8月9日(火)


プラド美術館チケット


 昨夜も寝つきが悪かった。この宿の住人や管理人の部屋のテレビがうるさかったり、赤ん坊の鳴き声がやかましかったり、扉の前を人が通ったり電気を付けたり消したり‥‥‥。
 でも1時には眠りに落ち、起きたら9時だった。体も頭もスッキリ。
 出発の準備を済ませ、部屋の扉と下の表玄関の鍵を返してアディオス!!
 宿を出た私は一路アトーチャ駅の方向へ歩いて行った。
 途中の銀行で10ドルだけを両替して、プラド美術館を目指した。
 しかし行けども行けども美術館らしき建物が見えない。
 おかしい。
 道は緑の公園の奥深くへと入っていくぞ。
 実におかしい。
 私は方位磁石を取り出した。
 あっちゃぁ、右90度も反れていたのだ。
 いま私は50リットル入りのリュックを背負っている。
 その重さは尋常ではなく、左腕の感覚が無くなってきた。
 それでも頑張って、公園内にあった地図で現在位置を確かめた後、再び美術館に向けて出発。

 ようやく到着。プラド美術館Museo del Pradoだ。
 入口には長い行列。
 私もその後ろに付いて入場を待った。そして入場券売り場の横をIDカードを示しながら入ろうとすると、係員にストップをかけられた。
 (何やねん。IDカードがあれば入場無料やろ!?)
 そう思った私は毅然と振り向いた。
 係員は言った。
 「荷物は左のクロークに預けて下さい」
 なるほど。
 私はそこへ行き、50リットルをドンと置いた。
 すると係員はNoというジェスチャー、さらにスペイン語で何か言ってきたが、理解できないというジェスチャーで答えると、相手はしゃーないという顔で50リットルを預かってくれた。
 多分大き過ぎると言いたかったのではないだろうか。
 というのは『地球の歩き方』の中に「プラド美術館を無料の荷物預けにしちゃう方法」として、IDカードで入場が無料であることを利用して、重い荷物は美術館に置いて、との報告が紹介されている。
 これによって美術館の荷物置き場が溢れることになってしまったのかも知れない。
 さて私が美術館に入ろうとするとまたもや係員が後ろから声を掛け、
 「そのマーケットの袋(カメラ、パン、タオルを入れていた)も置いていってくれ」とのこと。
 教訓。美術館に袋や大きな荷物は御法度である。

 この美術館では有名な絵の本物を数多く見ることができた。
 中でもゴヤの『着衣のマハ』『裸体のマハ』はあまりにも有名。他にもグレコやベラスケスなどの絵を間近で鑑賞することができたのだ。
 午後2時頃になると空腹を感じたので、私は美術館内のカフェテリアへ入って食事した。
 セルフサービスでサラダやパンなどを盆に乗せる。しかし満員だね。パンは口が曲がりそうなほど固かった。
 食後、再び鑑賞して回ったが、これだけ逸品が並んでいるにもかかわらず最後の方はいい加減な鑑賞をしてしまって、預けた荷物をもらい、4時に美術館を出た。

