2004年5月29日(土)。
harco
”HARCO LIVE TOUR 2004 ”Ethology” ”
@南堀江knave


「ずっとワクワクするための音楽。」
実に4年ぶり(?)に見たharcoのワンマンライブ。
そりゃあ、ライブもパッと見から変わっていて、harcoの鍵盤を弾き語りを中心としたギター・ベース・ドラムのオーソドックスなバンドスタイル。
昔はマリンバやカリンバから将棋の駒まで楽器として使っていて、バンドと言う形でありながら、ちっちゃな楽団みたいな編成だったので、それを考えると大分とシンプルになった印象。 harco本人もMCで、
「いつの間にかシンガーソングライター然とした感じになった。」
と言っていた。

harcoは決して歌が上手い人ではないと思う。
所謂、近年のR&Bを歌う人のようなビブラートの効いた伸びのある歌声ではないし、音程を完璧に保つような”歌い手”としての音楽家ではない。 発声のレンジの幅はそこそこあるような気がするけど、その歌声は素朴で技術的に洗練されていなく、
「そこら辺にharcoより上手い一般の人はたくさんいるんじゃないか?」
と感じたりする、こ慣れていない不器用さと不安定さが残っている。
こういう人が歌うという表現方法を取り入れて音楽を作る時は、必ずと言っていいくらいに”音が主体”になる。 歌は音全体の一部としての役割で、溶け込んでいれば可であり、アレンジに驚くほど凝った仕掛けを入れたり、声に過度にエフェクトをかけたり、音色の見事な多彩さの編集作業も含めたクオリティの高い音で、聴いてるこちらを楽しませてくれることが多い。
初期のharcoもこの例に漏れず、実際に
「こんな楽器まで使うの?」
というありとあらゆる音を取り入れて、カラフルな音を聴かせてくれていた。
それは、とても巧妙で、次々と鳴らされる音が融合していく様は絶妙だった。
しかし、その時はやはり”歌”というものは、楽器の1つとしての役割でしかなかった感が強かったのである。

それが、今回久々に観たharcoはどうか。
180度違うと言っても過言ではない、”歌”を聴かせるライブを展開していたのだ。
もちろん、オープンリールを使ってバッティングセンターの環境音をを鳴らし続けた、その名の通りの「バッティングセンター」の時間が少しずつ歪んでいくような異質感や、サポートのドラム(downyの秋本さんだった!)とのスリリングなリズムセッション、ギター(SPOOZYSの松江さん)の的を得たソロの聴かせ所など、音響的な聴き具合は以前にも増して流石だった。
特に、中盤のミニマルエレクトロニカ直系の繊細な電子音のループに、さながらプログレッシブロックのような激しい演奏を絡ませていく曲などは、
「インストだけでライブやってほしい!」
と思うほど、音響アーティストとしての想像力が垣間見れて、ドキドキ。
「だって、プログレシッブエレクトロニカ(ジャンルを特定するのは嫌なのだけど、あの音は表すならばそうだったのです)なんて、なかなか聴けないでしょ?」
という目新しさもさることながら、それを単なる実験で終わらせずにしっかりとポップな音に還元してるのが、すごかった。

それでも、最近のharcoの中心にあるものはただただシンプルな”歌”なんだと思う。 非常にタイトなドラムが叩き出すリズムと巧妙なギターとベースのバックに乗っても、歌はとてものん気にほんわかしてるのだから。
それは、他とズレているというのではなくて、harcoの鍵盤を含めた周りの演奏がどれだけストイックになっても、歌だけはほわほわと大らかで身近な感触を失わないということである。 ここで効いて来るのが、歌のいい意味での下手くそさなのかもしれない。 歌が好きで歌い始めたばかりの中学生のような感覚が伝わるその歌声は、音程が多少不安定ながらとても一生懸命で、こっそりと漂う子供がいたずらを仕掛けるような無邪気な余韻。
「技術的に上手いことが必ずしも素晴らしいことには直接繋がらない。」
というのはよく言われていることだけど、このライブは歌だけに関して言えば正にそう。 むしろ、歌の拙さがharcoの音楽をステキな隙間のある豊かなものにしていると思う。
そして、”歌”に重点を置いた新作『Ethology』の曲達は、音的にはシンプルなのだけど、どれもとても際だっていて。 「お引越し」や「嘘つき」なんかは、感動しようとして長編映画を観に行って泣く行為とは全く逆の意味で、泣きそうな柔らかさがあった。

時間があっという間に過ぎていった、不思議と清々しい気分になるライブでした。