秘話 MINTO 物語
☆ 出会い

 このバンドの物語は、今から遠く遡る事、1986年の夏、ギターの村田とドラムの田中の出会いから始まる・・・。

 そのころ村田も田中も自分の所属する大学の軽音楽部で日々腕を磨く毎日であった。
 当時奈良県には県下5大学(帝塚山、天理、奈良、奈良教育、奈良産業)の軽音楽部によって構成される「奈良県大学軽音楽部連盟」なるたいそうな名前の組織があったが、ある日、奈良女子大学の軽音楽部が新たに連盟に参加するということで、当時同連盟の会長であったS氏(現某市役所勤務)は「それじゃあ次回の連盟主催のコンサートには奈良女も参加してもらおう(会場も借りれるし・・・)」と考えた。
 が・・・しかし!「奈良女だけではバンドが組めない!」という緊急事態に、「よく知ってるやつにバックバンドをさせよう」ということで招集されたのが村田と田中であった。

 それが、運命の出会いであった・・・そこで二人は意気投合し、以後音楽生活を共にすることとなる。

 そのころボーカルの池田は、白塗りのメイクと警備員のバイトの制服を着て「聖鬼魔U」をコピーする、連盟ではちょっとは名の知れたボーカリストであった。
 (ちなみにそのころから練習はブッチが基本であったため、バンマスのY氏は何度も首にすべく悩んでいたらしい。関係者談)

 ベースの永井は田中の同じ大学の一年後輩であり、体育会系ノリの軽音楽部において、結構好き勝手やってる田中とはヘンコ同士馬があったようだ・・・?

 そしてキーボードの岡崎は、フュージョン・バンドなどをこなしつつ、キャリアを重ねていた。

☆ 奈軽連バンド

 そんなこんなで次の年、なんのまちがいか田中が同連盟の会長様になると、その職権を最大限に生かして(乱用して)、各大学から自分の気に入ったメンバーを招集して、セッションバンドを作った。(その時集まったメンバーが後の「MINTO」のメンバーになる。)

 しかしこのバンド、セッションとは名ばかり(?)で、実はハードなハードな練習の日々が続くのである。(当時着る物にも事欠いていた池田はその練習のスタジオ代に悲鳴を上げていたらしい。(本人談・・・ついMCで口を滑らす))

 ちなみにそれ以降、連盟コンサートのトリは、これまた職権を最大限に生かしてこのセッションバンドが努めることになる。
 極めつけは1988年冬、今はなき難波プランタン・フォーラム8でのクリスマスコンサート・・・あのときの池田はまさに矢沢の永ちゃんになりきっていた。・・・輝いていた青春時代である(笑)

☆ TANAMU誕生

 その間村田と田中はいくつかのバンドをこなしつつも、やがて大学生活を無事(?)終えると、卒業後しばらく音楽活動を休止していた田中は、バンド虫のうずきを抑えきれず、当時やはり音楽活動を休止し、バンド虫を抑えるのに苦労していた村田に、「バンドしょーか」ともちかける。
 もちろんふたつ返事でOKである。

 そしていつものように村田は「メンバーは田中くんに任す」とノタマウので、田中は後輩の永井に「バンドせぇへんか」と告げる。
 これも2つ返事でOKである。
 ちなみに村田は永井の紹介で彼の従兄弟を嫁にもらうことになる・・・ある意味運命の出会いでもあった。(笑)

 ここに伝説のバンド(?)「TANAMU」の誕生である。時は1992年。

☆ MINT誕生

 「TANAMU」は村田が所属する某団体の集会などで着実にライブを重ねるが、やがて3人でのライブに限界を感じていたメンバーは新たにボーカリストを物色することになる。

 そこで白羽の矢が当たったのが池田であった。

 当時「TANAMU」はピンククラウドのコピーをやっていたので「ピンククラウドならやりたいっす!よろしくお願いしまっす!」ってな感じでかるーくOK!
 あまりの軽さに少し不安になったメンバーは「今度村田さんの結婚式の2次会でライブやるから一回見にきたら?お祝い兼ねて・・・」っと伝える。
 結果は予想を裏切ることなく当日は見事に大遅刻であった(笑)・・・(ちなみに翌年の新年会は天王寺までたどり着くも結局道に迷って欠席・・・携帯電話のない時代の話である)。

 しかし、そんな池田にも悪夢がおとづれる・・・池田加入と同時にバンドはオリジナル路線へと変貌をとげていくのあった。
 「ピンククラウドは・・・ど、どこに言ったの〜(池田心の叫び)」

 とにもかくにもここに「MINT」の誕生である(めでたしめでたし)。時は1995年。

☆ MINTからMINTOへ

 その後4人の「MINT」は奈良を中心に精力的に(?)ライブをこなす。

 その間「社会人バンドコンテスト」なるものに出場してみるも見事決勝に進めず。
 「だって、全然動員しなかったんだもーん、拍手で優劣きめられたらたまらんわ・・」ってな強がりを言いつつ以後参加せず(笑)。

 ちなみに池田は、やはりピンククラウドができなっかたことを根に持ち(笑)相変わらず練習ブッチを重ねるが、そこは心やさしい村田が池田のメンタルケアをしメタルバンド(現ロズウェル)への参加を条件になんとか練習に参加させようと苦労をすることになる。(あ〜なんていい人なんだ村田さんって・・・)

 そうして月日は過ぎてゆくが、表現しようとする音楽に対し、あまりにも音が薄いことに気づき始めたメンバーはキーボードを探すことになる。

 「そういえば、この間のライブで司会してた娘、池田の同級生やねんて?キーボードできるらしいな、いっぺん聞いてみてや・・・」ってな調子でまたまたかるーく声をかけて(バンドとはそんなものである)参加してくれたのが、元キーボードのMAYちゃんである。
 けなげに何度か練習に参加してくれ、すばらしいコーラスを披露してくれたが、あのバナナホールライブに日程が合わず急遽別のキーボードを探すことになる。

 このときメンバーの心に浮かんだキーボーディストがいた、そう、あのクーチンこと岡崎である。
 大学卒業後長い間面識もなく、本人も立派に(?)主婦しているらしい・・・との情報から、参加は非常に困難かと思われたが、以外とあっさりOKであった。(といっても本人は一回限りのつもりだったらしい。)

 そして、王寺シグナスでの初めての5人での音出し・・・岡崎の腕はにぶっていなかった・・・うん、これだ「MINT」に足りなかったものは!・・・メンバー4人のうなずきとともにこの瞬間、5人の「MINTO」は誕生したのであった。 めでたしめでたし。時は1999年春まだ浅い日である。


       この物語はフィクションではありません、実在の人物と大いに関係があります。