和子、清水ミチコら。当初、タイトルは『悪い奴ら』だったらしいが、既にできていた曲『キ・ツ・イ』を演出の久世光彦氏に聴かせたところ、気に入り、タイトル変更となったらしい。
1月25日 玉置浩二シングル『キ・ツ・イ/"Hen"』発表。
2月?日 ライヴビデオ『安全地帯ドキュメント I Love Youからはじめよう』発表。
3月 矢萩渉、鈴木トオル(元Lookボーカル)のアルバムで作曲、編曲、演奏を担当。
3月中旬 矢萩渉、セイコーEPSONのCMを担当。リードヴォーカルが話題を呼ぶ。
3月25日 玉置浩二シングル『氷点/Will...』発表。テレビ朝日30周年記念ドラマ『氷点』の同名主題歌シングル発表。
4月7日 蛎崎 弘+'r'Project シングル『ノアールブルーの涙/COUNT DOWN』発表。『ノアールブルーの涙』はメナードCMソング。当初タイトルは『ブルーの傘』で歌詞もかなり違ったらしい。
4月
 〜7月
武沢豊、浜田省吾のアルバム『Wasted Tears』のアレンジを"K"Projectとして担当。
7月 矢萩渉、柳葉敏郎のシングル『Ima Just gumba』のアレンジを担当する。作詞作曲は松井五郎・玉置浩二のゴールデンコンビ。
7月25日 玉置浩二シングル『I'm Dandy/Sendenfor』発表。
8月12日 玉置浩二主演映画『右曲がりのダンディー』公開。出演は他に松本小雪、加賀まりこ、井森美幸、峰岸 徹、名取裕子。
11月20日 玉置浩二シングル『行かないで/スケジュール』発表。『行かないで』はフジテレビ開局30周年記念ドラマ『さよなら李香蘭』(沢口靖子主演)主題歌。
11月 矢萩渉、フジテレビ系ドラマ『あいつがトラブル』の音楽を担当。
この年、『とんねるずのみなさんのおかげです』エンディングテーマ『星降る夜のセレナーデ』作曲。作詞は松井五郎。
 テレビドラマ『時間ですよ平成元年』挿入歌『夢だけ見てる』作曲。作詞は小椋佳。ドラマ中では川越美和が歌う。
1990年
平成2年
3月29日 安全地帯が活動を再開する。バンドとしてのレコーディングを久々にスタート。
4月 田中裕二、元CCBの渡辺英樹らと新バンド『VoThM』を結成。
6月25日 矢萩 渉ソロ1stシングル『冒険者/約束』発表。『冒険者』はセイコーEPSONのCM第2弾。
7月25日 アルバム『安全地帯VII −夢の都−』発表。
8月15日 全国約70本『安全地帯VII-夢の都-』ツアー、グリーンホール相模大野よりスタート。
10月1日 矢萩 渉ソロ1stアルバム『冒険者』発表。
11月7日 安全地帯シングル『情熱/Seaside Go Go』発表。この曲はテレビ朝日系「火曜ミステリー劇場」のテーマソングにも決定。
尚、同アルバムから『きみは眠る』が東芝コードレスフォンMESSE CMソング、『この道は何処へ』札幌ユニバーシアード冬季大会テーマ曲として決定する。
1991年
平成3年
6月 安全地帯、8枚目のオリジナルアルバム制作に入る。
6月25日 矢萩渉2ndシングル『楽園の君に』(セイコーEPSONの第3弾CM担当)を発表。
8月3日 玉置浩二、『笑っていいとも』テレフォンショッキングに出演。川越美和からの紹介。翌日は高橋かおりへ。
8月24日 全国33ヶ所47本『安全地帯VIII-Musical Farmer'sツアー』、川口総合文化センターLILIAより開始。
8月25日 矢萩 渉2ndアルバム『喜びの歌』発表。
11月6日 安全地帯シングル『いつも君のそばに/俺はどこか狂っているのかもしれない』発表。『いつも君のそばに』はトヨタカリーナCMソング。
12月11日 8thアルバム『安全地帯VIII 太陽』発表。
1992年
平成4年
1月2日 タモリ氏の音楽スペシャル番組に出演。陽水氏も登場して大盛り上がり。タモリ氏とのT&Tはいつ聴いてもすごい。
6月 『安全地帯 10th ANNIVERSARY CONCERT TOUR ACOUSTIC SPECIAL NIGHT』ツアー開始。
