2005年4月8日(金)。

突然ですが、今日で「ぺしぱん」は終わりです。

2年前、「ぺしぱん」を始めて、一歩を踏み出してみようかな、と思った時。
聴いていたのはFridgeの「Five Four Child Voice」でした。
2年前、「ぺしぱん」を通じて知り合った、大好きな友達の車に、最初に乗った時。
流れてたのはRIP SLYMEの「Bright in time」でした。

洗濯物を干しているベランダが見えるのですが、タオルが風に吹かれてクルクルと回ってます。
空気がポカポカしています。空がおもしろいくらい伸び上がって広がっています。
この部屋を出る時には、8階から下を見ても、街中で視界がブレても
「今日も気持ちいい天気やねぇ。」と言えるように、
ノロノロとハイスピードで頑張っていきたいと思います。


2005年4月7日(木)。

真っ暗なこと言うのはすごい嫌い。
つまんないんで。 ただ、この心体がすごい憎い。

昨日の体温がまだ残っていて。
「ああ、温かかったなぁ。」
とか。それだけの1日でした。 ボンヤリしながら、雑務を淡々とこなしてました。
何かね、何食べても同じ味がする。

昨日は禁酒令出されてるのに、花見で缶ビールを3つも飲んだ。
飲んでる最中で頭痛くなったから、
「こりゃー、明日は二日酔い必死・・・。」
と思ったら、ケロッと元気。
今まで二日酔いで吐いたことは一度しかありません。
酔っ払っらた勢いで(中略)かけたことは数回あります。
あまり酒にはいい思い出がありません。
酒がらみのネタになりそうな思い出なら山ほどあります。

新しい時間が回り始めたので。
「動かなきゃなぁ。」
と、ボンヤリ雑務をこなしていたら、ドフッとボディブローを喰らいしました。
笑いました。 夕食、全部同じ味。

ふと、友達が笑っていてくれることを願ったり。
偽善っぽいけど、偽善だけど、たわいない笑顔を見れると嬉しいです。
8階のベランダから市街地を眺めると、飛べそうな気持ちになります。
でも、飛び降りてぐちゃぐちゃになりそうな気持ちにもなります。

洗濯物を取り込んでいたら、桜の匂いがして。
春だなー、と思いました。 うちの犬もちょっと嬉しそうでした。


2005年4月6日(水)。

歪で複雑でよそよそしくて、でも真剣でまっすぐに確かに暖かかった。
人から体温を貰った気がした。何度目だ?
それはセックスなんかよりキスなんかより熱くて。やっぱり嬉しかった。

君に会えてホントによかった。


2005年2月16日(水)。

夕方、空が暗くなっていくのを眺めるのは、癖になる。
体の中心から10cm程浮いた辺りがシューシューする。
「蒸し器になってる。」
そんな気持ちが浸透してくる。
湯気は熱くなくて水でもなくて、どっちかって言うとカラカラに乾いた煙に近い類のもの。  燻製ですか?


2005年2月15日(火)。

浴槽へ蛇口から水がジャーって出てる様と音に惹かれるんです。
聴覚的におもしろい。視覚的におもしろい。
なんてことは特にないのだけれど。

浴槽に水を張ると、水を媒介して、何処か遠く離れた水辺と繋がってしまうような錯覚がする(ドラえもんの道具みたいに)。
そして、浴槽の湯を抜く時、排水溝に吸い込まれていく水を見ると、意味の分からん世界に吸い込まれて行ってしまうような錯覚がする。

蛇口から水を出す時は、その行為とは逆なのである。
浴槽に水を張ることは、知らない水辺と繋がるワープゾーン的な場所を発生させるようなことなのである。
とってもファンタジック。いや、ただの妄想・・・。
でも、惹かれる理由はこの辺りにあるんじゃないかとにらんでます。


2005年2月13日(日)。

久々に大阪に繰り出しました。
が、大阪の街はほとんど歩きませんでした。
昼食−長居 → 移動 → おやつ−またも長居 → 移動するのがめんどくさくなったで、同じ店で夕食。
半日中、ほとんど店内にいました。

そして、ずーっと話してました。
「しゃべりまくってるなぁ。」
と自覚するほど、話しまくりました。
慣れないとギコチナイ喋りを展開するので、慣れても基本的に行動の8割方はトロイので、あんなに言葉が出てくることは、あんまりないなー。
でも、今日は次から次に溢れ出て。
「楽しいなぁー。」と気付かないくらい楽しくて、夢中になっちゃってて。
感謝だなー。ありがとー。

有名な観光地へ行った!とか、アミューズメントパークに行った!というような遊びより(もちろんそういうのも好きだけど、加えて水族館だけは別物だけど)、ぺろーんってまったり座って言葉を交わす方が本質的には自分に向いているのかもしれない。

別にずっと盛り上がり続けなくてもよくて。
会話には緩急の流れがあるし。
たとえ言葉の数は少なくても、柔らかな会話は生まれるし。
言葉がと切れた時の間や、そこに流れる空気感も会話を構成する要素だし。
言葉(もしくは言葉に似たツール)を媒体にして、無理しないで時間を共有できたという安心感や心地よさやおもしろさが充実した糧になるので。


2005年2月11日(金)。

ダイヤモンドシティって知ってますか?
郊外向けの巨大なショッピングセンター(関西圏にしかない?)。
基本的に田舎に作っているから、駐車場なんてありえないくらい大きかったりする。そのただでさえ広い駐車スペースを、更に立体駐車場にしたりしていたりもするから、外観は軽く要塞みたい。
自分の住んでいる奈良にも、そんなダイヤモンドシティが出来て、しかも奈良県初のタワレコが入っているので、
「あー、どんなのか見に行こー。」
と、車を走らせた。
まではよかったのだが、先日道をナビして貰って目の前まで辿り着いたことがあるのに、一向にそれらしき建物が見当たらない。
それどころか、狭い住宅街の路地に迷い込んだりして、結局2時間ほど周囲(であったであろう地域)をぐるぐると回送している内に、どっぷりと日が暮れてしまった。
「一体、何しに来たんだ・・・。」
でも、日も傾きかけた頃、付けていたラジオからハナレグミの弾き語り生ライブを聴けたのはよかった。ゲストにPolarisのオオヤくんを迎えての「トゥインクル」(クラムボン原田郁子のソロアルバムに入ってる曲のカバー)は2人のアコギと唄がしっとり重なり合って素敵だったし、何といってもハナレグミ単体で披露された「子供向けに作った。」という唄はウトウトと眠くなってしまう心地よさ(危ないです!)。
ハナレさんの唄声は使い慣れた肌触りのいい毛布みたいな感じがする。
特別な個性を主張するタイプの声質ではないけど、こっそりと格別な感触がするんかも。
自分の方向感覚のなさを改めて思い知った1日だったけど、夕方に昼寝のような気分を味わえたから(だから危ないです!)、まぁ、いいか。
「でも、今度はちゃんと辿り着こ・・・。」

大型ショッピングセンターって人工的過ぎて不気味なんだけど、迷子になりそうになるのがおもしろかったりするので。
”20歳超えて建物内で迷子”とかなかなか体験できないっしょ?(俺だけ?)


