「表意文字」と「表語文字」の相異

 ところで、「表意文字」とまぎらわしい文字として「表語文字」がある。この「表語文字」はその名のとおりまずそれが「言葉」を表し、その「言葉」が「意味」を表すというふうにそれが「語」と1対1の対応をなしている文字のことである。先述のとおりこの「表語文字」は「表意文字」とは違ってその字が直接意味を表さず、「語」を介して間接的に「意味」を表しているのである。

 このように、「表語文字」と「表意文字」との最大の相異点はそれが「言葉」と密接にリンクしているか、それとも「言葉」とは独立して存在しているかの違いである。したがって、通説に反して「表意文字」は「表語文字」とはかなり異なった文字なのである。それどころか、「語」を介して間接的に「意味」を表すという面ではむしろ「表音文字」のほうがずっと「表語文字」的な文字なのである。

 ところで、文字ができたときにはローマ字などをふくむ多くの文字がこの「表語文字」であった。しかし、時の流れとともにその字が表している言葉の意味が変化したり、あるいはその言葉そのものがなくなったりしたために後にほとんどすべての表語文字が表音文字として用いられるようになり、ついにはこの世から完全な「表語文字」なるものは姿を消してしまったのであった。

 この理由は、言うまでもなく言葉が意味とは対照的にきわめて不安定な存在だからである。したがって、すべての表語文字は表音文字あるいは表意文字に転身して生きのびるかさもなくば消滅するか、2つのうちのどちらかの道を歩んだのである。

漢字が「語」と独立して存在するこれだけの証拠

 以上のように、(このことは世間では意外に知られていないことであるが)「漢字」をはじめとする表意文字は「言葉」とは独立して存在しているのである。このことに関してはいくつかの具体例をあげるとわかりやすい。

 たとえば、日本語の「まち」に対応する漢字には「町」と「街」があるが実はこれらの2つの漢字の意味はかなり異なっているのである。すなわち、辞書をひいてみると

「町」・・・@人が多く集まり住んでいる所。A行政区分の一つ。市、村と同格。

「街」・・・都市の中でも特ににぎやかな区域。商店などが多く並ぶ。

というふうに「町」と「街」の意味はそれぞれ大きく異なっていることがわかる。

 別の例をあげると、日本語の「とぶ」に対応する漢字には「飛」と「跳」があり、これらの意味はそれぞれ

「飛」・・・翼、羽を使って空中を動く。英語では「fly」となる。

「跳」・・・足で地面をけってはね上がる。英語では「jump」となる。

というふうに「飛」と「跳」の意味は互いに大きく異なっているのみならず、それに当たる英語までもがまったく異なっていることがわかる。

 他の例では、日本語の「たたかう」に対応する漢字には「戦」と「闘」があり、これらの意味はそれぞれ

「戦」・・・武器を使用する、集団で行う大規模な「たたかい」

「闘」・・・武器を使用しない、単独で行う小規模な「たたかい」

というふうに「戦」と「闘」の意味はやはり大きく異なっていることがわかる。また、この「戦」と「闘」の意味の共通点をさがすと「力を比べあう」ぐらいしか見つからないのである。しかも、「戦」や「闘」と同じく「力を比べあう」という意味をもつ日本語には「きそう」、「あらそう」などが存在し、それらの語にはそれぞれ「競」、「争」などの漢字があてられているのである。

 この「戦」、「競」、「争」のようにそれらの意味は互いにわりと似ているにもかかわらずそれぞれ異なる日本語があてられている漢字には他に「使」と「用」があり、これらの意味はいずれも「ある目的のために物や体の一部をあやつる」というふうに「使」と「用」の意味は互いにきわめてよく似ているのである(少なくとも「戦」と「闘」よりもはるかに似ている)。

 それにもかかわらず「使」の訓読みは「つか(う)」、一方「用」の訓読みは「もち(いる)」というふうに両者にはそれぞれ異なる日本語があてられているのである。この理由は、言うまでもなく「つかう」と「もちいる」の意味がきわめてよく似ているからである。したがって、「使」に「つかう」をあて、「用」に「もちいる」をあてる理由は単に昔の日本人がこうした習慣を持っていたからに過ぎず、このことに必然性などまったくないのである。したがって、逆に「使」に「もちいる」をあて、「用」に「つかう」をあてたとしても決しておかしくないのである。

 以上のように、漢字と日本語の意味は「1対1」ではなく「多対多」の対応をしているのである。この事実は、言語や文字がそれぞれ独立に発生したものである以上当然のことである。そして、実は「翻訳」というのは言語を直接他の言語に変換するのではなく、「意味」を介して間接的に他の言語に変換することなのである。なぜなら、言うまでもなく言語が表しているのは「意味」であって他の言語ではないからである。したがって、実在するすべての言語を結びつける役目のが他ならぬ「意味」であると考えることができるのである。

