2000年 Back Number

ほんとうのしあわせって? 2000/2  住職 釈忠
おばあちゃんのぬくもりから 2000/3  衆徒 釈英之
こだまする心 2000/4   住職 釈忠英
日溜まりの中のプレゼント 2000/5   衆徒 釈英之
百の花 2000/6   住職 釈忠英
雨の日には雨の・・・。 2000/7   衆徒 釈英之
仏さまとわたし 2000/8   住職 釈忠英
心の闇 2000/9   衆徒 釈英之
罪悪深重の私 2000/10   住職 釈忠英
しあわせのものさし 2000/11   衆徒 釈英之
お念仏を生きる人生 2000/12   住職 釈忠英

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ほんとうのしあわせって?

 「光台寺のホームページを開設しようか。」という息子の言葉に、「寺も時代に乗り遅れてはいかんから、さっそくやってみてと、もろ手をあげて賛成はしましたが、還暦に近くなった住職には、ホームページの何たるかが、いまひとつわかりません。
 親父を時代に乗せてやろうと、一生懸命説明はしてくれるのですが、それでもまだ「解ったような、解らんような」状態です。
 あえて新しいものに挑戦しなくても、やっていけるのであれば無理をしない、これが老齢化を示すひとつの兆候なのでしょう。私も今まで、その類であったように思います。でも、これを機会に『心を若返らせねば』と思うのです。
 科学的進歩のめざましい今日、私達の生活も大きく様変わりし、便利さと快適さに彩られた生活が当然のようにさえ感じられるようになりました。
 しかし、反面こうも思うのです『科学が本当のしあわせどれだけのを私達の生活にもたらしたのだろうか』と・・・。
 かつてこんな言葉に出会ったことがあります。
 「科学がどんなに偉い学問でも、それを取り扱う人間までが偉いと思うのは大きな錯覚である。」
 科学文明の世にあって便利で快適な日々の生活でも、人間の行為・行動が自らの欲望を土台としている以上、人は満ち足りたしあわせにはなり得ません。一旦は欲望が満たされても、それで満足できるのではなく、欲望はさらに次の欲望へと大きくふくらんでいく。そうした状態をくりかえしていくうちに、自らの欲望を満たしてくれるものにのみ価値を感じるようになるのです。
 金、金、金・・・。物、物、物・・・。俺が、俺が、俺が・・・。
 石垣のように積み上げた傲慢さが私達の前に大きく立ちはだかり、本当のしあわせを見えにくいものにしてます。だからこそ人は、知らず知らずのうちにも、多くの命や人の心を傷つけてしまうのではないでしょうか。
 私達は、ここで一度視点を改め、足元を見つめ直し、『この私に今恵まれているもの』を、ひとつひとつ大切に確かめて見ようではありませんか。角度を変えることによって、きっとしあわせを見る深さが変わると思います。
 私達を支えてくれているたくさんの力、家族、地域、社会、自然、環境などなど、そしてすべてのものを大きくつつみとり、抱きとめてくださる阿弥陀如来様のお力。そうしたものに気づかされたとき「生きているのではなく生かされている私」であることが見えてくるのだと思うのです。「おかげさま」と掌を合わさずにおれない心が恵まれるのです。
 それこそが本当のしあわせであるのだと言えるでしょう。
 

2000年2月 当山住職 釈忠英               ↑戻る


おばあちゃんのぬくもりから

「おばあちゃん・・・。」
「ん?」
「天井にしましま模様があるで・・・。
「ああ。昔この本堂が檜皮葺(ひわだぶき)やったときに、雨漏りでできた痕や。ぼうやのおじいちゃんの時に銅板をかぶせたから今はもう雨漏りしてないけどな。」
「すごいな!おじいちゃんて偉かったんや!
「そうや。唐戸の人も偉かったんや。阿弥陀さんのために何にもない時代にな、銅板ってゆうたらそん時は今よりずっと高かったしなあ。」
「ふ〜ん。

