私と突発性難聴
その後の経過(4年目から)
1998年3月末に突発性難聴になって以後4年目からの記録です。
このページは折に触れて書き足しています。(最終更新2005年1月4日)
2002年1月初め 映画館で映画を見ました。
もともと映画のような大きな音や強い光に過敏で、偏頭痛が起きることがあるので、映画館で
映画を見ることは多くはありませんでした。難聴になってからは聴覚が一段と過敏になり、
ますます映画館に行けなくなりました。
けれども4年の間に聴覚の過敏性が緩和し、全体的な神経過敏も軽くなりました。
そこでお正月休みに映画館に行こうと考えました。
今回は映像も音もおとなしいファミリー映画を選んだので、何の苦痛もなく見ることが
できました。とは言え、音や光への過敏性はまだかなりありますから、これから先も映画
の種類は限定されると思います。
2002年1月 補聴器を使い始めました。
この半年ほどで外耳周辺の皮膚の過敏性が少なくなって、耳栓やイヤフォンを使うことが
できるようになりました。
そんな折に、このホームページがきっかけで知り合った補聴器技師のNさんから「デジタル
補聴器を使ってみませんか」という提案があり、デジタル補聴器を長期間お借りして試験的に
使うことになりました。従来、片側難聴や軽度難聴の人は殆ど補聴器を使っていませんでしたが、
デジタル補聴器の出現で新しい可能性が開けるかもしれません。
外耳の皮膚の過敏性や、聴覚全体の過敏性が完全に無くなったわけではありませんから、
補聴器の装用ができない場合もありますし、補聴器の効果がない時もありますが、
予想よりは補聴効果があると感じています。
詳しくは
PEERの補聴器体験記をごらん
下さい。
5年目(2002年秋):聞こえの症状・精神症状はやや軽減
不眠症・耳鳴り・神経過敏などの症状は今もかなりあります。抗うつ剤(デジレル)・
抗不安剤(ソラナックス・リーゼ)を就寝前に服用するのが基本です。飲み忘れると眠れません。
けれども全体的には音が異常に響く症状が徐々に改善し、その分異常な緊張感が
少なくなって、疲労感も軽くなっています。また左右の音の高さはほぼ同じに聞こえる
ようになりました。それでもやはり音の歪みがあるために両耳使っても子音の聞き間違い
は時々起きます。特に大勢の人声があると、急に耳閉塞感が起きて聞こえにくくなります。
耳鳴りは相変わらず年中無休ですが、気にならない時間がだんだん長くなってきました。
「耳鳴りに慣れる」とはこういう非常に緩やかな変化なの
でしょう。
6年目(2003年):職場では難聴はやっぱり不便
大学院を無事修了して2003年4月に復職しました。勤務校はこの2年間に教員数がまた増加し、
常勤の教員だけで160人を越すマンモス校(普通の高校の3校分)になりました。人事異動も激しく
職員の1/4が入れ替わっていました。私
自身の希望もあって今までとは違う部署に配属されましたので、同じ校内とはいえ最初は
分からないことばかりでした。特に全教員が職員室に集まる朝礼では、内容が聞き取れないことが
多々あります。もっともこれは健聴の同僚でも難しいようで、周囲の同僚に尋ねても「私も
はっきり分からなかった」という場合があります。一般の学校では生徒数が減少して統廃合が
進む中、養護学校は過密状態で職員の連絡事項すら徹底するのが難しいというのは奇妙な現象
です。
新しく配属された知的障害課程には会話の可能な生徒がかなりいて、生徒の発言に適切に
受け答えすることが必要ですし、生徒数も教員数も多いので正確な情報をすばやく捉える必要が
あります。周囲の厚意に助けられていた学生時代と違っていつも重い責任がありますし、基本的
にはいつも援助する側にいます。勤務中は毎日補聴器を装用するように
なりました。それでも補聴器の能力には限界がありますし、暑いときや耳が過敏な時
は補聴器がない方がストレスが少ないです。やはり難聴は軽度であっても不便です。
毎日が多忙で耳を酷使することも多く、同年代の人と比べて疲れ易いというのは以前と
同じです。けれども、音に対する過敏さはほとんどなくなり、
職場復帰当初は騒音にしか聞こえなかった言葉も、数ヶ月でかなり聞き取れるようになりました。
仕事中は耳鳴りもほとんど気になりません。以前と大きく違うのは
疲れたら眠くなるということです。発病後2年間は疲れるほど目が
冴えてしまったのが、5年目には疲れると居眠りをするようになりました。不眠傾向や不安感は
まだ幾らか残っていて、熟睡するためには抗うつ剤・精神安定剤が必要ですが、更年期の女性
