2004年6月29日(火)。

学校からしばらく歩いたトコにあるトンカツ屋さん。
外観からして、ちょっとした老舗らしき気配を漂わせている。
しかし、店頭のショーケースの中身は、もう少しどうにかならぬものか。
セットの類や丼物の食玩がディスプレイされているのは当然のことだが、
その壁には、”かわいい子豚達の愛くるしい写真”がたくさん貼られているのだ。
、、、、、、何だか罪悪感にかられ食べに入りづらいのは自分だけでしょうか。
ぶーぶー。


2004年6月16日(水)。

今日という日をサンプリングするのはとても難しいこと。
サンプリングするという行為は、一見手軽で楽チンなようでいて、
実は簡単に不可思議な溝にはまるような二面性を持っている。
もちろん既存のモノをサンプリングするということ自体は楽しさで満ちている。
ただ、その既存が自身の過去(一秒後だって過去)にすりかわった時、
カット&ペーストされていく過去である時間に疑問が生じる。
細分化されることによって、時間が再編集された記憶以前の断片になり、
自分から離れていってしまうような気がするから。
でも、そこのことで狭い枠組みに入れられようとしていた過去が、
脳というフィルターを逆戻りし、当時の原型を留める割合は高くなると思う。
また、それが記憶にならない感触(よーなもの)として残るなら、
そっちの方がよい場合も多い。なんて。


2004年6月13日(日)。

脳味噌に自分が支配されているかと思うと何だか嫌な気分だ。
「5歩下がって2歩進んだ。」
それを3日繰り返し、でも結局めんどくさくなって辞めてしまった。
ピコピコとかピューンとか、そういう音で記憶の一部を埋めたい。
何でって言うと、その光景は懐かしすぎて凝視できないから。
うちの窓から見える趣味の悪い中華レストランみたいな巨大な建物は何だ?
遠くて遠くて、天候によって見えたり見えなかったりする。
実はあの建物はないんじゃないだろうか、とすら考える。
でも、もう梅雨が明けた離島のとある家の玄関先に置いてある靴と
さっきこの町内で誰かが捨てた空き缶は繋がってるんじゃないか、とも考える。


2004年6月7日(月)。

トイレをワープゾーンにして異次元から脱出するという、
ドラえもんちっくで狂った夢を見続けました。
指でくるくると宙に円を描いて、ハナモゲラ語の一種であろう呪文を唱え、
時空を歪ますのだけど、 「ナゼ便座からワープするのか?」
と起きた時に寝汗でいっぱいだったのは言うまでもなく、悪夢でした。


2004年6月4日(金)。

言葉にできないことが多すぎると、ふとプカプカ。
どんなに優れた文章力で脳内の状態を、つまりは感情や感覚を表現しても、きっと、それは100%自分にフィードバックしてくるものではない感がして。 
自分はホントに語彙力がないから、余計にそう感じるんだろーけど。

普段から活字を全く読まない、漫画すらも読まない癖を少し直したい。
でも、それによって言葉の表現の幅が広がったとしても、”この何か”を”言い表せないジレンマ”は解消されないと思う。 というか、その問題を解決しようだなんて傲慢なことをそもそも思えない。

梅雨なのに今週はカラッとした陽気で、洗濯物がよく乾いて気持ちよかった。 夕方にお日さまの匂いのする洗濯物を取り込むのは、楽しくてくすぐったい。 うちの近くには中学校があるのだけど、チャイムや校内放送が聞こえると、何だか、これまた楽しくてくすぐったい。 んで、ちょっと寂しくて悲しい。
高層マンションを建築する音を聞くと、とても不安になる。
友達が運転する車の音を聞くと、とても安心する。
音や匂いは曖昧で大雑把だけど、すごく細かいニュアンスを伝えてくれる。 それに対し、言葉は明確で繊細だけど、すごく大味だ。 しかし、言葉によって伝達されるケースが人の世界では主流のようだから、彼女も彼も自分もあの子も誰かも言葉を繋ぎ続けるのは止めない。

例えば、音楽を聴いて、衝動に駆られて、感想を書こうとした時、”何かを思う”のと”何かを感じる”のには大きな隔たりがあることを痛感する。 人は言葉を開発したけど、いつの間にか人はその言葉に操られてる。 それは音や匂いのように嬉しい偶然はあまり産み落としてくれない気がする。
ナゼなら、言葉は明確で繊細であるから。 音や匂いのように言葉が人にとって無意識なものになればいいのになぁ。