 私がまだ保育所に通っていた夏の日の午後、本堂の畳に寝転がり、祖母と交わした会話を今も鮮明に覚えています。
 平成7年にお浄土へと帰っていった祖母は、日溜まりのようにやさしくあたたかい人でした。
 「こんなにもみんなが大切に守ってきたお寺を、誇らしくそびえる本堂を、僕が住職になって守っていかねば・・・。」私がそう考えるようになったのは、この会話が出発点にあったようにも思うのです。
 年齢を重ねるごとにその想いは強くなり、いつしか私は「浄土真宗が無くなっても、阿弥陀さんが無くなっても、このお寺だけを守っていけたら・・・。」とさえ思うようにさえなってしまっていました。
 そんな時、すばらしいご縁に逢わせていただくことができたのです。
 10数年前の当山報恩講で、ある講師の方がこう言われました。
 「みなさんは、今日このお寺に参って来たと思っているでしょう? 違うんですよ。」
 「この本堂は自分たちの先祖が建てたと思っているでしょう? これも違うんです。」
 「阿弥陀さんのお力で参らせて頂いたんです。阿弥陀さんが本堂を建てられたんです。」
 「阿弥陀如来がおられなかったら、ブルドーザーもクレーンもない時代に大変な苦労をして、誰がこんな大きな建物を建てるでしょうか。」
 「本堂がなかったら、お寺がなかったらお参りに行く人がいるでしょうか。」
 ご講師の口を通して届けられた阿弥陀さんのお言葉が私に「お寺」というものの本当の大切さを気づかせてくださいました。
 本堂が堂々とそびえ立ち、そこに人々が集う・・・。南無阿弥陀仏のお念仏がある。
 それこそが、阿弥陀さんがおられる確かな証拠になるのです。そして、自分ひとりの力では何ひとつなし得ない私達人間が、数々のご縁によってつながり、力をあわせて生きていく道標であるとも言えるのです。
 そうしたことをやわらかな口調で知らず知らずのうちに教えてくれていたおばあちゃん。
 私の浄土真宗との出逢いは「おばあちゃんのぬくもり」の中にありました。しかし、それはおばあちゃんを通して届けられていた「阿弥陀如来のぬくもり」であったように思うのです。
 本堂の天井に今も残る雨漏りの痕・・・。
 今も見上げるたびにやさしかった祖母と、あの日出逢った阿弥陀さんのとてつもなく大きな力を思い出します。
 そしてこの話を、今は幼い娘達にもいずれ話してやろうと思うのです。

2000年3月 当山衆徒 釈英之             ↑戻る


こだまする心


私と小鳥と鈴と
 〜金子みすず〜

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

こだまでしょうか
 〜金子みすず〜

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「馬鹿」っていうと、
「馬鹿」っていう。

「もう遊ばない」っていうと、
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと、
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

 金子みすずさんの詩「私と小鳥と鈴と」にある「みんなちがって、みんないい。」というのは、なんと温かみのある言葉でしょう。
 この世の中には全く平等な条件で生まれてきた者は2人といません。体格の大きな人・小柄な人、丸顔の人・面長の人、運動の得意な人・苦手な人、一人一人がみんなどこか違います。 一人一人が違う人間。その違いを暖かく認め合い、みんなが光り輝いている大切な存在として「あなたは、あなたのまんまでいいんですよ」と、支えあっていける社会。「まるごと認めて、傷つけない」本当の愛。そうしたものが希薄になってはいないでしょうか。
 昨年の師走、本願寺新報に、童謡詩人・矢崎節夫さんの「21世紀のまなざし−金子みすず・こころの宇宙」という公開講演会の案内記事を見つけ、会場となった龍谷大学深草学舎まで出かけていきました。
 その講演の中で、講師の矢崎さんがおっしゃられたことが、今も深く印象に残っています。
 「小さい頃、外で遊んでいて転んでしまって「痛いよぉっ」と泣いて帰ったとき、すぐそばにとんできて「おお、可哀想に・・・痛いねえ」と言いながら薬をつけてくれ、一緒に「痛いの痛いの飛んでいけ!」とやってくれたお母さん。「我慢出来るの?つよいねぇ」と、大きな心で包んでくれるお母さん。小さな心の痛みが母の心の中に届き、そして母の心の中に共鳴し、大きな温もりとなって帰ってくる・・・。そんな心のキャッチボールが親子の間にありました。でも、今の大人は「気をつけないから!」「そんなことで泣かないで!」などと突き放してしまいがちじゃないでしょうか?ドッジボール的な関わり方が増えているように思えるのです。」と・・・。
 相手の受け止めやすい所にやさしく投げる「キャッチボール」。相手に向かって力一杯投げつける「ドッジボール」・・・。
 人と人とは言葉でつながり、言葉はこだまのように響きます。ひとりひとりの違いを認めて、お互いが投げかけあうやさしさが、今、私達に欠けているのではないでしょうか。
 帰路の電車は、夜の闇の中にきらめくとりどりの街の明かりや、灯火の数がめっきり少なくなった片田舎へ・・・。でも、先ほどよりはひとつひとつの輝きが深くなったように思え、いろいろと考えました。
 私が講演に足を運んだのも「私が行こうと思ったのです。」と言い切り難いのではないかと・・・。
 みすずさんのやさしい心。みすずさんの深みのある詩の心が、私の心にこだまして、私を動かしてくれたに違いありません。
 そして思うのです。先人たちは、こうした表面に見えない働き、隣人のおかげや自然のめぐみ、さらにそれらを大きく包み支えてくださる如来様のご恩に対して「おかげさま」と手をあわせてこられたのだと・・・。

