紀行文


  福島・只見への小旅行~ヒメサユリを求めて~(2015年6月

 6月、木島平村の別宅に着いた翌日、福島の只見に出かけた。京都のKさんから「ヒメサユリを見
ませんか」との誘いを受けて、出かけることにした。前から一度ヒメサユリを見てみたいと思っていた
ところだったので、いい機会となった。愛犬ユリを隣の集落のTさんに預けて、飯山線に乗り込む。こ
こから延々5時間の列車の旅となった。途中、十日町駅で20分間の停車。さらに、越後川口駅で乗
り換えて小出駅に着く。ここでなんと約1時間の連絡待ち。只見線からは、途中から一人旅。渓谷を
縫うようにして走る列車。よくどこんな所に鉄道をつけたものだと感心する。所々残雪も見られる。長
いトンネルを抜けると終着駅の只見だ。ここから先は、洪水の後復旧していないとのこと。「日本一の
赤字路線」ということで、JRは復旧させるつもりはなさそうだ。

 駅に着くと、Kさん、Oさんと民宿の主人が車で出迎えてくれた。OさんはKさんと知り合いで、以前
にも只見に来たことがあるとのこと。この民宿も常連らしい。民宿やすらぎでは、ヒメサユリを調査して
いるという森林総研のスタッフが泊っていた。地元の食材を使った心づくしの夕食をいただく。

 翌6月10日、民宿の主人がガイド役で蒲生岳に登る。この山は「会津のマッターホルン」と呼ばれて
いるそうだ。高さm0828mで、約3時間30分で登れるとあり、大した山でもないだろうと高を括ってい
たら、何の何のかなりきつい。特に下りは所々ロープが張ってあるとはいえ、かなり急ですべりやすい。
マッターホルンと称するだけはある。この山から見ると、山また山の眺望が広がる。この只見が「自然首
都」と称しているのもうなづける。

 下山後、ヒメサユリの咲いている所を見にいく。蒲生岳では1本しか咲いているのを見なかったので、
本当に咲いているところがあるのだろうかという気持ちにもなった。1ケ所は道路沿いの崖の所に何本も
咲いているが、近くでみることはできない。
 さらに別の神社の奥の所に行く。そうすると、何と何とあちこちにいっぱい咲いている。このヒメサユリ
はササユリとよく似ている。ササユリを小さくしたようで、まるでササユリの妹か子どものような感じだ。1
本で何輪もの花をつけたのもけっこうみられる。ササユリはせいぜい3輪止まりだ。明るくておしゃめな
御嬢さんというイメージで、ササユリの気品と香りには及ばないが、これはこれで魅力がある。このよう
にけっこうたくさんの花が見られたのは、地元の人たちが下草刈りをして、保護しているからとのこと。
帰りの只見駅でヒメサユリの小冊子が売られているのを知り、入手した。これによると、ヒメサユリの分
布域は福島の一部など極く限られた場所のみに生息しているようだ。これは豪雪と深い関係があると
の解説がなされていた。

帰り、また只見線に乗る。小出駅でOさんと別れる。kさんは民宿に泊まるために、戸狩野沢温泉駅で降
りる。飯山駅に着いたのは夜の8時台だった。



    めだかスクール訪問記 (2014年2月)                         
  
     
      生徒から歓迎のレイをかけてもらう                   授業風景(1年生)

     
         めだかスクールの先生                       保護者との懇談
  
     
           朝礼                            めだかスクールの眺望

     
         リコーダーの練習                 日本の小学校からプレゼントされた体操服を着た全校生徒
  
     
      堆肥を運ぶ女性たち                           ヒマラヤ(ランタンの山々)           

 2014年2月、めだかスクールを訪問した。学校が開校した2000年の夏に初めて訪問してから、
今回で6度目の訪問となった。同行は、運営委員の三浦さん。
 
 関空―広州―カトマンズ
 2月11日、14時に関空を発ち、中国の広州空港から乗り継いでカトマンズの空港に向かう。広
州の空港は今回で2回目だが、広大な上に、案内がしっかりしてなくて、空港からの乗り継ぎがよ
くわからない。係員もちゃんと教えてくれなかったりして、戸惑ったがなんとか搭乗口にたどり着け
た。前回はそれほど苦労した覚えがないので、空港拡張による変化かもしれない。
 カトマンズの空港には22時40分に到着。空港ではめだかスクールのウッタム校長が出迎えて
くれる。ウッタム君が手配してくれたジープに乗って、デユルケルのイネイトペンションに向かう。途
中の国道は整備されていて快適なドライブとなった。聞けば、日本のジャイカ(国際協力機構)の援
助によるものとのことだった。この夜はイネイトペンションに泊る。夜はかなり冷え込んだようで、翌
朝、三浦さんは寒い、寒いとこぼしていた。
 食事に、蜂蜜がだされた。ウッタム君のお父さんが女王蜂を捕まえてきて、自宅の壁の穴の開い
た所に入れたところ、ミツバチが寄ってきて巣がつくられ、蜂蜜が採れたという。いろんな生活の知
恵を持っておられる。ある時は、体調が悪い子どもになにやら呪文をとなえ、治療のようなことをさ
れていた。

 めだかスクールへ
 2月12日、8時30分にジープで出発し、1時間ちょっとでドーラルガハットに着く。10時30分、ポ
ーター2人にウッタム君の娘さんと兄のビルバルさんもポーター役でサピング村に向かう。日本か
ら計20キログラムの体操着を持ってきているので、これは助かる。
 山道を進み、13時にめだかスクールに到着した。生徒たちがそれぞれ造った花のレイをかけてく
れる。午後の授業を見学。以前より生徒が減っているので、授業はやりやすいような印象を受けた。
最初の頃は、特に低学年はすし詰め状態だった記憶がある。下校の時、日本から持っていったキ
ャンディを生徒に配った。

 先生との懇談
 その後、先生との懇談会が行なわれた。現在の先生は、ウッタム校長、ラミラ先生(5年目、3年
生担当)、スシラ先生(2年目、2年生担当)、パービットラ先生(2年目、1年生担当、めだか1期生)、
クリシナ先生(新任2週間目、めだか2期生)それに音楽を教えるビルバルさんの6人。クリシナ先生
は、最近退職したビム先生(長年めだかの教師をしていたナヌー先生の弟、1年間教師を勤める)の
かわりに教師になり、算数を教えている。
 懇談会で、先生より出されたことをいくつか紹介しておきたい。
 ・この学校はすばらしい、楽しい、学校が続いてほしい。
 ・4、5年前より電気がついて、テレビ・ムービーに入れ込んで宿題しない子多い。子どもの理解力
  が低い。両親が子どもの勉強の面倒を見ていない。
 ・英語は、1年生は理解できていない。いいテキストがない。
 夜、電気は20時頃に消えて、22時からついた。別の日は19時に消えた。このような電気事情
で、電池を使うライトが使われていた。日本から持っていったソーラーランプはかなり有効に使えそう
だ。ちなみに、ネパールでは首都カトマンズでも夜電気が消える。

 保護者との懇談
 2月13日、朝8時過ぎから1時間余り、保護者との懇談会があった。保護者17名が参加。始めに、
私がめだかスクールを育てる会の支援活動について話した。
 保護者からは、以下のような話があった。
 ・この学校は勉強がうまくいっており、足りないことはない。
 ・先生がよくかわるがどうしてか? 2、3年は働いてほしい。(※この点については、ウッタム校長か
  ら、「いい仕事見つけたらや  めていく」とのコメントがあった。先生の給料が安いのが大きな原因
  と思われる。)
  ナヌー先生やケダル先生はよかった。(※ウッタム校長は、他の先生は授業をこなせばいいと思っ
  ていて、積極的ではないと考えている。)
 ・家でも言うことをきかない。学校でちゃんと言ってほしい。
 ・学校に子どもが来てなかったら、何故親に言わないのか?
 ・先生は、一人一人の子どもの状況をよく見てほしい。
 この懇談会で、学校に対する期待が強いことを改めて実感させられた。