にはよくある程度の精神症状だと思っています。
夏休みには5年ぶりに北海道に行きました。突発性難聴にかかった年以来です。5年前には
飛行機に乗るのも、レンタカーを運転するのも発病後初めて緊張しました。大きな
トラブルはなかったものの、1日150kmぐらいの運転でもかなり疲れました。それに比べて今回
は多いときは一日300kmぐらい運転してもそれほど疲れませんでしたし、カーナビの声も聞き取り
やすくなっていました。天候にも恵まれて楽しい旅でした。
この1年で私は2回も教え子と永久の別れをしなければなりませんでした。大学院に
入学する前、私はたいへん重い障害を持つ生徒を担当していました。復職した私は彼らの担任では
なくなりましたが、彼らは私の所属する高等部の生徒でした。その中の2人が亡くなりました。
教師にとって教え子の死に接するのはとてもつらいことです。特に重度重複障害の生徒の場合、
教師は食事・更衣・排泄など生活全般を介護しますから、まるで自分のこどもを育てるような深い
関係になります。それだけに、失った時の悲しさは計り知れません。
私はこの学校には10年間(2年の休職を含む)勤務しましたが、その間に深く関わった
生徒が10人も亡くなってしまい、少し手があくと悲しさがこみあげてくるようになりました。
7年目(2004年春):転勤で新しい生活へ
4月1日、私は新しい任地○○養護学校で転勤の辞令を頂きました。悲しい思い出が
増えすぎた前任校から新天地への転勤で気分が大きく変わりました。○○養護学校は以前に
私が高校教師として勤務していたY高校から近く、地理的な状況も分かっていましたし、同じ学校
に以前の同僚が何人も勤務していることが心強かったです。私が初めて障害児教育の世界を知った
のは、Y高校と○○養護学校高等部の交流行事でしたから、振り出しに戻ったような気がしました。
けれども年齢的には新しい環境に適応するのが難しくなっていますし、10年ぶりの転勤
でなかなか馴染めないこともたくさんありました。前任校からの距離は20kmも離れていませんが、
電車・バスを乗り継いで1時間半近くかかるので、難聴のために疲れやすい私
には、通勤のための労力と時間が重くのしかかってきました。
○○養護学校は知的障害課程のみを置く歴史のある養護学校で、広い敷地に何棟もの校舎
が複雑に配置されているので、おおまかな構内の配置を覚えるのに数ヶ月もかかりました。設備の
老朽化も甚だしく施錠・開錠がスムーズにできる教室が珍しいほどです。特に私が困るのは
放送設備が非常に悪くて、さっぱり聞こえないか、頭に響くほど大きいけれど
音が割れて何を言っているのか分からないかのどちらかです。高等部ではクラスの名前
はA組、B組、、、と言い、学年によっては8クラスもあります。健聴の同僚でもA・D、B・C・E・G
を放送で区別するのは難しいぐらいですから、私には聞き分けられません。名前に少し抵抗がある
けれど、一番聞き取りやすいのはH組です。
また前任校は肢体不自由課程が中心でしたから床にカーペットが敷かれていましたが、
○○養護学校の床は普通のフローリングなので、音が乱反射してひどく響きま
す。校舎が横に長いことも騒音を強め、廊下で誰かがパニックを起こして大声を出すと、
教室の中にいても普通の会話が聞き取りにくくなります。朝の職員朝礼では前任校より一段と連絡
事項が聞き取りにくくなりました。クラス担任は1クラスに3人いますから、たいがいは健聴の
同僚がメモをとっておいてくれますが、彼らも聞き落とすことが時々あります。
全国的に子供の数は減っていますから、各地で閉校になる学校が相次いでいるのですが、
知的障害養護学校だけは例外で、生徒数が増え続けています。しかも国も地方も財政難ですから、
新しく養護学校を建設したり、校舎を増築したりはほとんどしていません。○○養護学校も創設
当時には予想もできなかったほど生徒数が増えて、特別教室を次々に普通教室に転用しています。
小・中・高の三学部を合わせると児童生徒数が300名を越す、過大・過密の養護学校の一つです。
とにかく人が多くて、常に騒音があふれている状態です。
学校が活気に溢れているという言い方もできますが、これほど過密ではさまざまな事故
や事件がおきます。PEERの耳の過敏性はかなり低くなり、言語の聞き取りもずいぶん良くなって
いましたが、多くの騒音の中から必要な音を聞き取るのは難しいときもあります。素早い対処を
するために常に強い緊張を強いられ、ひどく疲れてしまいます。