2000年4月 当山住職 釈忠英            ↑戻る


日溜まりの中のプレゼント

 「おとうちゃん、まんまんちゃんは死んじゃってるの?」
 春先の庭で遊んでいたときのこと、突然、娘がそう聞きました。
 「まんまんちゃんはね、目には見えないけど生きてるんだよ。」
 そう答えた私を、娘はきょとんとした顔で不思議そうに見つめています。
 4歳になった娘は、近頃、「生きる」「死ぬ」といったことに、少しずつ興味を示すようになりました。
 本堂やお仏壇の前では必ず「まんまんちゃんにお礼しなさい」と言われている娘は、以前お墓の前でも同じ事を言われたらしく、そのことが強い印象として残っているようでした。
 「まんまんちゃんはね、お前のことをいつも見ていてくれて、すっごく大事なものをプレゼントしてくれるんだよ。」「死んじゃってたらそんなこと出来ないでしょ?」
 「でも、私、そんなんもらったことないよ。」
 「それは、お前がまんまんちゃんのプレゼントに気づいてないからだよ。」
 「大事なものってなに?」
 「・・・・・・・・・・・・。」
 お寺に生まれ、お寺に暮らしながら、信心とは縁遠い生活を送っている私は、娘の何気ないひとことにも、うまく答えてやることができません。
 結局、まんまんちゃんの話はそれで終わってしまいました。
 妻に呼ばれて娘が去った庭先の日溜まり・・・。不甲斐ない思いと共に、なんとなくやわらかな感情が私を包みます。
 やがて、私はその中身に気づきました。
 娘の何気ないひとことは、実は阿弥陀さんの私に対するプレゼントだったんじゃないかと・・・。
 「阿弥陀さんのお力は、常に私達ひとりひとりに注がれている。」というお話しをよく聞きます。「注がれていないと思うのは私達が気づいていないだけなのだ。」と・・・。
 幼い娘にたどたどしく阿弥陀さんのことを語ったひとときも、確かに阿弥陀さんのお力によるものでしょう。
 日溜まりの中で、私達親子が気づかせていただいた阿弥陀さんのお力は、とても暖かくやさしいものでした。
 そうしたことに気づいていく日々こそ、ほんとうの幸せなんじゃないでしょうか。
 そして、今、娘にはこう言うのです。
 「まんまんちゃんのおかげでお父ちゃんやお前がここにいること・・・。今日出会った楽しいことや悲しいことも、ぜんぶまんまんちゃんのプレゼントなんだよ・・・。」と・・・。

