鴨長明と「方丈記」

新木直人


 鴨 長明の

 「石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れを たづねてやすむ」(『新古今和歌集』)

の「瀬見の小川」は、糺の森の南の方に鎮まる河合神社の東に今も清らかな流れをたたえている。『風土記』山城国の下鴨神社の神話のくだりに「石川の清川」とあるのを瀬見の小川と詠んだものと思われる。瀬見の小川の源流は、鴨川であり、それゆえ鴨川を瀬見の小川と呼ばれていたこともあった。

 長明は、久寿二年(一一五五)、下鴨神社の禰宜[ねぎ]、長継[ながつぐ]の次男として泉の禰宜の館(現在の京都大学北方一帯)で生まれた。下鴨神社の禰宜、祝の嫡子は六才あるいは、九才で神職の道にはいるのが習わしであった。長明は、応保元年(一一六一)、七歳のとき、第六回式年遷宮が行われ、それを機会に神職の修行についた、とされている。しかしそのころは、福原へ遷都、乱につぐ乱と激動の時代を経ており、長明の神職の道については明かになっていないのでさまざまな説が流布している。

 正治二年(一二〇〇)、四十六歳のときから、元久元年(一二〇四)五十歳の春まで、後鳥羽院のお召しにより和歌所の寄人に任ぜられていた。わずか五年間で宮中の席を辞して出家し、洛北大原へ隠遁した。その原因を河合神社の禰宜になれなかったから、という。しかし私からみれば、長明にとって河合神社禰宜の位置は、なお遠い所にあって例え院のお召しであっても無理としか思えない。賀茂斎院の御禊[ごけい]は、三年間。下鴨神社禰宜、祝[はふり]は、生涯を通しての祓であったから、原因は別にあったはずである。

 大原から各所を転々としたあと、承元二年(一二〇八)、五十八歳のころ山科の日野山(現在 京都市伏見区日野町)に落ち着いた。その間、建暦二年(一二一二)三月、『方丈記』ついで『無名抄』などを著し、建保四年(一二一六)開六月八日、六十二歳で歿した。

 各地を移動しているあいだに「栖」として仕上げたのが、この「方丈」である。移動に便利なようにすべて組立式となっている。今日でいうところのプレハブ住宅である。

 広さは、一丈(約三メートル)四方。約二・七三坪。畳、約五帖半程度。間口、奥行とも一丈四方というところから「方丈」の名かある。いま一つの特徴は、土台を置き、その上に柱を立てる。下鴨神社の本殿もまた土居桁の構造である。この構造は、建物の移動ということを前提としている。下鴨神社は、二十一年ごとに行われる式年遷宮によって社殿が造替されるため、こうした自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。

 庵の中央に炉があり、壁に二面の仏画が掛けられ、琵琶、琴を置くなど、日常の精神生活に必要なものがすべてととのっている。仏画の阿弥陀如来と普賢菩薩は、河合神社北側の鴨社神宮寺(明治元年(一八六八)、令により廃絶した)に阿弥陀如来がまつられ、河合神社経所の本尊として普賢菩薩がまつられていたからであった。また大原、山科と常に洛中に近接する所にすまいしていたのは、糺の森[ただすのもり]の神城を朝夕遥拝するためでもあったと思われる。このたび方丈の復元について、『方丈記』から読み取れる資料をもとにゆかりの河合神社の斎庭[ゆにわ]に、七九〇年ぶりに再現がなった。復元にあたっては、京都工芸繊維大学名誉教授中村晶生先生の監修のもとに株式会社安井杢工務店の多大の協力を得て実現した。

[下鴨神社糺の森での第十二回納涼古本まつりの期間中にも、復元した方丈と―河合神社と鴨長明関係資料展―を河合神社御料屋において開催(有料)しています]


筆者紹介 あらき なおと・昭和十二年生まれ。賀茂御祖神社(下鴨神社)權宮司

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