「およそこの宇宙に存在する万物全てが【うた】であることの最初の証明」
はい、これは何でしょ?
新しい映画のタイトル? 新しい小説のタイトル? 新しい哲学のタイトル?
正解は七尾旅人のニュウシングルのタイトルです。
いやぁ、キました! こう来るか! やっぱり大好き!
しかも、CD-EXTRAで本人監督の30分の短編映像作品までついている!
自分の呼吸とシンクロして歩いてくれるちっこい生き物が住んでるような
異型の弾き語りの前作から、果たしてどうなってんのか?
どんな音になってんのか?
もう全く想像がつかないんだけど、心待ちにしとるのです。


2004年6月1日(火)。

部屋で物を探していた。
一向に見つかる気配がなかったので、あちこちゴソゴソひっくり返す。
何で、こうもカオティックに物が多いのか(捨てられない症)。
やっと目的の物が見つかったら、どこで切ったのか、指から出血出血。
なので、応急処置的に指を舐めてみた。
「別に鉄分の味なんてしないやん。」
でも、痛いのは確かだから、自分は機械ではやっぱりないのだ。
そう分かると、ちょっと嬉しくて、ちょっと残念な気分になった。
何で残念なのかは全く持って理解できないが、何か「ちぇっ!」って。
でも、機械になりたいとか戯言吐く気は全然ないので。


2004年5月30日(日)。

しんちゃんたまきさんとリトル沖縄に行ってきた。
「えっ? 沖縄?」
と首をかしげたアナタ!
大阪大正区は住民の25%が沖縄から移住した方々からなる、大阪にあって沖縄の風土を色濃く味わえる地域なんですぜ。

もちろん沖縄料理の店にいそいそと行き、ゴーヤチャンプルーやジーマミ豆腐、ラフティなどをまぐまぐ。 そうしてる内に、店内にあるステージで民族ライブが始まった。沖縄音階を奏でる三線の音を聴きながら、
「三線大好き!超好き!俺、三線弾きになりたい!」
とふつふつと好奇心を培養している横で、いつの間にか、この人はステージで熱唱!熱唱!熱唱! その歌声は、店のおばちゃんおじちゃん赤ちゃんにも好評。
「いいもん、聴かせてもらったよ、兄ちゃんよぅ。」
軽く奏でられる音楽と、お店の人のフレンドリーなもてなしに、お腹も心も大満足になり、蒸し暑い5月終盤の1日は素敵な記憶に。


2004年5月25日(火)。

夕方になると、日が沈んでほしくない。
朝方になると、日が昇ってほしくない。

夕方になると、日が沈んでほしくない。
朝方になると、日が昇ってほしくない。

わがままですか?


2004年5月26日(水)。

歩道橋を歩いていると、有名人に似た人とすれ違った。
「えーっとあの顔は?」
と、思いを巡らすも、誰か分からず。 何とも煮え切らない違和感の中で考えていると、しばらくして、KICK THE CAN CREWのKREVAだと判明。
しかし、何ともいえない違和感は解消されなかった。

帰りの電車で斜め横の会社員がゲーム雑誌を熱心に読んでいた。
ふとその内容を覗いてみると、今度、吉野屋をシュミレーションできるゲームが出るらしい。
「何て夢のないゲームなのだろう。」
と言いかけた午後10時半。
ちなみにジャンルは”接客アクション”らしい。意味分からん。
さっきの違和感に別の種類のが累積していく音がした。チグハグ。

続きの帰り道で、HALCALIの片割れに似た男の子を見かけた。
男なのに、ものすんごい似てた。
その子は自転車に乗ってさっそうと表れ、飄々と去っていった。
言われようのない違和感はナゼか一気に解消され、たらりらたらりら〜っと足取りも軽く、寝床に着いたのであった。

最後のギャップが今までの救われないギャップを埋めてくれたようだ。


2004年5月22日(土)。

青春とかモラトリアムとかいう状態は一種の病気だと思う。
何処まで自分が許せるのか/許されるのかというのが問題の一端であり、その果てしなく長い線のようなモヤモヤに区切りを打つのは、やっぱり相当な気力やら体力やら精神力が不可欠ではないか。
そして、その症状は一辺倒ではない。
ヤンキーと引き篭もりは正反対のようで実はすごく近い位置に立っていて。 避妊せずにセックスしまくるのとリストカットする心境は同義とは言いがたいが、全く別の種類の感情ではない。
なんてことをこっそりと考えたりする。
また、その病状は世代や環境によって恐ろしいほど違ったものである気がする。 いつの時代も、大人は若者を見て「なっていない!」と言い、若者は大人を見て良いイメージを抱かないことが多い。でも、それは当然であると言えば当然であって、”互いに認められない事実を把握し認めようと試みる”ことが必要なんだと思う。