2000年5月 当山衆徒 釈英之            ↑戻る


百の花

 鮮やかな新緑が日ごとに色あいを濃くしています。
 そんな大自然に恵まれた山寺の一室で古い書類の整理をしていた時、1枚の新聞の切り抜きが出てきました。
 橿原市の浄念寺ご住職であられた中川静村師が、大和タイムス紙(現奈良新聞)の「宗教随想」欄に投稿されたものです。唐戸へお越し頂いたのが昭和46年の4月でしたから、もう30年近くも前のものなのです。その中の一部を紹介いたしますので、一緒に味わってみてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 西吉野の唐戸の光台寺から招きを受けた。4月10日、花見を兼ねてお話しをというやさしい配慮の電話である。喜んで出かけた。初めての土地である。下市から10キロ、深い山峡の村であらゆるたたずまいが清澄に整っている絵のように美しい里であった。
 春のおそい唐戸は今ようよう花という花が咲きそろうたばかりである。春を待ちかねた「きおい」がどの花にも平地では見られない『艶』を色香にそえていた。
 『西吉野 唐戸の里の 光台寺 百の花咲く 百の色香に』
 私は立ち止まって私のノートにこの歌を書きとめた。歌とは言えない拙い一首ではあるが、歌のよしあしは私にかかわりがない。百の花に百の色香がある。その事実が大切であり、その自然が一大事であった。
 桜に桜の花が咲き、木蓮に木蓮の花が咲く。当然である。至極あたりまえのことであり、桜に木蓮が咲いては大変である。木蓮に梅の香りがしては、これも大変である。
 この当然であり、あたりまえの中に、厳として存在するのが念仏である。
 なぜ桜に桜の花が咲くのか、とり換えようのない色と香りがあるのか。どうにもならない容があるのか。
 私達は咲き揃った花を見がちである。果が因から生まれ縁に育った一大事を忘れ、ただその色と香りに羨望と嫉妬と軽蔑をもつ。因、縁、果の道理が仏教の大切である。
 因は自己にあり、今日ここにある。この色と香りは内因によってうまれたものであることを、この淋しさ悲しさ、つらさ、卑しさ、貧しさ、怒り腹立ちも、すべて自己であることを忘れて、外縁にそれを転嫁しようとするところに、貪欲、瞋恚、愚痴の三業を重ねる。
 こんなに自分が親切をつくしているのに、これほど思っているのに、こうしてやったのに、の考え方も、自己を考えているようで実は外縁への転嫁である。
 自己を掘り下げ、つきつめて行ったところに、どうにもならぬ、因を発見する。いささかの真実心も清浄心もない私、我執と無明に沈む愚禿の私、私の発見こそが浄土への門である。
 どうにもならない因を、わが心にうけとめた時、生まれてくるのが恩である。恩の文字は、くしくもこの道理を的確に私達に教えてくれた。一生生かされてある自分、恵まれ愛され通しの自分に気づく時、縁は温かく美しく私を包む。私がこの色も香りも、大きな縁によって咲かされている。精一杯咲くことの喜び。百の花の、たとえ小さく貧しく影にかくれて咲こうとも、恵まれたささやかな色と香りで 、人々を幸福にしたい。
 それが私の幸福につながる道と、私はそれを歌にしたまでである。


