父二郎・母英子を語る
2006.10.01
三男 川村喜紀
父二郎・母英子の人生は波乱万丈の人生だった。
人の一生は、ずっと平々凡々で終わるということはあまりない。誰でも、必ず山あり、谷ありの、大きい小さいはあってもそれなりの波乱万丈の人生になるのが普通だ。だから人生は、要は、谷の状態、いわゆる危機をいかに力強く、明るく乗り越えるかだ。
私が父・母をみたとき、若いときの戦争による自分たちの危機、この危機を必死に乗り越え、乗り越える過程での体験を次に生かし、晩年は、心豊かな、安定した心境でいつもニコニコした毎日を過ごすようになった。
そのあたりの父母の人生を振り返ってみたい。
5人の子供がまだ小さいときに戦争に巻き込まれたことが、父母の波乱万丈の人生になった大きな要因である。戦争後帰国して、陸軍司政官として出征したがゆえに教師の職に戻れなかったことが、父母の、そして我が家の波乱万丈の始まりだった。
もし帰国後そのまま教職に戻って戦前の家庭環境が続いていれば、例えば、当時秀才で評判だった長男長女などは、また別の人生コースを歩んでいただろう。
父が終戦で無事帰国し我が家にたどり着いたとき、子供、特に下の2人が栄養失調で体が弱っているのを見て、やっと家に帰ったという感慨より、すぐに家族に飯を食わさないといけない、という責任感がこみ上げてきた、と父はよく言っていた。
当時の教職は聖職と言われ、先生は生徒やその親からも崇め尊ばれたものだが、幸い教え子の一人から、「当社で働きませんか」と誘っていただいたのが、○○株式会社の△△社長だった。復員後3日ほどで就職できた。
勤務途上、大きな労働争議が起き、人事部長であった父は、渦中にあって争議を解決したが、多くの人の首を切って、自分も退職する。父53歳、末っ子である私が小学校6年のときである。
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私は現在65歳だが、父のこの決断の勇気と使命感にはただただ頭が下がる思いである。
しかし付いていった母が大変だった。委員長婦人としての周囲の期待や、主婦としての仕事、それに終戦後の我が家の大ピンチを耐えたことによる体のガタ、(特に父が出征中、6番目の子供ができるとき、大手術をして体が痛んだ、さらに緑内障に罹り、あとずっと尾を引いている)などにより、子供たちや周囲の人たちも母の体を気遣った。
やはり母の体が先に参った。東京へいってしばらくして母がくも膜下出血で倒れた。二人三脚の一人が倒れたことは、致命的な痛手だった、が二人の意思は強かった。任期8年を最後までやり遂げてしまう。
この間父は、委員長職の重責、妻の病気などの重圧に屈することなく、いつも明るく前向きに生きた。ひとえに神様のお守りの賜物だった。
家に帰った後は、アルバムにあるとおりだ。老後は特にいつもニコニコしていた。心が安定していたのであろう、人生をある程度悟っていたのだろう。妻と長男嫁をほぼ同時期に亡くした時のショックは、傍目から見ても相当大きいものだと思われた、が父のニコニコ態度はあまり変わらなかった。逆にこのショックを契機に一層スケールが大きくなったような印象を、周囲に与えた。
父の死は、これまた穏やかな、いわば周囲の人から見るとうらやましい死に方だった。入院したのが死ぬ二週間ほど前、会いたい人の多くに会い、もうこれで思い残すことは無いといった感じで安らかに逝った。
父の人生を別の面から見てみよう。
父も母も明治生まれだ。生まれた時期は、当然電気もなければ電話もない。汽車も付近を走っているわけではない。
だから生活圏はあくまで、自分の生まれた村であり、その村から外へ出ることなどほとんど考えられなかった時代である。
このようなときに、時の明治政府が打ち出した「先生を育てる学校を日本の全県に作る」という教育方針に乗って、京都師範学校に合格し都会へ出られたことは幸運だった。
そして田舎を離れ、都会での思う存分の生活をすることができた。何しろ必要な金は全部国が面倒を見てくれるのだから。
母英子などは、和歌山出身で士族出身ということで、何かと奨学金ももらって、当時の大学卒の初任給より多くの収入があったと、よく言っていた。
日本の歴史上、日本において、それまで人口移動はあまり無かった。江戸時代末期でもせいぜい武士や商人の一部が動いたくらいだ。
だから父母のように師範学校入学を機に、田舎から都会へ出ることができたことは、まさに幸運だった。その後日本において、田舎から都会へ出る人口移動は、昭和30年ころからの高度経済成長期にやっと大規模に起こった。父母は都会流出のはしりといってよい。
父の20歳くらいでは、近くにまだ汽車は走っていない。電気がついたのは父が10歳のときである。父の生家に行ったが、今は山陰本線が走り、良い自動車道ができ、結構賑やかな町になっているが、父のここで過ごした時期は、いわゆる田舎であった。
近くに由良川があり、父の自慢話の一つにここで鮎をよく獲った話があったが、野山をかけめぐり、川で魚をとるのが小さいときの遊びだった。
もう一つよく出てきた昔話に、学校から帰ると必ずさせられるランプの掃除が苦痛だった、というのがある。
電気の無い当時の家庭の夜は、ランプが唯一の照明であり、いつも煤をはらって明るさを保つこと、そして火種を絶やさないことが、子供にとっても極めて重要な仕事だった。
現代人にとって、ごく普通に生活している当たり前の環境ができたのはつい最近である。
例えば便所、これは汲み取りが水洗トイレになったのが30年ほど前、風呂は、薪を燃やして湯を沸かす五右衛門風呂からガス風呂に代わったのが50年ほど前、洗濯は、手洗いから電気洗濯機に代わったのが50年前、この時分に、電気冷蔵庫、掃除機、白黒テレビなどが次々と入っている。
電話がついたのが私の小学校5年生のときだから55年前のことだ。当時電話がついたその日、早速誰かにかけようとしたが、電話のある家も少なく、電話帳でようやく目方君を探し出し、かけてみたが両者とも電話での話になれていなくて、しばらく無言のうちに時が過ぎ、家族から早く切れと注意されたことを覚えている。
父が50歳くらい以降になって、このように世の中の個人生活は急速に近代化してきた。このあとカラーテレビ、クーラー、自動車などが普及し、日本も経済的に豊かになってきた。
しかし一方で公害が社会問題になった。以前は山池で泳ぎ、小川で遊んだその自然は、きたないもの、こわいものに変わった。おいしかった水道水も、まずいものあるいは良くないものに変わった。
テレビが普及した。人間のテレビを見る時間が増えた。逆からいえば人はテレビの影響を受けやすくなった。
番組が増える一方、視聴率競争が激しくなり、テレビの内容が商業主義的になり、社会への悪影響が問題になった。
父母が生きた時代は、このように自然との一体の生活から、自然から相当はなれた近代文明社会生活へのまさに変革期であった。
しかし、高度の文化が人間を高度にしているかというと、そうではないようだ。あの波乱万丈の人生をたくましく生き抜いた父母の生き様は、より高度の教育を受け、より賢くなっているはずの現代人には簡単に真似はできない。
苦しさを乗り越える精神的なたくましさ、人のために生きようとする人間性、年をとってもなお前進しようとする前向きな生き方、これらはむしろ現代人の多くに欠けていることではないか。
父母のDNAをもらっている我々は、父母のこうした良いところのDNAを引き出して、たくましく生きていこうではないか。
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