玉置浩二ソロアルバム制作に入る。
6月11日 玉置浩二、テレビ『世にも奇妙な物語 −ハイ・ヌーン−』主演。
6月26日 玉置浩二、金曜ドラマシアター『最後のドライブ』主演。
6月12日
 〜19日
玉置浩二、父親と二人で稚内・宗谷岬から旭川までの約300kmを徒歩で縦断。この時ドキュメントフィルムも撮影される。
11月21日 シングル『貴方が生きたLove Song (by 高橋真梨子with玉置浩二)』発表。
12月2日 安全地帯シングル『あの頃へ/地平線を見て育ちました。』発表。『あの頃へ』は月桂冠CMソング。CMには真田広之が登場。
12月11日 玉置浩二、テレビドラマ『フィリッピーナを愛した男たち』主演。
12月28日 玉置浩二、関西テレビ開局35周年記念番組『みんな夢の中 〜ある偽ハマクラ伝〜』出演。
1993年
平成5年
この年、安全地帯、SONY MUSIC ENTERTAINMENTに移籍する。
1月?日 タモリ氏の音楽スペシャル番組に出演。CHAGE、鶴瓶、タモリ各氏と1コーナーで歌いまくる。もちろんT&Tもあり。
1月30日 玉置浩二シングル『コール/大切な時間(とき)』発表。『コール』は東宝映画『ナースコール』主題歌、『大切な時間』はパナソニックブレンビーCMソング。
2月10日 安全地帯シングル『ひとりぼっちのエール/あの頃へ '92.12.8 日本武道館〜命へ「涙の祈り」』発表。『ひとりぼっちのエール』は読売テレビ・日本テレビ系全国ネットのドラマ『お茶の間』主題歌。
2月19日 USED TO BE A CHILD、シングル『僕らが生まれた あの日のように』発表。作詞・作曲は飛鳥涼・小田和正。USED TO BE A CHILDメンバーは、飛鳥涼、小田和正、カールスモーキー石井、玉置浩二、徳永英明、浜田麻里、山本潤子。飛鳥涼から玉置浩二への参加を呼びかける電話があったらしい。
3月24日 玉置浩二アルバム『あこがれ』発表。
5月?日 玉置浩二主演、長崎俊一監督作品『ワイルドサイド』がWOWOWでオンエア。
6月9日 フジテレビで放送された皇太子御成婚記念番組にて玉置浩二歌う『SACRED LOVE』流れる。
6月16日 マリーン&玉置浩二シングル『終らないで I Love You』発表。この曲は日本テレビ系全国ネット『スーパーテレビ情報最前線』エンディングテーマ曲。
8月21日 玉置浩二シングル『元気な町/カリント工場の煙突の上に』発表。三菱地所CMソング。
8月25日 安全地帯ベストアルバム『安全地帯BEST2−ひとりぼっちのエール−』発表。
安全地帯ライヴビデオ『安全地帯アンプラグド・ライヴ10th Anniversary Acoustic Special Night』発表。
9月22日 玉置浩二アルバム『カリント工場の煙突の上に』発表。
11月20日 玉置浩二出演映画『教祖誕生』(原作ビートたけし)公開。
12月27日 玉置浩二主演テレビドラマ『愛の降る街・領収書物語〜愛が言った〜』放送。
1994年
平成6年
1月24日 玉置浩二友情出演テレビドラマ『いのちの誘拐』放映。
1月31日 安全地帯コンサート『がらくたミュージアムから』。場所はクラブチッタ川崎。
2月15日 安全地帯コンサート『一本の木』(第10回東京弁護士会 人権救済基金チャリティーコンサート)。場所は東京厚生年金会館大ホール。
2月21日 森山良子・玉置浩二シングル『手の中に・・・/愛のそばへ』発表。
玉置浩二主演テレビドラマ『夢の帰る場所』放映。共演は本田美奈子。
5月20日 GME'94 (The Great Music Experience '94) 開催。別名『あをによしコンサート』。場所は奈良東大寺大仏殿前庭。玉置浩二は金髪と芥子色の作務衣とスニーカーのいでたちにて『カリント工場の煙突の上に』を歌う。
出演は、ジョン・ボンジョビ、インエクセス、フィル・パーマー、ボブ・ディラン、YOSHIKI、TOSHI、マイケル・カーメン、ロジャー・テイラー、他。
