3. 播磨国分寺跡他
次は国道2号線御国野交差点から北西に200mほど入った住宅街の中にある古墳を見るのですが、サークルKの大きい駐車場があり、車掌さんが走っていってバスを停めることの了解を得てきてここに停める。住宅街の中の壇場山古墳は、雨が降っていて古墳に行くのに少し山道を歩かなければならず入り口で引返すことになる。
ここは全長約143mの前方後円墳で、南南東に後円部を、北北西に前方部を向け、くびれ部の西側に造りだしがある。周濠をめぐらし、その外側には周庭帯を備えているようである。後円部頂上には組合式長持型石棺が見られ、葺石や埴輪を伴っている。周囲には陪塚の第1、第2古墳がある。第3古墳は山之越古墳と呼ばれ、一辺約50mの方墳で、組合式長持型石棺や葺石・埴輪を備え、鏡・刀剣・玉類が出土している。5世紀前半の築造とされ、神功皇后が壇を築いて神に戦勝を祈念したところという伝承に由来して壇場山の名前がついたという。
停めさせてもらったお礼にコンビニでコーヒーを買う、車掌さん・運転手さん・世話役さんも何か買っていた。そして、少し引き返して、更に細い道に入り最後の訪問地である播磨国分寺跡を訪れる。江戸時代に真言宗の寺院として再建された牛堂山国分寺が、跡地の金堂跡に建立されているが、聖武天皇の国分寺とは直接は関係ない。
昭和43年(1968年)以後付近の発掘作業が実施され、古代国分寺の遺構が2町四方の規模に及ぶことが判明した。寺域中央に南から南大門・中門・燈籠・金堂・講堂が一直線に並び、中門から延びる回廊が金堂に取り付き、塔は金堂の東南部に位置することが確認された。現在、現寺域と重複しない区域を中心に「ふるさと歴史の広場」として整備され、燈籠や築地など一部施設が復元されている。
*この後は、早めに出て帰ることにして姫路東から山陽道に入りトイレ休憩する。この先が10KMの渋滞があるという。事実休憩後走り出してからノロノロ運転になる、自然渋滞でいつしか動き出していたが、中国道と合流してからも渋滞に遭いながら、結局は早く出ながらも当初計画時間で無事に帰途に着いた。
本来ならば延期か中止だが、バスは貸切予約の関係で変更はできないのだ。1時間20分ほど走って中国道加西SAでトイレ休憩すが小雨状態だ。休憩後再びバスが走り、すぐにICで降りて一般道をロープウエイ乗り場まで走る。近くかと思ったが結構走って30分過ぎてロープウエイ乗り場前に着く、ロープウエイは幸いにも運転していて15分毎に動いている。71名乗り(ガイド含む)の大きいロープウエイで全員が楽に乗れる。他にも数名の乗客がいたが貸切状態だ。案内嬢も乗車して説明をしてくれる。実際は4分弱の時間だ。高低差210メートル。往復料金は900円。団体は100人まで1割引きとあった。この施設は神姫バスが姫路市からの指定を受けて運営しているとか。
1.書写山円教寺
雨が降っているので、世話役さんかが山頂駅の係員に確認して休憩場所で早い昼食にする。天気が良ければ円教寺境内で眺めのいい場所あたりで昼食の予定だったようだが。全員が座れるスペースもあって、30分ほどの休憩を含めて昼食。雨対策でリュックカバーを付け、簡易雨合羽を着る。半そででは寒く感じるのでこの方がいい。実は長袖を持ってくるのを完全に忘れていて、合羽で助かったものだ。但し、後で中で汗を掻いていて雨に濡れたように、ベストも半そでシャツもぐっしょり濡れていたが。簡易合羽は風通しもないので蒸れるのだ。
準備をして円教寺目指して歩き出す。すぐに円教寺に入る有料エリアにくる。入境料500円、マイクロバスで境内まで乗ると往復で1000円とある。西国三十三か所の御札所であり、年よりの参詣も多くて、バスの送迎もしているのだ。誰も乗るという声はでずに、全員は歩くことになる。ここで参詣道はやや急斜面になり濡れた坂道で滑ると大変ながら、トレッキングシューズで来たので安心だった。これは大正解で、雨の日の散策にはこういう靴がいいと改めて感じる。参道沿いに西国三十三ケ寺の観音様のミニ仏像が順に並んでいる。ここを歩けば三十三巡りと同じことになるのか。上まで20分程度で行けるが、雨でゆっくり歩いているので30分かかったか。中間あたりで円教寺境内入りの三つ棟造りの仁王門を通り、魔尼殿を拝観し、少し歩いて三つの堂を見る。お堂がコの字型で3っつ配置されている。向かって右が、大講堂、真ん中が食堂、右に常行堂となっている。
