『おくのほそ道』板木の一件
永井 一彰
このたび『おくのほそ道』の板木と共に発見し、同時に発表したにもかかわらず、報道の段階ですっかりかすんでしまったものに『芭蕉翁発句集』の板木がある。『おくのほそ道』と『芭蕉翁発句集』は、版権の推移・板木の伝来経路とも全く軌を一にし、いわば兄弟と見るべきもの。両者を併せ考えることによって、芭蕉という利権をめぐっての当時の出版書肆のあり方がはじめて浮かびあがってくるように思われるので、誌面を借り、そのあたりの概略を述べておきたい。ちなみに、今回出現の板木の伝来・発見の意義・今後の課題等については、九月十五日の京都新聞朝刊の記事(国分浩幸記者)が最も詳しく、また適切である。併せてご覧いただきたい。
『おくのほそ道』は、元禄十五年(十二年説もある)、当時去来が所持していた素龍清書本を摸して井筒屋が出版。以後、天明八年の京都大火に至るまでの約九十年間、同一板木によって繰り返し出版されたことは、雲英末雄先生の研究によって明らかにされている。ただし、この間、明和七年には、元禄版では割愛されてしまった素龍の跋文、素龍清書本所持に至る経緯を記した去来の由来書、それに素龍跋・去来由来書を伊賀で見つけたとする蝶夢の由来書、併せて三丁半を増補している。この段階では、版権はまだ井筒屋にある。が、安永七年頃、『おくのほそ道』は橘屋との相版となった。そのことは、木村三四吾先生が「『冬の日』初版本考」に於てつとに指摘されたように、旧版のものをくりかえし出版していた井筒屋に対し、橘屋は美濃派・伊勢派の田舎蕉門を顧客として取りこみ、宝暦頃を境に力関係が逆転して行った現象と無関係ではない。井筒屋は急速に力をつけて来た橘屋と組むことによって、建て直しをはかったのである。
一方、『芭蕉翁発句集』は安永二年の芭蕉八十回忌をあてこみ、半紙本二冊・年次別編集で安永三年に井筒屋が出版している。ところが、二年後の安永五年、装いを改め、小本二冊・類題別として井筒屋から再度出されることになった。その間の事情について、井筒屋も蝶夢も何も語らないのだが、『おくのほそ道』元禄版の板木が九十年近く使用されたこととは対照的なことがらである。わずか二年で半紙本の板木を潰し、小本に改めた理由は何だったのだろうか。それはおそらく、半紙本と同じ安永三年に出版された蝶夢編『類題発句集』の好評を背景に置いて考えるべき問題であろう。半紙本の売れゆきがはかばかしくないことに見切りをつけた井筒屋は、好評の『類題発句集』と同様の版式・編集に切り換えたのである。この井筒屋の方針変更はあたって、小本『芭蕉翁発句集』は『おくのほそ道』と並ぶ主力商品となっていったであろうことは想像に難くない。
かくして、井筒屋が経営基盤の見直し・強化をはかりはじめて約十年後の天明八年一月、近世最大規模とされる大火が京都の町をほぼ焼き尽くした。その折に井筒屋も罹災し、「蔵板のすべてを失ってしまったのではないか」と指摘されたのは、やはり木村先生であった。やがてきたる寛政五年は芭蕉の百回忌、天明八年はそろそろ各地で繰り上げ法要が始まろうかという時期である。『おくのほそ道』は橘屋と組んで地方への販路も拓け、『芭蕉翁発句集』は単独版として小本の手軽さと読みやすい板下が受けて売れ行きが安定し、芭蕉百回忌にむけて増刷態勢を整え始めるべき時期に井筒屋は店も板木も失ってしまったのであった。板木蔵のあったあたりの焼け跡に佇んで、おそらく井筒屋は言うべき言葉を持たなかったであろう。
しかし、井筒屋の立ち直りは思いの外速かったと言える。大火から約一年半後、「寛政元歳酉七月再板」と刻して『芭蕉翁発句集』を、「寛政元歳酉仲秋再板」として『おくのほそ道』を、いずれも橘屋との相版で再刻再版している。ちなみに、この二書を含め、後に諧仙堂浦井徳右衛門の蔵板に帰するもと井筒屋単独版の主要俳書の多くには、再刻版が存在する。『葛の松原』『続五論』『枯尾花』『笈の小文』『新百韻』等がそれである。が、これらには再刻の年次を記していない。うち、『葛の松原』については、かって八亀氏が木村説を受ける形で、天明の大火を挟んでの再刻とされたのであるが、他のものもそうであったと考えるのが妥当であろう。それでは、井筒屋はどうして『おくのほそ道』と『芭蕉翁発句集』の二点のみ再板の年月を刻んだのだろうか。それは、この二点が井筒屋を象徴する書物であったからに相違ない。寛政元年の『おくのほそ道』『芭蕉翁発句集』の再刻再版は、いわば井筒屋健在の宣言でもあった。
