7月19日(火)


 目を覚ますと、無性に腹をすかせていることに気がついた。昨夜はこのホテルに着いてバタンキューだったし、3回出た機内食では1、2食目を食べ過ぎた(吉田君の分のケーキまでもらってしまった)ので3食目は「いらん」と断ってしまった。グーグー腹が鳴るわけだ。
 時計を見ると8時30分。吉田君も目を覚ました。この部屋は確か10階ぐらいに位置していたはずだ。どれどれ眺めは如何に、とカーテンをサッと開けた。
 「おぉぉぉぉぉ」
 「どないしたん」と吉田君。
 「ほら、見てみ」
 この辺りはホテルなどの構想建築物が立ち並んでいるのだが、その向こうに、低く、赤味を帯びた家々がひしめき合っている。私が歓声を挙げたのは、そのくすんだ家々を包むようにたなびく霧である。
 ロンドンは、まさしく霧の都であった。

 部屋で朝食にありついていると、コンコンとドアを叩く音。
 「山田ですけど」
 「あっハイハイ」
 昨夜、吉田君をにわかベルマンに仕立て上げた女性2人組が入ってきた。そこで私達はしばし今日の行動計画を練り、とりあえずビクトリア駅へ行くことにした。ホテルから駅までは名物の黒タクシーに乗ることにした。客用座席が向い合いになっているやつだ。いかにもロンドンという感じである。
 駅に着き、カメラマンである山田さんに写真を撮ってもらった。彼女らとはここで別れ、私と吉田君とは駅の中へと入っていった。まずは喉の渇きを潤そうとジュースを飲んだ。1杯34ペンス(当時のレートで約120円)。しかしthの発音がtのように聞こえたので30を20と間違えてしまった(後で考えるとイギリスでは皆こういう発音だ)。
 ジュースを飲んでいると吉田君の頭に何か落ちてきた。彼が頭に手をやるとベタッとしたモノが手についた。
 「げっ、ハトのフン!」
 ついてない奴。
 私達は駅のツーリスト・インフォメーション(旅行案内所)へ入った。今夜の宿を探すためだ。どこのインフォメーションでも同じだが、ホテルの紹介、乗り物案内、催し物のお知らせなど、旅行者にとって実に有難い情報を得ることができる。「新しい街を訪れたら、まず最初にインフォメーションへ行け」はバックパッカーの鉄則である。逆にインフォメーションを利用せずに自由旅行するのは不便極まりない。それほど役に立つ代物である。
 私は係の男に、この近くに安い宿はあるかと尋ねた。高い。ノーサンキュー。私達はあきらめてインフォメーションを出た。こんな風に役に立たないことも間々ある。いや私達の交渉の仕方が悪かったのも知れない。

 私達は駅を出て南東の方角へと歩き出した。私が『地球の歩き方』以外に持ってきた分厚い本『ヨーロッパ1日4000円の旅』に掲載されている宿に行ってみることにしたのだ。駅の裏手を歩いていると 向こうから来たうらぶれた身なりの老人が話しかけてきた。どうやらタバコを持っていないかと言っているようだ。すかさず取り出す吉田君。「これは日本製のタバコだ」と念を押している。何かの機会に外国人に渡す土産物として持ってきたという。用意のいい男だ。

宿の窓から見下ろしたショット  この辺りは閑静な町並み(と言ってもロンドン特有の連なったアパート風建物)が軒を並べている。各戸共入口の脇には地下室の窓が見える。花が窓辺を華やかに彩っており、その小綺麗さが下町情緒を上品に仕立て上げている。
 目指す宿が見つかった。出てきた主人は黒人だった。部屋を見せてもらい、ここに泊まることに決めた。すかさず50ペンス(188円)玉を主人に渡す吉田君。「これナニ?」と硬貨をしげしげと見つめる主人。そんなに穴が開くほど見なくても普通の硬貨だよ。吉田君が「チップだよ」と言うと主人は初めて顔をほころばせ、表情たっぷりにサンキューと言った。こういう渡し方って不自然なんかな。