2005年2月9日(水)。

天気がめちゃくちゃよかったので、伸び上がる犬や猫の気分になってみようと試みてみた。「・・・・・・無理だ、人間だもの。」
せめて縁側がほしいと思った。
同時に、縁側というものは非常に贅沢な代物だと痛感した。

天気がめちゃくちゃよかったので、突発的に大津駅周辺へぐだぐだとしに行きたくなった。「・・・・・・隙間から、何?」
3年ほど前、友達と琵琶湖で船に乗ろうと大津に出かけたことがある。
到着してしばらく、料金が思いの外高かったので乗船するのは即断念。
湖の辺りをブラブラしていた。
そうしてる内に電柱にラフなタッチで人の顔が描かれた張り紙を見つけた。
文字等は一切記されていなかったので、一体これが何を目的としてるのかは全く分からなかった。
しばらく歩き回っていると、また同じ張り紙を発見。
いや、よく見ながら散策してみると湖畔のトイレの壁やらフェンスやら、あげくは隣駅近くの団地の掲示板にまで、大津駅周辺の至る所に張ってあった。
「これ、何が意図なんやろ?」
じっくり観察してみると、その枚数もさることながら、微妙に表情が違う2種類があることも判明。深まる謎。謎。謎。
同時に、狐に包まれた心地のひだがザワザワと沸き立ってくるような、この張り紙から何でもないけど壮大な計画が動き出すような、少し形の崩れた好奇心に駆られまくった。
次第に2人で夢中になって、その張り紙を探しまくりカウントをし始めていた。
結果、確認できただけで約60枚(だったと思う)。半径1kmちょいの領域にこれだけの数があると思うと、さらに謎が謎を呼ぶ謎。
大津に時々ひょっと行きたくなるようになったのは、この出来事以来。


2005年2月8日(火)。

客 「深海魚みたいな1日だったんで、夜でも外の方が光の濃度が高い気がするんです。」
俺 「うーん、それはなかなか現代的な現象っすねぇ。」
変拍子に巻かれて深い音に巻かれて、せっまい部屋が何層にも重なって、物が散らかっているのも忘れる。
空間はそこに暮らしている人によって、広さが変わる。
物理的には絶対に変わらないけど、視覚や聴覚的に変わる。

客 「それでね、メランコリックなメロディーが流れてね。」
俺 「それって、どんなメロディなんすか?」
何だか異常にコンポから流れる唄声の浸透率が高い。
だから、もう変に落ち着いた気分になる。
でも、メランコリックってのは分からんなー。

蓄光塗料でペイントされたTシャツが光らない理由は、タンスにある。
朝のテレビの音声が気が狂うほど嫌になるのは、その窓の位置にある。


2005年2月6日(日)。

隣の家から、「ピキューン☆ピーピロピロピロ☆」という謎の電子音が聞こえてきた。侮れじ、郊外住宅。
「ピキューン☆ピーピロピロピロ☆」に対して<奇怪>と<愉快>の判定ボタンがあるとしたら、<そわそわ>ってボタンを勝手に作ってスイッチを入れたい。
説明するの苦手だから。

目の前にあったのに知らぬ間にどっかに行ってしまった、ニオイなのかオトなのかカンショクなのかクウキなのか不明な何かを捉えたい。
「よく考えたら、好きなものもそーゆーのが多いし。」
現在という概念のダラ録りに潜んでるものってっか、そこからヒュルリと抜け出していくものってか。
そのフォームはすっごい見事な形を成してそうなん。


2005年2月4日(金)。

部屋が寒いとストーブを付けるように、切り傷をしたらバンソコーを貼るように、間接的に何だか嬉しくない嫌なことがあると、気持ちに生まれた溝と外の空気のギャップを埋めようと革新的な言葉を探してしまう。
生み出すことが出来る能力なんて持ってねーから、何処かにないかと探してしまう。目的物はもちろん答えでなくていい、キッカケになるものでいい、サンプリングする着眼点が見つかればいい。
最初から答えとか用意されてないわけであるし。
何時間か探した後、何日か探した後、何ヶ月か探した後、探すのを忘れた後、材料が見つかる。
「そこからサンプル抽出してリミックス!」
おっと!ちょっと待ってみましょう。
部屋が暑くなるとストーブを切るように、風呂に入ってバンソコーがフヤケテ剥してしまうように、そこから得た内容は気持ちの過不足を埋めるはずの自己満足であったのに、構築したら自己満足でいとも簡単に解体して遊んでしまったりもする。自己満足を自己満足で潰す矛盾。
ただ、私と私の間だけにある文面に対して、あれが気になるからとかこれが受け入れられないからとか同じ円を何周も回ってると、掘り出した瞬間から言葉が風化していってしまう。
「そんな迷わんくても?」
暴風警報が発動されていたら、”ぶっ潰せる一言”が見つからず途方にくれる前に、とりあえず暴風警報速報をボケーっと眺めて、でも、変わらずアンテナは張っていればいいと思うのだ。


2005年2月3日(木)。

車を運転してると、急に浮遊してる感触がしたり。
アクセル踏んでるとはいえ、自分の手で直にタイヤを回しているわけではないから。自転車なんかだと、踏み込む重みが味わえるので、まだ動かしてる・確かに乗っているという感触がある。
でも、自動車だと、その辺の感覚が知らない間に麻痺してることがある。
「やべー!宙に浮いてるみたい!ひゃっほう!」
時々、そんな状態に!
依然として車輪は駆動し続けて、「時速は何キロだったっけ?」って、まぁ安全運転だよ?目は固まったたまま、体も固まったまま、脳だけドキドキして宙ぶらりんなハイ。
カーマニアには絶対ならないと思うけど(お金もないし)、運転時に落っこちるツボにははまってしまうかも。
特に夜中のだだっぴろい田舎道とか軽い山道とかはツボが仕掛けられていることが多いよ。


2005年2月2日(水)。

DJ初体験!
当然のごとく繋ぎ方がチグハグでしたが、楽し過ぎました。
終始恥ずかしがってた割にはかなり踊っていて、楽し過ぎました。
(曲ごとのタイムまで表記した綿密な)曲順のカンペを作っていったのに、回している途中で気分が変わってしまい順番を変えたり、いきなりかけるトラック数を間違ったりしてテンパり続けましたが、楽し過ぎでした。
ピッチシフターを好奇心で練習もしてないのに適当にいじったら、一時えらいことになってましたが、「こういう演出なんだぜー。」ってふりをして、楽し過ぎました。
1回目のDJの直後に、初対面の方から「何処か違う星から来たのかと思いましたよー♪」というお言葉を頂戴しましたが、楽し過ぎでした。

セットリスト(1回目)
@谷村コオタ 「Meet Me In The Next Living」
ATHE POSTAL SURVICE 「the district sleeps alone tonight」
B岸田今日子 「PORNO3003」
C藤田陽子 「恋はみずいろ」
Dsketch show 「ATTENTION TOKYO -PSAPP Companion mix」
Eprefuse73 「radio attack」
Fザマギ 「/JP」
GRYUKYUDISKO 「the melon and tofu」
H七尾旅人 「夜、光る。」

セットリスト(2回目)
@AFRA 「DIGITAL BREATH」
Aport of notes 「You Gave Me A Love」
Bpele 「the faber」
Cpia fraus 「400 & 57」
DAll Natural Lemon & Lime Flavors 「salad forest」
ESondre Lerche 「Sleep on needless」
FZARIGANI 5 「月と飛行船」
Gクラムボン 「Folklore」

途中、変声器で曲に合わせてラップしちまいましたが、マイク通してなかったのでほとんど聞こえなくてよかった。
でも、ヘタクソなMCになりたい気持ちが芽生えてしまいました。 アホです。
そして、今後も隙あらばこっそりとDJ体験をしていこうと企んでいます。


