元を取った本の話
田中貴子
私が大学院に入ったころのことだから、もう十五年以上前の話である。私の研究テーマは、十四世紀に天台僧によって書かれた『渓嵐拾葉集[けいらんしゅうようしゅう]』という書物だった。この本は当時(今でもそうだが)ほとんど文学研究者に知られていない資料で、仏教学や歴史学の方からは「あんな荒唐無稽なもの」といった、いささか冷たい視線で見られていたのである。余裕がないので本の内容には触れないが、この本にはいつくかの伝本が知られており、その基礎的研究を行うためには、まず諸伝本を博捜し、本文校訂をする必要があった。そこで、マスター一年生の私は、「よその本を見せていただく作法」なるものを先輩から伝授してもらい、『渓嵐拾葉集』のまとまった伝本を蔵する、滋賀県は坂本の叡山文庫へ向かったのである。
こういうところに赴くのは初めてだということで、大学時代の恩師で文庫に顔が通じているA先生が来てくださることになった。いつもより化粧を薄くしてきた私の前で、先生はおもむろに大きな三冊の本をよっこらしょと机に乗せた。背表紙をのぞき込んで「てんだいしょせき・・・」と言いかけた私を制して、先生は「これはてんだいしょじゃくそうごうもくろく、と読む」と静かにのたもうた。この本は渋谷亮泰師が天台宗の寺院や個人のお宅に蔵されている仏書の書誌と奥書を網羅したもので、天台関係の資料を扱う上では欠かせないというのである。
かなり手ずれしたその本を見せていただくと、『渓嵐拾葉集』の零本なども載っており、これに気づかずのこのこ叡山文庫へやってきた自分が恥ずかしかった。
当時、私は、『渓嵐拾葉集』の諸本がどこで、誰によって、どのように書写されたか、という問題を追っていた。大正蔵に翻刻された奥書だけを見ても、この本が全国的な規模で書写されていることがわかる。とくに私が気になっていたのは、書写された場所に「談義所」と呼ばれる学問寺の名前が見えることだった。談義所とは今でいう地方大学のようなもので、大きな図書館を有しているところも多い。中世の学僧は、この談義所を経巡って論義の練習をしたり、そこにある本を書写して持ち帰るという営みをしていたのである。だから、本の奥書をたどって行くと、当時の学問の流れや動きが見てとれることになるのだ。
私は先生におそるおそるたずねてみた。「その目録は、今、手に入りますか?」と。先生は、さあね・・・というふうに斜め上を見て、「神田のI堂なんかじゃまだあるかもしれないな」と軽く答えた。
その春、中世文学会のため上京した私は、学会のあいまに神田のI堂を訪れた。ここは噂に聞く「高い古本屋」である。つまり、本も高いがプライドもお高いというわけ。着慣れぬスーツ姿の若い女がおずおず店内に入ると、店の奥からなにかしらきらっと光る目のようなものがあったように見え、私はいっそう身をこごめて本棚に目を走らせた。一番上の棚に、まごうかたなき『天台書籍綜合目録』全三冊を発見した私は、思わず近くのいかにも「番頭です」という貌のオジサンに「あ、あれをください」と口走ったのだが、「番頭さん」は目にもとまらぬ早さで私を「値踏み」し、「あれは五万円ですよ」と言い捨てて奥へ戻って行こうとするのだ。
私はあわててオジサンの袖をつかみそうな勢いで「買います、ほしいんです、お金は持ってますから」と言っていた。梯子をかけて三冊の目録をおろしたオジサンは、何もなかったかのようにレジへ私を誘い、「送りますか?」とたずねたのである。当時は宅配便など普及していなかったので、この重そうな本の送り代がこれ以上かかるのは困ると思った私は、持って帰ります、と言った(らしい)。
気が付くと、私は数キロはある、丁寧に包まれた荷物を抱えて、神田の喧噪のなかに立っていたのだった。私の仕送りが十万円だったから、五万は痛い出費ではあったが、あの本が手に入ったというだけで舞い上がってしまったのである。帰りの新幹線では早速頁をぱらぱらとめくって喜びに浸り、家に着くと舐めるように読み始めた。
私はこの目録にもとづいてカードを作り、必要なときは各地へ資料の閲覧へうかがった。そして、修士論文を書き上げることができたのである。その後も何かと使いまくり、数本の論文を仕上げた。『目録』は付箋がびらびら、紙はよれよれ状態になったけれども、この本ほどお世話になったものはない。五万円の元は完全にとった!と思う。
その後、『目録』はどんどん値が上がり続けたが、最近比較的入手しやすい値段で復刊されたという。若い研究者諸君、本は借金してでも買っておいた方がいい。きっといつか、元はとれると思うし、ちょっとお説教めくが、元がとれるくらいに活用するべきだと言っておこう
筆者紹介 たなか たかこ・京都精華大学助教授一九六〇年京都生まれ。奈良女子大学卒、広島大学大学院博士課程修了。著書にちくま新書『日本古典への招待』・講談社現代新書『室町お坊さん物語』・『〈悪女〉論』・『百鬼夜行の見える都市』他多数。