と、当たり前のことを当たり前の見え方で書いてしまい赤面です。


2004年5月20日(木)。

スチャダラパーがジャケットコンテストなるものをやっているので、
自分もこそこそコツコツと作ってみました。

うーん、ありきたりな感じで、、、。
スチャダラパーのオフィシャルHPに行くと、ステキなリズムに乗りながら、
ちょちょいって簡単にオリジナルジャケットを作れるシステムがあるので、
台風の夜長に、酒のお供に、クリック&ドラッグで楽しんでみるのも一興です。


2004年5月16日(日)。

嬉しいようで、嬉しくない悪夢を見ました。
自分が細胞分裂して2人いました。

 ドロドロと雨のように溶け出したと思われていた自分の意識は、
 実は空き缶のようなに転がって、道路に回線をひいていたのだ。
 通信速度はナローバンドのようにスローペースだったが、
 得体の知れない安堵が押し寄せる速度はめちゃくちゃ速かった。
 とても速かった。

そんな状態と逆の現象が夢の中で生じ、起きたら思い切り現実だし。
とてつもない疲労感にさいなまれたわけです。 しかも、外は雨。


2004年5月12日(水)。

ツナギを着るのが好きなのです。
高温多湿の風土のこの島国に、ツナギという衣類は結構合っていて。
自分は大抵前のファスナーを多分に空けて着ます。
すると、上半身から足元へ風がスースー回流して気持ちよく、むれない。
しかし、ツナギ好きの理由はそれではありません。
”脱ぐ時が楽しいのだ!”
はい。 R-18なぺしぱんくになってきました。

蛇足はさて置き、なんで脱ぐ時が楽しいかっていうと、
”何だか脱皮してるみたいな気分を味わえる。” からなんです。
俺は人間。人間は哺乳類。
とは言え、太古の記憶を取り戻したいんでしょう。
この似非脱皮は、脳味噌の隅にある孫の手で掻かないといけないような、
むずがゆくもどーでもいい忘れ物をそっと刺激してくれるのです。
ひゅう。


2004年5月4日(火)。

梶井基次郎の「檸檬」という小説に出てくる果物屋に行ってきた。
店内の空気が何処か寂れつつ、とても真摯で優しそうだったので、
話の中で主人公が得体の知れない不安を和らげるツールとして、
ココの檸檬を選んだ心模様を、勝手に少し分かった気がした。

ところで、店内の端っこにコップに入った植物がたくさんあったのだけど、
話を聞くと、アボガドの種を育てたものらしい。
「おおう! アボガドってソンナニ生命力ツヨイのネ!」
ということで、家に帰って早速アボガドを栽培してみることに。

芽、出るかなぁ。 ドキドキ。


2004年5月2日(日)。

友達の結婚記念DJイベントに行ってきました。
とても幸せそうな2人を見ていたら、何だか自分も笑顔になった。
毎日、こうやって人と触れ合うことが嬉しい。
ってのは、元々あってしかるべきこと。
ただ、腐った巨大な何かが頭の上を覆おうとしている時勢。
でも、無闇に暗いニュースを流すと、もっと皆ネガティブになる。
それは楽観的主観にすぎないけど、少しは当たっているのかもね。
んで、逆に言うと嬉しい気持ちとかも伝わってくことがある気がする。
「”one more love”だなんて今日は言わなくてもいーねんで、Duft Punk。」


2004年4月30日(金)。

東京ばな奈というお菓子、知ってますか?

