よもやま話 
2011.9.14 どじょう内閣の愚直な政策
野田首相は、新内閣発足に当たってどじょうのように泥まみれになって愚直にがんばると表明した。この内閣の支持率は60%である。これから下がる一方だと思うが、それにしても意外と支持率が高いようににも思える。朝日新聞の川柳にこんなのがあった。「何とまあ愚かな民よまた夢見」。 国民はまたしても何かしてくれるんじゃないかという期待を持ってみているが、この内閣ははっきりいって自民党政権とまるで変わらない。13日の首相所信表明演説の全文を読んだが、はっきりと増税・日米同盟深化をうたっている。国民の目線ではなく、財界・アメリカ目線なのである。TPP(環太平洋経済連携協定)に参加すれば食料自給率は13%になるという予測がある。輸出大企業の利益のために、農業を切り捨てるこの恐ろしい協定を推進する内閣、原発の再稼働を明確にする内閣。これは「泥舟」内閣として泥沼に沈むしかないのではないか。それにしても物事の本質に気づかない国民のあきれた愚かさよ。いったいいつになったら目覚めるのだろう。
2011.7.5
奈良から陸前高田市へ
―東日本大震災地支援ボランティアバスに参加して―
7月初旬、奈良県が主催する災害ボランティアバスに参加した。あの東日本大震災後、ぜひ現地で支援活動をしたいという強い思いがあったが、その機会がなかなか得られない状況が続いた。そこで奈良県のホームページにアクセスすると、災害ボランティアバスの募集がされていることを知り、応募したところ参加できることになった。
奈良県は5月から実施しており、自分が参加することになったのは6月から7月にかけて実施される第2クール(4回実施)のうちの第3回目であった。4回のうち、2回は3泊4日、2回は4泊5日となっている。毎回の参加者は20名で、これにスタッフ3名(県のスタッフ1名、災害支援ネット1名、社会福祉協議会1名)という編成であった。県の担当部課は奈良県くらし創造部協働推進課で、6月12日に橿原市にある奈良県社会福祉総合センターで事前説明会があった。
7月1日18時30分、近鉄高の原駅前を出発し、北陸道→磐越道→東北道と高速道路を通り、2日の朝7時30分に一関の宿泊所チサンイン岩手に到着。12時間を越えるバスの旅であった。このホテルで、レンタカーに県が準備した資材を積み込み、4台に分乗して陸前高田市に向かう。1時間半ほどで陸前高田市のボランティアセンターに到着。途中、川沿いの人工林が赤茶けているのが目につく。おそらく津波による塩害かと思われる。
受付を済ませ、4班に分かれて支援作業の現場に向かう。まず目についたのは三陸鉄道の鉄橋が落ちている状況である。さらに進むと無数の瓦礫の山と、コンクリートの建物以外建物の類が皆無という情景であった。大空襲直後の光景を思わせるような徹底的に破壊しつくされた惨状を目にして、津波の超巨大な破壊力の凄まじさにただただ圧倒される思いであった。映像では見てきたとはいえ、猛烈なスピードで押し寄せる10メートルを越える津波が襲った時の状況は想像の域をはるかに超えている。購入した『週刊現代』7月16・23日号によれば、「沿岸市町村の災害廃棄物処理の進捗状況」で仮置き場への搬入状況は、岩手県が41%(環境省発表6月21日)とあったが、震災から約4ケ月たっても瓦礫の撤去は陸前高田市に関する限り、ほとんど進んでいないのではないかと思ってしまう。この瓦礫の処理場所の確保さえ難しいのではないのだろうか。瓦礫の処理が終わらない限り復旧など絵空事にすぎないと思ってしまう。
支援要請のあった家はかつての陸前高田市の市街地の中心にあったようだ。コンクリート建ての建物は半壊状態といえるかもしれない。隣には醤油屋の建物が建っている。老舗の店らしい。車から降りるとすぐに臭いが鼻につく。産廃の臭いだ。かつて産廃の山の見学に行ったことがあるが、あの強烈な臭いに比べればましとはいえマスクなしではいられない。まわりを見渡すと、瓦礫の山の間に大漁旗が立てられていた。黄色い布が付けられている。復興への願いを込めて作られたものだろう。遠くに1本の松が見える。あれが数万本の松が生えていた有名な松原で1本だけ津波に耐えて残った松に違いない。
作業は数十メートルに及ぶ側溝の瓦礫や泥を掻き出すもので、班ごとに分かれて作業。泥の中からたくさんの醤油瓶が出てきた。割れた瓶から出てきた醤油の臭いに誘われたのか蠅が寄ってくる。いろんな瓦礫が埋まっているので作業も簡単ではない。でもみんな一生懸命がんばっている。さすがボランティアとして応募してきた面々である。やる気は十分なのだ。それでもこの側溝の泥掻き出し作業だけでこの日の作業は終わる。
休憩している時、家主の紺野さんが説明してくれた。彼は震災前の写真を持ってきて、家の近くに江戸時代の大肝煎(地域全体を統括する村役人)の築二百年の家がある、壊れたが木材は集めてあるので是非復元したいという。多くの人は高台に移りたいと思っているが、自分はなんとしても今の街を復興したい、そのシンボルとして古民家を再建したいという思いのようであった。紺野さんの強い思いが直に伝わってきた。ここにもこうしてがんばろうとしている人がいるということに希望のかすかな光が見えた思いがした。自分も出来ることがあればぜひ支援していきたいと思う。
作業が終わり引き揚げようとした時、あの松をぜひ見たいと思い、県の担当者に希望を告げたとき、驚くべき言葉が返ってきた。「観光で来ているのではないのでダメです。」だれが観光気分で来ているか、私は強く抗議したが、あの松は陸前高田市の復興のシンボルになっている木であり、2日目の休憩所にもポスターとして貼られていた。おそらく数分もすれば行けたはずの所を、予定のスケジュールに入っていないということで要望を聞き入れなかった融通の利かない行政マンの対応にはあきれるしかない。後で聞くと他の参加者も見たいと思っていたようだ。もっとも、帰りのバスの中で彼は私に謝っていたがーーー。奈良県は関西広域連合などからたたかれているので、しぶしぶボランティアバスも出すようになったのではないかと変に勘ぐってしまうような一齣であった。すでに松は枯れかかっているようだが、ついに見ることなく奈良に帰ることになったのは何とも心残りであった。