 そして、「表意文字」を「言語」(ここでいう「言語」とはわれわれが日常使っている意味での「言語」(音声言語のみを指す)ではなくもっと広い意味での「言語」(直接「意味」を表すものすべてを指す)のことである)の一種であると考えると、漢字の「訓読み」とはすなわち漢字を日本語に「翻訳」したものであると考えることができる。言いかえると、漢字は日本語を直接表しているのではなく、「意味」を介して間接的に表しているのである。

 また、当然のことながら漢字をはじめとする表意文字が「言語」の一種であるならばそれを見せあって意味を伝える方法が考えれそうである。この方法が先述の「ボディー・ランゲージ」を伝える方法であり、しかもこれこそがボディー・ランゲージを伝える唯一の方法なのである。したがって、表意文字は「ボディー・ランゲージ」と同じく「ビジュアル・ランゲージ」(「音声言語」に対していう)の一種であるので完全な表意文字(後述のとおり、実をいうと漢字は表意文字というよりもむしろ表語文字である)を伝えるにはやはりそれを見せあって意味を伝えるしか方法がないのである。

 漢字の「多義語」が生じるプロセス・・・転注

 ところで、表意文字が一種の「言語」であるならば当然のことながら1つではなく多くの意味をもつ表意文字の存在が考えられる。たとえば、代表的な表意文字である「漢字」は通常複数の意味をもっている。この例として、「好」なる漢字には

@このむ、すく、愛するA良い、優れている

というふうに大きく分けて2種類の意味があることがわかる。

 別の例では、「悪」には

@わるい、良くないA嫌う、憎む

というふうにやはり2種類の意味があることがわかる。

 このように漢字が複数の意味を持つ原因は、漢字は他の言語と同様に元来一つの意味しか存在しなかったものが長い年月を経るうちにそれと関連のある別の意味にも用いられるようになったためである。

 上の例では、「好」は元来「このむ」の意味に用いられていたが、通常われわれは「よい」ものを「好き」になることからこの字が「よい」という意味にも用いられるようになった。また、その逆に「悪」は元来「わるい」の意味に用いられていたが、われわれは普通「わるい」ものを「嫌い」になることからこの字が「きらう、にくむ」という意味にも用いられるようになったのである。

 以上のような漢字がその意味を拡げるプロセスは「転注」と呼ばれている。そして、この「転注」なる用法は漢字の用法の一つとして「六書」(漢字の4種類の作り方(象形、指事、会意、形声)と2種類の使い方(転注、仮借)を総称してこう呼ぶ)でもちゃんと認められているのである。そして、このプロセスはちょうど「多義語」が生じるプロセスと同じであることがわかる。たとえば、日本語の「あう」の本来の意味は「複数の者が同じ場所に来る」であるが後に「複数の物体が同じ位置に来る」なる意味に拡大解釈され、これが後にさらに拡大解釈されて「複数の物事が同じ状態となる」という現在用いられている「あう(会う、合う)」の意味となったのである。

 ところで、語がその意味を拡げてその結果今までその語で表せなかった物事が表せるようになることはもちろん望ましいことである。しかし、実際には語が新たに拡げた意味が他の語が既に表している意味であることがほとんどなのである。たとえば、先述の「悪」なる字ではこの字が新たに拡げた意味は「嫌」や「憎」の本来の意味とまったく同じものであり、したがって「悪」なる字の意味をこれらの意味にまで拡げる必要などまるでないのである。それどころか、「悪」の意味が「嫌」や「憎」の意味にまで拡がることによってかえってこの字が何を指しているのかわかりづらくなっているのである。

 この理由は(このことについては後で詳しく述べる)、語が表す意味が広くなるとむしろその語がもっている情報量が少なくなるからである。そして、以上のことは「多義語」のみならず「同義語」や「類義語」が生じる原因ともなっているのことがわかる。なぜなら、言葉がその意味を拡げることは1つの語に複数の意味を対応させるだけではなく、逆に1つの意味に複数の語を対応させることにもつながるからである。

 そして、実はこのように言葉と意味との1対1の対応がくずれることは時間の経過とともに整然としていた言語のシステムが乱雑なものへと変化してゆくプロセス(このプロセスについては3章で詳しく述べる)の一環として起こっていることなのである。そして、このことが以前は通じていた言語が時間の経過とともに通じなくなる原因となり、またどのような言語であってもいずれ必ず「死」が訪れることを暗示しているのである。

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