 村内の見学
 保護者との懇談会後、村内を見学した。めだかスクールのすぐ上の所では、子どもたちがサッカーを
やれるように整地がされていた。
 1区の小学校・中学校を見学。ある教室では、めだかスクールの卒業生が手を振ってくれた。職員室
では、校長に挨拶した。そこに教育実習に来ている若い学生4名も入室してきた。ネパールでは、実習
生にどのような指導をしているのかと思った。
 学校のすぐ近くには医療施設があり、女性が一人駐在していたが、感染病の注射をする程度で、村に
は医師も看護師もいないという。
 ある所では、山羊の放牧や、女性がかごに背負った堆肥を運ぶのを見たりしながら、歩いた。3区から
眺めると、めだかスクールのある1区の段々畑がよく見える。 
 途中、ウッタム君の父親の弟(私を同年齢)さんの家に寄る。ちょうど、竹かごを作っておられるところだ
った。昔は、日本でも竹かごやフゴとよばれるわらで編み物を盛って運搬する具などは自分の家でつくら
れたものだ。今の日本は石油製品などで便利なものが作られて、地元で採れる材料を使った用具が作ら
れることはほとんどなくなったが、ネパールの村ではまだまだこのような伝統が息づいている。日本のホ
ームセンターに売られている自然素材のものはほとんど中国製だ。日本は石油のほとんどが輸入されて
いる。これに依存する日本って何か変だとどの程度の日本人が気付いていることだろうかと思ってしまう。
 3区の公立小学校に行くと、生徒が寄ってきた。先生は、校長先生と村の人が雇っている先生の二人
だった。3年制で、生徒数は32名とのことだった。ちなみに、この学校は日本人が支援して建てられた
が、2回ほどここに来たきりであるという。校舎も相当古ぼけてきている。

 リコーダーの指導、体操着のプレゼント
 2月14日、この日は三浦さんが4、5年生にリコーダーを指導した。まず音階からの指導だった。リコー
ダーが限られているので、待っている子どもらに日本の童謡の「夕焼け小焼け」を身振り手振りで歌って
あげると、けっこうのってきて、繰り返しいっしょに歌った。最後に全体で合奏が行なわれた。その後、全
校生が集まり、音楽の授業があり、ビルバルさんが指導し、タブラー(小太鼓)の演奏で民俗音楽の歌と
踊りが行なわれた。
 授業終了後、学年ごとに日本の小学校の生徒から提供された体操着のプレゼントを行い、生徒たちは
一人ひとり自分に合うのを見つけて試着し、カメラに収まった。
 
 満月の夜の祭りを見学
 この日の夜、ラミラ先生から招待があり、彼女の家で行われる満月の夜の祭りを見にいった。ヒンズー
教の祭りで、彼女の親戚や近所の人など数十人が狭い庭に集まっていた。10万本の糸に火をつけた容
器を頭の上に乗せ、女性がまわりを回る。祈祷師が呪文をとなえて、いろんな所作をする。そして、一人
ひとりにチカという赤色のものを額に付け、手首に糸を巻きつける。これは私もやってもらった。その後、
ラミラ先生に呼ばれて、家の中に入りごちそうをいただいた。
 
 ナヌーさんの家に招待される
 2月15日、この日は土曜日で授業がなく、9区のナヌー先生(※1年前に退職に現在フランスの学校で
勉強中)の家に招待され、彼女の妹のソバさんが迎えにきてくれる。ウッタム君は日本からイネイトの会
員の親子が来るというので、カトマンズに向かって出発していった。
 10時半ごろ家に着くと、ナヌーさんの弟のビム君の妻と8ケ月になる赤ちゃんがいた。ビム君の案内で
9区を少し散策する。この地区には再建された仏教の寺が建てられていた。
 この日の夕食は、家でつぶしたにわとりのカレーとスープがふるまわれた。これには近くに住むナヌーさ
んの母親の実家の人たちも見えて一緒に食事した。何か特別なことがあると親戚や近所の人と共食する
習慣があるのを感じた。
 ちなみに、このにわとりの調理は、室内で、私たちの目の前で行われた。現在の日本では考えられない
ことだ。自宅で放し飼いにしたにわとりを殺し、調理して食べる、これが彼等のごく普通の生活の一部なの
だ。農家であった私の家でもおなじようにして、家で飼っていたにわとりを父がつぶし、食べた。こうして調
理されたにわとりは動き回っていただけに、歯ごたえがあってとてもおいしかった。

 くっきり見えたヒマラヤの山々
 2月16日朝、ナヌーさんの家を立ち、ビムさんの案内でドーラルガハットまで下りて、そこからジープでイ
ネイトペンションに向かう。ペンションでは、ウッタム君がカトマンズで出迎えたイネイト会員の石塚さん親子
に会う。めだかスクールにも訪問したいとの希望だった。ウッタム君の案内で、デユルケルの街の散策を
する。
 2月17日朝、ペンションの屋上からヒマラヤの山々がくっきり見える。14日小雨、15、16日は曇りであ
まり良くない天気が続いたが、この日は快晴だった。

 看護師をめざすめだか1期生
 9時半にバスに乗り、1時間20分ほどでカトマンズに到着。銀行にいった後、買い物をする。繁華街は人、
人、人でごったがえしている。ふだんはとてもほこりっぽいが、雨が降ったこともあったせいか、以前来た時
ほど乾燥してほこりだらけという感じはなかった。それでも、日本に帰る前からのどがいがらっぽい状態が
続いた。
 15時過ぎ、私が里親になっているシータと彼女が学んでいる学校の近くで会う。彼女はめだかスクール
の1期生で、3年生からカトマンズの学校で勉強して、昨年秋、マンモハン記念健康科学専門学校に入学
して、看護師をめざしている。

 帰国
 ウッタム君に見送られ、23時にカトマンズ空港を発ち、広州空港を経て、18日午後1時頃関空に着いた。
帰りの広州空港での乗り継ぎは問題なく移動できたが、空港で待ち時間に飲んだコーヒーは日本円でなん
と1800円もした。後にも先にもこんな高価なコーヒーを飲むことはないだろう。こんなエピソードのたぐいは
いろいろあるが、この程度にしておこう。

 
 日本からのプレゼント一覧
① 体操着(大淀町の小学校から提供)
② 卒業生へのかばん(めだかスクールを育てる会から提供)
③ キャンディ(めだかスクールを育てる会から提供)
④ リコーダー・ピアニカ数個(三浦さん提供)
⑤ ソーラーランプ10個(藤永さん提供)
⑥ クレパス4個・パステル4個(前より提供)
いろいろご提供いただき、ありがとうございました。


続・韓国の山紀行~伽倻山~  2013・10

 三度目の山ツアー    
 
2013年4月の韓国南部の登山に続いて、10月に今度は伽耶山に登ることになった。今回も韓国通の
森永さんにさそわれての歴史ツアーを主とした韓国行きだった。これで、韓国の山は3度目ということに
なる。