2日目は気仙川の左岸の畑の瓦礫の撤去と草刈り作業であった。ボランティアセンターにはたくさんのボランティアが集まっていた。平日で300人ぐらい、土日にはその倍以上が参加するとのことだった。北海道の車もあったし、沖縄からのも見たと参加メンバーが教えてくれた。全国から支援に来ているのだ。現地に着くと、すでに新潟県の燕市からきたボランティアが作業をしていた。瓦や鉄くず、それにコンクリートの断片などびっくりするくらいたくさんの瓦礫が出ている。小さな畑でこれほどあるのだから、瓦礫の撤去は相当大変なものだということを実感した。
この作業中、草刈りをしたが、長年やってきたので油断していたのか、ほぼやり終えた段階で左手の人差し指を切ってしまった。手袋を取ると1センチほど切れている。近くでボランティア作業していた看護師の女性が治療に来てくれた。彼女はアフリカで2年間海外青年協力隊員として派遣されていたとのことで、今回は東京都のボランティアできていた。スタッフに応急手当をしてもらったが、大事を取って日赤の仮診療所で治療を受けることになった。高台のある高田第一中学で北海道から来ていた医師の治療を受ける。
現場に戻ると、すでに作業は終了していた。依頼主の水に漬かった畳を仮置き場に運びたいという要望を受けて、参加メンバーが軽四に積み込み運ぶ作業を行う。こうして早めに作業を終了し、ボランティアセンターに戻る。途中の車中から家族連れで土を掘り返している人たちを目にする。家を流された家族が思い出探しをしているのだろうと思う。一関のホテルに戻って、資材を撤収しレンタカーを返して、一路奈良に向かう。奈良には7月4日朝の7時過ぎに戻り解散。
今回のボランティアは現地2日間だけの短いもので、やれたことはほんのわずかなことでしかない。また作業に限定されていたのでいろんなことを見聞できたわけでもない。それでも、いくつか感じたことがある。
まず、あの無数の瓦礫の山を見て、この瓦礫の撤去なしには何も進まないだろうということを強く実感した。復興プラン云々の前に全力を尽くすべき最大の課題のように思える。内閣退陣だ、誰の責任だなどと言って場合ではないだろうと、特に政治家には言いたい。
次に、古民家の復元に夢を託している紺野さんの姿を見て、凛として生きる東北人のたくましさを感じた。幾度の津波にも耐えてその都度復興してきた東北人の不屈さに学べたと思う。
ことボランティアに関する限り、その必要性は今後ますます高まるのではないかと思う。一市民として出来ることは限られるが、逆にきめ細かいちょっとしたことでも支援になるのではないかと思う。それこそがボランティアの持ち味ではないかとも思う。
今回、奈良県はこのボランティアバスの関係予算で1500万円組んでいるとのことだ。バスの手配、資材の準備、レンタカーの手配などに使われ、ボランティアはホテル代や食費が自前となっている。それでも奈良県のおかげで交通費を負担せずに現地に行けることは助かる。今後長期の支援が必要とされると思うので、奈良県のボランティアバスの継続と拡充を望みたい。
写真説明
一段目左 同じ班のメンバーと(陸前高田市災害ボランティアセンター前)
一段目右 1日目の側溝瓦礫撤去作業
二段目左 被災者の紺野さんの説明を聞く
二段目右 大漁旗と小学校跡
三段目左 災害復旧車両
三段目右 2日目、ボランティアセンターに集まったたくさんのボランティア
四段目左 燕市のメンバーと畑での作業
四段目右 復興のシンボルの松(ポスター)
五段目左 いたる所瓦礫がーーー
五段目右 レンタカーに貼られたステッカー
六段目 瓦礫の山





2011.5.18 野糞考
最近、愛犬ユリとの朝の散歩コースを変えて以前の道にしている。退職して自転車通勤をしなくなったので、運動不足を少しでも解消するためでもある。このコースは竹林と雑木林の中を歩く。初日、さっそく福があった。竹の子が生えているのを見つけたのである。もうシーズンは終わっているかと思ったらけっこう生えているではないか。ここは県有地で病院建設が予定されているという話があるが、竹の子は取り放題。以前はよく採りにきているのを見かけた。さっそく1本採って食べた。1日置いて、スコップを持って堀りに行き、鍋いっぱい炊いた。
さて、散歩の途中で便を催した。この野糞は開放感があって快適だ。今日で2回目になる。これまで、登山中に野糞したことはよくある。最高に気持よかったのはもう20年近く前にスイスアルプスにトレッキングに行った時、あるピークに登っていて急にウンチがしたくなった。でものはれもの所嫌わずで、その場で野糞とあいなったが、前を見るとマッターホルンが鎮座している。世界を我が物としたような快感は今でも忘れられない。アルプスさん、ちょっと汚しちゃってゴメン。最近は登山でも、有名な所は持ち帰りが呼びかけられているが、まだこれを利用したことはない。やはり、なんとなく抵抗感がある。それに野糞の爽快感には勝てない。
2011.4.15 責任ある者の責任の取り方
東日本の巨大地震による津波で原発の非常用電源が作動せず重大な事態が起こったことに関して、これまで原発の安全神話を説いてきた者の責任は重大である。特に、影響のある研究者はその責任は極めて大きい。
ところが、現・原子力安全委員長を務める斑目春樹東大教授は、中部電力浜岡原発の運転差し止め訴訟で、中部電力の証人として出廷して次のように説明している。(非常用電源が作動しない可能性を)「想定しない」「可能性のあるものを全部組み合わせていったら、モノなんて造れない。どこかでは割り切るんです」。この発言の時点で、すでに何人かの良心的な研究者はこの事態を予測し、警鐘を鳴らしていた。にもかかわらず、安全神話に乗っかって原発推進の立場に立ってきた人物が原子力安全委員長を務めている。このような人物の発言は信用できるか。「想定外」などという言い分があるとすれば、それは彼には通用しない。被災者と全国民に謝罪して、原子力安全委員長を辞任すべきだろう。
東電の最高責任者、原発を推進した政府の最高責任者も同罪だ。すこしでも良心のあるものならば、それにふさわしい行動をとるものだ。
2011.3.31 日本の売国三政党
30日の衆議院外務委員会で、今後5年間、毎年約2000億円を在日米軍に支払う「思いやり予算」特別協定を民主、自民、公明三党の賛成多数で可決した。5年間で1兆円!!