 部屋で荷物の整理をしていると、突然ドアが開き、白人の男が顔をのぞかせた。「俺のカバンは何処かいな」と部屋にグルッと視線を走らせた後、そそくさと出ていった。
 「何なんだ。今の奴ぁ」と私。
 「さぁ‥‥‥」と吉田君。
 「内鍵は掛けといたハズやわなぁ」
 「でも入って来おったなぁ」
 「この部屋に荷物置いたまま外出しても大丈夫かいな」
 そうは言っても、担いだら肩に食い込むほどの荷物を常時持ち歩くわけにもいかず、意を決して、軽装で外へ出ることにした。そういや宿の人間も信じられん!と、荷物を裏庭に埋めといた奴もいたと聞く。その気持ちもわかるが、その時はその時だ。
 外へ出るやいな、吉田君の足は何かグニャッとしたモノを踏んだ。犬のフンである。よくよくついてない奴。

 私達は東を向いて歩き出した。今日は異国の地を踏んで2日目だ。いや今日が1日目とも言える。様々な店やその装飾、建物の姿など、珍しいものばかり。私達はキョロキョロしながら進んで行った。おのぼりさん然とした日本人二人組がこうして気楽に歩いていられるのも、英国人の無関心さのおかげである。もちろん英国人だけに限らないだろうが。日本に来る外人を見て、彼らを指さし、騒ぐ日本のガキ共にはいつも恥ずかしい思いをさせられる。またその親も親である。以前聞いたことがあるが、英国人の親子連れが歩いていると、前から異国人(アジア人種か黒人か忘れたが)がやってきた。子供は珍しそうに彼を指さして何か言おうとしたが、その瞬間、親はわが子をひっぱたいたのだという。こうして街行く人々を見ているとそれを実感できるから面白い。
 突然、前から歩いてきたカップルの女性の方が、崩れるように路上に倒れた。私と吉田君はびっくりした。すると、周りにいた歩行者達が心配そうに寄ってきて彼女を介抱し始めた。‥‥‥私は心の中で思わず叫んだ。これだ、これなんだよ。「寛大なる無関心」ってヤツは。他人のすることにイチイチ干渉しない、でも決して無視してはいないんだ。いいねえ。私はイギリスという国が好きになってしまったよ。そう思いつつ、私達では何の役にも立たないので、その場を立ち去った。

 「おっ見えたぞ」
 「おぉ、これが有名なウェストミンスター寺院か!」
 写真では何度も見た建物だが、実物の迫力というのはやはり凄い。
 私達は寺院の脇を通って、セント・ジェームス・パークへと入って行った。一面の緑と広い池。ロンドン市内にはこのような広い公園がいくつかあるが、この公園は、特に鳥が多い。そのほとんどは公園内の池に住む水鳥である。しかも人が近づいても逃げたりはしない。実に可愛らしい。日本の鳥も見習ってほしいものだ。いや、餌をついばむ鳩の集団を見ると必ず追っかけ回す子供と、それを叱りもしないでボーッと見ている母親が悪いのか。

 私達は更に進み、バッキンガム宮殿へとやってきた。おぉ、ここで神様ビートルズは女王陛下からMBE勲章を授かったのだ。そうなのだ。うーん。ちなみにビートルズが神様なのは私だけでなく、吉田君にとっても同じなのである。これは実に偶然なのだが彼も私に負けず劣らずのビートルズファンである。ビートルズゆかりの地へ行って、彼らの曲を聴くのだと、ちゃんとカセットテープとウォークマンまで持参しているのだ。その上、私以上に、関係する名所を調べて来ている。彼と同行できたのは実に有難い僥倖であった。
 さすがに名所中の名所だけあって、観光客も一杯だ。私達はビクトリア女王記念碑の立つ噴水を巡って、BTA(British Tourist Authority)のあるという場所へ向かった。BTAは英国政府の一機関で旅行者の諸サービスを業務としている。ロンドン以外の観光情報はBTAに行かないと入手できないそうだ。これから北を目指す私達としては是非とも訪れなければならない場所である。しかし、ガーン、閉まってる。残念残念。その代わりに新アップルオフィスを見つけた。アップルとはビートルズが設立した会社であった。彼らのレコードやらキャラクター商品、そして若い才能を発掘する場所として設立当時は大変評判を呼んだ会社であった。しかし黄金虫ビートルズに群がる青鬼どもに会社は食いつぶされ、旧アップルはポシャった。その後、残された業務を代行する会社として新アップルができ、細々と生きながらえているとは聞いていたが。
 建物に入っていくと何もなく、暗い廊下の正面にエレベーターがあるだけだ。しかも鍵が掛かっているようだ。すぐ脇に守衛のおじさんがいたので、上のオフィスに行きたいというとO.K.と言ってくれ入口の扉を開けてくれた。私達はエレベーターに乗り込み、オフィスのある2階で降りた。当然だが、オフィスの中に入っていくわけにはいかない。私達は交代でオフィスの扉をバックに写真を撮るだけで満足することにした。オフィスの扉とは言っても古風な木製である。うーん。英国している。