2005年1月14日(金)。

忘れてたにおい。
安心するにおい。

さっき思い出して、意味不明になった。
けど、懐かしくないのに懐かしくて、やっぱ意味不明。

今日寝ることが困難なら、明日寝ればいいし。
明日起きることが困難なら、今日は寝てしまえばいい。

昔は色んなにおいで溢れてて。
見えるものと見えないものに対してちっとも打算的じゃなかったのに。
知らん間にどっかに置いてくるんだろーか。
いや、持ってるけど持ってないと思ってしまうんだろーな。
付けかえるの忘れ続けた、コンタクトレンズみたいに。
目にべっくりと張り付くんだ。

昨日、やっとのことで学校の授業を受けれた。
テスト前なので、分からんなりに必死である。
後ろの席の体育会系の集団にとっては、何よりも合コンが重要だったようで、というよりカワイイ子とヤれるか否かが重要だったようで、
「溜まってるらしいから、バンバンやらしてくれるらしいぜ。」
と、そんなわけなかろう。
いや、仮にそうだとしても、そやって得た興奮は体位は上でも、精神的には下で踏まれっぱなしだってことに気付かないんだぁね。

なんて思うのは、もしかして自分がノーマルな♂じゃないから?
でも、日常にあるにおい忘れちゃったら、悪い意味でただの動物じゃね?
安直な利益だけ求め続けるんだったら、別に見えるものも見えないものも必要ないのにさ。


2005年1月13日(木)。

諸事情で年末に血液検査されたんです。
その結果は良好で問題なかったんだけど、ココ数日の状態を振り返るに、遠くない未来にまた検査されそうな気配がしないでもない。
血液検査、苦手なんです。
献血なんてもってのほか。
血が怖いわけではないけど、抜く時の感触が気持ち悪い。
こう、なんてっか、きゅーって吸われるのがね、
「ああ、採られてるな。」
って、狩られてるような気分で嫌なんですよ。
(前世が人間に狩られた動物だったのだろうか。)

一昨日、セックスのことについてグダーっと書いたんですけど、少しして読み返したら、あまりにも自意識過剰でつまらん告白だったので、抹消しました。
ん? 告白?
やっぱ恋人とは、相互に理解のあるセックスができたら嬉しい。
性欲というのも確かにあるけど、相手の体温を再確認するというか。
「あっ、こいつ、ぬくい!」
「ぬくぬくしてる!」
って、当たり前のことに安心したりするので、個人的には。
(でも、独り身なんで案ずる必要全くなし。)


2005年1月12日(水)。

昼間に夢を見た。
起きたら、もう外が暗かった。
普通に嫌な記憶が甦りそうである。
テクノ鳴らさなきゃ!テクノ!
気分だけ巻き戻す時間。

見た夢の話。
近鉄奈良線瓢箪山駅〜石切駅(思い切り地元ネタ・・・)の間で、何を思ったか、一瞬だけ途中下車すると、駅前の公園で友達が2人、ブランコをこいで遊んでいた。 自分もその輪に加わろうとするが、ナゼか止めてすぐにまた電車に乗り込み行ってしまう。 行ってしまった割にその輪のことが気になり、友達の1人にメールを送る。
「もう少ししたら話しに行くからー!今ドラクエがいいとこなん。」
という内容を(何処から出てきたドラクエ・・・)。
しかし、その直後に意識が飛んでしまい、気が付くと電車に乗ったまま当初の辺りをうろうろ往復していて、すっかり太陽は傾いていた。
「やばっ!」
ふと携帯を見ると、その友達からこんなメッセージが、
「一度来たの分かってたよー。この、いちごっ子ー!!」
ここで夢終わり。 とりあえず、いちごっ子って何?なんですかね?
それが気になって仕方がない・・・。


2005年1月7日(金)。

音が溢れてきて、収集がつかなくなってます。
「危険です!」

時々思うのは、こうやって音楽を好んで聴くのは、その先に無音を求めるからじゃないか。 ってことなんですよ。
光の3原色じゃないけど、音もありとあらゆる音を重ねていくと、無音になっちまうんじゃないかって。 行き着くところは、音のない世界。

たまに自分で何んでもいいから、音を作りたいと思う。
メトロノーム並みに単調なビートのループとかでいいから。

頭の中に音楽がにゅるって流れ込んできて、愉快になる。
淋しくなる。バカになる。知恵になる。楽しくなる。虚しくなる。おもしろくなる。悲しくなる。愉快になる。 繰り返して、また最初に戻ろうとする。
「ん?最初って何処?」


2005年1月4日(火)。

「異常に疎外感を感じる!」
とある高校生の日記を、たまたま読んだトコ、
「人が殺される映像を寄ってたかって見て、「気持ちわりー!」とか盛り上がってる。異常だよ。みんな、人を人だと思ってない。気持ち悪いのはお前らの方。」
というような記述があって、大いに頷きました。
こういうことをジェネレーションギャップで片付けてしまう大人達はきっと子供達に殺されてしまうよ。

”優しさ”を受け入れるには”優しさ”が必要だと思う。
”優しさ”を受け入れてももらうにも”優しさ”が必要だと思う。
だから、徹底的に利己的な殺伐に対して”優しさ”を差し入れても、利益を摂取されるだけで、捨てられてしまうと思う。
それを、「心が乏しい」だとか「人間性がない」だとか指摘され非難されてしまう、現代の犯罪的な残酷さ。
道徳に時代性があるとすれば、それは何て脆くて都合がよくて時に酷いものだろう。 でも、実際には道徳には時代性があるように思えてならない。
「ひとをおもいやれるやさしいよい子。」
という標語は圧倒的に正しいけど、
「よい子がぜんいんむくわれたかしってる?」
と言われて、即座に心の底から返答できる人が何人いるだろう。
安易に「YES」と言う人々、
「そいつら、みんな嘘発見器にかけてやりたい。」

しかし、
「それでも、生きてるんだからさ!」
そうも思った、厄年な俺です。
召還するか全滅するか問う前に、召還する優しさを持つことが必要で大切な気がする、いや、そうだろ!
と、最後は分かりにくい盗作で(流行なので)照れ隠しをしとこ。


2004年12月31日(金)。

ナゼ、日々を形として残す文章には種類が少ないのだろう。
鈍痛を綴ったそれを、何も感じない人は笑うだろう。
安易に顔文字などを使うそれを、何かを感じすぎる人は笑うだろう。
そして、どちらでもない自己を巧妙に解体し文字にトレースできる人は、それらを両方笑うだろう。

敏感だと自覚した瞬間、人は嬉しくも悲しくもあると思う。
「人とは違うから。」
感覚を自由に踊らすことは、同時に心を閉ざすことになるのかもしれない。
そういう記憶を若気の至りで終わらしてしまえないから、きっと過去をうらやむのかもしれない。
「人と違うんじゃない。みんな違うから。」
と気付いているのに、受け入れられない後悔?
俺等がずっと同じような人を求めてきたとして。
でも、手を差し伸べられたら、シッポを振りながら、その手を噛んだりして。
矛盾が矛盾を呼んで、
「愉快やなー。」
なんて狂えるほど達観なんて出来なくて、すごくどっちつかずだ。

美術室に閉じこもったり。
屋上で運動会からチルアウトしたり。
テストの答案の文字を書いては消して書いては消して書いては消して。
引き出しを開けては閉めて開けては閉めて開けては閉めて。
勝手に作り上げた呪文は留まることをしらず、
「何か変だな。」
って思い続ける。今でもそう?
でも、”変”って何?