この「思いやり予算」なるものは日本側が負担する義務のないもので、日本国民の税金が使われる。今、未曾有の大震災で被災者への支援や復興のために莫大な金が必要な時に、義務もない「思いやり予算」が米軍のために使われる。こんな馬鹿な話があるか。これに賛成した政党は今後「売国三政党」と呼ぶことにしたい。三党の解党を切に願う。
2011.3.21 東北・関東大震災被災者救援に「思いやり予算」を使え!
未曾有の大震災により、20数万人の人々が避難所に避難している。一刻も早い救援が求められる。今後長期化すると思われる生活支援・再建のために膨大な資金が求められていることは明らかである。全国から義援金が集められているが、国家予算が大きな役割を果たすことはいうまでもない。そこで、今充当できる予算として「思いやり予算」を使うべきではないかと思う。この予算は、在日米軍を支援するためのものだが、日米地位協定の枠を超える法的根拠のないものである。これに、2010年度はなんと1881億円を日本が負担した。これほどの金が被災者の緊急救援に使われればかなりのことができるはずである。ちなみに、これまでの総額で3兆円を日本が負担しているというから驚く。
日本の税金はなによりも日本のために使われるべきである。少なくともここ1,2年の「思いやり予算」は被災者救援に使うべきである。日本政府は、アメリカに対し「思いやり予算返上」を求めるべきであろう。もし、アメリカが本当に「同盟国日本」のことを思っているのならば、せめてそれぐらいのことをして当然だろう。
2011.3.19 日本の大馬鹿2人
東北・関東大震災により、阪神大震災を上回る死者と被災者が出ている。さらに、福島原発が極めて危険な状態にあり、必死の対策が取られている。こんな時に、唖然とするような発言が日本を代表するような人物から飛び出した。
まず、あの震災は天罰だという発言。これは、東京都の石原知事が述べたものだ。日本人が欲の権化と化してきたことへの警鐘だというわけである。しかし、被災者に向かってこの言葉をいえるだろうか。もし、首都東京で大地震が起こり、知事も被災したとして、同じ言葉を発することができたかどうか。彼は作家である。このような想像力を完全に欠落した無責任発言は絶対に許されない。彼に300万票も投票した東京都民もいいかげんこの無責任知事を見放したらどうか。今度の知事選に注目したい。
そして、もう一人の発言。「日本の原発は地震に勝った。立派だ」といった趣旨の発言をした日本経団連の米倉会長。連日福島原発の危機報道がなされているなかで、一体何を根拠にこんな楽観的な発言が出来るのか、とても信じられない。おそらく、「日本の原発は安全だ」という「安全神話」にとらわれていると思われるが、経済効率第一にしか考えない財界人の本音がでているのではないか。
このような人物が日本を代表していると思うと何とも情けない。この大馬鹿どものために、日本は三等国であることを内外に知らしめてしまった。かろうじて日本のプライドを示しているのは、極限の状況でも必死に堪えている被災者と、救援に手を差し伸べようとしている市民である。
2011.3.5 続・断捨離
研究室の整理を始めて2週間がたった。3月4日に古書店の人に来てもらって数百冊の本を買い取ってもらった。即金で5万円。高いのか安いのかは判断できないが、なかには買ったままダンボールから開けてなかったのもある。これでかなりすっきりした。
問題は書類の山だった。全て廃棄してしまえば簡単だったかもしれないが、いろいろ思い入れのある書類がでてくると捨てきれない。選り分けるのに相当時間がかかる。こんなこともあったな~としみじみ目を通すこともしばしば。かくて大方の書類の整理は目途がついた。あとは自宅に宅急便で送り、最後のかたづけをして終了となるが、来週には終われそうだ。
2011.2.23 ああ、断捨離?!