南無阿弥陀仏 合掌

2000年6月 当山住職 釈忠英                ↑戻る


雨の日には雨の・・・。

 降り続く雨音。厚い雲。じめじめとした重い空気・・・。日本上空にしっかりと腰をすえた梅雨前線はまだまだ動きそうにありません。
 どちらかといえば雨の日も好きな私ですが、こう毎日雨の日が続くと、次第に憂鬱な気分になってきます。
 そればかりか、なんとなく体も重く感じ、ついついすべての出来事が面倒に感じてくるのです。
 そんな雨の日の憂鬱な朝、出勤途中の車の中からぼんやりと外を眺めると、ふと自坊の掲示板に書かれた言葉に目がとまりました。
 「雨の日には雨の 病む日には病む日の 老の日には老の日の かけがえのない人生がある」
 見慣れた住職の字で書かれたその言葉が頭に焼き付き、車を走らせながらいろいろと、とりとめのないことを考えました。
 強く降るでもなく、厳しい日射しが降りそそぐでもなく、山々やそこに暮らす動物たちを慈しむように降り続く雨。空から降りてくる命の水。自分の都合ばかりを考えている私にはいやな雨でも、この雨を必要としている多くの命があるんじゃないかと。
 私達は(少なくとも私は)、無意識のうちに、今の自分というものをあたりまえの事として捉えています。健康な自分や家族、今日の1日を・・・。
昨日までの都合のよいことはあたりまえ。それ以上都合のよいことがなかった日は普通の日。昨日まで都合のよかったことが無くなってしまった日は良くない日・・・。
 それゆえに自分が病気になると不幸になり、家族が病気になると悲しみ、年をとると寂しくなるのではないでしょうか。
 私達が送っている日常は、冷酷なほどに自分の都合とは無関係に過ぎていきます。しかし私達にとって晴れの日も雨の日も、かけがえのない人生に変わりはないはずです。
 何の保障もない毎日に、自分の都合ばかりを追い求める生活を送ることほど不安定で恐ろしいことはありません。
 自分の回りの全ての人に感謝し、自分の存在と自分の命を支えてくれる世の中のすべてに感謝し、それらを包み込んでくださる阿弥陀如来に感謝の日々を送る・・・。これほど幸せな生き方はないと思うのです。
 今日も変わらず降り続く雨・・・。かけがえのない雨。かけがえのない1日。それぞれのかけがえのない人生・・・。
 あなたにも私にも、雨の日には雨なりのかけがえのない1日が待っているんじゃないでしょうか。

2000年7月 当山衆徒 釈英之            ↑戻る


仏さまとわたし

 去る7月8日(土)〜9日(日)、これまで行きたい行きたいと思っていた長州路(金子みすずさんのふるさと)を訪ねる機会に恵まれました。
 私の希望を取り入れてもらったため、仙崎訪問が中心となった今回の旅でしたが、”仙崎の玉三郎”こと、大賀佳文さんの案内をいただくことができ、旅がより意義深いものとなりました。
 大賀さんは、毎日新聞にシリーズ掲載された『金子みすずの「恋人たち』で、矢崎節夫さんや酒井大岳さんらとともに紹介されたこともある人で、みすずさんに心酔されておられる仙崎の有名人なのです。旅に出かける前に大賀さんの存在を知り、無理をお願いしてお忙しい中「みすず通り」などを中心に案内をしていただいたのでした。
 仙崎は、ひっそりとした静かな漁村ですが、みすずさんが生きておられた頃とはあたりの景色なども随分変わったことだろうと思いましたが、それでも何だかとても懐かしい気持ちにかられたのが不思議でした。
 「公園になるので植えられた/櫻はみんな枯れたけど/伐られた雑木の切株にゃ/みんな芽が出た、芽が伸びた・・・」で始まる詩に謡われた『王子山』から眺めた仙崎の町並み(ちょっと釧路の町に似た感じでした)の静かなたたずまいや、「あまりかわいい島だから/ここには惜しい島だから/貰っていくよ、綱つけて/北のお国の船乗りが/ある日笑っていいました・・・」の『弁天島』、そして、浄土真宗本願寺派 遍照寺の境内にあるみすずさんのお墓にもお参りしてきました。
 4月のおはなしでも述べましたが、京都で矢崎節夫さんの講演を拝聴してから、私自身がみすずさんの大ファンになりました。そして勤め先の私の部屋に、今月は『さびしいとき』という詩を掲げています。

  さびしいとき   〜金子みすず〜
  
  私がさびしいときに
  よその人は知らないの
  
  私がさびしいときに
  お友だちは笑うの
  
  私がさびしいときに
  お母さんはやさしいの
  
  私がさびしいときに
  仏さまはさびしいの

 よその人、お友だち、お母さん、仏さま。
 みんなそれぞれにに大切な存在ですが、私への関わり方は違います。
 その違いを鋭く見抜いたみすずさんの感性の深さを思います。
 私と一つになってくださる仏さま、その仏さまこそ阿弥陀如来さまなのですが、煩悩具足の凡夫であるこの私の欲望を満たすために仏さまがいてくださるのではないのです、嬉しいときも寂しいときも、心の中に寄り添い、共に喜び共に悲しみ、私(私たち)を力づけてくださる。そんな大きな大きなお方なのです。
 「私が寂しいときに/お母さんはやさしいの
  私が寂しいときに/仏さまはさびしいの」
 みすずさんが、おばあちゃんに手を引かれてお参りしたお寺でのお育て。そしてお家のお仏壇にお参りしてのお育てが、芽を出し大きく育っているのだなあと思います。
 住職よりも、もっともっと力強い伝道者がいる・・・。親から子へ、孫へと伝えられていく家庭でのお育ての大きさを思ったことでした。

