夏休み。 寛和にとっては少し寂しい期間だった。 友達と会えず、先生と会えず、日常が遠く離れてしまったような気持ちでいた。 まだ四つの子どもには、実感できる世界の広さは町内程度でしかない。市内も市外も、自分の国のいろんなところでさえもまだまだ未知の、夢の国だった。 あまりに狭く、だから広すぎるご近所。 寛和は、幼いゆえに一人での行動は許されていなかったし、また兄たちに甘やかされているからこそ、一人で行動しようとは思わなかった。 どんなときも誰かが傍に居てくれる。 居候の英国人は優しかったし、お隣の便利屋みたいなお兄さんは面倒見がよく、訛りのきつい眼鏡の人は不器用でおもしろかった。おっちょこちょいなお姉さんなんか、一際優しくて好きだった。 両親はどこにいるのかわからない。年の離れた姉たちも顔を出さない。 それでも寛和は、兄たちと、騒がしい隣人たちとの毎日が楽しかった。 でも夏休みはべつ。 誰より近くて、誰より一緒で、誰よりかまってくれる長兄と遊べなかった。 会いたい。 寛和は口に出さず、毎日同じことを思う。 もっと一緒にいたい。もっと一緒にあそびたい、と。 「あっっちーなあーおいッ!」 ごろんと泰樹の自室で灰峪が寝っ転がった。 リビングテーブルには持参した500ミリペットボットルのコーラが、半分ほど減って小さな泡をたてている。その他のスペースにはノートと各種問題集が散乱して開かれていた。 「うるさいな。クーラーならかかってる。早いとこ終わらせて帰ればいいだろ」 部屋の主、泰樹は簡素なデスクに座って灰峪に背を向けて、黙々と勉強しながら不機嫌そうに唸った。 泰樹がしているのは常日頃からの勉強であり、その邪魔をしにきたのが宿題を写すために友人宅に乗り込んできた灰峪である。とはいえいつもながらに素っ気ない友人の態度が鼻につき、口を尖らせる。 「んだよ。このくそ暑い中でよくベンキョーなんかしてられんな。てめーなんか狂ってんだ」 「クーラーの設定温度を上げてやろうか」 「やめろ!うそだ!お前は正常だ!」 リモコンを持ち上げた泰樹に、体を起こして制止の声と手を上げた。諸刃の剣でもやりかねない相手である。 泰樹の口からため息がこぼれると、何事もなかったようにリモコンはデスクに置かれ、カリカリとシャーペンの息詰まるような音が再開して外からの蝉時雨と混ざり合う。 ばたん、と音を立てて灰峪の手がテーブルに落ちた。ちゃぷん、とコーラの黒い水面が跳ねて泡が弾ける。 「なあ…どっか遊びに行かねーか」 疲弊のこもった呼びかけにも、辞書等が置かれたデスクに向かう背中は微動だにしない。 「ゲームセンターにでも行けば?」 「今からってハナシじゃねーよ。この夏っつー意味だよ。このままじゃマジでおまえ体のどっか腐るぞ。部屋にこもって勉強べんきょうベンキョーじゃねえか。まーだゲーム三昧のほうが健康的だっつの」 「ライフワークみたいなもんなんだよ。ほっといてくれ」 「黒川なんか遊びまくってるみてーじゃんか。そろそろ祭りやるし、お前もどうよ?」 ようやく泰樹が友人に肩越しに顔を向けたが、表情は渋い。 「………お前と二人で?」 「誰が行くか」 暑さも手伝ってイラッとした灰峪は頬を歪ませた。 「黒川とか白雉とか誘ってだよ。あいつらといりゃいろんなヤツと会えんだろ。白雉んとこなんか大所帯だし、イヤでもにぎやかんなるぜ」 泰樹は背をあずけたデスクチェアを、くる〜りと回して灰峪に向き直った。腕を組んで、感心するような呆れるようなため息をこぼして、ぽつんと感慨する。 「僕よりバイト三昧の嘉祥のほうが、遊んだほうがいいんじゃないの?」 「ねー、ちーちゃーん……ここ……水着売り場だよー…?」 摂子はずんずんと颯爽と突き進む友人の背に呼びかけた。地肌を惜しげなく見せるフリルのショートワンピが、ももの辺りで裾をゆらして立ち止まり、振り返る。 ナチュラルメイクを簡素にきめた綺麗な容貌がかすかに真剣味を帯び、説教しようとするみたく摂子を見据える。 