 10月29日、森永さんに前回も同行した兵庫のIさんと3人で関空に集まり、午前11時50分発の飛行機
に乗り、午後1時30分に釜山空港に着く。空港から降りると、かなりの暑さを感じる。空港から釜山北東
部の都市大邱から東にある伽耶山国立公園の中にある海印寺を目指す。地下鉄・タクシー・バスを乗
り継いで、午後5時前に海印寺のバス停に着く。バスを降りると鮮やかな紅葉が目に入る。目当てのホ
テルにはバスで乗り合わせた地元の高校生が親切に案内してくれる。ホテル代は日本円で2000円。
 10月30日、朝タクシーで海印寺に行き、寺を見学。この寺は、世界最古の経典の木版が残っている
ことで、世界遺産にも登録されている古刹である。

 
伽耶山登山
 この寺から午前8時10分に伽耶山への登山開始。山の中腹あたりまではすばらしい紅葉が見られた。
10時30分、伽耶山の牛頭山頂に着く。標高1430メートル。ここからは360度の眺めが楽しめる。10時50分、
伽耶山のもう一つのピーク七仏峰(1433M)に着く。ここから下山開始。いくつもの階段を下っていく。11時
45分西将台。ここで登山者に下山ルートを確かめるが、今一つわからない。登山者がわかってないのか、
森永さんのハングルが通じにくいのか--------。結果的にはメインルートの稜線コースを下ることになった。
 だが、これは連続する階段と岩場で相当厳しい下山となった。実はこの稜線の下山途中で森永さんが足
に力が入らずに歩くのがきついということで、小生が森永さんのザックを担ぐことになった。とはいえ、下山途
中からみた稜線の紅葉は実にすばらしかった。このコースを下山して良かったと思う。森永さんには悪いが-
--------。
 午後2時30分、登山口に着く。タクシーを呼んでもらってバス停まで。ちなみに、韓国のタクシーは日本
よりもはるかに安い。大邱西部のバスターミナルで今回のガイドをしてくれる張富翼さんが出迎えてくれる。
森永さんが数年前に韓国を訪れた際、お世話になったので、今回のガイドを依頼したとのことだった。張さ
んは日本語もよくできる。かつて民宿をやっていたという張さんの家に泊めてもらう。翌朝の朝食は奥さん手
作りの韓国の家庭料理。日本では多分どこでも造られていないと思われるどんぐりの豆腐は珍しかった。

 安東見学

 10月31日は、安東の見学。大邱市から北部にある安東まで中央高速道路で快適なドライブ。道路から
は田んぼの風景が広がる。ここは日本の農村だといわれても違和感を感じないほど田園風景は日本とそ
っくりだ。この安東の案内パンフレットには「儒教と仏教文化の絢爛な花を咲かせた韓国精神文化の故郷
であり、五千年の歴史が根付いた礼と学の故郷安東」とあった。
 まず見学したのは、河回村。この村の特異な点は、蛇行する川に沿って、大きな瓦屋を中心に周辺の藁
葺屋が囲むように配置されている点である。李氏朝鮮時代の大儒学者柳雲竜や、秀吉の朝鮮侵略の際、
現在の首相に相当する領議政を歴任した柳成竜の兄弟が生まれた所としても有名で、世界遺産に登録
されている。集落内を巡った後、対岸の小高い丘から村を一望する。
 その後、朝鮮通信使を務めた儒官の家を見学して、昼食は張さんお勧めの料理を食べる。これは、安
東チムタといい鶏肉のすきやき風料理で、最初は大学の近くで始まり、すごく人気だという。甘辛い独特の
味付けと歯ごたえのある鶏肉がよくあっていてとてもおいしかった。
 昼食後、安東市の北東にある陶山書院を見学。1561年に李滉という学者が建てたもので、弟子の育成
と儒学の研究に没頭した建物で、ここから韓国の首相が何人も輩出したという。さしずめ、韓国版吉田松
陰の松下村塾というところか。

 夕刻、大邱市に着き、ホテルを探すことになったが、最初に換金したウヲンが足りず、ホテル代が足り
ない可能性があるので、まず両替しようということになった。駅の近くに両替所があると聞いたが、時間外
で無理とわかった。そこで両替してくれるホテルを教えてもらって歩きだしたが、行けども行けども見当たら
ない。途中で交通整理をしている警官に尋ねると親切に調べてくれて、タクシーで「グランドホテル」に行
き、無事両替が出来た。(この間の3人のやり取りは省略。旅の恥はかき捨て!!)
 次は泊るホテルを探す。親切な人が教えてくれたが、これは後で自分の食堂に食べにきてくれというサ
インだったみたい。いかにも連れこみらしい所から尋ねまわってやっと泊まるホテルが決まったが、値段交
渉でもひと悶着。結果的に安い値段で泊まれた。
 食堂では、翌日の案内をしてやるという主人がいうが、知人の人物と話せという。英語で会話したが、ど
うもよく話が通じないので、この話は断った。このいきさつは未だによくわからない。


 
秀吉の朝鮮侵略で、日本軍と戦った日本人武将
 11月1日、大邱市から南東にある友鹿洞という村にタクシーで向かう。
 この村はかつて秀吉の朝鮮侵略の際、朝鮮軍に投降した日本軍の武将で、自らサヤカと名乗った人物が
余生を送った村で、子孫もこの村に住んでいる。村に着いて、サヤカの墓を見たあと、資料館を見学。これ
は最近建てられたもので、なかなか充実している。このサヤカという人物について広く知られるようになるの
はそんなに古い話ではない。NHKが放映した日本と韓国の2000年というドキュメントで広く知られるように
なり、一躍脚光を浴びるようになった。サヤカは加藤清正の一武将として、二、三千人の部下を引き連れ
て1回も戦わずに投降したという。その後は、朝鮮軍の一員として、日本軍と果敢に闘い輝かしい戦果をあ
げた。このような人物だが、その素性はほとんどわかっていない。秀吉の無謀な戦争に、日本軍の一員とし
て派遣されながら日本軍と戦ったことで、日本の名誉を守った覚悟の将軍の偉業は永遠に伝えられるにふ
さわしいと思った。
 11時4分のバスに乗って、途中で空港行のバスに乗り換え、釜山空港には余裕を持って到着。午後4時
に空港を立ち、午後5時30分関空に着いた。

 今回にツアーは、森永さんのお蔭で、伽耶山もよかったし、歴史見学も充実していて、思い出に残るもの
となった。



韓国南部の山紀行~月出山・金井山~ 
2013.4

  2012年9月、中国と北朝鮮の国境にある長白山(白頭山)登山のツアーに、同じ山岳会会員のMさんと参加した。あいにく天候
が悪く、長白山からの縦走も中止となり、印象の良くないツアーとなってしまった。この時、同行した兵庫のIさんと韓国の山に登りま
せんかと、Mさんからおさそいを受けて参加することにした。標高は800メートルほどの山ということで、それほど期待があったわけ
ではない。