2000年8月 当山住職 釈忠英            ↑戻る


心の闇

 夏になると必ずといっていいほどテレビで放映される「心霊特番」・・・。ちまたで語られる「怪談」・・・。
 どこかのトンネルに幽霊が出た。海辺で人の足を引っ張って溺死させた・・・。
 亡くなった人が幽霊となって人々を呪ったり、死の世界へ引っ張り込もうとしたり、先祖の霊に祟られたり・・・。そして、これらの霊を供養して・・・などなど。こういった話は後を絶ちません。
 人は死ぬとどうなるか・・・。どんな姿になってどこへ行くのか・・・。通常知り得ることのないテーマの上にこういった話は成り立っているのでしょう。
 幽霊が存在するか、しないか。祟りはあるのか、ないのか。見たり体験したりしたことのない私にはわかりません。
 科学が万能ではない以上、いくら科学的根拠に基づいた検証を行ってもおそらく大した意味はないでしょう。
 ただ、確実に言えることはこういった怪談は心の闇が形を変え、現れた結果であるということです。
 死んだ経験がなく死を恐れる私たちは人の死に接するとき、自分が思いがけない死に方をしたときや人に殺されたときに抱く(であろう)無念や復讐心というものを無意識のうちに空想し、それが死者の感情であると決めつけてしまいがちです。怪談はこうした空想を写す鏡なんじゃないでしょうか
  『殺された人に呪われる。』 『先祖の霊が祟っている。』などと考えるのも、結局は”自分がそうなったときにどうしてやろうと思うか・・・。”ということだと思うのです。
  ”自分が大事。家族が大事・・・。” 言い換えれば、”自分だけが大事。家族だけが大事”・・・。
 こうした自己中心的な考えの上に私たちの日常が成り立っている以上、怪談や祟りをつくり出している心の闇が無くなることはありません。
 しかし、どんなに執着していても、私たちの命が永遠ではない以上、いずれ死の時は必ずやってきます。それがどのような形でいつ訪れるのかは誰にもわかりません。誰しもが不安であり恐ろしいのです。
 そして、さらに恐ろしいのはその不安を投影した亡霊が自分の心の闇であると気づかないまま、おびえて過ごす日々ではないでしょうか。
 仏さまから頂いた大切な命、大切な人生、大切な今日このとき・・・。
 大切なのは”死んだらどうするか”ではなく”限りある今をどのように生きさせていただくか”ということです。
 そしてそのことが、自分には見えない心の闇を照らしてくださる仏さまの真実の光であると思うのです。

2000年9月 当山衆徒 釈英之            ↑戻る


罪悪深重の私

 オリンピックも、とうとう閉会式を迎えました。
 先日(9月)15月に始まったオーストラリア・シドニーでの大会でしたが、最終日の10月1日まで、世界中の人々の心に数々のすばらしい記録と大きな感動を残して、17日間にわたる全日程を終わったのです。
 素晴らしい大会だったと思います。感動的な大会だったと思います。演出なども素敵でした。
 私も、大会が始まってからは、夕方帰宅すると決まったようにテレビのスイッチを入れ、チャンネルをオリンピックの放送に合わせるのが日課のようになってしまいました。
 でも、私の見方は、日本人としての身びいきが先行してしまうのでしょう。テレビを見ても気になるのは日本人選手の活躍でした。
 
