本棚の置き場所

中西 秀彦


 私は印刷屋である。それも生やさしい印刷屋ではない。創業は明治三年、私の曾曾祖父(玄祖父?)がはじめた会社だ。だからかもしれないが、代々本好きで、古い時代からの本が山ほどある。きわめつきは世界の特殊文字の文献の収集家として有名だった(らしい)親父、中西亮だ。親父が古本屋さんにいくばくかの貢献をしてためこんだ本は膨大な量になる。私自身も本を買ったら、漫画も含めて絶対に捨てない。結果として、家中、本で埋まるという事態になる。親父が死んだときには、さすがに蔵書の大部分を古本屋さんに引き取っていただき、世界の特殊文字本のコレクションは千里の国立民族学博物館に寄贈した。これでスペースがかなりあいたので、当分は大丈夫だと思っていたら、私の買い込む本で、三年も経ずして空いた書棚のスペースが埋まってしまった。

 なんで、こんなに買い込んで、捨てられないのか。本の魔力というか恐ろしさである。私の場合、なにか次に文章を書くときに創造の源泉となると考えて残してしまう。本が本棚に並んでいさえすれば、本の内容を正確に覚えている必要はない。「ああ、あのことについては、あの本のどこかに書いてあった」という記憶で充分なのである。そこからはその本をとりだして読めば、正確な情報がえられる。そして、さらにそういった記憶をたどり、再構成することであらたなアイデアが生み出されたりする。

 不思議なことに、本を段ボールに詰めて倉庫につみあげてしまうと、この「ああ、あのことについては、あの本のどこかに書いてあった」能力がなくなる。どうやら本をかたづけたり探したりしながら、他の本の背をながめていることが重要らしい。本の背を無意識のうちにながめているだけで、内容を反芻することになっているようなのだ。このことで、情報に対するランダムアクセス能力を常にリフレッシュしていることになる。だからスライド書棚にすると、この能力は半分ぐらいになり、スライドのうしろの方の棚で常時は背が見えない本に対してはさらに落ちてしまう。

 結局、もっている本は、すべて本棚にきちんと背を見せて並べておかねば意味がないことになる。ところが、実はこれが一番大変なのだ。私の伯父は七十歳の時に三階建ての大きな書庫を建てて、すべての本を並べて手元に置いた。一生の夢だったらしい。しかし、七十にしてようやく達成できたというのではかなわない。私など、一生建てられないかもしれない。

 もちろん、親父の時代と違って、我々の世代はコンピュータという情報検索システムをもっている。昔は本棚の中で巨大なスペースをしめていた、百科事典、年鑑や名簿のたぐいは並べておかずにすむようになった。CD−ROM一枚で百科事典全巻の内容がはいってしまう。百科事典は小説のように全ページ目を通す(人もいるらしいが)のではなく、必要なときに必要な項目を調べるだけである。年鑑や名簿も必要なのは印刷されたうちのごく一部分だ。こういうものは、コンピュータのデータ処理に向く。さらにおそるべきはインターネットである。なにせ、世界中のあらゆるコンピュータから情報をひっぱってくるのだから強い。世界中を検索して回れば、たいがいなんらかの回答がえられる。検索のためのツールやプログラムも充実していて、ひところのように「探したけれどもない」というような目に遭うことも少なくなった。おそらく、百科事典や年鑑のようなただひたすらにデータを羅列する本というのは早晩なくなるだろう。

 しかしこのコンピュータ方式ではとても、人間の記憶力、ランダムアクセス能力にとってかわるのは無理だろう。創造性という点においてはなおのことその差が著しい。確かに、コンピュータを使えば正確に確実に情報を検索することができるが、その情報は個別な断片でしかない。本棚を眺めて「あの本のどこかに載っていた」と思い出すときのようなひろがりがない。コンピュータ方式では、読んだことのない情報も含めてすべて平板に寄せ集めてあるだけだが、一度読んだ本を思い出す方式では、前後に読んだことも芋蔓式に思い出してくるからだろう。結局は人間の創造行為があるかぎりは本棚から逃れられないらしい。・・・・・

 次の本箱はどこにおこうか。


(なかにし ひでひこ・中西印刷株式会社専務 
著書『活字が消えた日』『印刷はどこへ行くのか』)

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