中間に位置する表記はできないものか。 そう考える。
例え、その文面が拙すぎてあちこち意味不明でも、自分はその中間を探したい。 じゃないと、どっちも救われない。 いや、救うとか救わないとかじゃない。
敏感である鈍感だから、もっと隙間を埋めていかなきゃってことだ。
照れながらでも、手を繋いでいかなきゃってことだ。


2004年12月26日(日)。

大学の友達(大半がもう卒業してる)と久々の再会。忘年会。

大学1年の頃ずっと好きだった、理系の大学院に行った友達と話す。
「今、どんなこと研究してるん?」
何でも、彼は人々の会話を映像として残して、その会話の中からあることについて語っている部分をカットアップし、知識の体系としてそれを保存。
何処かの誰かがあることについて質問をしたら、その膨大な会話の断片の中から回答例を何個も呼び起こしてくるシステムを作っているらしい。
自分の拙い言葉だと、全然説明しきれてなく、どんなものか分からないと思われるが、強引に言うなら”人の話した過去から得られる知識を集めた辞書”とでも言えるのかもしれない(間違ってたらごめんなさい・・・)。
加えて、その辞書にはユビキタスでアクセスできるのだという。

こんな具合の説明を興味深く聞いていたら、次のことを友達は言った。
「もしある人の意識や記憶を全部映像化できたとしたら、それは、アイデンティティになりえるのか?」
確かに、自我を取り除いたあとの人間には肉体しか残らないわけで、そういう意味では自我を全てデジタルとして保存すれば、ある種人は数字の中で生き続けられることになるのかもしれない。
しかし、その人の存在そのものの意義はどうなってしまうのだろう? さらには、「じゃあ、この体って何よ?」
という、元々は科学的な研究が哲学的な領域の問題になってきてしまう。

でも、自分は少しこう思った。
「別に俺って体なくてもいいのかもしれない。」
もし、肉体という観念がなければ、男も女も性別の差がなくなってしまうわけで、そうすれば社会的な固定概念にとらわれず誰もが誰かと自由に好きでいることが可能になるのではないか、そんな気がしたからだ。
しかし、同時に肉体がないデータだけの存在だとしたら、”好き”という感情、そもそも感情というものが芽生えるのかという疑問が浮かぶ。
「だって、相手の体温を感じたりしたいよなぁ。」
と。
「手だって繋ぎたいし、セックスだってしたいよなぁ。」
と。

ふと、
「何でこんなことを考えてんだろ?」
ということが頭をよぎったら、出た答えは簡単なものだった。
やっぱり、未だに彼のことが何処かで好きなのだ。
「そうそう、エクは付き合ってる人とかいるのー?」
「いやぁ、今はいないけど。」
「ふふー、俺はさ、彼女出来たんだ!」(ちょっと自慢げ!)
「ふーん。」
別に今となっては、そういう会話を交わしても何も気にならないけど。
「だけど、やっぱり何処かで好きなんだろーなぁ。」
惚れていた人が変わらず、惚れの奴であり続けているというのは、恋愛感情を抜きにして、何だか嬉しいこと。 甲斐性もなくちょっと照れて、ワクワクしちゃってる自分を、アホ過ぎだと感じ、
「でも、この瞬間だけは許してよ?」(誰に言ってるんか分かんないけど。)
と思ったりした。


2004年12月21日(火)。

学校からの帰り道、信号を待っていると急に気分がグルグルと回ってきた。
キチガイだとかキチガイだとかキチガイだとか。
(放送禁止用語3連発!)
異常を指しては、世間はそう言うけど、街中で想像だけ自由に回転させてみる時、オマケのようにくっついてくる意味も分からない妙な開放感と、少しだけ頭がおかしくなるような振りをするアホな気分は、異常にちっと首を突っ込みながらも、非常に健全だと感じる。
歩道脇の塀の上に登って、くるくると周りを眺めてみる。 通り過ぎる車も、ごったがえす自転車も、コンビミにたむろする学生も、みなとても平穏。 けど、コツッっとか叩いてみたら、ガラガラと崩壊するしてしまう怖さも感じる。
「正常だよ、ほら。」

最寄り駅に着くと、ふと
「バス代がもったいねー。」
と思い、家まで歩くことにする。 暦に律儀にしたがって、ぐっと寒くなった夕方を、気分はさっきのまま、Willy Masonの「oxygen」(サビしか分からないのに)を口づさんだりしながら、トボトボ帰った。

夜、風呂に入ると湯船にゆずが2個浮かんでいた。
「今日は冬至だったよなー。」
ボケーっと湯に浸かっていると、気分はさっきのままのはずなのに、頭の中にはなーんにも浮かんでこない。

第6感があるとするならば、それは脳内がフラットになる気分だと勝手に仮定してみる。 この時の感覚は感じるものじゃなく、その気分を使って、目の前に見えている世界を違う角度から捉えなおした世界の隙間に触れてみることだ。
「正常だよ。ほら。」
「いや、キチガイかもしれんけどな。」


2004年12月18日(土)。

友達が警察官になる。
就職浪人してた友達が警察官になることが正式に決定。
「めでたい!」
のだけど、自分は人の今後を大きく左右しかねない職種に付いている方々がしばしば持っている無意識下の高圧的な観念が好きではない。
セクシャルハラスメントに次いで、ドクターハラスメント(ドクハラって略すそう)なんてことも言われている昨今。 便乗するなら、ポリスハラスメント(ポリハラ?)も十二分に社会に横行しとると感じる。
固定概念の全くない人間などいないし、ある程度のラインで仕事だと割り切らないと、これらの職業はやっていられないと思う。
しかし、ありふれた気配りや寛容な心を忘れた慣れは、とても危険だ。
言葉だけでも人を殺せるのに、実際に何か行使する力を社会的に与えられた状態は、それ以上に無神経で残酷になる可能性があるんじゃないか。
正常か異常か2つに分けるのではない。
正常と異常が入り混じった混沌の中で、何が先を記してくれ正常さを取り戻してくれるのかを探す柔らかい気持ち。
そんなものが何処かでたくさん欠けているような気がする。
彼は数年後に会った時も、今までと同じ照れ笑いを浮かべてくれるだろうか。 願わくばそうであることを祈って、「おめでとう!」


2004年12月12日(日)。

気が付いたら、ココ数日、非常によく音楽を聴いている。
ちょっと前まで、何かを耳にするのも躊躇していたのにさー。

・ORANGERANGE 『musiQ』
・TRANS AM 『THE SURVEILLANCE』
・湯川潮音 『逆上がりの国』
・七尾旅人 『ひきがたりものがたりvol.1 蜂雀』
・RIP SLYME 『MASTERPIEACE』
・mum 『SUMMER MAKES GOOD』
・OWEN 『I do perceive』
・CUBISMO GRAFICO FIVE 『CINQ』
・NUE! 『NUE!』

何かをごちゃごちゃに聴いてます。
って、ホントにごちゃごちゃ…。 節操なし。


2004年12月11日(土)。

暴力シーンばっかりで埋め尽くされた映画のような世界を思い描いてみた。
ってか、感覚だけ入り込んでみたくなった。
そんなこと一瞬でも考えたことなかったのに。
どちらかと言えば、忌み嫌っていたのに。

近年、話題になる映画というものはドンドン過激化していってる気がする。
”人がたくさん死ぬ”だとか”建物がバシバシ崩壊する”だとか。
映画に限ったことではなく、色んな表現で何かを過度に溢れさせることを楽しみ、受信する側も楽しむ傾向があるような。
で、別に”大量に殺す”だとかいう演出だけが過激なのではなくて、前もって感動をすることを植えつけられているようなものも、同等に過剰なものを目の前に差し出してくるのだ。