 スポーツ競技には、常に勝敗が付き物です。勝者があれば敗者ができる。逆にいうと、敗者(敗れて涙する者)がいてくれるから、勝者となりうるのです。言い換えれば、勝利とは、敗れて涙する者、敗北の悔しさに拳を震わせる者の「涙」や「悔しさ」を踏み台にしなければ味わうことのできないものだということができるのでしょう。
 相対の世界に生きる私たちには、いかんと仕難いことではあるのですが、何かわりきれないというか、素直に「よかったね。」と言いにくいものを感じるのです。
 相対の世界とは、他人との比較の中で安堵感を覚えたり、不安な気持ちに駆り立てられたりする世界です。例えば、我が家の月収が30万円だったとします。右隣のお宅の月収は25万円。年齢的にも変わらないとしたら、あなたはそのことを心強く感じるかも知れません。
 ところが、今度は左隣の家の月収が40万円、年齢も同じと聞かされると、一転穏やかではなくなってしまう・・・。
 お隣の収入がいくらであれ、自分の家の収入には変わりはないのですが、人というものは、常に他者との比較の中で一喜一憂してしまうのですね。そしてついつい、いさかいを起こし、罪を造ってしまうのです。
 それが、お聴聞の中でお聞かせいただく「罪悪深重の凡夫」の姿なのです。「罪悪深重」の「罪悪」とは、人間社会の法律上によって裁かれる,いわゆる「罪」とか「悪」を言うのではありません。自分を中心としてしか考えることの出来ない心。そして、その自己中心の心にそぐわない条件に対してわき起こる怒り、腹立ち、嫉み、ねたむ心こそが「罪悪深重の凡夫」の根元なのです。
 「私」を中心としてしか考えることのできない私。
 ところが、そんな私に常に心を寄せ続けてくださるお方が居て下さいます。ほおっておけないと、働き続けてくださるお方が居て下さるのです。
 いつでも、どこにいても、何をしている時にでも、離れることなく私に寄り添い、大慈悲心(人間の心を超えた絶対的なお慈悲)を傾けて、私一人にかかりきってくださるお方こそ『阿弥陀如来さま』なのです。 
 私がすべてをお任せできるお方です。
 日頃のお聴聞を通して、この私を大きくつつんで抱き取ってくださる『阿弥陀如来さま』の真実心(まことごごろ)を、聞かせていただきたいものです。
 仏さま〔阿弥陀如来さま〕にお参りするということは、私という存在の偽りのない姿に出会わせていただくとともに、仏さま〔阿弥陀如来さま〕と私との関わりを気づかせていただくかけがえのないご縁なのです。
 
2000年10月 当山住職 釈忠英            ↑戻る


しあわせのものさし

 私たちが日頃よく耳にする「しあわせ」という言葉。
 「あの人は本当に幸せな人生を送った。」とか、「あの人の晩年は不幸の連続だった。」など人生にまつわる話から「恋人には振られるし、お金は落とすし、なんか最近不幸続きで・・・。」などの身近な話題まで、本当にこの言葉はよく使われます。
 どうやら、人間には人それぞれに「しあわせのものさし」があるようで、その日、その時におこった出来事や人から聞いた話を自分のものさしで計り、他人と比較し、「幸せ」とか「不幸」を判断しているようです。もちろん私も例外ではありません。
 それならば、私たちが日頃口にしている「しあわせ」とは、はたして本当のしあわせなのでしょうか。
 多くの人が受験の際などに神社を訪れる「合格祈願」。
 当然、人々は合格というしあわせな出来事を勝ち取ることを願って行かれるのでしょう。しかし、限りある合格枠に自分が入ると言うことは他の誰かが不合格になるということ、つまり他人の不幸を意味します。他人の不幸の上に自分のしあわせを築こうとしているわけです。そして、不合格になると「あの神様は効き目がない。」・・・。
 結局、私たちの持っているものさしは、こうした偽物のしあわせしか計ることはできないのです。
 先日私は、自坊の報恩講にお参り頂いたある住職さんから太平洋戦争当時の体験談を聞かせていただきました。中国で捕虜になられた当時のお話です。 「それは大変な苦労をされたんですね。それに比べたら僕たちの世代はどれほど幸せなことか・・・。」という僕の言葉に、その住職さんは静かに微笑みながら「私は自分が不幸だったとは思っていません。楽しいこともありました。それに、昔には昔の、今には今の大変さがあるでしょう。」とやさしい口調で言われたのです。
 今も昔も、自分にも他の人にも、阿弥陀さんのお力に包まれて生きるそれぞれのしあわせな人生がある。ということなのでしょうか。
 日増しに深まる秋の色。本堂越しに見上げる雲もずいぶん高くなりました。
 鮮やかな落ち葉舞う秋が終わると、まもなく寒い冬がやってきます。
 娘に仏さまのことを聞かれ、こう答えたのは確か昨年の冬の終わりのことでした。
 「まんまんちゃんのおかげでお父ちゃんやお前がここにいること・・・。今日出会った楽しいことや悲しいことも、ぜんぶまんまんちゃんのプレゼントなんだよ・・・。」
 本当の「ものさし」は、阿弥陀さまだけが持っておられるものなんですよね。
 