7月19日
  20日
MID-SUMMER CONCERT IN HITEN '94『玉置浩二 LOVE〜昨日から明日まで〜』。場所は新高輪プリンスホテル大宴会場『飛天』。
8月4日 玉置浩二、『笑っていいとも』テレフォンショッキングに出演。萩原聖人からの紹介。翌日は久世光彦へ。
8月25日 編集アルバム『安全地帯・玉置浩二ベスト』発表。
9月24日 編集アルバム『安全地帯アナザーコレクション』発表。
11月11日 玉置浩二シングル『LOVE SONG/星になりたい』発表。テレビドラマ『おれはO型牡羊座』主題歌になる。
12月?日 玉置浩二、初の詩画集『星になりたい』発表。
12月12日 玉置浩二アルバム『ラブ ソング ブルー』発表。
1995年
平成7年
1月28日 玉置浩二、絵画展開催。会場は赤坂のギャラリー"K's Studio Parade"(〜2.17)。
6月21日 玉置浩二シングル『STAR/正義の味方(ヒーロー)』発表。
7月6日 玉置浩二メンバーズクラブSTARのイベントとして、ファンの集いが旭川のHarvest Road Houseにて行われる。参加者約200名。
8月25日 編集アルバム『安全地帯テーマソングス』発表。
9月21日 玉置浩二ライヴアルバム『T』発表。
11月1日 玉置浩二ライヴビデオ『最高でしょ?』発表。
12月31日 玉置浩二、ニッポン放送系ラジオドラマ『地球・光なさい』出演。原作は倉本聰。共演は薬師丸ひろ子、ほか。
1996年
平成8年
1月〜 NHK大河ドラマ『秀吉』に足利義昭役で怪演。見事にハマる。
1月6日 玉置浩二主演ドラマ『最後の弾丸』NHK総合にて放送される。
1月20日 玉置浩二出演映画『霧の子午線』東映系全国ロードショー。共演は吉永小百合、岩下志麻ら。
2月 玉置浩二with石川鷹彦 アコースティックライブin北海道 メロディー
3月 玉置浩二主演映画『ロマンス』ロードショー。共演はラサール石井ら。
3月12日 玉置浩二、『笑っていいとも』のテレフォンショッキングに倉本聰の紹介で出演。翌日は薬師丸ひろ子へ。
4月〜 テレビドラマ『コーチ』に出演。
4月22日 玉置浩二、ドゥービー・ブラザーズと日本武道館で共演。タイトルは『コスモ石油10周年記念SPECIAL, "We Love Music, We Love the Earth '96"』
5月6日 ドキュメント番組『玉置浩二、37歳のメロディ』(北海道のみ1995年放送済)がNHK総合テレビにて全国放送。
5月22日 玉置浩二シングル『メロディー/愛を伝えて』発表。TBS系TV『筑紫哲也ニュース23』エンディングテーマとして流れる。
7月21日 玉置浩二シングル『田園/働こうよ』発表。大ヒット曲となる。
8月25日 六土開正アルバム『大貝獣物語IIオリジナル・サウンドトラック〜幻大陸シェルドラド〜』発表。
9月7日 玉置浩二、NHK総合ドラマ『ぜいたくな家族』にてフランキー堺と共演。
9月13日 玉置浩二アルバム『CAFE JAPAN』発表。
11月29日 玉置浩二、急病で倒れる。
12月31日 玉置浩二、紅白歌合戦で『田園』を歌い、最大瞬間視聴率をとる。
1997年
平成9年
1月3日 TBSドラマ『日曜劇場・メロディ』に出演(〜3月)。
3月21日 玉置浩二ライヴビデオ "SHALL I MAKE T FOR YOU ? 〜CAFE JAPAN TOUR〜" 発表。
4月23日 玉置浩二歌う『ある日渚に』収録の2枚組アルバム『加山雄三トリビュート/60 CANDLES』発表。
4月25日 玉置浩二編集アルバム "Early Times" 発表。
7月 フジテレビドラマ『こんな恋のはなし』に出演(〜9月)。
8月6日 玉置浩二シングル『MR.LONELY/FIGHT OH!』発表。
9月21日 玉置浩二アルバム『JUNK LAND』発表。
9月 玉置浩二コンサートツアー"JUNK LAND"、熊本を皮切りにスタート。