なんと2ケ月ぶりに書くことになる。この2ケ月けっこう忙しかったということになるかな。3月退職を控え、最後の論文の仕上げや残務整理が待っていた。先日から研究室の整理を始めたが、よくぞこれだけ本や書類が詰まっていたかと思うほど、かたずけてもかたずけても整理された感じがしない。図書館に返却する本だけでダンボール約50箱、それに書類の山。最近、断捨離という言葉がはやっているが、本についてはいろんな思いがあり、個人で買ったのは簡単に処分することはむずかしい。それでも、かなりの本がある。これを自宅に送っても、すでに書斎は満杯状態で、置く場所がない。
そこで、どうしても置いておきたい本を除けて処分することにして、古書店に電話した。これで数百冊の本は処理できるはずだ。これが終わると、自宅の書斎の本の整理が待っている。
2010.12.19 人生を終わりにしたい
また、事件が起きた。20代の若者がバス停で10数人にナイフで切りつけ怪我をさせた。彼は、「人生を終わりにしたかった」といってるようだ。彼の立場で心境を語ってみたら、こうなるかと思う。
俺は頭も良かったから有名大学を目指したが、受験に失敗した。それから、人生の転落が始まった。非正規でいろんな仕事をしたけど、満足のいくもの一つもなかった。10ほど職場を転々としたかな。もう嫌になって仕事もやめちゃった。こんな人生おもしろくない。何かいきていることがむなしい。もうこのへんで人生を終わりにしたい。このまま静かにあの世にいくのもおもしろくない。一つなんかやってから終わりにしよう。
20代で人生を終わりにしたいなどとは、この日本という国は何と夢のない社会なんだろうとつくづく思う。非正規労働者が労働者の3分の1を占めるこの日本は明らかに異常だ。将来に明るい展望を見いだせない若者が絶望の上に起こす事件は今後も増え続けていくことだろう。
これは政治の貧困という他ないが、それにしても若者はもっと怒りの行動を示していいのではないか。国会周辺を数十万の若者が「雇用確保」を叫んでデモ行進する、なんてことは夢物語にすぎないのだろう、きっと。日本は無気力社会の泥沼に一歩一歩沈んでいくしかないのか。そうならないために、何が必要か、自分に何ができるか、しばし考える。
2010.12.13 明智越から水尾の里
12月12日、山の友達であるK氏が主宰する「ぼちぼち」という山の会の例会に参加した。会員外参加の小生を入れて4人という参加者。そもそもこの会の会員はほんの数人とか。JR亀岡駅に集合し、タクシーで登山入り口まで行く。この日のコースは明智越である。かの明智光秀が主君の織田信長を撃つために、1万5千人の兵を3隊に分けて京都をめざした。その内の一つがこの道だと登山入り口の説明版にあった。もう一つの唐櫃越は数年前に所属する山の会で行ったことがある。
山道に入るとリーダーのK氏が早い速度で歩いていく。登山というものは始めはゆっくり歩いて調子を整えるのが定石だが、その内アップアップするだろうと見ていたところ、しばらくすると予想通りとなった。道は落ち葉に石だらけで歩きにくい。これに、運動靴で歩いたK氏はさぞ歩きにくかっただろう。しばらく緩やかな登りが続く。
やがて、峰の堂という所を通過。ここには清和天皇が祀られていると説明版にあった。この天皇は清和源氏の祖ということになる。源氏といえば源頼朝が有名だが、甲斐の武田氏や新田氏も源氏だ。賜姓皇族として各地に派遣され、貴種として武士団の長に祀りあげられた内の一つの流れが源頼朝の系統である。登りが終わりという所で休憩。K氏は滝のような汗をぬぐっている。この寒い時にそんなに汗がでるのは不思議という他ない。小生はといえば手ぬぐいをだすこともなかった。
ここから先は実に平坦な道になっている。K氏は最近読んだ明智光秀の小説の話をする。後のお二人はどんな話をしながら歩いていたのだろう。下りになって1時間ばかり歩いただろうか、急に開けた所から里が見える。水尾の里だ。30軒の集落が寄り添うように建っている。なんとも牧歌的な風景ではある。割合近くに見えるが、ここから意外と集落まで時間がかかるとのこと。道は坂道に変わった。すると、かのK氏は急に駆け下りだした。ぴょんぴょんと何か変。こっちは急な下りは大の得意。ぴったりついて降りると、先に行ってくれというので、どんどん降りる。やがて車道にでる。
ここからしばらく歩くと水尾の里に着いた。予約してあるという所に行くと、風呂にすぐ入れるというので、柚子風呂に入る。かなり熱かったが、柚子のほのかな香りを楽しみながらゆったりと浸かる。風呂から出ると食事。かしわの水炊きが出る。この鶏肉は骨付きで少々たべるのにやっかいだが、なかなか肉がしまっていておいしい。食事をしながら楽しい語らいといいたいところだが、K氏はS氏と結婚式の出し物のことであーでもない、こーでもないとやりあっている。こっちは適当に茶々を入れて食べるのに専念する。
十分食べ、飲みした後、マイクロで保津峡駅に送ってもらう。川を見ると、なんとカヌーが数艇。この寒い冬に物好きな連中がいるものだと感心した。冬場に山に登る我々も、一般の人から見たらやはり物好き人間ということになるのだろう。
たいしてきつくもないハイキングの後、ゆったりと柚子風呂にはいり、食事を満喫したこの日のハイキングは一年のしめくくりにふさわしいものであった。
2010.12.11 天理行
昨日、文献を調べるために天理図書館を訪れた。天理駅を降り延々と続く商店街を抜けて目的地に到着。道すがら、興味のそそられる店に目星をつけておいた。
文献のコピーをもらって帰途につく。近くの天理参考館の展示を覗こうとおもったが、見ようとおもった特設展示は年明けということで、パスした。
商店街では、まず酒粕を買った。最近見たテレビで、その効果を取り上げていたのを思い出し、買ってみようと思ったのである。さっそく、はちみつを入れた甘酒を造ってみた。次に、干し柿が目に入った。小さい頃は吊るし柿を食べるのを楽しみにしていた。でも、最近は田舎に行っても収穫されない柿の木を見ることが多い。市販の干し柿で市田柿はすごく高い。一袋550円で、粉が吹いているのを買った。これもけっこうおいしかった。
さらに行くと古書店が目についた。ちょっと文庫本に目をやると、今東光の小説があった。価格は20円。さらに数冊ピックアップ。結局、8冊ほど買うことになったが、合計1000円ほど。何か得した気になった。そのせいか、次に買う気がしてなかったものを買うことになった。
商店街を抜けて右を見ると年末ジャンボ宝くじを売っているのが目にはいった。最近はまったく買わないが、何となく久しぶりに買ってみることにした。ちなみに、これまで当たった最高額は1万円である。まずあたることはないだろうが、もしかして大当たりしたら、支援しているネパールのめだかスクールにかなりの支援金を送ることができる。が、これはしょせん「捕らぬたぬきの皮算用」ということだろう。