2000年11月 当山衆徒 釈英之            ↑戻る


お念仏を生きる人生

 大津市にお住まいであられた三宮義信先生が、去る10月29日にご往生されたということを聞いたのは、11月に入って何日か経ってからのことでした。お書物や講演などで先生からのお教えを戴く機会は多くありますが、親しくお話しをさせて戴いたのは平成5年8月28日に自坊(拙寺)秋季永代経法要のご唱導時にご来駕を賜った時でした。逮夜と初夜のお座が終わって一夜をお過ごし戴いたのですが、お話しの中味とともに先生の誠実なお人柄にも導かれる大きなものがあったように思います。
 本願寺の大乗刊行会から発行されている月刊誌『大乗』12月号の巻頭言でのお言葉が先生の最後のご執筆となったようですが、『彼の岸へ』と
題されたお言葉の中の「・・・私たちは、阿弥陀如来のお救いを信じて、救われたよろこびの中に、一日一日を、自分の誠意と力をつくして生きていくことができるように努力せねばなりません。努力、それは聴聞以外にはありません。・・・」という一節が心にしみています。
 平成5年8月のお出会い以降、年に一度の賀状でのご挨拶ばかりとなっていた吉野の山寺の住職に対しての、「彼の岸へ」ご往生されるにあたっての最後のご教化であったと心して味あわさせていただきました。

 さて、お聴聞の大切さについては、常日頃からお聞かせいただいているところですが、実は先日、山陰地方の”妙好人のふるさと”に赴かせていただく機会を得ました。
 『長門・仙崎の「金子みすずさん」』、『岩見・下有福の「善太郎さん」』、『石見・温泉津の「才市さん」』、『因幡・山根の「源左さん」』。
 それぞれの方々が、そのいのちを輝かせて人生を歩まれた”ふるさと”の地を訪ねて、先人と同じ景色を眺め、同じ空気を吸い、同じお寺にお参りし、同じ如来さまに手を合わせて、お念仏申させていただきました。
 幸い好天に恵まれ、小春日和の日本海、凪の水面を眺めながらののんびりとした旅でした。行程のほとんどはJRの各駅停車に身を委ね、JR線のない部分はタクシーをお願いして、浄土真宗本願寺派の「光現寺さん」、「浄光寺さん」、「安楽寺さん」、「願正寺さん」などなど、妙好人ゆかりのお寺に初めて御縁を結ばせていただき、お参りをさせていただきました。
 そして、先人の残されたお言葉などを味わいながら、「お念仏を生きる人生」の大きさや重さに心を打たれたことでした。
 「浅原才市さん」の詩です。

なむあみだぶつ  なむあみだぶつ
ねんぶつは
おやのよぶこえ このへんじ
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
・・・・・・・・・・・・
法をきくとき しっかりきけよ
わすれたには あじがのこるぞ
ききながしには あじがない
それじゃ いつまできいても だめよ
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 「最近の若い人は理屈はよく言うが、なかなか親の言うことを聞かない」などといった声を耳にすることがあります。ここで言う「聞く」とは、言葉が音声として耳に達しているかどうかを言っているのではありません。
 願いを込めた親の言葉を聞いて、そのことを行動に生かしているかどうかということでしょう。
 お聴聞だって同じこと。佛法を聞くときに、ただ音声として聞く。あるいは他人事という気楽さで聞いているのであったならば、本当に聞いたことにはならないでしょう。
 聞かせていただいたことが、生き様に表れ、行動化した生活を送ることになるのだということを、「お念仏を生きる人生」を歩まれた妙好人のふるさとを訪ねながら、味わい直させていただいたことでした。

2000年12月 当山住職 釈忠英            ↑戻る