臼井史朗さんに聞く
アテネ文庫創刊の頃
今号より、「京古本や往来・インタヴュー」というコーナーを設けました。本の過去・現在・未来を追って、いま聞いておきたい話題を追いかけていくという姿勢で続けてまいりたいと思います。第一回は、淡交社相談役の臼井史朗さんに「アテネ文庫」創刊時代の話をうかがいました。
臼井さんは、今年創業五十周年になる淡交社(茶道関係・京都関係書専門の出版社)で長年編集にたずさわっておられ、日本書籍出版協会(書協)京都支部でも役員をつとめておられたました。本誌巻頭言にもご寄稿いただいております。
その臼井さんは戦後、復員され帰京された一時期、弘文堂の編集部に勤務しておられました。そして「アテネ文庫」の創刊にも立ち会われたのです。
――弘文堂に入られる前はどうされていらっしゃったのですか。
戦前私は、大谷大学で宗教学を専攻しおりまして、当時は鈴木大拙先生がおられたわけですが、卒業後、陸軍航空隊に所属し、シンガポールにおりました。終戦を広東で迎えたあと台湾へ渡り、日本に帰ってきたのは昭和二十一年二月のことです。復員後は以前小僧をしていた京都の法然院にまた帰ってきまして、大谷大学に通っていました。しかし戦前とは思想や価値観が全く正反対になってしまって、かつてのように研究を続ける意欲が失われてしまったんです。そこへ弘文堂へ紹介していただいて、編集の仕事をするようになったわけです。といっても、編集の勉強をしたわけでもないですから下働きが主でしたが。
――当時の弘文堂はどのような状況だったのでしょうか。
もともと弘文堂は明治三十一年創業の京都の出版社で、昭和十三年に本社は東京に移転したものの、戦前は「東の岩波、西の弘文堂」と言われたくらいに、京都での出版は盛んでした。京都学派といわれる先生方の著作をはじめ、西洋哲学、中国学の名著が出版されていました。書協から出した『京都出版史』を見ていただければわかりますが、当時の弘文堂は年に数十冊も出版してます。東京の本社は幸い戦災をまぬかれましたが、左京区田中西浦町にあった京都の弘文堂は、印刷所と製本所とを持っていましたので、そこで出版が続けられていました。京都には編集者が六人くらいと営業が三人くらいいたと思います。僕が入る前は富士正晴がいたんですよ。
――「アテネ文庫」が創刊されるにいたった経緯についてご存じのことがあればお願いします。
昭和二十一年に公職追放が行われて、京都学派の先生方もみな職を失われてしまったんですね。先生方とは長い間、出版事業を通じてお世話になったわけですから、生活の苦しいときに何か企画して出版をしなければということになったんです。まあ、企画会議といっても私が使い走りで買い出してきた「どぶろく」と「中華まんじゅう」を先生方に振舞って談論風発の議論をする、いわば「どぶろく会議」の中からでてきたようなものなんです。戦後もそうした戦前のネットワークを持っていたからできたんじゃないかなと…。
――「アテネ文庫」には格調高い刊行のことばがありますが。
あれは鈴木成高さん(西洋史)が書かれたんだと思う。軍事大国の夢が断たれて文化国家としてふさわしい出版の企画であることが、短い中にスパッと言い表された名文だと思います。
――「アテネ文庫」は粗悪な紙に印刷されてますし、それも六十四頁と薄冊ですね。
六十四頁というのは、一枚の紙を折ると出来るんですよ。紙一枚刷って表紙をつけたのが「アテネ文庫」なんです。紙は闇屋へ買い付けに行きました。戦時中に隠匿されていたのが闇に流れ出たんです。昭和二十一〜二十二年ころは、出版は大変儲かる事業で、いろんな人が出版社を興してました。活字に対する飢餓状態だったんですね。しかし、粗悪な出版物ばかりがはびこって、これではいかんという企画が「アテネ文庫」でもあったんです。
――「アテネ文庫」の初回配本は昭和二十三年三月二十五日で、久松真一から川端康成まで幅ひろく出ています。この久松先生の本の編集に関わられたと聞きましたが。
久松先生の『茶の精神』は、前半が裏千家が主催する「国際茶道文化協会」での講演です。茶道は戦前までは茶道報国と言われたり、あるいは娘さんの修業だったりしてきたわけですけれど、これからは茶道を日本の文化として世界に広めていこうという動き中での文化協会が設立され、そこでの先生の講演が前半部分になっています。そしてその講演の具体的なフォローとして、法然院金毛窟で先生の講義と茶事と座談会を開きまして、それをまとめたのが後半部分になっています。先にも言いましたとおり、私はずっと法然院で育ったものですから、この時は水屋づとめなどもしました。原稿をまとめるに際して私も手伝ったかもしれませんが、鈴木成高さんが編集されたように思います。この『茶の精神』もよく売れてすぐに重版になったんですけど、値上がりもして次の年には十五円だったのがたちまち倍になりました。
――(臼井さんにお持ちいただいた初版と三版を見比べながら)たしかに一年で二倍ですね、表紙はだいぶいい紙になってますけども。
――ところでここにアテネ文庫の総目録の一九五一年版と五二年版があるんですが、なぜか『夕鶴』だけが五二年版では絶版になってます。どのような事情があったんでしょうか。
それはですね、昭和二十一年の公職追放で弘文堂の八坂社長も職を追われてしまっていまして、その後の弘文堂は営業は東京で久保井理津雄氏、編集が西谷能雄氏、京都では関根氏、大洞氏などが中心になって運営がなされていたわけです。
――当然、その西谷さん以下が総力をあげてアテネ文庫を創刊したわけですね。
ところが、昭和二十五年に公職追放が解けて社長が帰ってくるんです。当時、どこの業界でも同じだったと思うんですが、元社長と現に運営してきた社員との関係はうまく戻るわけはなく、いろいろな確執があって、結局弘文堂は分裂してしまうわけです。で、西谷氏は木下順二の『夕鶴』を持って出て未来社を創り、久保井氏は団藤重光のロングセラー『新刑事訴訟法綱要』を持って出て創文社を創った。また、その頃には出版ブームが去って、沢山の出版社がつぶれた時期でもあったんです。私はその年の夏にアメリカに渡るため弘文堂をやめてしまったので詳しくはわかりませんけども、かなりな争いが社内にあったようです。
――それで『夕鶴』が唯一の絶版扱いになっているんですね。分裂以後もアテネ文庫は出版され全三百一点となるわけですが、しかし今のお話だとその時から少しずつ変質していくのかもしれませんね。本日はどうもあり がとうございました。
臼井史朗(うすい しろう)大正九年岐阜県大垣市生れ。
大谷大学文学部卒業、現在淡交社相談役。著書に『昭和の茶道―忘れ得ぬ人』『古寺巡礼ひとり旅』『弟子三尺―ある出版人の日記から』ほか多数。