コレね。
自分は、この東京ばな奈が大好物なんだけど、今回上京したところ、
”和菓子になった東京ばな奈”なる亜種が発売されていたのだ!
「これは、困った!」
と食してみたい欲求にかられましたが、経済的に余裕もなかったので購入せず。
トボトボと今日奈良の実家に帰ってきたら、何とあるじゃないですか。
”和菓子になった東京ばな奈”
よしっ、早速! モグモグモグモグ。
「ん? やっぱり亜種は本種には勝てないな、、、。」
ということで、東京ばな奈(ノーマルバージョン)の方が美味しかったです。
和菓子になった〜は、何だかイマイチなリミックスみたいな感じで、
それなりに美味しいし、確かに本種の味を引き継いでいるが、
東京ばな奈特有のあのフワフワした舌触りがないのだ、硬質。
あぁ、和菓子の罠!
(決して和菓子をけなしている訳ではありません。むしろ和菓子ラブ。)


2004年4月28日(水)。

「肉じゃが作れー。」
と言われたので、いそいそと買い物に行き、
適当な手順で肉じゃがが完成した。
じゃがいもの下ごしらえは自分でも上出来だったと思う。
(芽を丁寧に取る、皮を剥いた後水にさらしておく等。)
しかし、肝心の肉じゃがの味はやや濃く単調であった。
まぁ、感で作った割にはちゃんとしたもんだったかな。


2004年4月19日(月)。

あっ、セミが鳴いた。
人は長く生き過ぎることを大前提だと思ってるから、
一瞬がこんなに生命力に溢れてるってことに気付けないのかもね。


2004年4月12日(月)。

しんちゃんがCCCDと輸入盤の販売禁止について、鋭い切り口の文章を書いていたので、ついつい反応してしまった。音楽をよく聴かせて貰っている人間の端くれとしては、CCCDの需要が徐々に拡大しているよーな傾向は、お世辞にも喜ばしいことではなく、はっきり言って忌々しいこと。
そもそも、CCCDというメディアが広まったこと自体が、妙な出来事で、音楽がビジネスとして確立されて以来、それを消費者にプレゼンするレコード会社が、”音質がよくなるように技術を向上させたこと”は、度々あったと思われるんだけど、”音質が悪くなるように技術を発展させたこと”は、その歴史上に置いて初めてではない?
資本主義社会においては、どんな文化も少なからず商品としての役割を担わなくてはいけないのは、ある種、自然の成り行きな気がする。(自分達はこの社会構造の恩恵を受けて暮らしているので。)しかし、ならば、同時に商品をちゃんとしたカタチで消費者に届けることも、利益云々で成り立つ場において必要不可欠なモラルだと感じたり。
CCCDほど、供給者側が保障をないがしろにしているものも、めずらしいわけで。ちゃんと聴くことを約束できないものを平気で売って、不都合が起こっても知らねー、と態度はオカシイ。言い換えれば、「この食べ物腐ってるかもしれません。たとえ食べて、お腹壊しても、うちは何にも知りませんよー。そんなのあなたの勝手だもん。」ってなもんで、、、。やっぱりオカシイ。
そしたら、今度は輸入盤禁止だなんて鎖国みたいなことまで持ち上がりだして、ココまで来ると、売り手が音楽を好きかどうかというメンタル面以前の問題。

とは言え、音楽はなくても日常生活に必ずしも支障は起きないわけで(食べ物がなかったら死んじゃうけどさ)、その辺でこの問題点が軽視されちゃうことも仕方がないのかも、、、。
ただ、音楽も含んだ文化ってものは、物理的ではないかもしれないけど、確実にヒトを何処か豊かにしてくれるものであって、そんな根本的な役割を忘れてしまっている状況は、何か大切な感覚を根源から失いかけている気がする。気持ちの余裕が、どんどん磨り減っていっていってるっていうか。
「曖昧で許されるものにくらいは、夢を見させてほしい!」
って思う。
CCCDが横行したり、輸入盤が手に入らなくなること自体も嫌だけど、その行為が生み出す大らかな空気のなさには、もっと気が滅入ります。


3月13日(土)。

・先日、一青窈の「ハナミズキ」のアウトロのギターのフレーズが、
 Smashing Pumpkinsの「TODAY」のイントロのアルペジオと同じだと発見。
 このフレーズ、Dragon Ashの「Greatful Days」然り、よく引用されてるよーな。
 でも、多分イントロクイズで「TODAY」が流れたら、正解を言うより
 「”俺は東京生まれ。HIP HOP育ち”な曲!」
 って答える人の方が多いんだろうなー。
 降谷健志は相当スマパン好きなんだろーと憶測してます。
 だって、ドラゴンアッシュの曲に「天使ノロック」っていう、
 スマパンの曲の邦題そのまんまなタイトルもあるくらいだし。
 「Cowboy Fuck!」って曲では、前述の「TODAY」のリフを全編で使ってるし。