駅の構内での自動販売機でパンを売っていた。どんなメカニズムになっているのか興味を以て100円のメロンパンを買ってみた。番号を押すと機械が動いて取り出し口に品物が落ちてくるという仕組み。缶類の自動販売機は缶が落ちてくる状態は見えないが、この自動販売機は移動していく状態が見えておもしろい。まあ、いろいろ考えるものよと感心した。
あまり買い物の趣味はないが、ぶらぶら歩いていると思わぬものに出合うことがある。何げなしに歩いてみるのもいいものだ。
2010.12.4 映画「ふたたび」を観て
久しぶりに感動的な映画を観た。ハンセン氏病患者だった主人公が、「人生でやり残したことがある」と、50年の時を経て、友との約束を果たすため、最後の旅に出る。そして、かつてのジャズ仲間と再会し、約束のライブを演奏する。
この映画で最も感動したのは、主人公が一度も抱いたことがない息子をしっかり抱きしめるシーンだ。息子は、母親とも隔離され一人ぼっちで育った。息子にも、抱かれるというより、抱き合うことに万感の思いがあったことだろう。約束のライブには、あの渡辺貞夫も生で演奏しているからたまらない。バンド仲間も一人ひとり渋い演技を魅せていた。主人公貴島健三郎を演じた財津一郎の自然体の演技が光っていた。
ハンセン氏病といえば、松本清張原作の「砂の器」を思い出す。あの名作の時代から、1953年には「らい予防法」により、全ての患者が国立療養所に強制隔離された。この法律は1996年に廃止されたが、世間の偏見や差別は助長された。今も全国のハンセン病療養所には2500名余の入所者がいるという。
2010.11.19 犬小屋の上に登るユリ
雑感は書き始めると何か習慣のようになる。今回は我が家の愛犬ユリの話題。
もう半年以上も前になるだろうか、ユリが何かごそごそしているかと思ったら、なんと犬小屋の上に上っている。何を思って上ったのかはわからないが、それからずっと習慣のようになった。
まず、朝散歩に行ってから食事。それからしばらくして小屋の上に上る。家の外の景色を見ているようでもある。そして、部屋のなかをじっとみている。家族の様子を窺っているようだ。夜にも上ることがある。時々は主人から何か食べ物がもらえる。それにしても、安定感の悪い小屋の上でよく体を支えているものだ。この事も含めて犬は家族の事をよく観察しているなと思う。
ちなみに、最近は毎日ではないが、夜テレビを観ている間、膝の上に乗せてやっている。
2010.11.17 山小屋に想う
久しぶりに故郷の里山に建てている山小屋に行った。イベントに使うコップを取りにいったのである。このコップは、1996年に小屋を建てた翌年から始めた「柳生チビッコ自然塾」のために揃えたものである。
山小屋は、1990年代の初頭のバブル期にゴルフ場建設ラッシュの中、故郷の柳生で計画されたのに対し、あくまでも建設反対の意志を示そうと父親が所有する山林に建てたものだ。結局、建設はされてしまったが、せっかくの山小屋を有効に使いたいと思い自然塾を始めた。これも10回続けて終わった。今は、竹の子の時期と6月の笹ユリの咲く季節に行くぐらいになった。竹の子は、ゴルフ場のエリア内の竹林で採れるが、ゴルフコースを横切って採りに行く。笹ゆりは、ここ2年ほどは小屋の周りでは全く咲かなくなった。
この山林でゴルフ場計画がもちあがった1990年代の初頭はまだ松枯れはなく、松の木にも立木トラストをしたものだが、今回行ったら6月以降倒れて山道を塞いでいるのもあり、全て枯れてしまった。山小屋の屋根はシートで雨漏りを防いでその上に杉皮で葺いたものだったが、杉皮がはがれ、シートも半分めくれたようになっている。
冬に自然保護をやっているメンバーの宴会をやっていたことがあったが、ある時小屋の中の囲炉裏を使おうと覆いの板をはずしたら枯葉がいっぱいの状態で、「なんだ、これは」と思っていると、中から子ネズミが飛び出してきて驚いた。どうも冬眠していたようだ。冬眠といえば、置いていたふとんを広げてみると、汚れている。どうも蛇が冬眠していたようだ。このように、小屋は所有者のいない間、野生生物のかっこうの寝床になっていたのである。
山小屋を建てて15年ほどがたった。振り返ってみると、いろんな事があったことが想いおこされる。おそらくこのまま山小屋も朽ちていくだろうが、思い出は消えることはない。あの岩の上から見た夕日、そして子供たちの歓声、梅雨時に咲く笹ユリ-----。山小屋を訪れた人たちにとってもきっと何がしかの「一期一会」となったに違いない。そう思うと、山小屋が輝いた時期はほんのわずかだったかもしれないが、建てたことは決して無駄ではなかったかと思う。
2010.11.16 あ~眼鏡
最近、眼鏡を使うことの煩わしさを感じることが多い。普段は眼鏡をかけているが、パソコンを使う時などは別に近くを見る専用の眼鏡を使っている。以前は遠近両用眼鏡でパソコンを使っていたが、これもフレームが壊れてしまって、今使っているのに替えた。遠近両用眼鏡だが、便利と思って買ったが、遠くがかすむことがあって本来の遠近両用で使えるというわけにはいかなかった。近くを見る眼鏡はしょっちゅう手元に置いているわけではないので、必要な時にさがしにいくというわずらわしさがある。外で使う時はポケットに入れておくとふくらんでしまう。まあ、歳相応に目も衰えてきているから仕方がないとはいうものの、不便この上ない。別に字が読めなくなったわけではないので、がまんするしかないか。
2010.10.30 自然農が地球を救う
先週、奈良県の桜井市で自然農のシンポジウムがあった。桜井市には、自然農の実践者として全国的にその名を知られている川口由一さんが住んでいる。この記念すべき地で、川口さんが農業を行っている田畑がなんとあの邪馬台国の宮殿跡だったかもしれないとの講演は驚きだったが、講演で一番印象に残ったのは、月探査機が月面に衝突する直前に撮られた地球の映像だ。水の惑星の姿はなんとも神々しい。宇宙の果てまで百三十七億光年というこの大宇宙の中で、地球のように生命体がいる星はもしかしたら地球だけかもしれない。
そんな奇跡の星地球がいま危機を迎えている。滅びようとしているといっても過言ではないかもしれない。まさかそこまでいっているとは思っていない人が大多数だろう。しかし、地球温暖化、種の絶滅などいくつかの指標を冷静に見る限り、地球の危機が迫っていることは理解できるのではないかと思う。
この危機をもたらした最大のものは石油文明だろう。たかだか100年ほどの石油文明によって四十数億年の地球が滅亡するなどということは容易には信じがたいことだ。その石油も可採年数はあと50年もないのである。石油がなくなったら、代替エネルギーがある?