12月 2日
  3日
急病のため、大阪フェスティバルホールでのコンサートが翌年2月に延期される。
12月11日 富山オーバードホールにてコンサート終了後、テレビ番組『FNS歌謡祭』のために"MR.LONELY"を歌う。
1998年
平成10年
1月13日 9:55PM、渋谷ハチ公前でストリートライブ敢行、『田園』を歌う。
10:15PM、六本木アマンド前で『田園』を歌う。
この模様は、3.21発売のライヴビデオに収録されている。
2月 玉置浩二、オンワードのCMに出演。共演者は夏川結衣。
2月28日 玉置浩二ソロコンサートツアー"JUNK LAND"、東京国際フォーラムにて最終公演。玉置さん「ここにはいないけど、武沢ーっ!もどってこーい!」と絶叫。
3月21日 玉置浩二ライヴビデオ"WE CAN BELIEVE IN OUR "JUNK LAND"発表。
5月21日 玉置浩二ファンハウス移籍後第一弾シングル『ルーキー/BELL』発表。
5月27日 玉置浩二ファンハウス移籍後第一弾アルバム『GRAND LOVE』発表。
7月19日 玉置浩二、北海道旭川北彩都特設ステージでコンサート(旭川ライブジャム98in北彩都)。「旧友を紹介します」で、武沢豊登場し2曲で参加。5年ぶりの安全地帯。
7月21日 玉置浩二、北海道札幌真駒内アイスアリーナでコンサート。武沢豊登場し2曲で参加。
7月26日 玉置浩二、河口湖ステラシアター(野外音楽堂)でコンサート。武沢豊登場し4曲で参加。
8月19日 安全地帯横浜スタジアム2枚組アルバム『ONE NIGHT THEATER 1985』ポリグラムより発売。\3,500。CDケースに不具合多数発生(CDを留める爪の部分が簡単に取れる)。
10月3日 玉置浩二シングル『HAPPY BIRTHDAY/愛だったんだよ』発表。
12月2日 玉置浩二ベストアルバム『田園』発表。
12月13日 玉置浩二、GRAND LOVEツアー最終日、東京国際フォーラム・ホールAの公演が途中で中止になる。
1999年
平成11年
2月24日 玉置浩二アルバム『ワインレッドの心』、ビデオ『"GRAND LOVE" A LIFE IN MUSIC』発表。
3月上旬 安全地帯再始動のニュースが新聞、テレビ、インターネットで流れる。
3月下旬 玉置浩二、高橋真梨子コンサートに飛び入り出演。『貴方が生きたLove Song』をデュエットする。かなり髪とおヒゲが伸びていた。
5月 玉置浩二コンサート "Ballad Night" 公演
6月23日 安藤さと子デビューアルバム "A Little Seed Of One Big Tree" (玉置浩二、初プロデュース作品)発表。
7月24日 玉置浩二コンサート "Ballad Night" 、河口湖ステラシアターにて公演
9月 玉置浩二コンサート "Ballad Night" 公演
11月3日 玉置浩二シングル『虹色だった/夢のようだね』(テレビ朝日系全国ネット「はみだし刑事情熱系」主題歌/レオパレス21CMソング)発表。
2000年
平成12年
3月8日 玉置浩二、ラジオ・ニッポン放送『ミュージックツアーカウントダウン2000』出演。次期ツアーへの武沢豊参加をほのめかす
3月23日 玉置浩二マキシシングル『aibo/ジェスチャー』発表
4月26日 玉置浩二アルバム『ニセモノ』発表
5月〜 玉置浩二コンサート "Koji Tamaki CONCERT TOUR 2000 Super-T"
7月14日 玉置浩二コンサート "Delicious T LIVE"、新横浜プリンスホテルにて公演
7月19日 玉置浩二コンサート "Delicious T LIVE"、札幌プリンスホテルにて公演
7月22日 玉置浩二コンサート "Super-T in Stellar" 、河口湖ステラシアターにて公演
7月29日
  30日
玉置浩二 香港コンサート。香港コンベンション&エキジビションセンターホール3にて。