 私達はその足で旧アップルへと向かった。そこは、映画・・"LET IT BE"のラストでビートルズが屋上で演奏し、イギリスっ子の度肝を抜いたというファンなら涙物の名所だ。‥‥‥うーむ。この街路のハズだが‥‥‥どの建物なんだ‥‥‥こんなことなら、来る前に映画を見直しておけば良かった‥‥‥3番地と‥‥‥あった、しかし本当にここなのか。ここなんだろうな。うーむ。そうか、このドアを開けてポールが、ジョンが、リンゴが、ジョージが入っていったんだな。うーむ。1階が白塗の壁、2階以上がレンガ造りとなっており、1階の窓に飾られている赤い花が美しい。
 建物の写真を撮ろうとカメラを向けると、通りがかりのビジネスマンが、
 「カメラにフタが付きっぱなしだぞ!」
と注意してくれた。ははは。サンキュー。
 ここは頑丈に扉が閉じられているので、中に入るのは断念した。

 陽が少しかげってきたようだ。私達はピカデリーサーカスへとやってきた。旅行中の若者で一杯だ。日本人の女の子も結構いる。私達はオレンジを飲んで、しばらく休憩。
 ソーホー地区へと歩く。カレーが食べたい!と思ったのだが、値段が高い高い。まぁ紅茶でも飲もうかとも思ったが、「今はディナータイムだからダメ」と来た。ケチ。
 そのまま私達は歩き続け、トラファルガー広場へ到着した。いろんなファッションの人がいる。サリーをつけたインド人。頭がボーズでふちだけ長く伸ばしているという異様な風体の女性。カウボーイ姿の男。ロンドンは古いだけじゃないのだ。
 そしてテムズ川まで歩く。大きなロンドン支庁舎が見える。しかしなんとビッグベンは修理中だ。全体を足場と補強材が取り囲んでいる。考えようでは貴重な光景だ。

 私達は夕食のつもりでマクドナルドに入ってハンバーガーを注文した。テイクアウェイ(日本ではテイクアウトと言う)で買い、2人で外のベンチに座り、かぶりつく。
 吉田君が日本語でつまらないことを大声で喋るので私は笑いが止まらなかった。彼が何を喋ったのかは彼の名誉のため伏せておく。
 随分と寒くなってきた。なんと午後8時を過ぎてもこの明るさ。信じられない。まあ、サマータイムだからでもあるんだが。
 宿へ戻るや、昨日と同じくバタンキューの2人であった。




《データ》
7月19日 火曜日
天候
訪問地London
宿泊先Cherry Court Hotel(23 Hugh Street.)
宿泊料£16
食事ホテルパン2コ, チーズ, ジャム, マーマレード, コーヒー
(eat here) サンドイッチ×2, コーラ(あまり冷えてない)
マクドナルドハンバーガー, チーズバーガ, シェイク(ストロベリー))
出費タクシー£1
ジュース34p
サンドイッチ£1.10
マクドナルド£1.39
ハガキ10p
ジュース50p
宿泊料£16
合計2,043p(£20.43)ひく£8=4,723円