いずれにしても石油文明は終わる。その後、人間はどのようにして生きていくか。まず決定的に大事なことは命をささえるのに不可欠な食糧だ。農薬や化学肥料や大型の機械による農業は先が見えているし、なにより土を殺してしまう。不耕起、すなわち耕さない自然農こそ未来を拓く、このことに確信が持てたシンポジウムだった。これに1000人もの人が集まったということは、まだまだ希望が持てるということかもしれない。例え間に合わないとしても、この道しかない。現代文明の大転換はここから始まる。そう信じたい。
2010.9.25 ナラ枯れ
今朝の朝刊を読んで、ついに来たと思った。奈良市の若草山周辺でナラの木が枯れてきているという記事だ。数年前、京都でナラ枯れがひどくなっているという話は耳にした。奈良が被害を受けるのも時間の問題だとは思っていたが、案の定という感じだ。
このナラ枯れの直接の原因ははっきりしている。カシノナガキクイムシという虫が木に入り込んでコナラやクヌギの木を枯らしてしまうのだ。昨年の事、自分が通っている長野県飯山市の古民家に行く途中、一面のナラ枯れに唖然とした。紅葉の時期でもないのに、茶色に枯れた姿は異常としかいいようがない。
何故ナラ枯れが広がったのか? それは、かつて薪炭林として、炭や薪として利用されてきたが、1960年代からの「エネルギー革命」でほとんど利用されることがなくなったことと関係があると考えられる。村の生活と無縁となった里山の無残な姿がそこにある。
枯れといえば、数十年前から松枯れが猛威を振るい、今や本州の北の端まで広がっているという。この松枯れについても松くい虫が原因とされ、農薬散布されたが被害が食い止められることはなかった。酸性雨が原因という有力な説もあるが、いずれにしても、この松枯れといいナラ枯れといい、日本の里山に異変が起きてきているのは間違いない。
人工林の荒廃も含め国土の約7割を占める森林大国日本は、今「森林亡国」の道を急速に歩んでいるような気がしてならない。だが、大多数の都会に住む住民はこの現実にほとんど無関心だ。関心を持とうが持たまいが、水そして土砂災害、都市住民は里山荒廃の膨大なつけを払わされる日は近い。
圧倒的な自然の猛威を前にして、この日本列島に住む住民は、いかに自然に守られてきたかを思いしらされることになる。だが、その時はすでに遅い。
世界一の木材輸入大国日本よ! 「我が亡き後に、洪水よ来たれ!」 かくして日本は沈没する。
2010.8.29 大量消費大国の行方
先日新聞を読んでいて、ある記事が目に留まった。それは世界自然保護基金(WWF)ジャパンの調査報告書の紹介記事である。
それによると、普段の生活に必要な水や木材といった資源の消費量や二酸化炭素の排出量を計算した結果、日本が他国に頼らず
に供給可能な資源量と比較した結果、日本は自国でまかなえる分の7倍近くを消費、排出しているという。さらに、日本人一人当たり
の環境負荷量は、世界中が日本人と同じ消費生活を送った場合、地球が2、3個必要になる量だと結論付けている。この要因として、
石油燃焼などによる二酸化炭素排出のほか、水産物や木材、穀物の高い海外依存度などが挙げられている。
今、ふつうの日本人は自分のしている生活が特別ぜいたくなものとは思っていない。車に乗るのは当たり前だし、食糧自給率が
カロリーベースで40%という極端に低い状態であっても強い危機感を抱いているわけではない。今の生活に何となく不安は感じて
も危機的状態が迫っているなどとは考えていない。
だが、考えてもみよう。石油がほとんど採れない日本で石油にどっぷり浸かった生活がいつまでも続くはずがない。地球温暖化に
伴う異常気象の影響もあって、世界の穀物地帯で大減産が伝えられている。日本が安定して海外から食糧を輸入し続けられる保証
は全くないといっていいだろう。にもかかわらず、食糧自給率の向上の見通しはたっていない。水を蓄える機能を持つ水田は大幅に
減少し続けている。10年後の日本農業はまったく暗い。高齢者によって担われている現状は農業の崩壊を予感させてあまりある。
国レベルでやられるべきことはいくらでもある。もし、私が首相にでもなれば、米や農産物の価格保証をして農業で十分生活してい
けるようにする。農業が困難な中山間地には、そこに住んでいるというだけで1戸1000万円ほどを支給する。財源は、無駄な公共
事業をやめ、自衛隊を解散して、災害救助隊に変える。安保条約を廃棄して、在日米軍関係の予算をばっさり削る。大企業の優遇
税制をやめ、税率を元に戻す。こんな政策は、民主党にも自民党にもその亜流政党にも望むべくもない。大企業・アメリカべったり
の政党にはおよそそのようなことを期待できるものではない。
個人レベルでいえば、車を捨てて公共交通機関を利用できないか、地産地消で安心できる地元の食糧を地元の店で買えないか、
無駄買いを少しでもやめられないか。「大量消費大国」から「適量消費小国」へ、日本は自国のサイズにあった「持続可能な国」への
急速な転換が求められていると思うのだが、とてもそんな雰囲気はない。人間は、痛い目に遭わなければ真剣に生き方を考えること
はしないのだろう、恐らく。日本はあまりにも便利な社会になりすぎた、あまりにも。
2010.8.24 映画「トロッコ」を観てー我が息子を思うー
先日、「トロッコ」という映画を観た。芥川龍之介の短編小説が下敷きになってはいるが、時代も場所もまったく
異なる作品である。現代という時代設定で、台湾が舞台となっている。上映の前に監督のスピーチがあったが、