過剰じゃないと現実を超えられないから。
ある種のエンターテイメントや芸術として成り立たないから。
自分のアホォな頭で、幾つか考えてみたり。

でも、今周りを取り巻いてる日常はそのままでも怖いくらいに過激だと思う。
普通にテレビを見ているだけで、街ですれ違う人々を見ているだけで、こうやってネットをしているだけで、現実は充分に非現実的で飽和な崩壊に向かっている印象を受ける。

過剰なものを求めるのは。
この現実からちょっとだけでも目をそらしたいから。
この現実に気付かないことを暗黙の了解で選択しているから。
自分のアホォな頭で、幾つか考えてみたり。
ある映画のワンシーンのカット、怪我をした少年がジッと何かを冷たく凝視している。 何だかそれが笑っているように見えた。


2004年12月10日(金)。

目が覚めても目が覚めず。
重たい朝は6畳の部屋を囲い込みベッタリと張り付いたまま。
昼過ぎに入った友達から「もうすぐ着くから。」との告知メールで、むくっと起き上がって、適当にかいつまんだ昼食をモシャモシャしながら、犬のご飯と夕食の炊飯。 携帯電話が鳴ったと同時に、友達が来た。
居間に上がってもらって、何となくつけたテレビから流れるのはU2のPV。
「ディスコティック」だなんて、全然踊れないんだ。
当時も今もこれから先も?どうでしょう?

洗濯物を取り込むのを放棄して、
「どっか行かへん?」
と、奈良の中心地までダラダラと3時間かけて歩いてく。
隣の校区の中学校のすぐ近くには少年院がある。
昔からその前を通ると、ナゼか気持ちがザワザワする。
学校と少年院の距離は300m程。
「ほら、そんなに離れてなんかいないでしょ。」

繁華街に着くと、沖縄の雑貨を扱っている店の人に話しかけられた。
ガラスが埋め込まれたネックレスをわたされ、
「光に透かして見ると、海が見えるんですよ。」
と沖縄なまりで解説してくれる様は、ちょっとカワイカッタ。
けど、セールストーク。
何度か光に当ててガラスを覗いて見るが、当たり前な話、海なんて見えない。 ガラスの中を光が屈折してキラキラと光ってる。
「俺、全然海とか見えんかってんけど。」
「言わんとしとることは何となく分からないでもないけどね。」
ブームって怖いなぁ。
生活の中にない伝統って何なんだろう?
日常に還元しない地域性って何なんだろう?

コンビニでカップの日本酒と駄菓子を買って、路上に座り込む。
146円の飲み会をスタートさせて、通り過ぎる人を眺めていると、自分はやっぱりこの街が好きで嫌いで好きなんだと思う。

友達と別れて、1人で電車とバスを乗り継いで帰る。
歩いていった行きより、遥かに味気ない帰路に着くと、急に無意味に悲しくなって、いつもより上の空になった気分。
でも、帰る。
「ディスコティック」だなんて、全然踊れないよなー。


2004年12月9日(木)。

”life is too short. what a silly game!”
という言葉をパンクな旋律に乗せて、カワイイヘナチョコ声で歌われる曲を聴いたものだから、何だか吹き出してしまって。
ベースを取り出してきて、ラインを耳コピしようとするも、主要な音3つくらいしか拾えなくて。 でも、繰り返して、じっくりコピろうなんて思わなくて。
CDに合わせて、ジャカジャカとベースを鳴らしみた。

ん。ベースなのに擬音語がジャカジャカ?


うちの近くにある公園の滑り台に登ると必ず見えていたものは、隣駅にある遊園地の観覧車で。 昼でも夕方でも、その輪はのんびりと回っていて。
「何だか、俺らバカにされてるみたい。」
空はきまって青空で、流れ込む空気の速さなんて全く関係ないかのように、ワッカはゆーっくりと回転を続けていた。

今年の初めにその遊園地が潰れた。
公園から目の先の中学校のチャイムが鳴り続けるのとは裏腹に、観覧車はピタリとその活動を止め、きっともうすぐ姿すら過去にしてしまうだろう。

「もうちょっと、バカにしてくれててもよかったのになー。」


2004年12月5日(日)。

久々にバスに乗り大阪の街に繰り出してみた。
約1ヶ月前に「殺される」と思うほどの恐怖を感じた、たくさんの電飾で覆われた町並みは、今日は何だか笑ってしまうくらい穏やかに見えた。平気だった。
いや、むしろ雑踏具合がちょっと清々しかったかもしれない。
しかし、時折異常なものが見える気がしてならないのも事実。
あの時の記憶がトラウマになっているんだ。

電車の中、見えたもの全てが写真のフィルムのように目に焼き付き、周囲の人々の会話が幾重にも重なって、ノイズを発してるラジオみたいな音で襲ってくる。地べたに座り込んで、ショートしそうな脳味噌で最寄り駅に着くのを待ち続けた。

ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。
一体、このどうしようもない違和の核にはなにがあるのか。
何もないのか。

生きてることは考えることじゃない。
感じることで、後から付いてくるもの。
だから、自分は哲学者に惚れることはあり得なくて、いつもバカみたいな惚れ方をして、でも、こうやって生きてくんだなって思う。


2004年12月4日(土)。

地元の友達(バイ)が家に遊びに来たので、ナイトクルージング。

ドライブ中の会話。
「あー、元気になったらハッテン場とか行っちゃうかも。(冗談)」
「……性病にだけは気をつけてほしい、マジで。」
「そっちこそ、ちゃんと避妊しなよー。」
「いやいや、その辺は多分…大丈夫。」
「ホントに?」
「……8割くらいしてないかも。でも、大丈夫!」
「どこが大丈夫やねんっ!」


2004年8月〜11月。

『藍色夏恋』を観ました。 「チェン・ボーリン、かっけー!」 以上。 じゃなくて、何処か言葉を削ったような会話が印象的。 それが、台詞と日常会話の間くらいの聞こえ方がして瑞々しかった。 話はちょい同性愛の要素(レズ)が入ってるけど、至ってストレートでキレイな青春映画。 その割に観ていられない恥ずかしさがないのは、やっぱり言葉。 そして、ピアノ中心の控えめな音楽による流れの気持ち良さのおかげなのかも。 派手でベタベタな曲が随所で鳴りまくる青春映画は観ていられないけど、これはそういうのを上手く避けていてよかった。 一気に観れて軽いし。 あと、夜中のプールのシーンはずるいなー。 ずるいなー。

『こぼれる月』という、様々な精神障害を持つ主人公達の日常を切り取った映画を観ました。 撮り方は粗く、ドキュメンタリーのような感じで、メジャーな映画に比べると明らかに観辛いです。 加えて、役者の演技も切実ながらヘタクソ。 しかし、それゆえに確かなリアリティがあります。 ミニシアター系の映画、特にこういった内容を取り扱った作品は、雰囲気を重視しただけになることが多そうな気がするのですが、『こぼれる月』は 「そこまでやらなくても、、、。」 と感じるほど痛く不親切で、当然のように安易な結末は用意されていません。 描かれている世界の一部はやや過剰な気もしましたが、登場人物の”やりきれなさ”が浸透する感覚で、観終わった後、しばらく放心してしまいました。
 『 この映画を見ていて一番感じたのは、「病人は、病気を抱えながら生きている普通の人」だということです。彼らは、何かの理由で「病人」になって苦しんでいるけれど、その一方で「ごく普通の平凡な人」の顔もちゃんと持っている。彼らは人を愛そうとし、愛されようとする。 』
こんなコメントが寄せられているのですが、個人的にもその通りだと感じました。 この話の主要な4人はカタチは夫々違えど、皆精神的に病んでいます(一見ただのヒドイ奴に見える”ゆたか”という登場人物においても)。 でも、それは特別なことではないのです。 そして、特別でないからこそやりきれないのです。 ココに提示されているのは、ある現実で(話として装飾されてはいるが)、昨日も生きていた・今日も生きている・明日も生きていく、ということだと思う。