 
月出山
 2013年4月23日9時50分、関空にIさんの知り合いのKさんを含めて4人が集合、11時50分発のアシアナ航空で釜山空港に2
時間ほどで着く。ここから、約3時間ほど光州に向かってバスに乗る。光州からさらに南へ1時間バスに乗り、月出山国立公園の近く
にある霊厳というところに着く。ここで今回のガイド役をしてくれる予定だった金成培氏の出迎えを受ける。
 夕食は同氏お勧めの家庭料理。野菜を中心としたお皿がいっぱい並び、満足した。金氏は、韓国を何度も訪れているMさんが霊厳
の郡役所を訪れた際、日本語のわかる人ということで紹介されたとのことだった。課長をされていて忙しくて今回の登山には同行
できないと、知り合いの山岳会のメンバーを紹介していただいた。まったくいたれりつくせりのもてなしに感謝の念でいっぱいだ。金
さんが予約してくれた民宿がまたよかった。李氏朝鮮の貴族階層である両班の家を模した造りで、なかなか趣きがある。このような
家が10軒ほど建っている。
 4月24日、8時に金さんが車で迎えにきてくれて、登山口まで送ってくれる。登山口ではガイド役のチョンさんが待っていた。8時40
分に登山開始。最初から岩が続く岩、岩、岩の山。それに天気は曇りで、ガスっている。10時近くに、つり橋に着く。地上120メータ
ーの橋は圧巻だ。ガスが晴れると、まわりが岩稜の山々であることがよくわかる。休日にはたくさんの人でごったがえすようだ。さす
が韓国の登山者の間で登りたい山のベストスリーに入っているだけのことはある。
 11時50分、月出山(標高809m)天皇峰に着く。登山道は岩と階段の連続で、かなり疲れた印象がある。ここで昼食をとる。民宿
で受け取った巻きずしが2本。韓国の人は食欲もすごい。この月出山からは下りに入る。薄日もさし、まずまずの天候になり、奇岩を
眺めながら歩く。このような岩山の風景は日本ではなかなか見られないものだ。
 下山途中、先頭を歩いていたが、なかなかみんなが下りてこないのでザックを置いて引き返すと、メンバーが下りてきた。Mさんが
足の親指の裏側に痛みを感じたのでテープを貼ったとのこと。岩や鉄の階段などは足にこたえる。15時45分、道岬寺に着く。寺は
比較的最近再建されたようだが、堂々とした寺構えだった。
 下山予定より2時弱遅れ、霊巌から光州そして釜山へと元来た道路をバスに乗る。釜山について、翌日泊まる予定だった釜山観
光ホテルにタクシーで向かう。ホテルには22時頃に着いたかと思う。
 翌25日は、地下鉄(釜山都市鉄道)に乗り温泉湯駅に着く。金剛公園まで歩いて、10時に金井山登山口から登り始める。松林の
中をゆっくり登るが、なかなかきつい。昨日の登山がこたえていることは事実だが、1月以来最初の登りがきつく感じられる。成人病
の検査結果では、血圧の上がっており、メタボと診断された。退職して3年目で、生活習慣の変化が影響しているようだ。ここで少し
休憩をとってもらう。

 
金井山
 金井山は古代の城壁が10キロ以上にわたって続く。東西南北とそれぞれ門があり、立派に修築されている。また城壁も石積みで
整備されてきている。この城壁に沿う形で南門・東門・北門と進む。所々奇岩があり、眺めもなかなかのものだ。釜山市民にとっては
気軽に行ける名所として相当人気があるようだ。平日にもかかわらず登ってくる人がけっこう多い。日本と違って、若い人もけっこうい
る。14時47分姑堂峰に着く。標高801メートルの山。ここから約1時間で下山口の梵魚寺に着く。ここも最近再建されたようだ。豊
臣秀吉の朝鮮侵略により焼かれてしまったようだ。
 ホテルに着き、夕食。昨年1月の山岳会のメンバーとグルメツアーをした時、行ったのと同じ所にMさんの案内で行く。釜山は漁港
があり、実に新鮮な魚介類を目の前で注文してさばいてくれる。蛸のぶつ切りなどは、10分以上も皿の上を動いている。刺身はさす
がおいしかった。円安のせいか、値段は決してやすいと思わなかったが、味はどれもよかった。

 
秀吉の朝鮮侵略の歴史館見学
 26日、ホテルを出て龍頭山公園の釜山タワー(高さ120メートル)から釜山市街の光景を眺める。私の希望で、豊臣秀吉の朝鮮
侵略の歴史館があるというので、行くことになったが、場所がわからず駅を行ったりきたり。地元の人もあまり知らないようだ。やっと
目的地らしい場所あたりで尋ねたがわからないという。見ていた人が親切に教えてくれた。なんと、歴史館は地下鉄のホームにあった。
地下鉄の工事中に遺跡が見つかり、2年前に駅構内の一部を歴史館としてオープンしたとのこと。「東莱邑城壬辰倭乱歴史館」とい
うのが正式名称で、朝鮮侵略の際、日本軍が攻略した城の一つだった。城壁と溝の部分も案内していただいた。小学生が団体で説
明受けていたが、韓国では日本の侵略の歴史はしっかり教えているとの印象を受けた。もっとも、子どもたちはそれほど熱心に聞い
ている風でもなかったが-----。この歴史館の近くで、冷麺を食べる。これもなかなかおいしかった。韓国冷麺は米粉から作り歯ごた
えがあるが、この冷麺は柔らかくて食べやすかった。午後4時発の飛行機で釜山空港を発つ。

 韓国の山は2011年10月の雪岳山・北漢山に続いて2回目だが、いずれも岩山ばかりで、その光景は印象深い。今回は、高さは
低山レベルだが、岩山の連続で、けっしてあなどれないと思った。金氏を始め、地元の人はいずれも親切でまた訪れたいと思わせる
雰囲気が韓国にはある。次回はどんな韓国の山旅が待っていることだろう。



   奥信濃の二岳―鳥甲山・笠ケ岳   2012.10

 私は、現在長野県の木島平村に別宅を持ち、奈良との二地域居住をしている。3年間飯山市の柄山
という集落で築200年以上の古民家を借りて、毎月通っていたが、豪雪地域の飯山でも格別積雪の多
いところで、除雪作業が追い付かないと、より雪の少ない木島平村の古民家を昨年11月に購入した。
ここも今年は相当の雪が降った。
 こうして信州に通う生活も4年目を迎えたが、この間、周辺の山に登ってきた。北信五岳といわれる黒
姫・飯縄・戸隠・斑尾・妙高はすべて登った。いずれも魅力に富んだ山であった。戸隠については、ナイ
フリッジで足を踏み外せば確実に死ぬ箇所では命の縮む思いをした。新潟との県境を歩く信越トレイル
は奈良ハイクのメンバーと自主山行で2回登り、個人山行を含めてほぼ踏破した。中野市の高井富士と
よばれる高社山にも登った。
 このように、日帰り可能な山はかなり登ったが、泊りが必要な山は愛犬ユリを連れていっているので難
しいと諦めていた。でも考えてみると朝早くでて行けば単独では通常のコースタイムよりかなり早く歩くこ
とができるので、一度やってみることにした。

 鳥甲山(秋山郷)
 10月14日、江戸時代から秘境と呼ばれてきた栄村秋山郷の鳥甲山(とりかぶと山)に登った。コース
タイムでは約9時間かかる。
 朝5時、バイクで出発。まだうす暗いし寒い。段々明るくなってきて、朝焼けがきれいに見える。新潟の
津南町から秋山郷に入る。7時過ぎに温泉のある屋敷の登山口に着く。
 ここからはいきなりの急斜面を登る。途中、なかなかすばらしいブナ林の中を行く。9時30分、稜線を出
てピークを一つ越えた所で、休憩しおにぎりを食べる。標高1500mあたりから本格的な紅葉が見られた。
もみじやナナカマドが少ないためか赤色はそれほど見られないが、だいだい色、黄色と全山紅葉の山は
見応えがある。
 10時30分、鳥甲山山頂(標高2037m)に着く。この山の名称は、鳥が兜(甲)を被っている形をしてい
ることからそう呼ばれたとようだ。頂上付近は岩壁に覆われ、のよさの里から眺めるとその勇姿がすばら
しいとされている。
 この山頂には数グループがいた。途中、ツアーを含むいくつかのパーティーに出合った。別の登山ルート
であるムジナ平から登ってきたと思われる。このコースは上級者向けで登山地図には危険のマークが付い
ている。単独登山なので、あえてこのコースを避けることにした。
 この山頂からは槍ケ岳など北アルプスも遠望できる。しばらく休憩した後、下山を開始した。稜線はなんな
く通過。坂道に入ると急坂で、木の根っこなどで一、二回転倒する。幸い雨は降っていなかったが、降雨の
後など下山は相当苦労すると思われる。
 12時50分に登山道入り口に着く。休憩をいれて往復5時間40分になる。登山地図のコースタイムは約9
時間なので、3時間以上短縮して登ったことになる。屋敷の集落の食堂でキノコ丼を食べてから家に戻る。