・主夫という概念が社会的に広く浸透したら、自分は間違いなくそうなるだろう。
 「掃除よーし!」 (やる時はトコトンやる。)
 「洗濯よーし!」 (むしろ好き。)
 「料理よー、、、くない!」 (インスタントすら作るのがメンドクサイ。)
 、、、、、、ダメやん。

ZARIGANI 5のコラムは、相変わらずほのぼの脱力系。
 メンバーが仲良いバンドっていーなぁ。
 特にギターポップなバンドは仲良くあってほしい、というのは個人的希望。
 こういう音は、下手でも楽しそうなのが一番魅力的に聴こえる気がするから。


2004年3月6日(土)。

高校の同級生が、大学を中退して、スカパンクバンドをしながら暮らしている。
今日、その子に久々に会った。
「最近、元気しとったー?」
「見るからに元気やろー。 な?」
以前と変わらず、経済状態が安定してるとは言いきり難いが、
近頃はライブの動員もそこそこで、なかなかイイ調子だそう。
人それぞれの持ってる空気ってのは、
具体的に満たされた状態でも余裕が生まれる。
けど、楽しそうに毎日を送っている人の全てがそうではない。
20年先のことを考えて行動するのは、もちろんスゴイことだが、
1年先のことが未定でも瞬間を大切にしてる生き方に、心動かされるのも確か。
今更、皆が基礎的な心模様や生活に戻ることは容易ではないし、
物質を求める行為を、全面否定するのもどうなのか。
ただ、無造作に流入する情報を取捨選択することは必要な気がする。
んで、誰かを和やかにさせる日々を送ってる人は、やっぱ活き活きしてる。


2004年2月5日(木)。

駅からの帰り道の上に、中学の時の同級生のご両親がやってる八百屋がある。
夕方、その前を通ったら、
”ジャンボ さつまいも 半額”
という札とともに、ゴツゴツしたさつまいもがカゴいっぱいに並べてあった。
それらは、とても雰囲気がある見た目をしていて、作られた環境なんぞを空想。
(さつまいも畑が広がる田舎で繰り広げられる中学生の恋の行方など)。
何だか、勝手にちょっとほんわかしました。
が、札の中をよく見てみると、”ただ大きいだけです。”とちっちゃく書かれていた。
「、、、、、、いや、確かに的を得たコメントだ。 けど!」

もし仮に、今高校生とかだったら、10-FEETのコピーバンドをやりたいかも。
「安易なメロコアって地方都市の高校生のコンビ二。」 だなんて、ちょっと思う。
けど、熱みたいなものってすぐに冷めるから、できるだけ直球投げた方がいいね。
と、当時は思わないもんですね、当たり前な話。


2004年2月4日(水)。

スティーブ・ライヒのBOXセットが、何気にかなりほしい。
しかし、1万円もするので、なかなか気軽には手が出ない。
まぁ、CD10枚組みなので、1枚あたりの単価はかなりお得なはず。
「じゃあ、千円でばら売りしてくれっ!」
と、”同じフレーズを繰り返しながら、長い時間をかけて少しずつ変化していく。”
ということ限定で考えるならば、
「もしかしたら、日常生活のBGMに最も適した音はミニマルかも。」
それって、この国の普段の生活のリズムの中には、頻繁に明確な
”サビ”とか”イントロ”だとかいうものは、そうそうない気がするから。
なんて言いつつ、近くのコンビニで一日中ミニマルが流れてる状態は嫌だなぁ。
ともあれ、最近流行ってる音って、大部分が声を張り上げて歌ってるものばかりで、
長時間その音の中にいると (自分のバイト先は基本的に有線しか流れていない)、
少々ゲンナリしてくるよーな感覚になることもあり。
時々、強烈に音単体が気持ちがいいって瞬間を求めたくもなったり。


2004年2月3日(火)。

たまたま見ていた伊藤家の食卓で、湯豆腐などの調理をしても、
豆腐が崩れにくくなる裏ワザを紹介していた。
何でも、ゆず湯に豆腐をしばらく浸しておくと、
ゆずに含まれるクエン酸の効果で、型崩れしにくい豆腐になるとのこと。
と、この紹介の時にBGMでゆずが少しかかった。
「ヒネリがない。」 
なんて思ったことはとりあえず置いておいたのだけど、曲は「夏色」であった。
節分の本日、湯豆腐で試していた裏ワザのなのに、「夏色」。
せめて季節感ぐらいは考慮してほしいものである。
しかし、”湯豆腐と夏色”、字面にしてみると意外に新鮮な感触かも。ワクワク。