円教寺は海抜371mの山上にあり、約18㌶と言われる、東西に1㎞の細長い形で、山間を利用して建物が点在している。康保3年(966)性空上人によって開かれた、比叡山と同じ天台宗の修行道場の寺である。映画「ラストサムライ」でトムクルーズ主演の撮影があった場所。
仁王門:江戸初期の建物。両脇に仁王像が立つ。 向かって右側が口を開いた「阿」像、左側が「吽」像。一対で「あ・うんの呼吸」をつくり聖域の守りとなる。これより先圓教寺境内。(兵庫県指定文化財)
摩尼殿(まにでん):マニとは梵語の如意のこと。天禄元年(970)創建。本尊は六臂如意輪観世音菩薩で、この堂の創建前、天人が桜樹を礼拝するのを見て、上人が根のあるままの生木に観音像を刻まれ、岩山の中腹に舞台造りの建物となる。本尊六臂如意輪観世音菩薩、国の重要文化財四天王像もある。
大講堂(だいこうどう):圓教寺の本堂に当たる堂で、お経の講義や論議が行われる学問と修行の場。室町中期の建物で、内陣には、釈迦三尊像(中央が釈迦如来、右が文殊、左が普賢菩薩)が安置されている。(国重要文化財)
食堂(じきどう):本来は、修行僧の寝食のための建物。 承安四年(1174)の創建。本尊は、僧形文殊菩薩で後白河法皇の勅願で創建。二階建築も珍しく長さ約40メートル(別名長堂)においても他に類を見ないものである。 現在1階に写経道場、2階が寺宝の展示館となっている。(国重要文化財)
常行堂(じょうぎょうどう):常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行)をするための道場。建物の構成は、方五間の大規模な東向きの常行堂。北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とからなり立っている。内部は、中央に二間四方の瑠璃壇を設け本尊丈六阿弥陀如来坐像が安置されている。舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのもの。(国重要文化財)
2.播磨国総社
このツアーは古代の社寺古墳見学も目的であり、雨の中をバスは次の目的地へ向かう。 次は射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)で、姫路城の近くにある。姫路城は後3年は修理中で大きい覆いがかかってお城の偉容は望めない。
駐車場に入るのは狭い道で、車掌さんの誘導があって上手くいくが、運転手さんはベテランで丁寧な運転で愛想も良かった。雨の中を数名の神主さんが出迎えてくれて、社前で雨に濡れながら丁寧な説明もしてくれる。神社でこれだけ丁寧な送迎を受けたのは初めてのことかも知れない。
射楯兵主神社は、別名播磨国総社で、播磨地域では濁らずに「そうしゃ」、「そうしゃさん」と呼ばれる。社格は、式内小社、県社。60年に1度の一ツ山大祭、20年に1度の三ツ山大祭が有名という。欽明天皇25年(564)飾磨郡伊和里水尾山に、大己貴命(兵主の神)を祀ると伝えられている、8世紀以前には、射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたと播磨風土記にある。
二神をいつ合座したのかについては、927年に編纂された延喜式神明帳に「射楯兵主神社二座」とあり、式内社として少なくとも9世紀後半には合座され、安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内の大小明神百七十四座の神々を合わせ祀って「播磨国総社」と称し、歴代の守護職・城主からも「家の氏宮」・「姫路城鎮護の社」として仰がれてきた。
貴重な歴史・文化財の多くは、昭和20年大戦の戦禍によって無くなってしまったが、昭和23年、市民により復興奉賛会が結成され、昭和40年に昭和の大復興を達成し、平成の大造営を行い、平成19年総社御門を復興した。
射楯大神 五十猛命(いたけるのみこと)と称し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神で、檜や楠等の木々を植樹して、日本の国土を緑豊かな国にされた植樹の神様。また、神功皇后の新羅遠征の折に、御船の先導をしたという播磨国風土記の故事から、勝利や幸福へ導く道開きの神様としても崇敬。
兵主大神 大己貴命(おおなむちのみこと)と称し、大国主命・七福神の大黒様とも呼ばれ、后神や多くの御子神に恵まれたことから縁結びの神様と名高く、福の神として慕われる。また、農業・工業・商業のあらゆる産業から、医薬、酒造までを生み出して、人々の暮らしを豊かにされた国造りの神様としても崇敬。