 笠ケ岳(奥志賀)
 10月16日、今度は志賀高原の笠ケ岳に登る。こちらは秋山郷よりも近いので、6時40分に木島平村の
別宅をバイクで出て、8時20分にスキー場のある硯川の熊の湯に着く。この地点ですでに標高1700mあ
る。別宅が標高550mぐらいなので、高度差1000メーター以上をバイクで走ったことになる。
 スキー場のコースの中を歩いて、1時間ほど登った所に峠の茶屋がある。登山道のすぐ近くを車道が走っ
ている。ここから25分登って笠ケ岳山頂に9時50分に着く。
 この山頂からは八ケ岳から中央アルプス、それに北アルプスと大パノラマが開かれていて、そのすばらし
さにしばし圧倒された。ここで、山々を眺めながらおにぎりを食べる。至福の時。
 30分過ごした後10時20分に下山を開始し、11時15分に登山口に着く。登山地図のコースタイムは4
時間20分だが、3時間で登ったことになる。山頂での休憩時間を除けば2時間30分で登った計算になる。
 こうして、秋の深まりつつある奥信濃の山二座の登山を満喫した。この形でいけば、鳥甲山の向かいに位
置する苗場山も日帰り可能だ。来年はぜひ挑戦してみたい。近所で愛犬を預かってくれる目途もついたので、
新潟・秋田方面や群馬方面にもこれから足を延ばしていきたい。



  大雪山縦走(旭岳~トムラウシ)   2012年8月3日~8日

 
    旭岳

  


     
  日本庭園からトムラウシ山を望む                 トムラウシ山頂
 

  トムラウシ山からの眺望                      

 北海道の主峰大雪山の縦走は、一度はぜひやってみたいと思っていた。退職を機にやっと念願が果たせるかと、
昨年7月、森永さんと二人で黒岳からの縦走を計画した。しかし、天気はずっと悪く、黒岳まで登ったところで引き
返し、あとは北海道の観光に切り替えた。
 今年、リベンジのつもりで旭岳からトムラウシまでの縦走を計画した。8月3日、伊丹空港8時30分発の飛行機
に乗り、10時40分に旭川空港に着く。ガスボンベを入手するため、いったん旭川市内に移動。ところが、旭川駅
前でバスを降りたところ、運転手が空港でボンベを売っていると教えてくれた。JR旭川駅の案内所で、登山用品店
の店を教えてもらおうと聞いてみたら、なんとこの案内所でもボンベを置いているとのことで、ここで入手できた。何
でも聞いてみるものだ。
 12時半過ぎのバスにのり、旭岳温泉へ。この温泉では老舗の湧駒荘に泊まる。旅館の受付に向かうと、何やら
皇室の面々が宿泊したという看板が目に入る。外観は少し古ぼけたイメージなので、大した旅館でもないかと思っ
たらどうもそうではなかった。温泉の湯はぬるま湯で心地よい。調度品も落ち着いたシックな感じで、気品を感じる。
食事も京料理のようなセンスを感じさせたが、味付けは少し濃かった。
 8月4日、曇り。展望はきいている。7時20分に出発して20分ほどかけてロープウエイの駅まで歩く。ロープウエ
イは10分ほどで姿見駅に着く。ロープウエイからは雄大な大雪山系の山々が見渡せる。大雪は高度も2000メー
トル台で急峻な地形も少ないが、そのスケールは日本アルプスの雄大さに匹敵すると思った。
 姿見駅から歩き始めると白煙がもくもくと上がっているのが見える。旭岳は今も活動を続ける活火山なのだ。途中
何度か休憩しながら10時前に旭岳山頂に着く。ここからゆるやかなアップダウンを繰り返しながら間宮岳から北海
岳を経て白雲岳分岐から白雲岳避難小屋に着く。先行パーティーはこの分岐にザックを置いて白雲岳をピストンし
ているが、避難小屋が満員になっているかもしれないと思い、ピークを踏むのはパスする。小屋のすぐ手前の水場
のあたりで、キタキツネがとぼとぼと歩いてくるのに遭遇した。よく見ると、顔がずるむけたようで、何ともあわれっ
ぽい。小屋の管理人に聞くと、疥癬にやられているようで、もうもたないだろうとのこと。水を汲みにいくと、登山道の
脇でじっとうずくまっていた。かわいそうに、我々の滞在中に命を終えたようだ。このキタキツネにどんな「人生」があ
ったのだろうか、想いをはせてみる。小さいころは兄弟とじゃれあう楽しい日々、そして結婚相手に恵まれただろう
か、子どもは------。
 小屋に着いたのはまだ午後2時前で、小屋はがら空きの状態。1パーティーだけの荷物が置かれていた。外の
ベンチでのんびりしていると二人連れがやってきた。長年この大雪で写真を撮り続けている関東の老婦人とベテラ
ンガイドのYさんだった。自分は2階で寝たが、この日数グループが泊まった。
 夜中、風雨が強まる。明日は天気が良くないようだ。8月5日朝、台風並みの風雨で、とても行動できる状態では
なく、この日一日この小屋に停滞することにする。この強烈な風雨こそ、2009年に9名のツアー登山者の命を奪っ
たのと同じものかと実感する。大雪山は北海道の主峰で、シベリア方面からの風をもろに受ける。しかも、縦走路は
吹きさらしの状態になるのだ。低体温症の恐怖を想う。
 こんな風雨の中でも、この日下山するグループは出発していった。残ったのは滋賀や京都などの関西勢。ガイド
のYさんらと話をして過ごす。今年は7月中旬あたりからすごくいい日が続いたようだ。何ともついていない。今年も天
に見放されたかとため息がでる。翌日の天気にかける。早く通りすぎてくれと祈るばかりだ。もし明日も風雨が強けれ
ば又停滞で、予定が大幅に狂う。旅館や飛行機のキャンセルも馬鹿にならない。
 この風雨の中、登ってきた2人組がいた。話を聞いていると、何と出身の奈良のN高校の後輩らしい。声をかけると、
小生より約一回り後輩にあたるようで、高校の山岳部のOBとのこと。テントサイトでは、10張ぐらいのテントを確認し
ていたが、最後は元気な2つのテントのグループががんばったようだ。どこにでも強者はいる。
 8月6日朝、曇りで風も収まっていた。眺望もまずまず。途中、熊注意の看板も見られる。次のヒサゴ沼避難小屋に
泊まったガイドの人はヒグマを見たといった。自分が歩いている割合近くにいたかもしれない。忠別沼のあたりでは、
クロユリ・ワタスゲ・エドカンゾウ・チングルマ・キバナシャクナゲが見られると登山地図に書いてあったが、よく見られた
のはチングルマだ。あまりぱっとしない花ではあるが、よく見るとかわいい。いずれにしても、それなりに高山植物がみ
られるものの、花のピークはすでに過ぎていた。
 五色岳の手前からはハイマツが群生している。地面を這うように生えているからハイマツだが、ここのハイマツは上
に伸びている。このハイマツ群生地を抜ける時、ザックカバーが外れたようだ。面倒なので、取りに戻らなかったが、後
で高校の後輩グループが届けてくれた。このハイマツ帯を抜けると木道を進む。高山植物が咲いている風景はなかな
かいい。このあたりは「神遊びの庭」とある。薄黄色やピンクのかわいらしい花が一面に咲いている。
 ヒサゴ沼分岐からヒサゴ沼避難小屋へ11時40分に着く。小屋には一人の登山者が滞在していた。聞けば、旭岳温
泉の近くからクワウンナイ川を遡行してきたという。この川は滑滝(なめたき)が連続する有名な沢登りのメッカである。
あの風雨の中を苦労して沢沿いを登ってきたとのこと。かつては炭鉱や漁船で働いてきたというので、ロシアに拿捕さ
れた時の、黒パン一切れが一食分だとかいった体験談を興味深く聞いた。やがて、高校のOBのメンバーやガイド付の
佐賀の老人などが到着した。
 8月7日、晴れ。風も吹いていない。5時頃、高校のOBメンバーと行動を共にする。今日はトムラウシ温泉までのロン
グランだ。午後4時15分発新得行のバスに間に合わなければならない。順調にいって9時間のコースタイム。ヒサゴ沼
から縦走路のコル(鞍部)までは雪渓で滑りやすい。
 しばらく行くと沼や巨岩が点在する「日本庭園」と呼ばれる地点にでる。様々な形をした岩々は庭園とよばれるにふさ
わしい。すばらしい景観を楽しみながらゆっくり歩を進める。前方にはトムラウシ山が姿を現す。大雪山系でももっともす
ばらしい場所といっていいだろう。急坂を登りつめるとトムラウシ山がかなり近くに見える。少し下った所に北沼がある。
 この北沼分岐周辺は2009年7月のツアー登山で大量遭難死がでた場所である。ここからトムラウシ温泉までまだコー
スタイムで6時間はある。ここから岩礫地帯を黄色いペンキをたよりに登っていくとトムラウシ山頂に着いた。時刻は8時。
天気は晴れ。遠くの山々もよく見える。念願の山に最高の状態で登れたことになる。下山の途中からガスってきたから、
本当に恵まれていた。
 トムラウシ分岐あたりから、登山者がどんどん登ってくる。こまどり沢あたりで、元気なグループを追い越す。聞けば白
雲岳避難小屋のテントサイトでテントを張っていいたグループで、ヒサゴ沼の避難小屋に泊まるとのことだったが、この分
岐の南沼キャンプ地でテントを張っていたという。なんとも元気な老人たちだ。大阪の泉州山岳会のOBというから、鍛え方
が違うなと思った。泉州山岳会といえば関西では老舗の山岳会だ。
 下山は得意なので、どんどん進み高校OBとは離れる。しかし、こまどり沢からカムイ天上までの登山道はドロドロのぬか
るみ道でなんとも歩きにくい。このトムラウシ山の管理は、環境省・林野庁・北海道庁・地元自治体がどこも責任をとって整
備していくことをしないため、地元の新得山岳会がボランティアで整備を進めているという。下山の途中で、その作業現場
を通った。なんとも頭の下がる思いだが、百名山でもある山の整備もろくにしない行政の貧困さがなんともなさけない。
 午後2時にトムラウシ温泉に着き、温泉に入ってさっぱりした。ここからバスで新得町にでて、さらにバスを乗り継いで夜
9時前に旭川に着く。翌朝11時発の飛行機で予定通り伊丹空港に着いた。
 こうして念願の大雪縦走を果たしたが、ややきつい登りが数か所あるだけで、あとはなだらかなアップダウンの繰り返し
なので、15、6キロのザックを1日7時間から9時間担いで連続3日間歩き続けられる体力があればそれほど難しくはない
と感じた。問題は天候だ。強い風雨にさらされると低体温症の恐怖が待っている。この悪魔の微笑に誘われなければ、庭
園といい高山植物といい、そのゆったりした大自然は限りない魅力に満ちている。雪融けの後に出現する花の最盛期は、
それはそれは見事な花の饗宴が見られるとベテランガイドが語っていたが、もう一度訪れることはないだろう、多分。それ
でも十分満足している。深く思い出に残る山旅の一つになりそうだ。