2004年2月1日(日)。

JRと私鉄を繋ぐ改札で乗り越し清算をしてた時、前の人がやたらと遅かった。 950円(だったと思う)を払うのに、500円を入れた後、10円や50円で、チマチマと残金を継ぎ足していくという方法で。
「ちょっとちょっと、後ろに何人待ってると思ってんねん!(混雑時)」
というよーな、遅さ。 それがチビッ子やお年寄りなら、「まぁ、いいや。」って思えたんだろうけど、当の人物は何ともふてぶてしかったわけで、大人気なく苛立ちが沸々、、、。
と、その人が清算を終えた後、自分の番だったわけですが、
「後ろの方から無言のプレッシャーが、、、。」
そう、並んでいる人々の苛立ちは、現在進行形で急上昇中。
「やべぇ、早く早く、、、。」
と、いつものトロイ動作とは明らかに違う素早さで清算を済まし、すでに到着しようとしていた電車に向かって、犬と猫まっしぐら状態。
何とか乗車に間に合ったかに思えた一歩手前。
” ガシャッ!! ズザザザザー、、、。”
見事スウェットのポケットに入れていた携帯が走った勢いで落ちて、ホームの上をカーリングし、線路の中に吸い込まれていきましたとさ、、、。
「こういうオチかぁぁぁ!」
、、、、、、日々の生活にオチなんて要りません。 そして、あまりオチてもいないと言う事実にも直後に気付き、何とも虚しい気分になったのでした。

「息の仕方を知ってるなんて奇跡だぜ。」
あー、「アイデン & ティティ」が観たい。 ミネタくんの声は胡散臭いことを、そう聞こえないようにする力がある気がする。


2004年1月25日(日)。

ナナミさんビュンと明石へドライブ。
奈良で雪が降り荒れる中、大阪に出ると、さっきまでが嘘のような晴天。
「奈良って雪国やね。」
いやいや、違います。多分。

明石では当然のよーに、天文科学館へ直行だっ!
そして、マイナスイオンが出てそうな声のおばちゃんの解説の中、
プラネタリウムを堪能するも、星座にまつわる神話の不条理なオチに、
スーパーひとしくんを没収されたような気分になる。
「あっ、けど、つっこんでるの自分たちだけ。」
いやいや、違います。多分。

今回はさいわい自分は運転を一切しなかったので、何とも優雅なドライブ。
途中で何回も安眠しかける、スターリンを聴きながら。
「これくらい、できるでしょ?」
いやいや、できません。多分。


2004年1月24日(土)。

忘却は絶対に訪れる、それはすぐにでも、遠い先にでもある。
でも、忘れないようにしていた時間を少しでも長く思い出せれば、いいんだと思う。


2004年1月23日(金)。

Bonnie Pinkの新曲が素敵!」
「やっぱ、Bonnie Pinkにはトーレ・ヨハンソン!」
と、言っていた近頃だったのだけど、
昨日、大阪のタワレコに寄り道したところ、
丁度隣接しているfm osakaのラジオブースに、Bonnie Pinkがゲストに来てました。
告知などをほとんどしてなかったのか、観覧者も多くなく、
かなり近くで、生ボニーピンクを見ることができたのでした。
「おぉ!やったぁ!」
と、ラジオの収録が終わった後、ボニーさんは普通に隣のタワレコでお買い物。
何だか、めちゃくちゃ普通に一般人と混ざっておりました、Bonnie Pink。
うーん、自然な雰囲気。


2004年1月20日(火)。

最近、昔のPENPALSのPV集をよく見てます。
これがねぇ、ザラザラした空気で。何とも焦燥感がある。
何だか、幻想と現実の狭間って雰囲気で。
初期のPENPALSの曲は、女の子に恋してる、なさけなーい男の子の歌が多い。
けど、少し考えてみれば、実際にそんな子はいない気がする。
だから、幻想の世界で理想を浮かべて、もがいてる感じなんね。
それって、空想の中で空想してるようなもんだから、すごい変な状態。
二重幻想というか。
でも、それが普通にものすごく切ない。
で、何だか分からない粗暴な質感がある。
(今のPENPALSはこの頃とはぜーんぜん違うバンドになってしまったけど、、、。)