8月17日 玉置浩二コンサート "Delicious T LIVE"、神戸ポートピアホテルにて公演
8月18日 玉置浩二コンサート "Delicious T LIVE"、大津プリンスホテルにて公演
8月29日 玉置浩二コンサート "Delicious T LIVE"、新高輪プリンスホテルにて公演
8月31日 玉置浩二コンサート "Delicious T LIVE"、ウエスティンナゴヤキャッスルにて公演
10月 玉置浩二 追加コンサート(LIVE JAMを含む)
11月中旬 アルバム“スペード”レコーディングスタート。
2001年
平成13年
1月1日 玉置浩二 作曲/高田文夫 作詞・プロデュースで昭和のいる・こいる『そんなもんだよ しょうがない』発表。
3月3日 都内で『このリズムで』ビデオ撮影。15名の昭和42年生まれが集合。
3月28日 玉置浩二シングル『このリズムで』、アルバム『スペード』発表。
3月29日 『ニュース23』で玉置浩二インタビューが放送される。
3月末〜
7月1日
玉置浩二CONCERT TOUR 2001 “スペード”
4月27日

北海道限定放送のラジオAir-G'にてアンプラグドライブ。『田園』『MR.LONELY』『このリズムで』『メロディー』をスタジオ生演奏(収録は4月24日)

6月21日 安全地帯『THE VERY BEST OF 安全地帯』発表。初期の未発表曲『抱きしめても』『つぶやき』を収録。
*月*日 武沢豊、交通事故で手に怪我を負う。
10月6日 安全地帯が松井五郎、星勝と共にレコーディングをスタートする。
2002年
平成14年
1月〜
2月28日
玉置浩二コンサートツアー ACOUSTIC SPECIAL NIGHT
5月29日 安全地帯 "Goro Matsui&Koji Tamaki Ballad Collection -Only You-"(UMCK-1112 ¥3059 2枚組)リリース。
6月4日 安全地帯の新曲『出逢い』がTV『火曜サスペンス劇場』主題歌としてオンエアスタート。
7月10日 安全地帯シングル『出逢い/野蛮人でいい』リリース。安全地帯がシングルリリースを記念して記者会見を行い、メンバー5人がカメラの前に勢揃いする。
8月7日 安全地帯アルバム『安全地帯IX』(初回生産限定版はCD+DVDの2枚組・別に通常版もあり)リリース。
9月〜
12月18日
安全地帯コンサートツアー2002
11月20日 日本テレビ『速報!歌の大辞テン』で『恋の予感』。
12月4日 安全地帯シングル『反省/あの頃へ』リリース。讀賣新聞朝刊全国版にてシングル発売全面広告掲載。
2003年
平成15年
1月2日 テレビスペシャル『忠臣蔵』エンディングにて『あの頃へ』(昨年12月4日発売CD収録)が流れる。
3月19日 日本テレビ『速報!歌の大辞テン』で『熱視線』。ハーヴェストロードハウス・オーナー宮下隆宏登場、コメントを述べる。
3月28日 ラジオ『中田美知子の週刊AIR-G'族-T.G.I.F.』最終回オンエア。玉置浩二のメッセージが流れる。
4月〜 『あの時代に…』が東京電力テレビCMで流れる。
5月16日 武沢豊オフィシャルサイトがオープン。
5月18日 玉置浩二、フジテレビ番組『木梨ガイド・週末の達人』に出演。軽井沢での自然な生活について語る。武沢、矢萩、六土、田中、安藤、星らの姿も映る。
5月21日 玉置浩二ベストアルバム『Best Harvest』(FHCF2533)リリース。『愛だったんだよ』が初めてアルバム収録される。
6月16日 玉置浩二出演のNHKドラマ『盲導犬クイールの一生』(連続7回)放送スタート。渡辺満 役。
8月13日 日本テレビ『速報!歌の大辞テン』で『田園』紹介。
9月18日 安全地帯シングル『雨のち晴れ/ショコラ』(両A面・タイトル仮)リリース予定。
*月*日 安全地帯アルバム『安全地帯X』(仮)リリース予定。
10月〜
安全地帯コンサートツアー2003(仮)予定。