≪コースタイム≫
8月4日7:20旭岳温泉湧駒荘出発―7:45ロープウエイ駅―7:55姿見駅―9:55旭岳―10:55間宮岳―11:53北海岳
―13:20白雲岳分岐―13:05白雲岳避難小屋 8月5日 風雨のため一日停滞 8月6日5:00出発―7:18忠別沼―
8:07忠別岳―9:30五色岳―10:10日本庭園―11:40ひさご沼避難小屋 8月7日5時出発―5:35コルー7:35北沼分岐
―8:03トムラウシ山―9:00トムラウシ分岐―9:50前トム平―12:05カムイ天上―14:05トムラウシ温泉東大雪荘前


ベトナム最高峰登頂の旅

                            

   
 カンボジア・ラオス方面の山                              中国南部の山
 
  ファンシーパン山頂                                少数民族の棚田
  
   刺繍をする枯葉剤被害者の子どもたち                 ハロン湾洞窟の鍾乳洞

 参加者の最高年齢78歳のツアー

 2011年12月下旬、ベトナム最高峰ファンシーパンに登るツアーに参加した。12月17日10時30分
関空から出発。東京・名古屋・大阪の3つの空港から参加者がハノイの空港に14時台に集合。メンバーは添乗
員を含めて11名。北海道から東京・千葉・群馬・新潟・愛知・大阪と各地から参加している。最高年齢は78
歳で、76歳の老人は70歳を超えて8153m峰のチョー・オユーに登ったという強者(つわもの)だった
(ちなみに、後でこの老人はスキー・ノルディックのワールドカップ三連覇を成し遂げた荻原健司氏の父親だと
わかった)。マッターホルンに登った女性も。もちろん、こんな猛者(もさ)ばかりではなかったがーーー。現
地ガイドはワイさんといって、ハノイ大学の日本語科を卒業しており、全日程つきあってくれた。

 空港到着後、専用車でハノイ市内へ移動し、夕食。夜は寝台列車に乗り込み、約8時間の列車の旅。21時1
0分に出発。客車は戦前製を思わせる造りだ。揺れが尋常ではない。まるで飛びはねるように上下する。とても
寝られるような状態ではない。聞くところによると、線路のつなぎとつなぎの間が短いことが影響しているらし
い。そして、時にガタンと大きな音がして停車する。こうして睡眠も十分にとれないまま中国との国境の街・ラ
オカイへ。

 

 少数民族モン族の暮らす街・サパ

約300キロの列車の旅を終え、ラオカイに着いたのは朝の5時30分。ここから専用車で標高約1600メ
ートルのサパに向かう。約1時間でサパに着いたが、一面深い霧に覆われている。これではめざす山頂がガスに
覆われて何も見えないかと心配になってくる。

この日の午前中は体を慣らす意味もあって、少数民族黒モン族の暮らす村へのハイキング。村を見下ろす所か
らは見事な棚田が見える。村の入り口から歩き出すとモン族の女性20人ほどがやってきて、われわれといっし
ょに歩きながら小物を売りつけてきた。そのしつこいこと! ずーとついてくる。根負けしたように少女から携帯
入れを買うと、この人は買ってくれそうだと見たのかまた群がってくる。買う気がなければ無視して進むしかな
い。家や田んぼではアヒルや鶏、それに牛が水浴びしたり餌を食べたりしていた。見渡す限りの水田が広がって
いる。放棄地などは絶無なのだろう、きっと。ベトナムは世界有数の米生産国なのだ。途中、立派な学校があっ
た。壁に日の丸とベトナム国旗が並んで張られていて、日本の人々からの援助で建てられたとある。この日は日
曜日で学校の授業がなかったため、どのような団体が寄付して建てられたのかは、聞くことはできなかった。