2004年1月14日(水)。

ぺしぱんくという空間はネット上にあるので、架空の場所だと思う。
ネットというもの自体が架空で不特定多数な要素を多く含んでるとも思う。
だとすれば、HPにこうやって日記という形で、日常をトレースするわけだから、
日常という一塊の時間や感覚は、架空というフィルターを一度通ることになる。
「架空を通過した現実ってどんなの?」
「仮想現実? ってことは、仮想現実=日常=日記。」
と、勿論そうは問屋が卸さないわけで、
やはり、感覚を瞬間的に真空パックになぞできない気がする。
つまり、日記という形で日常の近似値を模索しつづけている気がするのだ。
「変なの。」
けど、だからおもしろくて、だから危険で、だからまだ穏やかな余地がある。
「気がしたりする。変なの。」


2004年1月6日(火)。

「うわっ、地震だっ! こっえぇ、、、。」
寒い寒いと言いながらも、本格的な冬になった気がどうもしなかった今冬。
しかし、今日、トボトボと歩いていると、
「あっ、冬の匂いがしとる!」
個人的な感覚なのだけど、冬の野外には独特の匂いがあると思う。 自分はそれをいつも ” 鉄分みたいな匂い ” って話してるんだけど、これまで、一度も頷かれたことあらず。
「えっ? 鉄分って<Fe>の匂いってこと?」
あー、化学記号で表されるとよりしっくりくる。

またトボトボ歩いていると、<Fe>な匂いに囲まれたので、何だかちょっとだけワクワクしてきた。 ワクワクしてきたが寒かったので、ポケットに手を突っ込んでみた。 飲み忘れてた錠剤が入っていたので、何となく、投げてみた。 それが” ぽとっ ”と落ちて、音が乾いてちっちぇく響いたので、
「あっ、やっぱ冬だべ。冬だべ。」
と、『冬の空気は鉄分の匂いがする説』を1人で勝手に納得して、家路に着いたのであった。


2004年1月3日(土)。

が琵琶湖に向かう。
強風に吹かれながら、変形ジャングルジムで遊びながら、
カルガモのシンクロナイズド・スイミングにほわーんとしながら。
しかし、 「なんで、俺ら、名古屋にいるん?」
と、琵琶湖でフェリーに乗った気になりながら、
何時の間にか、味噌カツに夢中になっているという怪。いや、むしろ快。
「名古屋駅のルミナリエ(みたいなやつ)、キレイ。」

楽しい楽しい1日だったので、寝付きもよくなる。
つまり、爆睡。簡単に言えば、爆睡。やっぱ、爆睡。なぜか、KATCHAN。
「ん?」


2004年1月1日(木)。

・「あけましておめでとうございます。」
 と言いつつ、あまり年が明けた気分がせず、新鮮味も大して、、、。
 「新年から新鮮味がないとは何たることだっ!」
 と、誰かに怒られそうな気分です。いぇい。
 んで、おせち料理より七草粥が好きです。いぇい。

・大晦日は ” ” の宴にて、はっちゃけつつ年越し。
 予想通り、予想外の楽しさでいっぱい。
 いやぁ、、意味なんて求めなくていいんでね。
 曙vsボブサップのオープニングに、
 なぜ、スティーヴィー・ワンダーが出たのか、よく分からないのと同じくらい。

・新世紀になってもう3年も経つわけですが、
 何だか空気はどんどん世紀末へと戻っていってるよーな。
 ってか、199X年でずっと足踏みしてるみたいな。
 「北斗の拳じゃないんだからさ、もうちょい何とか!」
 そう思い、自分の部屋での新年1発目の音はSPANK HAPPY
 この音は、ある完成されたように見えている構図が、
 実は末期症状であることを見透かして、笑ってる気がするから。

七尾旅人
 ” 子供達によって、東京全域に夜光塗料が散布され、、、!”
 って歌っているのを21世紀になる半年前に聴いて、
 「このくらいの鮮明な夢がほしいなぁ。」 って。
 「もっと空想を!」っていうなら、現実を求めないといかんのかも。
 と思うと、鮮明な夢というか、自然なファンタジーが必要な気がする。
 バイバイ!ディズニーランド!(いや、決して嫌いじゃないんですよ。)