トロッコが再現できる場所は台湾にしかなかったようで、シナリオも台湾が舞台になるように脚色されている。
原作の山場の部分はうまく生かされているとみた。
さて、この映画で小さい兄弟が、トロッコを扱う青年といっしょにトロッコを押していく場面がある。トロッコに乗
って喜んでいた兄弟も、山中深く進んでいくと怖くなり、弟が帰ろうと泣きだし、兄は弟を励ましながら家までた
どり着く。心配していた母は、兄に「あんたがいっしょなのに何をしてたのよ」と厳しく叱りつける。兄は、「ぼくは
いらない子なんだよね」と涙ぐむ。ここで母は、「あなたは一番大切な子なのよ」といってこの子をしっかり抱き
留める。
このシーンを見ていて、自分の長男Rの事を思った。Rは低体重児として生まれたが、元気に育った。かわい
くて自慢の息子だった。ただ、たくましく自立してほしいという期待が強かったせいだろうか、何となく弱々しく見
えた。 かなり厳しく接したせいだろうか、あまり自分にはなつかなかったが、それでもハイキングなど小さい頃
は黙ってついてきた。
小学生のある時、Rが家の金を持ち出して友達におかしをやっていたのを知り、厳しく叱り、屋根裏にしばらく
閉じ込めた。自分が小さい頃は、悪いことをすれば蔵に入れられた経験があり、それと同じことを息子にしたこ
とになる。時期的には同じ頃になると思うが、ファミコンを欲しがった。私はこれはよくないと思っていたので、絶
対だめだと買ってやらなかった。どうしても欲しいというので、それならと、名古屋までの距離を走ったら買って
やると約束し、息子は毎日走りだして、ついにファミコンを買うことになった。息子としては、何でファミコンを買っ
てもらうだけでこんなことをせんないかんのやろという気持だったことだろう。
共稼ぎで、食事を作ることもあったが、偏食気味でちゃんと食べないことがあって、「だまって食べろ!」と怒っ
たことがある。その時の恨むような眼を今も覚えている。学童保育にもあまり行きたがらなかった。寂しかった
のだろう。
次男が生まれると、おにいちゃんであることが求められた。次男のFは母親のべったりくっついていた。
Rが中1になった年、自分はアメリカで半年研修生活を送った。その時、家族で1週間ほどやってきたが、待ち
合わせの空港になかなかあらわれずかなり心配した。次男が調子が悪くなり便所に行っていたようだ。すぐ次
の飛行機に乗り、着いた場所で、Rは「お腹がすいた」といった。私はいらいらしていたので、「うるさい!」と怒っ
てしまった。息子はこの時、「何でアメリカまで来ておこられないかんの」とつぶやいた。半年後、帰国してから
Rの態度が明らかに変わった。もともとおとなしい子ではあったが、はっきり親と距離を取ろうとする態度があり
ありだった。
これ以来、今に至るまでRとじっくり話すこともない。Rが生まれた時に自立神経失調症になった事、環境保
護活動に全力を投入した事、共稼ぎの家庭で十分面倒見きれなかった事などあげれば言い訳になることはい
ろいろあるが、なんといっても子どもの目線で見てやれなかったことが一番の問題だったのだろう。Rがおかしく
なったと感じた時、妻と話したが、ある人からこう言われたという。「お父さんが大きすぎて、壁になってるんでしょ
う。」
高校生になったある時、Rが競争しようといいだした。走ってみると、彼に負けてしまった。息子は「壁」の一角
を崩したかったに違いない。もう立派な大人になった息子だが、今までの父をどう見ていたのだろうか、そして、
これから昔の事も含めて忌憚なく話できるような時がくるのだろうか。
2010.8.20 私の夏休み(愛犬ユリの独白録)
(1日目) 連日暑くてたまらんとぐったりしていたら、ある日のこと、主人が出かける様子。主
人が私を庭から連れ出した。見ると、何やら黒い箱がある。キャリングボックスとかいうらしい。
主人といっしょに歩いて最寄の駅までいく。改札口の近くで、この黒い箱に入れられようとした。
何や得体が知れないので、入れられるのに抵抗したが、無理やり入れ込まれた。駅のホーム
で電車を待つ間、出してほしくてごそごそしたら、主人は少しだけ開けてくれた。こんな状態で
京都駅まで電車に乗った。電車なるものに乗るのも初体験。
京都から乗り換えて新幹線で名古屋駅まで。この電車はえらい早い。名古屋駅からまた乗
り換えてこんどは特急で長野駅まで3時間ほどの旅。ここではだいぶ落ち着いてきたので、黒
い箱の中で居眠りしているうちに駅に着いた。ここで1時間ほど待たされてローカル線に乗る。
飯山線とかいうらしい。1時間ほど乗って戸狩野沢温泉駅に着く。やっとなが~い列車の旅が
終わった。
ここから今度は黒い箱に入れられてバイクに乗せられる。いったいどこにいくのやら。何に
しても連れられていくままになるしかない。しばらく乗っているうちに、ある所で止まった。スー
パーで買い物をするようだ。またバイクに乗せられて高原みたいなところに着く。ここが柄山と
いう集落のようだ。最寄の駅から電車に乗ってから8時間もたっている。
家を見ると何とも古い造りだ。主人は、この家は築200年はたってるんやぞと教えてくれた。
大丈夫なんやろかと少し不安にはなったが、ここで過ごすしかないようだ。見渡すと家は10軒
ほどしかなくて、あたり一面畑や田んぼ。主人の田舎には何度か連れていってもらったが、そ
こと何となくにている。家の中を観察して回ったが、けっこう広い。夜は、主人の寝ている傍で寝
た。こんなことは初めてだ。いつもは庭で寝ているもんで。
(2日目) 朝の散歩。家を出て大きなけやきの木がある所から右にまわり、草がいっぱい生