 午後は赤モン族の村を見学。ちなみに、頭に赤いターバンのようなものを被っているので赤モン族といわれる。
黒の場合、黒モン族というわけだ。この村では家の中を見学。土間には調理場や食卓などがあり、2階が寝室に
なっている。隙間だらけの建物で、寒さ対策はどうしているのか気になった。この村も観光対象となっているよ
うで、行き帰りけっこう外人の観光客を見かけた。土産物売りも相変わらずである。

 

 標高2800mの第2キャンプへ

 12月19日、いよいよ登山に向かう。8時30分に専用車でホテルを出発し、9時30分に登山口のチャム
トン峠(約1950m)に着く。ここで登山ガイドと10名ほどのポーター兼炊事係と合流。荷物も最低必要な
ものだけは自分で担ぎ、あとの荷物や食事の材料、テントやマットなどは彼等が運んでくれる。まさに「大名旅
行」である。

いくつかの浅い沢の渡渉を繰り返しながら、ゆるやかな樹林帯を登っていく。常緑樹が中心で、竹もよく見ら
れる。12時20分頃に第一キャンプに着く。ここから第二キャンプまでのアップダウンはなかなかきつい。

途中、焼けて枯れたような木を見つけたので、ガイドに雷で焼けたのかと聞くと、山火事だという。2002
年に大規模な山火事があり、数か月燃え続けたという。乾季の夏には気温が40度以上になり、自然発火したと
いう。よくみるとあちこちに立ち枯れしたような木が見られる。そうすると、小さい木はこの山火事の後に生え
てきた木ということになる。竹林のある第二キャンプに着いたのは16時過ぎ。この夜、一面の星空を眺める。
これほどくっきりと輝く星を眺めたのも久しぶりだ。人口衛星を見ることもできた。

 

 眺め抜群の最高峰

 12月20日、登頂の日。天気は快晴。朝7時20分にキャンプを出発。竹林をぬうようにして急な登りが続く。
途中見渡せば雲海の中にまるで島が浮かんでいるように見える。登山開始から1時間後、一つのピークの横を下降。
梯子もあり、人によっては確保が必要な個所もある。

きつい登りが続いて、10時過ぎ山頂に到着。標高3143mのベトナム最高峰のファンシーパンだ。この山の
名前はモン族がつけたもので、「大きな岩」という意味だと聞いた。頂上からの眺めはまさに絶景。遠くラオスや
中国・雲南省の山並みが広がっている。雲海の中に山々がまるで墨絵のように広がっている。これまで、マレーシ
アのキナバル、台湾の玉山、タイの最高峰などに登ったが、このファンシーパンが最も眺めがすばらしいと感じた。

ここから同じ道を引き返したが、最高齢のTさんが遅れ、また高山病のせいかKさんが調子をくずした。第二サ
イトには13時頃着く。昼食はやきそば。炊事係が作ってくれた食事はどれもおいしかった。手元の温度計では3
2度。日中はかなり暑い。夜は思ったほど寒くはなかったが、朝晩の寒暖差はかなりあった。

14時、ゆっくりと第一キャンプに向かい、2時間半かけて到着。この日の夜はけっこう強い風が吹いた。テン
トの上に張られたシートがテントに当たって、強風の度にバタバタと音がしてなかなか寝られなかった。

 

 全身マッサージが800円!

 21日、この日も快晴。8時50分に第一キャンプをたち、登山入り口をめざす。途中、タラオという赤い木の実や、
カルダモンの群生地を見たりしながらのんびり下山。登山口のチャムトン峠には11時30分に着く。ここでポータ
ーたちとお別れしてサパに向かう。ホテルに着いて、シャワーを浴びる。

午後、サパの街を見渡す展望台・ハムロン丘の見学が予定に入っていたがガスっていたこともあり、市場の見学を
することにした。通りにでると、少数民族の女性が売りにくる。今回、テーブルクロスを買うつもりだったので買っ
たが、40万ドン、日本円で2000円程か。これは相当安い買い物のはずだ。自分が買うと数人の女性が寄ってき
ていろいろ売りつけようとする。それを警備員らしい男性があっちへいけと注意している。どうも、通行を妨げてい
るということらしい。

市場を見てまわった後、ホテルで同室になったTさんと全身マッサージをやってもらう。約1時間で17万ドン、
日本円で800円程になる。ベトナムの物価がいかに安いかを改めて実感した。

 

車窓からのどかな田園風景が

 12月22日、この日は列車による一日移動日。8時前にサパを出発し、8時30分に中国国境の街に立ち寄る。
川を隔てて向かい側は中国の川口市。1970年代、50万人を超える中国軍が突如鉄橋を渡りベトナムに侵攻して、
一帯を占領した。サパのあたりも占領されたという。その後、国交が回復し、ベトナムと中国の国境の交易促進を歓
迎するスローガンが掲げられていた。

9時10分にラオカイ駅から貸切車両の寝台列車に乗り込む。今度は来た時よりも3時間遅い約11時間の列車の
旅。列車は川沿いをゆっくり走る。車窓からはのどかな田園風景が広がる。ずーと見ていても飽きない。山手には焼
畑が広がっていて、主にキャッサバ(イモ)が作られている。ある駅では、線路と線路の間に野菜が植えられていて、
思わず笑ってしまった。どの家もきっちり野菜が栽培されている。畑の作り方を見ていると、ベトナム人の几帳面さ
がよく窺える。列車の旅も飽きて、ビールを飲みながら横になる。

途中の駅で添乗員の中川さんがトウモロコシを買う。ものすごく安い。粒のそろったいかにもおいしそうであった
が、食べてみると甘味がまるでなく、少しかじっただけで食べるのをやめてしまった。他の人は最後まで食べていた
ので味覚の違いかもしれないが、自分で育てて採りたてを食べてきた者としては、おいしくないものを無理にたべよ
うとは思わなかった
もしかしたら、ベトナムでも化学肥料が大量に使われているのかもしれない。ハノイ駅に着い
たのは20時過ぎ。

 

 親が枯葉剤を浴びた子どもたち

 翌23日はハロン湾のクルーズが予定されていた。ハロン湾まで180キロ、約3時間半、往復で7時間という行
程で、別にそれだけの時間をかけていくほどのこともないかなと思ったが、これはこれでなかなか充実した観光であ
った。

途中、キャノンやホンダの大きな工場が見える。安いベトナムの労働力によって生産される多国籍企業による「日
本製品」。現地ベトナムでは、車は普通の市民では買えないような値段がするという。普通車で300万円。バイク
がすごく普及しているが、これにしても12万円はする。平均の月収が2~3万円というから月収の半年分に当たる。
ちなみに、ハノイの道路はバイクであふれている。というより、バイクが車道の王様である。ものすごい数のバイク
にただただ圧倒される。このバイクも、石油が自給できているベトナムでは、1リットル90円というから日本と比
べればはるかに安い。

 休憩で立ち寄った店では、手工芸品がたくさん売られていた。すぐ目についたのは、百人を超えると思われる少女
等が刺繍をしている光景である。聞くところによれば、アメリカがベトナム戦争中に投下した枯葉剤を浴びた親から
生まれた子どもたちだという。障害を持って生まれた子ども
たちの授産施設でもあるということだろう。ここで、刺
繍と竹で作られた2種類のランチョンマットを買った。

 

