9月11日(日)
夜が明けてきた。
窓から見える南方の空の色は、とてもじゃないが言葉で尽くせない。
そして写真に撮ろうという気にもならない。
赤と紫とが混然となった自然の造形美をただ脳裏に焼き付けておきたい。
やがて太陽が顔を出し、みるみるうちに昇っていった。
しかしそれは私の席からはちょうど翼が邪魔になってよく見えない。
また雲が多くて下界を望むことはできなかった。
また食事が出た。今度は軽食といった感じ。
私はコーヒーを飲むのが楽しみになってしまったよ。
そしてとうとう「ベルトをお締め下さい」のアナウンスがあった。
しかし外は雲だらけで地上が見えない。
と見る間に雲を抜けて空港が目前に、と見る間にタッチダウン。
着陸はあっけないほど無事に完了。
飛行機の扉が開いた。
東京国際空港だ。
一歩外へ出ると私の肌にまとわり付いてくるものがあった。
何だこのぬるま湯のような空気は!?
そうだ。日本特有の湿気だ!!
たったまらんなぁ。おまけにこの暑さ。
私はまぎれもなく日本に帰ってきたことを文字どおり肌で感じた。
私の荷物もちゃんと出てきた。
そして笠原親子や隣りのおじさんに別れを告げ、サテライトから出た。
さて次は今いる成田から羽田への足を調達しないといけない。
インフォメーションへ行き、羽田へ向かうバスの停留所の場所をたずね、荷物を担いでやってきた。
バスを待つ間、行列に混じっていた女の子達と会話を交わした。
しかしこう簡単に他人に話しかける癖はヨーロッパ仕込みだなぁ。
彼女らがジュースを買ってくるというので私の分も頼んだ。
そうだ! 羽田からの便の予約をするのを忘れていた!
私は女の子達に頼んで行列内の場所を見ておいてもらい、空港の建物に戻った。
そして国内線予約の受付で羽田発午後2時の便を確保した。
バスは混雑のない道を走っていく。
女の子らは父親と一緒にウィーンから帰ってきたのだという。
でも搭乗したのがモスクワだとのこと。
ということは東側を旅してきたわけか。うらやましい。
その父親とも話すと、彼は奈良の学園前にある短大の唯一人の音楽の先生だとのことだった。
バスは途中、窓外にディズニーランドを見せながら1時間で羽田へ到着した。
私は音楽の先生親子と食堂に入って大盛りざるそばを食べた。
この羽田へ到着して初めて人混みを見たが、そのとき私は愕然と感じたものがあった。
日本人の顔がどれも日本人に見えないのである。
うまく説明できないが、つまりアジア民族の中での日本人の顔というものを判別できなくなっていたのだ。
理由はすぐに分かった。
私はこれまで8週間の間、外国人の中にいたので、必然、外国人の顔に慣れてしまっていたのだ。
そしていきなり日本である。
これは裏を返せば、外国人、特に白人から見たアジアの人間は、日本人も中国人も韓国人も他の諸国の人達も見分けがつかないと言えると思う。
これはヨーロッパ旅行が私に与えてくれた最後の教訓であった。
私は自宅へ電話を入れ、無事に日本へ到着したことと午後2時の飛行機で大阪へ向かうことを告げた。
母は迎えに行くと言ったが、私は家で待っていてくれと言った。
さらに母によると私の友人篠矢君が迎えに来てくれるとのこと。
彼の家に電話してあげてと言う。
篠矢君は私が寝袋を借りた男だ。
会って礼を言わねばならない。
羽田から伊丹までは小一時間。
日本航空機はソ連機と違って実にゆったりだ。
ただまたしても富士山に雲がかかっていたのは残念だった。
私の横には黒人の社長然とした男が座っていた。
彼は飛んでる間中ずっと眠っていたのだが、到着近しとのアナウンスに目を覚まして大きく伸びをした。
そして開口一番、日本語で、
「あぁ〜〜、よぉ寝た」
伊丹で篠矢君と再会。
「どうや? オレの言うた通り、良かったやろ?」
はいはい、そうでした。
ローマで宿を取れなかった時は、ちょっと恨んだけどね。
そう言うと彼は大笑いした。
わが家に着いた。
父と母は私の顔を見てビックリ。
「どうしたんや、ソレ」
あぁ、ヒゲのことか。今や私の顔に貫禄を付けた自慢のヒゲだ。
風呂に入って約2週間分の垢を落とした。
ブルージュ以来だからなぁ。
風呂を出て、家族を前に、私は土産話を紐といた。
あぁやっぱりわが家はいい。
おわり
《データ》
| 日 | 9月11日 日曜日 |
| 訪問地 | 自宅 |
| 食事 | 朝 | 機内 | 軽食 |
| 昼 | 羽田空港 | 大盛りざるそば |
| 夕 | 自宅 | ケーキ, 寿司 |