東京から帰ってきました。 ある一瞬の集まりが最高でした。

部屋中の天井一杯にミラーボールを設置して。 もし、その1つが落下したら当たって死ぬ。 ものすごくバカバカしい例えばの話、でも、ちょっとだけ愉快だと思う。

東京リミックスという番組が、確か高校生の時にテレビ東京系で半年くらいやってたんです。 結構意味不明な内容で、短編映画のような、作っている人の自己満足のような。 突然そのことを思い出し調べてみたんですが、1件しかヒットせず誰が企画したのか誰が出演していたのなど全く分かりません。 欠片でも知ってることがある方、ご一報ください。 ってか、教えてください。 最終回(?)で手を繋いで「世界が終わっても、僕らこのまま。」みたいなシーンがあって、「うわー、胡散臭っ!」と感じつつ、不穏で観る人を置き去りにしてたような番組だったんで、感動的だったんです。

ポチッと何気なく付けたテレビで RUSH BALL 04' の模様が流れていた。
PENAPLSが出ていたんだけど、高校の時によく聴いていたバンドなので、見ていて懐かしくなった。 でも、最近の活動には全く興味が沸きません。 以前のペイブメントみたいなヘロヘロでローファイでザラザラなのに切ない感じが好きだったのにー。 胸キュンだったのにー。 今は、すっかり下世話なアメリカンロックの焼き増しに、、、。 あっ、でもペイブメントもアメリカのバンド、、、。 そして、HUSKING BEE を観ていたら、ドンドンがちっこい刺青を腕にこそっとしててビビりました。 あの童顔でイレズミ、、、。 って、見間違い? 摩訶不思議テーゼ? あと、スパルタローカルズは和製JOY DIVISION だなぁ、と思ったのでした。 TELEVISIONみたいだってよく言われてるけど、自分はジョイディビ説を推します。
余談ですが、2年前に RUSH BALL に行った時に、肺に穴が開きました。 もちろん入院して、ぐりぐりっと手術。 個人的には結構トラウマなイベントです。 肺に穴が開いてるのにも気付かずモッシュしてた若かりし頃、、、。

CDを買い、まだ聴く前に何をチェックしてしまいますか? 歌詞? 中ジャケ? 参加しているゲスト? ココ数年、個人的にはかなりの確率で「誰がマスタリングしているか。」を見てしまいます。 音感が良い方ではないのですが(どっちかというと悪そう、、、)、「この人のは好き!」だとか「この人はちょっとなー、、、。」とかは生意気にもあったりするのです。 だから、好みの音質や音圧を過去に作っていた人がマスタリングしていれば、期待も一層膨らみますが、その逆だと、聴く前から早くも期待半減です。 事実、好きなアーティストの新譜をワクワクしながら聴いて「あれっ?」と思い、クレジットを確認してみたら「この人はちょっと、、、。」というエンジニアさんがやってたりすることは、結構頻繁にあります。 「録音状態自体が好みじゃないのか?」と考えたりもするのですが、以前シングルで気に入らない音質だった曲が、全く同じヴァージョンでアルバムに入ると、雲泥の差で良く聴こえたことがあります。 とっさにクレジットを見ると、やはり別の方によってリマスタリングされていました。 自分が主によく聴く日本のインディの人達の音源は、まだ選択肢があまりないのか、大抵数人のエンジニアの内のどなたかがマスタリングをされている場合が多いです(もしくは数箇所のマスタリングスタジオ)。 よって、「どうかあの人にだけはマスタリングされてませんように!」なんて思いながら、レコードを手に取ることもしばしば。 ミックスを有名なエンジニアさんが手がけていることは、宣伝某体で話題になることはあります。 しかし、マスタリングに至っては、そういったことがほとんどないように感じます。 でも、「例えどんなにいい録音・ミックスがされた音源も、マスタリングによって台無し。」になることはあるんじゃないでしょうか。 耳が良くなく、使っているオーディオ機器も大したことのないを身ですらそう思うことがあるのだから。 はっきり言って、予算が少ないであろうと推測されるインディバンドの作品は、マスタリングの如何によって相当聴こえ方が変わる気がします。 つまり本来は名作であっても駄作になってしまう可能性があると思うのです。

アメリカ村の雑踏は大阪や京都のそれよりかは好きで、ごちゃごちゃとした雑音の中、静かに会話を楽しめました。 街をちゃんと歩いたのが2週間振りくらいで、軽く浦島太郎状態でした。 こんな時でも遊べる遊んでくれる友達がいて、「ありがたいなぁ。」、と感じました。

写真を熱心に撮るようにはならないであろうと感じる。 というのは、写真を撮るために何か行うのが、個人的に不可能であるから。 それは、「撮るのが目的になるのが嫌だ。」ということではなく、「その場を楽しむ・その時を過ごすので精一杯で写真どころじゃねぇ、、、。」ということなのです。 加えて、誰かが切り撮った作品を見る方が、圧倒的に好きなわけで。 でも、例えば自分が夢遊病者だったとしたら、ガンガン撮ってみたい(夢遊病下でシャッターを押せるのか疑問ですが)。 と言いつつ、興味沸き宙。

ちっちゃい頃は暗がりを”怖い”と感じていたのに、いつの間にかそうでなくなった。 むしろ、今では好奇心の方が若干先行してる。 闇を怖がるというのは、もちろんその通りの感覚であると共に、視覚で捉えきれない得体の知れない空間に簡単に想像力を巡らすことができたとも解釈できなくないはず。 オバケというのは、具体的な実態のあるものではなくて、元々は”オバケ現象”であった。 このことは有名だけれど、暗がりを怖がるという行為と、暗がりと同居するという行為は、どこかで共通していると思う。

人が人を批判して。 その人がまた別の人を批判して。 「もーええやん?」 とゲンナリしました。 自分にも不満はたくさんあります。 でも、不満を正論で巧妙に提示して、「ほら見てみろ!」ってな態度を取るのはどうなんだろう? 誰かの勝手な推測以上に、個人各々は大きく色んな問題を持っているんじゃないか。 「自分が一番利口だ。」 と無意識の内に思った時に、人はある種の崩壊を迎えると思う。 しかし、それは大きな成功への第一歩でもあるかもしれない。 ただ、「捉え方・考え方・感じ方」に「頭が良い悪い」の尺度を当てはめるのは、妥当性はあっても、とても悲しいことではないだろうか。 一つはっきりと分かったのは、自分は上記のようなことを少なからずしてきて、非常に後悔の念にかられたということです。

この夏は何度かドライブをしました。 特にあるドライブは自分にとって大切なものになり、窓から夕日が差し込んだ時、ずっと抱え込んでた不安が歪にちょっとだけ溶けて泣きそうだった。 走っている車の中での会話とは不思議なものです。 自分達の状態は立ち止まっているのに、周りの景色は移動していく。 「青い車」という漫画があり、その話の中で、登場人物は言葉少なに自分のもどかしさの核を話し出すのですが、ドライブというのはそういうことを可能にさせてしまう力がある気が少しします。