 急げ急げ。
 次はプラド美術館の別館だ。
 テクテクテク。
 あったぞ、近づいてみると『13時45分閉館』。
 ガーン、ウソォ。マサカァ。
 ガッカリしながら裏へ回るとENTRADA(入口)と書いてある扉が開いている。
 横の掲示板を見ると『16時45分まで』となっている、なんじゃい。
 本館になかったものが入口に設置してある。
 金属探知機である。
 そしてここでも「すべての荷物を置いて行け」とのことで財布以外、すべて預けた。
 なぜこれほど警戒が厳重なのか。
 それはこの別館に展示されている作品が作品だからである。
 この作品の性質上、本館に他の作品と共に展示することができなかったため、別館が造られたのかも知れない。
 その作品とは、ピカソ作『ゲルニカ』である。
 ゲルニカGuernicaとはスペイン北部バスク地方の町の名前である。
 この町はスペイン内乱時、1937年ドイツ軍の無差別爆撃を受け、全滅した。
 この事件に怒りを覚えたピカソが描いた大作が、作品『ゲルニカ』(351cmx782.5cm)である。
 内乱は100万人の犠牲を払って1939年に終結した。
 その後、スペインはフランコ将軍の軍事独裁政権によるファシズムの時代が1975年まで続くことになった。
 しかしまだ完全なる平和が訪れたわけでもないようで、フランコの残党が水面下で不気味な動きを見せているという情報もある。
 そういった経緯で作品『ゲルニカ』もテロリズムの対象となっているようだ。
 別館自体の大きさは、やや小さな体育館ぐらい。
 内部に展示されているのは『ゲルニカ』のみ。
 左右の壁面には『ゲルニカ』の習作であるラフデッサンの数々がガラス越しに展示されている。
 『ゲルニカ』自体はまん中に、これまた分厚いガラスに囲まれて展示されていた。
 私も作品の背景を知っているせいか、画面から受ける迫力は圧倒的なものだった。
 さらに、脇にいた日本の団体客にスペイン人(?)が上手な日本語で解説していたので、それを聞いて理解を深めることができた。

 外に出て深呼吸。肩の力を抜いて、私はすぐそこにあるレティーロ公園へ入って行った。
 さっき方向を間違えて入った公園である。
 私は噴水のそばで小粒の氷が入ったレモンジュースを買って飲んだ。あぁ〜生き返る。
 ベンチに腰掛けてしばらく日記をつける。
 長い時間ボォーッと休んだ後、アトーチャ駅へ行き、アグア・ミネラル(ミネラルウォーター)を買う。
 何と冷えていたぞ!!
 地下鉄に乗ってチャマルティンChamartin駅へ着いた私はここで寝台車を3時間待つことになった。

 待つ間、粗末な夕食を食べる。
 持っていたパンとジャムだけ。
 そして列車の発車1時間前になったのでホームへ降りた。
 しかしどのホームなんだ。
 車掌をつかまえてたずねると、彼は私に向かって手のひらを広げた。
 どうやら5番線らしい。
 その5番線に止まっている列車に乗り込み、目指すコンパートメントをのぞくとベッドが6台ある。
 コンパートメントの扉に対して左右に3台ずつだ。
 私のベッドはどれだ?
 ちょうど車掌が来たのできいてみると、左側のまん中を手で叩いてここだと教えてくれた。
 うーん。何やらワクワクするな。血沸き肉踊るぞ。
 寝台なんてヨーロッパへ来て初めてだからな。
 私は重いリュックを荷台に置いて、列車内の探検に出かけた。すると他にも乗っている日本人数人に出会った。
 彼らもどのベッドに寝るべきか悩んでいた。

 自分のコンパートメントに戻って横になっていると、スペイン人の家族が入ってきた。
 子供をいっぱい連れている。
 私は身の不運を呪った。
 このガキ共に夜泣きされてみろ。
 何のために寝台に乗ったのかわからんじゃないか。
 あ〜あ。
 そして列車は出発。
 スペイン家族のおやじとは少し話をした。
 スペイン語で話しかけてきたのでNo Spanishと逃げた。
 また、タバコを勧めてくれたが、私は吸わないのでNo gracias。
 しばらく私達は、コンパートメント外の廊下の窓に並んで夜景を見ていた。
 もう真っ暗だ。
 何も見えない。
 あぁ、奈良にそっくりだ。まるで八木−西大寺間を走っているようだと思った。
 しばらく夜風に当たった後、床に入った。
 ガキ共の寝つきが良かったのと、私も疲れていたためすぐに熟睡してしまった。

寝台車チケット




《データ》
8月9日 火曜日
天候
訪問地Madrid
宿泊先列車のクシェット
宿泊料
食事ホテルの部屋マーケットで買ったパン2個
プラド美術館内サラダ,硬いパン,魚のみ入りパン
駅の待合室買い置きのパン3個とジャム
出費クシェット予約代740pts.
昼食(プラド館内)360pts.
レモンジュース75pts.
アグア・ミネラル60pts.
合計1,235pts.