かくして、大火後の井筒屋は橘屋との連携を強め、生き残りをはかろうとしたかに見える。が、それだけでは傾く家運を支えきれなくなったのであろうか、寛政七年に半紙本『俳諧七部集』を出すに際しては橘屋に中川藤四郎も加えての三軒相板とし、また享和三年の新企画『俳諧続七部集』出版の折には、橘屋と共に大坂の奈良屋長兵衛に相板を持ちかけたりしている。しかしそれもほんの一時しのぎであったらしい。やがて文化五年頃には『おくのほそ道』『芭蕉翁発句集』をはじめ、売れ筋の前引主要俳書は殆どが諧仙堂の蔵板となってしまうのである。
今回出現した『おくのほそ道』の板木は、寛政再刻版の素龍跋・去来と蝶夢の由来書・刊記の四丁張一枚。刊記部分に「諧仙堂蔵板」「浦井徳右衛門」などと入木があるのは雲英先生の推測通りであった。この一枚をもとに考えてみると、『おくのほそ道』の板木は題簽部を含め全部で十五枚あったはず。浦井徳右衛門の没と相前後して、山城屋佐兵衛こと藤井文政堂がそのうちの四枚を買い取ったと見てほぼ間違いないが、その四枚の中の一枚、しかも最も重要な刊記を含む一枚が奇跡的に残ったのである。
同時に出現した寛政再刻版『芭蕉翁発句集』の板木もやはり四丁張で、内訳は上巻の二十一・二十二・二十三・二十四丁で一枚、上巻の三十七・三十八・三十九丁で一枚(この板、一丁分の彫り残しあり)、下巻の二十一・二十二・二十三・二十四丁で一枚、下巻の三十七・三十八・三十九丁・刊記で一枚の合計四枚である。計算してみると『芭蕉翁発句集』は、題簽を除き四丁張の板木が二十枚あったはずで、『おくのほそ道』の板木四枚と共に山城屋が諧仙堂から全体の五分の一相当を買い取ったものと推測される。この『芭蕉翁発句集』の場合注目すべきは、上下巻の同一の丁の板木が一組で残っていることであろう。これは私には偶然とは思われない。あるいは山城屋が諧仙堂から買い取った分が、そっくりそのまま残ったのではないだろうか。もしそうだとすれば、これは『おくのほそ道』以上に奇跡的な出来事であると言わざるを得ない。
凋落の一途をたどる井筒屋を、親孝行の兄弟のように支えて来た『おくのほそ道』と『芭蕉翁発句集』の二点は、文化五年ごろ他の主要俳書と共に諧仙堂の蔵板となり、その段階で両書とも刊記部分に井筒屋・橘屋に並んで浦井徳右衛門の名が刻まれることになった。その時、井筒屋のありさまはどのようであったのか。文化五年以降、井筒屋の名前を刻した俳書の存在が報告されていないことから見ると、承応以来百五十年余り続いて来た老舗はひっそりと店をたたんだのであろうか。いずれにせよ、浦井は「諧仙堂蔵板」とうたいながらも井筒屋・橘屋の名を刊記から消すことはなかった。また浦井没後も、山城屋をはじめこの二書の版権を手にした数軒の本屋もその刊記に手を入れることをしていない。それは『おくのほそ道』『芭蕉翁発句集』の販売に井筒屋の看板が欠かせないものであったことを意味するのではないだろうか。
木村先生の言葉を借りれば、「かつて元禄俳諧に輝いた栄光の星は、再びこの者(井筒屋)の上を照らすことはなかった」のであるが、その没落後も、井筒屋の看板は燦然と光を放っていたのである。『おくのほそ道』と『芭蕉翁発句集』は最終的に井筒屋の手を離れても、やはり井筒屋の『おくのほそ道』でありまた井筒屋の『芭蕉翁発句集』であった。このたび揃って出現した『おくのほそ道』と『芭蕉翁発句集』の板木を見ていると、天明の大火をくぐりぬけ、必死に生きのびようとした井筒屋の執念が伝わってくるような気がするのである。
なお、今回の板木の一件、たまたま私が発見することになったのであるが、貴重な資料を後世に残し得た最大の功労者は大書堂の中村俊一・正二御兄弟であると思う。一部は雨ざらし状態になっていた千百枚の板木を「大事なもんやから」と捌ける目途もないまま引き取って保管された見識はおおいに称えられるべきであるし、ばらばらになっては意味がないことをよく承知され、奈良大学と大谷大学に一括納入された英断にも敬意を表したい。また関連文書の閲覧を快諾された藤井文政堂さんにも御礼を申し上げねばならない。藤井さんの御協力がなければ板木の伝来経路をつきとめるのは不可能であった。この一件を機に、板木の所蔵者・研究者・市の関連機関が連携し、更には古書店の皆さんにも協力していただいて、京都市内に残る板木の調査研究・保存活動が始まることをひそかに期待している。
(ながい かずあき・奈良大学文学部教授)昭和二十四年生まれ。岐阜県出身。滋賀大学教育学部卒。大谷大学大学院博士課程、満期退学。近世国文学専攻。趣味、畑・東洋蘭。相楽郡加茂町在住。