 ハロン湾クルーズにて

ハロン湾のクルーズは、大小2000以上の石灰岩の奇岩が海面から聳え立つダイナミックな景観で、船中での海
鮮料理を味わいながら十分楽しませてくれた。料理といえば、水上生活者の所で注文して料理してもらったが、紋甲
いかのさしみとなんと兜蟹を食べることができた。兜蟹といえば、日本では岡山県の笠岡にしか生息せず天然記念物
になっているはずだが、ここでは普通に食べられるということになる。ただし、味はといえば何かようわからんとい
う代物だった。クルーズ中、ある島に上陸して鍾乳洞を見学したが、これが又スケールが大きくて見事な景観が見ら
れて、ここまで来ただけのことはあったと思った。

 

 ベトナム料理と水上劇

こうして、約3時間のクルーズをたっぷり楽しんで夕刻ハノイに戻る。この日の夕食には、生春巻きやあっさりし
たサラダ風のベトナム料理がでて、おいしかった。ベトナム料理といえば、ほぼ毎回ホーという日本でいえばニュー
メンのようなものが出て、あっさりしておいしかった。味付けは全体として薄味で、これに魚醤をかけて自分なりの
味にして食べるととてもおいしかった。

夜はベトナムの伝統芸能である水上人形劇を観劇。水上の人形を幕の後ろで操るもので、ダイナミックな動きを演
出し、なかなか見応えがあった。操る演者はずっと水に入っての操作ということで、これはなかなか厳しい芸だと思
った。

 

 この後、ハノイの空港に向かい、夜中の0時過ぎ、それぞれの空港に向かって日本に飛び立った。関空に着いたの
は朝の7時前だった。日本は寒波襲来で、ひときわ寒さを感じながら自宅に向かった。

 

 


ワイルド イズ ビューティフル

 ケニヤの大自然を満喫する旅印象記

 山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』。その主人公のモデル故小倉寛太郎さんがこよなく愛したケニヤの大自然を旅する
10日間のツアーに参加した。
 9月16日、関空から深夜出発の飛行機でアラブ首長国連邦のドバイまで11時間。そこから乗り継いでケニヤの
ナイロビの空港に17日の午後3時前に到着。空港から降りて、マイクロバスに乗って移動する車からケニヤ人の
歩く姿が目に入る。すらっとしてなんと姿勢のよい歩き方か! 日本人のやや猫背気味の姿勢とは大違い。  
 翌18日はアンボセリ国立公園に着く。この公園からキリマンジャロが見える。翌朝には山がくっきり見えた。キ
リマンジャロを背景に象が悠然と歩いている光景は映像でしか見ることがなかったケニヤの大自然のど真ん中に立っ
ているという印象を強くした。
 マサイ村の一つを訪問。村の男女が歓迎の踊りをして迎えてくれた。マサイの男の跳躍はよく知られているが、膝
を屈伸することなくよくあれほど飛び上れるなと感心する。家は象や牛の糞で壁が造られている。家の見学の後、子
どもたちが歌をうたってくれた。村のリーダーによれば学校がなく自分たちが教えているとのことだった。どこから
も支援はないという。教具も教材もない状態で、教育のためにカンパを求められたので、参加者一同で少しカンパし
た。
 19日午後はナイバシャ湖でボートサファリ。20日はいよいよマサイマラ国立公園に向かう。大阪府と同じくら
いの面積を持つ広大な公園である。約6時間のドライブだったが、がたがた道の連続でへこんだ部分が補修されてい
ない。ちなみに、ケニヤ滞在中、サファリ車がパンクした。近くで道路工事をしていた青年二人が車を持ち上げるの
を手伝ってくれた。こんな行為はごく普通にあるのだろう、きっと。
 午後に公園到着後から3日間、たっぷりとサファリを楽しむ。この公園の動物数、個体数は世界有数というからす
ごい。タンザニアの国立公園と隣接しているというから、まさに野生の楽園だ。牛科のヌーは集団を成してどこにで
もいる。シマウマも多い。ガゼルやインパラもよく目につく。象・ライオン・キリンも珍しくない。しかもまぢかで
見られる。ライオンや象など他の動物に襲われる危険のない動物はサファリ―カーが数メートルの距離まで近づいて
も全く無視している。ここは野生動物の世界であり、人間はそこに踏み込んだ「お客さん」(排気ガスをまき散らか
し、平然と生活の場に踏み込んでくるやっかいもの!)なのである。別の公園では、サイが車の数メートル先を悠然
と通り過ぎていった。
 ライオンが斃した動物をくわえていく場面、白骨化した動物の骨、交尾しようとメスの傍にいるライオン等々、野
生動物の世界が肉眼で見られる。写真をとりながら、双眼鏡で眺めていると、動物たちの容姿のすばらしさに引き込
まれていく。
 何故野生の動物はこれほど魅力的なのだろう。これは肉眼で見たものにしかわからないことかもしれない。毎日餌
を与えられ、世話されている動物園の動物にはこの“野生の輝き”はない。野生の動物は大自然の中で懸命に生きて
いる。百獣の王といわれるライオンさえふんだんにいる獲物を簡単に斃すことができるわけではない。妊娠したチー
ターを見たが、母親は子どもを守るために必死になる。彼等はまさしく“生きている”のだ。こうした感動を文章で
表すのは難しい。「百聞は一見に如かず」で、動物園で見るのとどう違うのと聞かれても、現地へ行って実際に見て
きてくださいとしかいいようがない。実は、サファリに出かけなくても、ロッジのすぐ近くの川には5頭ものカバが
一日中じっとしている。猿もロッジによく出没する。鹿の一種はロッジの床下にじっとしている。縞マングースがい
る。ロッジそのものが野生動物のテリトリーの中に建てられているのだ。
 人生の中で、一番見たかったものを見た、これでいつこの世におさらばしても悔いはない、こう言い切れるほどの
体験だった。「ワイルド イズ ビューティフル」=野生は美しい、感想を一言で表せばこの言葉に尽きる。しかし、
考えてみれば野生動物の大量絶滅時代の今、このようなサファリが楽しめた最後の機会に遭遇したのかもしれない。
キリマンジャロの雪は頂上付近にわずかしか残っていない。近代社会が本格的に展開する150年ほど前に描かれた
絵には山のかなりの部分を万年雪が覆っていた。雪が融けてしまうことが野生動物にどのような影響を与えるかはわ
からないが、もしかしたらこの「野生の王国」が消滅するようなことはないと誰が保証してくれるのだろうか。
 人間は罪深い動物だとつくづく思う。自然が人間の思い通りになると、したい放題に「文明」を築いてきた結果、
人間の生存基盤そのものを危機に追いやってきたように思う。「野生の王国」で、もう一度人間と自然の関係を考え
てみる、これもサファリの意味ではないだろうか。人間は自然の一部だという当たり前のことを現代人はほとんど忘
れ去っている。帰国して、どんどん薄れていくサファリの印象の中で、強まってきた思いはそのことだった。

                                           (2011.9.30)

追記

 10月20日夜、NHKの「クローズアップ現代」を観ていたら、9月25日に亡くなったケニヤの環境保護・人権活
動家のマータイさん(ノーベル平和賞受賞者)のことをとりあげていました。ケニヤから帰国した日に亡くなられたこ
とに何か運命的なものを感じていましたが、今さらながらその偉大さを実感しました。彼女の始めた植樹運動は大きな
成果をもたらしています。

しかし、現実は過酷です。東アフリカでは猛烈な勢いで森林が失われ、現実にケニヤの隣国ソマリアでは60年来の
大旱魃により、数十万人が餓死寸前だといいます。内乱状態でもあり、援助物資が届かないという事情もあるとのこと
ですが、「大名ツアー」から帰っても、何もできないもどかしさにとらわれています。現実を知れば知るほど無力感に
とらわれますが、まず一歩ふみだすこと、これがマータイさんの遺言のような気がします。

                                
                                           (2011.10.21)