「好きな男できたんでしょー?水着のひとつぐらい新調したら?地味めなコが脱いだらスゴイ!っての、けっこうくるヤツ多いよ〜」 からかうようにちょん、とシャツの胸元をつつく。 「ちょ、や、やめてよっ。す…すごくないもんっ!」 摂子は慌てて一歩下がり、自分の胸を両手で覆う。ちーちゃんは片手を腰にあてていじわるそうに軽く笑った。 「でもさー、いくら出かける相手が友達だからって、そのかっこはどうよ?」 「え?だ…だめ?」 指摘されて摂子はシャツの裾をつまんだ。 上は使い込まれた柔らかさを呈すポロシャツ。下は七部丈のスキニーデニムで、足は木底のベーシックなサンダルにすっぽりと納められていた。 暑いためにいつもは両側でお下げにしている黒髪は、いまはポニーテールにしてくくっていた。 「だめとは言わないけどねえ…コンビニ行く格好よね……。ちょっとでもオシャレ意識すんのって大事なんだから。あ、これとかどー?」 摂子の胸部に、何の気なしに手に取ったハンガー付きの水着が当てられた。ホルターネックの黒のビキニである。 摂子の表情がとたんに沈む。 「無理だよ…だって黒だよ…?」 背伸びがバレバレである。自分に似合うわけがない。 「そう?このフリルとか可愛いのに。んじゃピンクとか白とかかねーやっぱ」 「ていうか、行くあてもないのに買えないよ」 「んー?まあ…あんた学校のプールんときでもそわそわしてたしねえ…。ま、うちらで行くだけでもいーじゃん。人に見られるだけでも変わるよ?こーの恋する乙女ー」 手に持っていた水着をもどして、摂子のお腹をつまもうとして、指をうねうねと動かして伸ばしてきた。 「や、ちょっと」 ポニーテールがゆれるぐらい摂子は体をねじって避ける。咎めるように甘くにらむと、ちーちゃんは笑みを深くした。 「お腹はともかく、うなじぐらいは見せれるっしょ?」 「え?」 「黒川が、ほら、もうすぐお祭りあるでしょ?それに行くっつっていろいろ呼びかけてたのよねー。あいつが白雉と仲いーのは言わずもがなでー、もしかしたらばったり遭遇!なんてこともなきにしもあらず?なーんて」 「……え……」 得意げなちーちゃんのしたり顔に、摂子の頭は早くも家にある浴衣の検索に入っていた。 「ほ、ほんと!?」 思わず身も乗り出す始末。ちーちゃんはちょっと驚いたように身を引いて、目を丸くするも答えてくれる。 「ほ、ほんとほんと。確かなスジからの情報。つーかモロ黒川からの話なんだけどね。にしてもねえ、ほんとにモテんのねーあいつ。そーゆーのかなり聞いたわ。確かに正攻法じゃ度胸いるけど、私にゃさっぱりだわ」 お陰で自身も狙っている一人だと疑われたものである。誰が興味あるかあんなヤンキー。見た目派手だからって手ーだすと思うなよ!? 黙して思い出し憤慨する横で、摂子はうつむいて、そっか、じゃあ…どーしよう…などとつぶやいていた。 「とりあえず水着より、浴衣見に行く?」 その横顔に語りかける。 空調がしっかり効いた店内でも、火照ってしっとりした頬がふるえてこちらを見つめてきた。 「可愛いうちわとかセットにしてもいーかもよ?小物も見とくー?」 「…うんっ」 摂子の瞳が不安を宿してきらめいた。 「よおーしきた!そんじゃゴー!」 ちーちゃんは水着コーナーを先陣を切って歩き出す。ちょっとあせって摂子が追っていく。 夏が、きらめいていく。 「うあー…も…寝れねえぇ……」 伸びきったTシャツにトランクス姿の嘉禄が、かすれた声をしぼりだして居間を通り抜ける。 深夜であっても明かりの点けられたそこでは、三男の嘉元が寝間着で参考書とノートを開いて黙々とシャーペンを動かしていた。 「おーっす……。はかどってっかー」 カチャカチャばたん、と音をさせて麦茶を注いだグラス片手に戻ってきた嘉禄が、向かいに座り込む。手を伸ばして落ちていたうちわを拾い、力なくひらひらと熱帯夜で疲弊した顔を扇いだ。 「こんな時間に起きて大丈夫ですか?