えている所や田んぼ・畑を見ながら家に戻る。主人は朝食後、家の前で草刈り。「7月に来たと
き刈ったのにもうこんなに伸びている」とぶつぶついいながら刈ってる。草刈機ではなくて鎌で
刈っている。奈良の自宅の前の宅地で家庭菜園をしていた主人は150坪ほどの土地の草を
30年間ほど刈り続けてきたので、草を刈ることは何ともないようだ。
じゃがいも掘りもしていた。男爵いもというらしいが、けっこう収穫があったらしい。ちなみに、
7月にインカのめざめという小さいいもを掘ったら、たいして収穫がなかったというてた。
夕方、主人は隣の土倉という集落に知り合いのO・Mさんを訪ねていった。バイクで出かけよ
うとするので、連れていってほしいとキャンキャン吠えると、主人はしゃあないなといいながら
連れていってくれた。バイクの横を走るのは久しぶりだ。家の玄関のところにつながれた。しば
らくするとSさんがやってきた。やがて夕立があり、かみなりがなって怖くなったので、家の奥に
入り込む。犬がいなくなったというので、みんな探しまくる。機械の下にいるのを見つけてもらう。
主人はどっか遠くにいったかと思って大分心配したようだ。帰ると、玄関にとまとやきゅうりが
置かれていた。隣のOさんが届けてくれたようだ。
(3日目) 主人は朝からずっと草刈り。自分は土間でお昼寝。ここは風が通りけっこう涼しくて
気持ちがいい。何か空気がいいみたい。玄関よこの便所からくる臭いが少し気になるが、がま
んできないほどでもない。
夜、主人が蛍を見に行くのに連れていかれる。何匹か飛んでいる。ある木には10匹ほどが
光っている。
(4日目) 台風接近しているらしくて、雨の一日。主人は読書。自分はずっと寝ていた。だんだ
ん、ここの生活にも慣れてきたみたい。
(5日目) 主人はバイクでどこかに出かけて、午後帰ってきた。連れていってほしいと鳴いた
が今回はだめだった。で、おとなしく寝ていた。主人は何か隣の木島平村のかやの平とかいい
所にニッコウキスゲとブナ林を見にいったらしい。帰ってから「いやあ~、すばらしいブナ林やっ
た」とさかんに感心していた。
この日も主人は土倉に出かけていったが、連れていってくれなかった。
(6日目) 主人は庭の草刈り。午後はブナ林から腐葉土をとってきて、精米所から運んできた
糠と刈った草とで堆肥作り作業をしている。自分は相変わらず寝ていた。
(7日目) 朝散歩に出ると、けやきの大木の所で何やら幟を立てたりしている。祭りがあるよう
だ。
(8日目) 近くのH・Mさんから枝豆とすいかをいただく。これは後でおこぼれをもらった。すいか
は皮ごと食べちゃった。
午後2時半からケヤキの大木のある所で熊野神社の祭礼があり、主人も参加した。神社といっ
ても小さな石造の祠があるだけだがーーー。
(9日目) 朝早くから主人は出かけていった。4人で渓流に釣りにいったようだ。イワナが食べ
られる?と期待したが、まったく釣れなかったようだ。夜、また主人はバイクで出かけた。戸狩温
泉のあかつきの湯という所で信越烏踊り大会があるというので見にいったようだ。
(10日目) 主人は畑で大根の種を植えていた。自分は相変わらず土間で風鈴の涼しげな音
を聞きながらのんびり寝ていた。
(11日目) 主人が何やら準備をはじめた。帰るらしい。昼食時、じゃがいもやにしんの炊き合
わせなど食べさせてくれる。どうももう帰るので余りものをくれたようだ。午後、バイクで戸狩野沢
温泉駅から列車に乗り、長野から名古屋、京都と乗り継いで家に帰った。途中、長野からは自由
席がいっぱいで何やら不安になり鳴いたりゴソゴソしたら、主人は箱を少し開けてくれたので、首
だけ出した。ついに列車の中では寝ることはほとんどできなかった。
家に帰るとさすがに暑かった。柄山は、けっこう涼しくてのんびり夏を過ごすのにはとてもいい
所だ。古民家のすぐ裏のブナ林の散歩もよかった。初めての長旅で不安も大きかったが、自然
たっぷりの所で涼しい夏を過ごさせてくれた主人に感謝したい。今度はいつになるかもしれない
けど、また連れていってね。
2010・8.5 ホームページのリニューアルと猛暑
雑感のたぐいを書くことがけっこうある。これまでホームページに載せていたものは
すでに消去した状態だが、約10年間にわたって書いてきたのはかなりの分量になる。
たまたま、4月の時点でホームページビルダーが操作出来ない状態になり、数か月間
そのままの状態にしていた。最近、パソコンを替えた機会にホームページをプロバイザ
ーに消去してもらって、新しく作り直すことにした。最新のホームページビルダーを買
ってきて、なんとか新しいホームページをアップすることができた。したがって、この
コーナーに書き込むのも4ケ月ぶりということになる。
連日の猛暑にぐったりきている。熱中症で死亡という報道がなされていることもあり、
通常夏の盛りでもめったにエアコンを使わないが、今回ばかりはリビングで28度ぐら
いに設定して使っている。しかし、つけっぱなしということはない。ちなみに、冬は暖
房なしの生活はずっと続けている。今日のニュース報道によると、温度が1度あがるだ
けで1500億円の経済効果があるとか。夜は冷凍庫で冷やした氷枕のようなものを使
っている。この猛暑はしばらく続くようだ。
我が家の愛犬ユリもぐったりしている。それでも先日近くの山に連れていったら、元
気に歩いていた。盆の頃は、愛犬を飯山に連れていくことにしている。飯山の古民家は
結構涼しい。ユリにとっては長旅と全く新しい所での生活になるが、さてどうなること
やら。