数枚のDVDの中でオレンジレンジのを観てる時が一番元気なことに気付いた。 あわわ。

『RAFT』という映画を観ました。 部屋を暗室にして。 51分しかない短編なんですが、51分がベストであり限界である話だと感じました。 おもしろくはないのに、何処かに引っかかる映画というのは稀にあるもので。 それは、この映画がストーリーに明確な意図も結末も、根本的にスートーリー性すらもないからかもしれません。 そういう映画は大抵”よー分からんが、雰囲気だけはふんだんにある”、ポーズだけで成り立っているものが多い気がするんですが、『RAFT』は”雰囲気もあるのかないのか分からなく、捉えどころがない”のです。 ただただ徹底的に淡々としていて、何もかもが粗い感じ。 「お前の言葉は拙くて粗暴だ。」 「でも、口笛は柔らかいね。」 そんな話。 観た直後に誰かとドライブしたくなります。

昼間に窓を全開に開けて迎えた夕刻。 薄暗い部屋で仰向けになっていると、何かが違う。 「自然の音がめちゃめちゃ鮮明になってきてるん!」 ということで、もうすっかり秋。 虫の鳴き声が、夏場とは比べ物にならないほどクリアに聴こえて来る。 こういう時は、ボッケーとしていたら音の渦に迷い込む。 周囲から包み込まれる感じだ。 更に、その状態に生活音が加わる瞬間なんてワクワクしまくりだ。 「ほらほら、アチコチで音楽が鳴り出しとるから!」

久々に夜の民放(トリビア)を見たら、出演者が鈴木亜美と小倉優子。 この2人の冷戦(視線での威嚇など)と、我関せずなタモリの暴走で濃密な48分間でした。 「あっ、内容ほとんど覚えてねぇー。」 、、、、、、間違ったテレビの見方です。

昨日の強風は何とも懐かしい匂いがしたので、ベランダでソワソワしてた。

能面を付けた人が突っ立っているのにスレ違っても、誰も気付いてはいないのだ。 だから、いつもの交差点で何かがおかしいと思ったら、馬の被り物をしてみれば良い。 キャバクラの看板を持った人にスレ違う回数なんて、誰も分かっちゃいないのだ。 だから、いつもの歩道橋で何かがおかしいと思ったら、非常口のマークを書き殴ってやれば良い。 一見不気味な状態は、自動販売機が夜間でもずっと灯りをともしているのと似ていて、昼間の物影でぼんやりとしてる。 これらは、夕暮れが染み込むように迫ってくるということ。 しかし、視界に広がる世界がモノクロからカラーに変わる瞬間に偶然出会うことも、また同じなのだ。

昔、ある友達が夢に出てきて、レイプされた。 最近、またその友達が夢に出てきて、今度は相談にのってくれた。 どっちも何だか楽しかった。 今、何処にいるんだろう?

「かごめかごめ」という遊び、あれは何だか不気味な雰囲気がします。 由来は全く知らないのですが、笑えない背景があるのでは? と、勝手に感じたりして。 それがいつの間にか子供の間のゲームになっている。 人とは負の記憶を敢えて全く違ったカタチで後々に残そうとするのかもしれません。

マインド・ゲーム』 極地的にかなり話題になっているけど、おもしろいのかなぁ。 どうなのかなぁ。 今日、たまたま山本精一と不思議ロボットによるテーマソング「MIND GAME」を聴いたんだけど、混沌でいて軽快な音を、注射器で聴覚に注入されているような感触がした。 曲自体の空気は重たくなくスゴク軽い(複雑だけど)。 でも、にゅるにゅると耳にこびりつく感じ。 「この曲、いいなー。」 と思い、サントラの詳細を見てみたら、「MIND GAME」の他に、羅針盤、Fayray、菅野よう子がクラシックをアレンジ&演奏した曲などがてんこ盛り。 って、すごい豪華! サントラの方が気になる!

早朝、奈良県南部の曽爾高原に行ってきました。 標高が高いためか、吹き抜ける風はとても涼しい。 丘に登った際に視界に広がった、雲の流れる陰が周りの山々にゆったりと投影される光景は、透明な感触がした。 透き通るような豊かな色の重なり。

植物の匂いがアンテナを優しく包んでくれて、心地よかったです。

俺等の脳味噌は肥大化しすぎて、ある一瞬やある光に対して鈍感になってるのかもねぇ。

5年前のLaB LIFeのライブ映像を観ていたら、ターンテーブルで参加しているTa-1のことが、とても気になった。 「今、何をしてるんだろーか?」 LaB LIFeが解散して早4年、ダメ元で調べてみたら、改名していた。 Ta-1 → TAICHI MASTER に。 現在はアルファのプロディースをしつつ、DJ TASAKAとユニットを組んでいるそうだ。 ナゼ今になってこの人に興味を抱いたのかは、よく分からない。 でも、それは初めてライブハウスという空間でライブを観たのが、LaB LIFeだったことに関係しているのかもしれない。 その時のアンコールでオーディエンスに向かって投げられたアナログが、見事に同行してた友達に直撃して。 直後に、「レコード取らないと!レコード取らないと!」って。 結局後ろにいた人に奪われちゃったけど、”ライブでアナログが飛んでくる”という体験は、あれが最初で最後(2004年8月17日現在)。 当時17歳の自分は”レコードを投げる姿”というものをすごくカッコいいと思った。 「あー、レコード投げる人になりたい!」 そんなことを浮かべつつ、未だに部屋にはアナログプレイヤーがなかったりするのだけれど。
http://www.frogman.biz/usb/sound/usb002cd-11.mp3
ソロ音源がありました。 チープな音が耳にくすぐったいなぁ。

ドレミノテレビ」の特番をやっと全てちゃんと見れた。 UAの唄はもちろんのこと。 青柳拓次による「もりのくまさん」。 ASA-CHANGと鈴木正人による「てのひらにたいようを」。 リトルテンポのTICOによる「つきのさばく」。 Buffalo Daughterの大野由美子による「グリーングリーン」。 Alaya Vijanaのシタール奏者ヨシダダイキチを迎えた「うみ」。 更には、大島保克との沖縄民謡のコラボ。 って、「これは幼児番組かいっ!」と言いたくなる豪華ラインナップ。 でも、ちっちゃい子の方がこの音の核に直接触れられているんだろうなぁ。 いいなぁ。 過度に装飾された激的なBGMが溢れるオリンピック中継が各局で流れ続ける中、「ドレミノテレビ」ばかりを見続けた本日、そんなことを思い自分の受信アンテナの感度が衰えたことにちと悲しくなった。 しかし、菊地成孔による「一週間」はやり過ぎでしょ! 「アレンジが完全にDate Course Pentagon Royal Garden!」 あの「一週間」がポリリズムに。 この拍子にすんなりと乗れた子は末恐ろしいと思いマス。 だって、ホントにポリリズムなんだもん!

友達に子供が生まれました。 我が子の出産後まもなくタワレコに行ってしまう友達は最高だ。 そこで氣志團のDVDを買うか迷うトコなど更に最高だ。 たくさんたくさんおめでとう! みぃ!