明日も部活なんでしょう」 カリカリとよどみなくペンを動かしていたが、小休止というように嘉元は顔を上げる。 嘉禄はぐいっと半分ほど麦茶を呷ると、タン!とテーブルに置いた。長い息を吐き出してからひざを立て、後ろに両手をついて脱力する。 「暑くて目ーさめんだよ…。俺もーここで寝る。無理にでも寝ねーと明日マジで死ぬ」 ぱたぱたと気だるそうにうちわを扇ぐ様子にいつもの覇気はどこにもない。嘉元が勉強している居間は、引き戸を開け放っているため夜風がたまに入り込んできていた。 「知りませんよ」 嘉元は苦笑いするが止めようとはしなかった。 日中は炎天下で動き回って、夜はろくに寝られないとなれば確かに体力を消耗するばかりだろう。ただし、明日長兄から説教をくらうことになる。 参考書とノートの内容を見直しながら、嘉元はしばし雑談で気をまぎらすことにする。 「兄さんもですけど、大兄さんも倒れたりしなきゃいいんですけどねえ。ここのところ顔もそんなに見てないし」 「朝からバイト行って、帰ってきても家事そーじ。その後はすぐに風呂入ってご就ー寝とくりゃなあ。…寛和の顔が日に日に沈んでくのは、なんとかなんねーもんか…」 「嘉吉の友達とかと遊んでるときはそうでもないみたいですよ。…まあ、家だと拗ねたような顔しか見てませんけど」 「……森下さんに頼んで流しそーめんとかすっかあ……?」 「四歳児の箸さばきじゃ、流れ着いたのを拾う羽目になりますって。それより家族総出でどこか行くのがいちばん良いんじゃ?」 「…どっかねえ…」 嘉禄は反らしていた首を起こして、テーブルのグラスを手に取りちびっと麦茶を口に含む。夜風が流れてきて頬をくすぐった。汗で湿った肌にはそれだけでも心地よかった。 「そーいやもうすぐ夏祭りあんじゃん。あれとかどうよ?」 「僕はかまいませんけど…」 嘉元は顔を上げた。早くも快活さを取り戻してきた兄の表情はすでに屈託がない。 「…高校生にもなって家族と夏祭りって、いいんですか?」 レンズを通して懐疑的な眼つきを向ける弟に、嘉禄は眉をひそめた。 「んだよ、東吾たちとでも行けってか?そんなのお前らと行くのと変わんねーぞ」 「いや、だから女の子と行くとか。そういう話はないんですか」 真面目なしっかり者から真顔で言われて、嘉禄は面食らった。 手持ち無沙汰にぱたぱたと弟に向かってうちわを扇いでみる。 嘉元はちょっと迷惑そうに顔をしかめると、参考書とノートを抑えた。嘉禄は扇ぐのをやめるとテーブルに肘をついて身を乗りだす。 「俺と兄貴がかあ?あるわけねーだろ?兄貴なんてそんなヒマすらねーんだぞ?」 「別にないならいいんです。でも大兄さんだって来年は三年でしょう。遊べるのはせいぜい今年ぐらいですよ」 嘉元はこの話に拘泥する気はないようで、ノートに視線を落としてペンを動かし始めた。 嘉禄は話を蒸し返す気にはならず、しかし少し引っかかったために投げ捨てる気にもなれず、顔を傾げて戸の向こうの夜闇を見つめた。 「……兄貴に女ねえ……」 あの兄が、寛和に割く時間を減らしてまで他の誰かを気にかけるところを、想像するのは難しかった。 「でも……彼女ができたら、なんか安心できっかもなあ」 外を眺めながら何の気なしにつぶやいた兄の言葉に、嘉元は声に出して同意しないまでも、否定的な気分にもならなかった。 「つーかお前まだやんの?何も今からそんな無理しても仕方ねーだろ」 「何言ってるんですか。夏ですよ。天王山ですよ?今どれだけやるかで決まるんです。これこそ受験生のあるべき夏でしょ」 「…文句なしの成績のくせに。つーか…俺とお前はほんとに兄弟か?頭のデキ違いすぎねえ?」 「兄さんはむらがあるんですよ。英語しゃべる人がよくまあそんなことを」 「吉も成績いいしな……うちって下のほうがよくできんのか……?」 更けていく夜闇の中で、夏の虫が静かに鳴いていた。 会いたい。 寂寥ときらめきを浴衣で包んで――思いは夏に、結実する。 |