琵琶湖花火大会へ。 湖の近くでは正味5分くらいしか見なかったけど、帰りの電車の窓越しに偶然広がった空が一面花火の光で溢れる瞬間は、「言葉にできない」遭遇だった。 「時間がちょっとだけ止まった。」 そんな気がした。

歪んだ世界を斜めから見ると変にカッコいい。

ヒグラシが鳴きまくって、誰かの記憶が曖昧になると、「全部幻やねんー。もーえーねんー。」 というような自暴自棄な結末もアリなんじゃないかと思う。 結末は決して終わりというわけではないのだから。 ちゅーかさ、手ぇ繋いでるのがいいんでさ。


2004年7月22日(木)。

一説によると、2040年くらいには毎年40℃を超える夏になるそうだ。
などと言われても、それまで生きてるか分からん。
化学調味料まみれの食物が溢れてる中、暮らしてるし。
でも、科学調味料まみれの感覚が溢れる中、暮らすのは嫌だ。

「真夜中のプールの水面は電灯の光がキラキラ反射しててな!」
というあの子の意見は限りなく正しい。
いやいや、『正しい』だなんで重たい意味すら付随しない。
ファンタジーなんて売らなくても、その辺に潜んでるのにね。
○ッキーマウスという職業があるのってどうよ? 本末転倒この上なし。
2日連続でパンツのチャックが開いてたのってどうよ? グダグダこの上なし。


2004年7月20日(火)。

日々には音楽が溢れてる。
普段は鳴らした鳴らされた音楽によって、なかなかそれを聴くことはないけれど。
横になって寝る前に、ふと虫の声や風が木を揺らす音を意識的に聴くことがある。
「何だかすっげー贅沢な一時。」
だと、こっそり感じる。 こういう余裕はいつになってもあってほしーなー、と。
もしかしたら、その静寂から浮かび上がる音楽を拾おうとするために、
自分はコンポの再生ボタンを押しているトコがあるのかもしれない。
どんなに意思や思いが込められていても、音は響き渡れば自由になる。
だから、唄を発見し歌い続ける人がいるんだろうなぁ。
だから、楽器の音色に魅了され演奏し続ける人がいるんだろうなぁ。
楽譜という記号が記されたものであっても、
空気に乗せた瞬間に音楽は解放される気がする。
それは、言葉というもので補えない何かが広がっていくことであると思う。

ゴウくんと電話していたら、受話器越しにカエルがゲコゲコ鳴いていたり、
犬がワンワン吠えていたりしたので、そんな話をしたさ。 わぁ。


2004年7月15日(木)。

言葉はいつも説明過多なのに足りないものばっかで、ウニュンと溶ける。
そこには、体温とか液体とか何やらいっぱい入ってないやね。
でも、言葉にたくさんの感触をトレースしていかなくちゃ生けないし。
「矛盾だなんて言わないでよ。 活けろよ。」


2004年7月14日(水)。

京都METROで、JOYTOYを観てきました!
音はアイドルの曲を電子音でハードコアにしたみたいな?
(ハードコアってのは、あくまで形容的な意味合いで。)
80年代テクノポップが凶暴化して分裂症状を起こしウネウネする感じ。
で、インリンはめちゃカワイく、とても丁寧な言葉使いで礼儀正しかった。
あっ、衣装はエロテロリストだったけどね。(ちなみに2種類の衣装を披露!)
真っ赤な髪の毛が一番似合う東洋人は、インリンかもしれねーです。
ということで、非常にジョイトイ!

そして、共演のロマンポルシェの千本ノックに笑い転げた深夜2時半。
祇園祭のせいか、街には浴衣の女の子とタンクトップの男が溢れとりました。


2004年7月12日(月)。

喫茶店のヘナヘナのペーパー(口とか手とか拭くやつ)で、鶴を折ってました。

昼間に街灯がパチパチと揺れる夢を自転車が回転する音と同時に見る。
「それがさ、ちっとも悪夢じゃねーの!」
脳味噌の中のフィルムがスローモーションで逆回転してったみたいにね。


2004年7月10日(土)。

コウモリって、夕方に空へ飛ぶん!


2004年7月9日(金)。

・この連日猛暑の中、シャワーが壊れた、、、。
 うぬぬ、、、。 水浴びか。
 しかも、ナゼか根元からガッツリと折れてもいる。
 もはや、水巻き用ホースとの相違点が見当たりません。

・久々にMステを見た。 いや、地上波自体が久しい(NHK教育を除く)。
 大塚愛のバックでドラムを叩いていたのが、元ブルーハーツの人だった。
 あと、ギターがSPOOZYSの松江潤だったような気がする。
 大塚愛、あなどれじ。 曲はものすさまじい駄・・・(以下怖いので自粛)。

・そして、お目当てのRIP SLYME
 千葉正嗣さんことPESが思ったよりも痩せて、戻りつつあることに安堵。
 そして、やっぱりカワイイぺしー。ふひゃ。 RYO-Zが、
 「ILMARIと一緒に、いいとも青年隊に1日だけなりたい!」
 と、タモリに話していたが、是非実現していただきたい。

大戸屋のお食事券が当たったらしく、家に届いていた。
 「あんなアンケートでも出してみるもんだなぁ。」
 と、真面目に答える姿勢すらも全く見られなったであろう内容で、
 思わぬプレゼントが届き、ホクホクである。
 しかも、2枚もあるぜぃ!(小市民。) 誰か、一緒に大戸屋に!

・レコード屋さんでなんてことなく普通に並べられていているのに、
 何となく気になってしまうCDってありますよね?
 今日、何気にそういう気分にさせられたのが、fishing wih john
 もちろん大々的に展開されてはいなく、試聴もできなかったのだけど、
 何だかムズムズと気になる、気になる。
 「でも。ハズレたらなぁ、、、。」
 と、なかなか手が伸びないのも事実。(小市民2。)


2004年7月8日(木)。

「たった一言で全てを粉砕するような言葉を見つけたい。」
と言ったのは、漫画家のよしもとよしともだけど、
近年、急速に言葉の主導権は人から離れ、そのものに移りつつあると思う。
”言葉の擬人化が進む”、というほどの現象はまだまだ大袈裟かもしれないが、
操縦するという認識をあからさまに欠いた言葉達の氾濫を見ていると、
言葉がツールなのではなく、人がツールになってしまうような危惧をしてしまう。
しかも、その中心には何もない。
「言葉自体は意思を持っていないので、結局は言葉を使った人の業だよ。」
だけど、この場合にはすでにその言葉を発した人の存在は希薄だと思う。
だとしたら、誰が何がこの乱れをコントロールするのか?
「地味に蝕まれて行ってんだよ。 ケケッ。」


2004年7月6日(火)。

須磨水族館に行ってきました!
水族館マニアとしてはたまらない一時。
ロープライス・ローパワー・ハイリターン。
の3点を押さえたコノ族館は、もっと注目されるべき。
だって、入館料800円で、イルカショーやらペンギンのお散歩。
果ては、ピラニア・デンキナマズ・テッポウウオの3大餌付けショー
まで楽しめるんだよ! おぉ。

イルカとペンギンのかわいさに魅了。
ピラニアが一瞬で餌のアジを食い荒らした直後の、解説のお姉さんの
「あの水面にキラキラ光る銀色の欠片が、変わり果てたアジの姿でございます。」
というコメントに爆笑。

それなのに、カメラで必死におさめた本日の記録は、

ムツゴロウ。


カブトガニ。

そして、ベストショットは、

コウイカ。

って、須磨水族館独自の魅力が全く伝わらん、、、。

一緒に行ったこーちゃんに至っては、

エビしかデジカメに残っておりませんでした。
キャッキャッ。


2004年7月4日(日)。

世間の波が遅れて到来する我が家、現在は「冬のソナタ」が大ブーム。
毎週、居間ではヨン様フィーバーが起こり、半ば強制的に部屋へと退散。
ところで、「何でヨン様なん?」と疑問を覚えた人の数は、
きっと頭の中がヨン様でいっぱいになっているおば様達と、
同じくらいいるんじゃないだろーか?
彼の名前はペ・ヨンジュン。 普通ならペ様じゃね?
何で中途半端なトコをカットアップしてくるん?
森山未來に置き換えたら、ミラちゃんだよ? おかしくね?
(例えの選択を明らかに間違っているが、、、。)